第百三十四話 茜 でござる
「まあ、なんにしてもここがとれて良かったよ。しばらく厄介になると思うけど、よろしく」
「は、はい。ご贔屓下さり、有り難うございます」
俺が話しかけると、あたふたとしながらも、茜ちゃんはバネ仕掛けの人形のようにぎゅんと頭を下げた。宿に入ってから、何度か話を聞く為に声をかけているが、その度にこんな調子だった。
いや、そこまで激しく頭を下げなくても……。
そう思わずにはいられない。
愛想も良いし、対応も丁寧だし、他に文句など何もない。ただ、声をかける度に怯えているようで、申し訳なく思えてくるのが難点だった。
藤ヶ崎の館を出て、改めて自分の立場というものを認識させられる。
館の中でも、ごく一部の連中を除けば結構な扱いをされているとは思うが、館の外はもっと大変だった。暴れる殿様とかが、お忍びで外に出たがる訳である。素性を隠さずに出たら大騒動どころでは済まないだろうし、そもそも絶対に落ち着かない。館の連中は、全員地位の高い人間との付き合いに熟れている分、あれでもいくらかマシだったのだという事を、ここに来て痛感している。
下に置かない扱いというものには、どうにもまだ慣れなかった。
もちろん俺は、ぞんざいに扱われたいなどという奇特な神経の持ち主ではない。だが育ちが育ちなので、こういうのも、なんというかモニョるのである。非常に疲れるのだ。
しかし相手にしてみれば、俺がなんぼ普通にしてくれと言ったところで、「はい、そうですか」という訳にもいかないのが今の俺の地位であり、例によって俺が慣れるなり、諦めるなりするしかないという結論にしかならない。
まあでも、俺の努力次第だろう。追々もう少しなんとかなるに違いない。俺の心が折れなければ、きっとそのうち何とかなる――――そう信じて強く生きていこうと思う。
何にしても、女の子に怯えられるのは俺の心的外傷を刺激するので、叶う事ならば是非とも改善したいところだった。
その後も隙を見ては話しかけ、町の事について茜ちゃんに聞いてみた。その結果、どうやら思った通りの状況らしいという事が分かった。
まずこの町の商人たちの中で一番の実力者は、仁水為右衛門という男だそうだ。その名が示すように、この町の長でもある男で、普段はこの男の店の屋号『巽屋』から巽屋為右衛門と名乗っているらしい。
巽屋の方は兎も角、仁水を名乗っているのを見て士族出身かと思ったが、そうではないらしく、かつて水島家より褒美として名乗る許可を得たとの事だった。
それで、あーなる程と思った。
明日、俺が塩を買い付けに行く予定の店の名前が『巽屋』である。つまり、商人として水島家に某かの貢献をして、その褒美を貰ったのだろう。例の塩泉のおかげかもしれない。
すべては推測に過ぎないが、昔の水島も海を得るまでは、二水の町の塩を十二分に利用しただろう事は想像に難くない。二水の町の長でもあり、商人家でもある為右衛門の家を御用商人として取り立てたり、姓を与えたりしたというのは、十分筋の通る話だろう。
少なくとも、最近その地位を得た人間ではない筈だ。
二水の地が俺たちの元へと戻ってきて半年ほどだが、その間に取り入ったと考えるのは難しい。そんなに簡単に、誰でもが御用商人になれる訳ではないからだ。このお家騒動のずっと前から、『水島』の御用商人だった筈である。
で、今回の宿の件は、十中八九こいつの仕業だと思う。この町で、ひと睨みで周りの商人にまで言う事を聞かせられるような力を持っているのが、こいつしかいないからだ。まず間違いなく、後ろで糸を引いている筈なのだ。
そして、である。この一件がこいつの差し金という事は、明日会いに行った時にどんな対応をしてくるかは分からないが、その腹の中は推して知るべしだろう。
どう話が転がろうが、難儀な話になる事だけは、すでにほぼ決定していた。
また、最近起こった館の焼き討ち事件の件についても尋ねてみた。
が、こちらの話は先程までのものと異なり、少々強い反応が見られた。何かに怯えたような様子を茜ちゃんは見せた。
巽屋の話を聞いていた時には知っている事は普通に答えてくれたし、知らない事であっても考える仕草をみせて、つっかえつっかえしながら、それなりの答えを返してくれていた。しかし焼き討ちの件については、尋ねるすべてにどこかおどおどとした態度をみせたのである。その肩も細かく震わせていた。
この宿からは、焼き討ちされた館は近い。
最初は、そのせいかと思った。ご近所が賊に焼き討ちくらったとなれば、女の子ならば、思い出せば身が震える事もあるだろうと。
でも貴重な生の情報源だけに、俺は何とか彼女を宥めながら、彼女の知っている話を聞こうとした。彼女の目は怯え続け胸が痛んだが、やむを得ないと心を鬼にして俺は頑張った。
しかし話を聞いていて、俺は自分の勘違いに気付いた。
話の内容は、少なくとも源太が知っていた焼き討ち事件の情報よりもずっと詳しいものだった。それが聞けた事は幸運だったと思う。鬼になった甲斐もあった。
だが、俺たちが本当に幸運だったのは、そこじゃあなかった。
茜ちゃんの言によると、館の襲撃があった晩は、襲撃時はもうすでに寝ていたそうだ。
あまりにも騒がしいので外に出てみると、目の前の道沿いに南の方角――つまり襲撃のあった館のある方向が赤く染まっていたらしい。火の手が上がっていると、すぐに分かる程に、その赤く照らされた夜空には黒い煙の影も見えたそうだ。
それを見た彼女は、すぐに付け火だと思って、怖くなって家の中に戻ったとの事だった。
するとしばらくして、沢山の馬が駆けてくる音が聞こえた始めたらしい。沢山の馬に乗った覆面の男たちが宿の前の道を通ってやってきて、艮門の方向へと走り去っていったそうだ。
茜ちゃんは、その様子をこっそりと覗いて見ていたとの事だった。走り去っていった馬の数は五十ほどだったとか。
要約すると、こんな内容だった。
そして、この話を茜ちゃんの口から直接聞けた事こそが最も幸運だったと、俺は思っている。
この話には、おかしな点があるからだ。
絶対にありえないという事はないが、普通そうじゃあないだろうという点がある。緊張していたから、あるいは記憶の糸を紐解いていたから言い間違えたと言い切れないような部分に。
だからこの話は、非常に高い確率で作り話だと俺は思った。
それのどこが幸運なのか。
話の内容に信憑性はないが、彼女が”この話を作って”俺たちに話したのを直接聞けたという点が幸運なのである。
つまりそれは、彼女がこの件で何かを知っているという事に他ならないからだ。
それが分かった事が幸運なのである。
源太も、茜ちゃんの話の途中で、あからさまにではないが小さく首を傾げるような仕草を見せていた。だから、俺と同じ部分が気になったかどうかは別にして、彼女の話に某かの違和感は覚えているらしいのは間違いなかった。
ただ、それはよしとして、なぜ彼女がそんな嘘をつこうとしたのか。その理由はまったく分からなかった。
それが厄介だと、俺は心の中で嘆息するしかなかった。
まあ、何にしてもだ。今はまだ、それを問うような段階ではないだろう。今問い詰めたところでしゃべりはしないだろうし、それどころか無駄に警戒をされるだけである。
いま短絡的な行動に出るのは、ただの間抜けだと思われた。
俺は、茜ちゃんから話を聞いた後、何も気付かなかった振りをしながら礼を言って、彼女を解放した。
源太も、俺に対してはいつも空気を全く読まない癖に、こういう時は流石だった。何の打ち合わせもなくとも、しっかりと俺に合わせて対応していた。
茜ちゃんは、現段階では味方とは言えずとも明確な敵とも言えない。
確かに、焼き討ちの件では正確な情報を仕入れる事はできないだろう。しかし、町に関するその他の情報に関しては、この町の他の誰に聞くよりもまともな応答を返してくれる貴重な情報源である事も間違いなかった。
少なくとも、いま彼女を敵に回しても、得は何もない事だけははっきりしていた。
だから、もうしばらくの間は、何も気付かぬ振りを続けるに限るのだ。