第百三十六話 巽屋 でござる その二
「ぜ、全部でございますか?」
俺の言葉を聞いた番頭は、最初絵に描いたように大口を開けて顎を落した。そして数秒そのまま固まったかと思うと、なんとかといった感じで、それだけを聞き返してきたのだった。
「そう、全部。少なくとも、あの値段よりは安くなるんだよな?」
店頭で個人向けに売っている塩の値札を親指で差しながら、番頭に向かって改めてそう言ってやる。売らない為に吹っ掛けられても困るからな。値段の上限はしっかりと確かめておいたのだ。
「は、はあ。あ、いや、しかし。あの……少々お待ちいただけますか? 流石にそれ程の取引となると、私ごときが取り仕切る訳には参りません。主人を呼んで参りますので、少々お待ち下さいませ。あの……、真に恐縮ではございますが、お客様の御名をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わんよ。俺の名は神森武。藤ヶ崎に本拠を置く水島家の家老の一人だ。是非とも、この二水の巽屋為右衛門に会いたくて、こうして足を運ばせて貰った次第だ」
ニカッと笑顔を作って、俺はそうはっきりと答えてやる。その返事に、番頭は今度こそ本格的に固まってしまった。
固まってしまった番頭が我に返るまで、しばらくの時間が掛かった。俺は、その間も余裕の態度でじっと彼がこちらに帰ってくるのを待っていた。
もう巽屋為右衛門との勝負は始まっているのである。意味も無く急かせるような、ゆとりのない所を晒すなど悪手も良いところ悪手だった。まして今俺は、水島家の家老と名乗っている。舐められる訳にはいかない。
「こ、これは大変失礼いたしました。すぐに主人を呼んで参りますので、少々お待ち下さいませ」
なんとか我に返った番頭は、顔を青くしながら、すぐに頭を下げて俺に詫びる。そして、慌てて奥へと引っ込んでいった。
少々意地の悪いやり方だったとは思う。
しかし、仕方がないだろう。最初に名乗っていたら、今そうしているように、すぐに巽屋為右衛門を呼びに行った筈だ。そうなると俺は、僅かばかりの情報もなしに、やり手の商人とやり合わねばならなくなる。
ただでさえ今回は無理ゲー気味なのに、これ以上難易度が上がるとか勘弁して貰いたい。俺はイージーモードが大好きだ。そもそも、この手順を踏んでも難易度は十分高い。
だいたいお菊さんという――ゲームならば間違いなくパッケージの真ん中に描かれている女の子を攻略しなくちゃいけなくなっている俺である。無理ゲーは、恋愛シミュレーションパートだけでお腹いっぱいだった。
番頭が巽屋為右衛門を呼びに行っている間、俺は巽屋の店内を見て回った。
藤ヶ崎なら兎も角、遙かに規模が小さいこの二水の町で、これだけの種類の商品を揃えているのは相当なものだと、素直に感心させられた。
専売品も多種にわたって扱っているし、それ以外の一般に流通している品々も、質の良さそうな物が沢山並んでいた。
例えば反物。藤ヶ崎の呉服店ほどではないが、町人が手を出せる価格帯で比較的良質な物がいくつも置いてあった。
例えば小物。櫛や鏡の良品が、選べる程度には置いてあった。
通常こちらの店は、どこも専門店である。それぞれ扱っている品の種類は決まっているのが常識だ。しかしこの巽屋は、こちらの世界のデパートかコンビニかと言うほどに、取り扱い品目が多種にわたっていた。
二水の町が、そんなに大きくない町だからこそ、大きな専門店ではなく、こうした形態の店が重宝され、逸るのだろう。郊外にある大型ショッピングセンターが逸るのと同じ理屈だと思われた。
そしてそれによる弊害も、おそらくは同じ理屈で存在する筈だとの予想もついた。
つまり、あちらの世界の郊外における大型ショッピングセンターによる問題と同じように、周りの商店はその煽りを食っているのではないかと。
そして、それを黙らせる力を、巽屋為右衛門は持っているのだろうとも。
巽屋為右衛門は町の長でもある。
町の政と財を押さえていれば、そのくらいの力を持っていたとしても何も不思議はない。
そしてその力が、更に巽屋為右衛門を勝たせる。巽屋が勝つ為の好循環が、すでに出来上がっているのでは、と推測できるのだ。
出だしは、周りの画一的な大きさの商店に対し大きな店を持つという、只それだけのものだったかもしれない。しかし、それを元に巽屋は着々と力をつけていったのだろう。
もし、最初から狙ってやったのだとしたら、なかなかなのものだった。よくできている。
「武様、武様」
源太が俺の腕をつつきながら呼ぶ。
「ん? どうした?」
「正直に名乗ってしまって、よかったのですか?」
源太は俺の耳元に口を寄せると、小声でそう尋ねてきた。
「ああ、その事か。いいんだよ。ここにある物だけをかっ攫うなら、また別の方法を考えなくもないがな。ぶっちゃけ、それだけで済ます訳にはいかんのでな。なんとしても根こそぎいくつもりだ」
「さっきの番頭に言った通り、蔵にある物全部という事ですか?」
「いや。ああ、勿論それもそうだが……『全部』だよ」
真顔でそう答えてやる。
ただこの真顔は作って見せたものではなく、正真正銘の俺の腹を映し出したものだった。今回は、少々良心の呵責を覚える事態になったとしても、全力でなかった事にするつもりだ。生き残ると言う事は、綺麗事ではなしえないのである。
俺の返答に、源太は「は、はあ」と分かったような分かってないような返事をした。
まあ、仕方ないだろう。源太は前からの水島の人間だけに、この二水に関しては交渉の余地がないとみているに違いない。それ故に、俺の話の運び方に不安を覚えているのだろう。
「ま、何にせよ、ここまでは間違っていないさ。確かに騙れば最初の一回は、他のどんな方法よりも成功率は高くなる。が、それで手に入るものでは、その場しのぎにもならん」
「はあ」
「それに今回は、どうやろうが抜本的な問題解決には持って行けない。でも、せめてその場しのぎくらいはできるようにしないといけない。と、なると、だ。正面から行くしかないのさ」
俺が源太の方を向きながら、そう説明をしていると、
「流石は鳳雛などという二つ名で、民衆の話題を攫っている御方にございますな。先の先まで、よく見通せる目をお持ちでいらっしゃる」
と、番頭が消えた奥へと繋がる廊下の方から声が聞こえた。
そちらを振り向くと、恰幅の良い四十半ば程の男が、店と廊下の間に掛かっているのれんを手で押し上げこちらを見ていた。
「巽屋為右衛門か?」
「はい。私が、巽屋店主――巽屋為右衛門にございます」
改めて確認すると、為右衛門はそう名乗りながら、深く腰を曲げて、こちらに頭を下げてきた。
流石はやり手の商人。太い肝と、厚い面の皮だった。
源太は声を潜めていたが、俺は普通に話していた。だから話が聞こえても、何も不思議はないし、そもそも聞こえてもよいと思って、そうしていたのだから何も問題はない。しかし、聞き耳を立てていた自分を俺たちに晒してこの態度というのは、大したものだと言わざるを得ない。少なくとも小物ではなさそうだった。
正直、町の長という地位を使って特権と利益を確保する力任せなやり方に、もう少し単純で傲慢な男を想像していたのだが、見事に外れた。
どう見ても、もっと厄介なタイプ――狸親父だった。
「盗み聞きとは、なかなかに良い趣味を持っているようだな。巽屋為右衛門?」
「盗み聞きとは、神森様も口が悪うございます。まったく驚かれていないご様子からも、すべてお分かりになっていたのでございましょう? それでも、声を潜めもせずに『根こそぎもらう』と言い放てるのは流石にございます。そのような御方に足を運んでいただけるとは、この巽屋、大変嬉しゅうございます」
為右衛門は、俺の皮肉も意に介さず、その顔に笑顔を張り付かせたまま、そう返してきた。本当に大した面の皮の厚さだと思った。
「そうかい? 俺程度でよければ、何度でも足を運んでやるぞ? で、そちらの番頭に伝えた話と、今の俺たちの話を聞いた上での巽屋為右衛門の判断は如何に?」
俺は話をうやむやにされる前に、一気に切り込んだ。込み入った話は後で良い。まず反応を見たかった。
どうせすんなりとはいかないだろう。だから腹の探り合いをするターンでは、こちらも遠慮無くやっておくに限る。
だが巽屋為右衛門は、俺の予想に反する態度をとった。
それまでの商人然とした態度を崩す事なく、
「畏まりました。ようございます。この巽屋が商う塩のすべてを、神森様にお譲りいたしましょう」
と、そう言い切ったのだ。