第百三十一話 二水の町へ でござる
ふと気がつけば、俺は馬鹿みたいに廊下に突っ立っていた。
いかんいかん。
いつの間にか腕なんか組みながら、顎に手をやっている。その手を下ろした。
ただでさえ忙しいのに、時間を無駄に使うなどトンデモない。時間は有効に使いましょう。
俺は壁に立てかけた木刀を再び手に取り、今日の師範役を務めてくれる信吾がいる筈の訓練場へと早足で向かった。
「せえっ、せいっ――――はあっ!」
裂帛の気合いとともに、信吾の懐深くに飛び込んだ。
視線でフェイントを入れながら、縦割りの一撃の後に、信吾が木刀を持つ右手の手首を左から薙ぎに行く。
その直後、すぐに捻りながら腰を落し、肩と肘を使って八の字の剣線を描きながら木刀を加速させた。刹那の時も置かずに、右から信吾の足首を薙ぎにいったのだ。
跳びやがれっ。
心の中でそう叫ぶ。
しかし――――。
信吾は俺の予想に反して、俺の木刀を跳んで避けたりせずに踏み込んできた。それと同時に、一連の攻撃で近づきすぎた俺の木刀の、ちょうど柄上あたりを踏みつけてくる。
なっ!?
「ふんっ!」
信吾は、ブォッと重い破裂音をあげながら、その手の木刀を振り下ろしてきた。
はっきりと分かる。
もう避けようがない。俺が逃げられる機会は失われた。柄上を踏まれた時に木刀を放して飛び退けば、あるいはこの斬撃からは逃れられたかも知れない。でも、俺は固まってしまった。
負けを悟った。
しかし、その凄まじい斬撃は、俺を打ち据える事なく、目前でピタリと止まる。
「……ふう。参った」
「それにしても、武殿の剣は相変わらず面白いですなあ。残念ながら基礎が出来ていないので、結果には結びついていませんが。でも、今日のは少々迂闊でしたぞ? 先を読んで詰めに来たところまではいいのですが、読みに頼りすぎです。外れた時の事を常に考えておかねばなりません。体勢を崩しすぎです。あれでは、今回のように予想外の動きをされて反撃をくった時に、まったく対応できません」
信吾は木刀を踏みつけていた足を下ろし、まだしゃがんだ姿勢のままの俺に向かって手を差し伸べながら、今の戦いで俺の駄目だった所を指摘してくれた。
いわゆる道場のような所で習っている訳ではないので、今回のような実戦形式の稽古が多い。勿論、剣の振り方、足の捌き方、体の動かし方なども教えてくれるが、基本は絶対的に足りない体力をつける事と、こうして実際に戦いながら体に実戦感覚を覚えさせる事を中心に、鍛練は行われていた。
「はあ……。流石に迂闊すぎたか。それにしても難しいものだな」
心底そう思う。
「それはそうでしょう。本来ならば、武殿の年齢から始めるのでは遅すぎますし」
「まあなあ。でも、やらんよりはいいだろう?」
「勿論です。ただ――――」
信吾は、いつものように奴の角張った顎に右手を添えながら言う。
「ただ?」
「いえ。この鍛錬を始めた時にも軽く申し上げましたが、やはり武殿は敵を倒す技を学ぶ必要はない、と」
「と、言うと?」
俺は聞き直す。確かにこの鍛錬を始めた時にも、信吾はそう言っていた。また、その時には一緒にいた源太や与平も、その信吾の言に同意していた。
だが、単純に武芸の鍛錬をする必要がないと言っている訳ではない。それははっきりと俺にも分かった。三人とも、俺が武芸の鍛錬を始めた事は喜んでいたからだ。
「敵は我々が倒します。だから武殿には、我々がお側に参るまでの間を持ちこたえる技を、身につけていただきたいのですよ。永倉様は例外です。伝七郎様や武殿のような方は、堪え忍ぶ技をこそ身につけられるべきかと」
なる程ね。ただでさえ他人より遅れて始めている訳だしな。
特に剣に才能がある訳でもない。まして、立場が立場だ。
そんな俺が今から武芸を覚えるならば、的を絞って稽古を積んだ方が、確かに効率的だろう。
「わかった。じゃあ以降は、その方針で行こう。よろしく頼む」
「はっ」
改めて俺がそう頼むと、信吾はうっすらと笑みを浮かべながら、そう返事をした。
「ハァ、ハア、ハァ……」
一刻ほどの稽古を終えた俺は、地面の上で大の字になっていた。
うちが訓練場として使っているこの原っぱは、訓練場といっても整備されたトラックなどと違い、まさにただの原っぱなので、小石もごろごろと転がっていたりして寝転がると少々体が痛い。が、今の俺にはそんな事はどうでも良かった。
はー……、気持ちいー……。
「お疲れ様でした」
信吾も、そんな俺の横にどっかと胡座をかいて座った。
「お疲れー。そして、今日も有り難うな」
俺は寝転がったまま信吾に言う。
「いえ。武殿との稽古は刺激的ですからな。こちらも勉強になります」
「こんな未熟者との稽古がかあ?」
「はい。技は確かに未熟かも知れませんが、攻撃にせよ守りにせよ、武殿の突拍子もない動きは新鮮です」
「あー、そう言う事か。ははは、だって俺の腕じゃあ、そうでもしないと絶対に通じないからなあ」
原っぱを吹き抜ける、青い匂いのする風に体の熱をとって貰いながら、俺たちはそんな会話を交わした。
そして、ふと先ほど伝七郎に頼まれた件を思いだす。
こいつらには色々手伝って貰っている。伝えておかないと不味いだろう。
「あ-。そういや、これを伝えておかないとな。しばらくは、この稽古なしな」
俺が突然そう言うと、信吾はきょとんとした様子で、
「それはまたどうして? 稽古は続けて行わないと身になりませんぞ」
と、尋ねてきた。
「いやあ、それはごもっともだと思うんだけどさ。さっき伝七郎に頼まれて、二水の町に行かなくちゃならんのだわ」
翌朝、俺は二水の町へと向かう。
護衛として、源太がついてきてくれている。信吾の進言によるものである。
俺は兵を二・三十人も一緒に連れて行けば十分と思っていたが、信吾が「まだ二水は、こちらに戻ってきてからいくらも経っておりません。この様な話ならば、無駄にわざわざ危険を冒す必要はないでしょう」と、将――特に源太を同道する事を勧めてきたのだ。
騎兵の将である源太を連れて行けば、万が一があっても、速やかに俺だけでも逃がせるというのが信吾の言い分だった。
勿論そんな事態にならないように最大限の注意を払うつもりではいるが、もし仮にそんな事態になったとしたら、俺の好き嫌いに関係なく、そういう事も受け入れなくてはならない立場にあるという事も承知している。
だから俺は、その進言を受け入れた。結果、源太とその旗下の青竜隊五十名を引き連れての旅路となったのだ。
旧・北の砦の前を通る。
まだこちらにも兵を入れているが、すでに御神川の渡り場の近くで、新しい北の砦の建設工事が着工されている。まだ土地を均している所ではあるが、もうしばらくすれば基礎工事に入る筈だ。
更に道沿いに進む。
道は北西方向に向かったり北東方向に向かったりと、蛇行の激しい道ではあったが、大筋では北進していた。
その道中は、大半が森の中を進むが、少し開けた所では田畑が作られており、小さな集落がいくつも見られた。町の近郊だけに人がいる訳ではなく、実際はかなり散っているのだろう。それを考えると、戸籍の作成は、やはり良策だったと思えた。
そして、そんな事を考えながら馬の背に揺られていると、目の前に広がる長閑な風景の中に、俺は願っていたものを見つけた。
牛である。
農夫と思しき男が、牛を使って土を掘り起こしている姿が、その景色の中にあったのだ。
あー。
俺は、自分がうっかりしていた事にようやく気がついた。
そうだよ。昔はトラクターとかねーんだから、その代わりをしているのがいる筈なんだ。つまり、動物だよ。決まっているじゃないか。
あまりにもきれいに、その事が頭から抜けていた。そんな自分に、笑いが込み上げてきた。
日本で、ちょうどこちらくらいの文化レベルの頃、その役目を負ってくれていたのは牛だった。
そして、その頃の日本にうり二つのこの世界ならば、同じように牛がその役を担っていても、何もおかしくはないじゃないか。
何はともあれ、要するに『牛ゲットだぜ!』である。これで、この世界でもビーフステーキにありつけるという訳だ。
まあもっとも、昔の日本に似た世界観を持つこの世界だけに、胡椒を手に入れるのは容易ではない気がするが。
だが問題ない。醤油、ニンニク、ショウガ、みりん、酒。こんだけあれば、和風ダレは出来る。醤油に大根下ろしで、食っても良いだろう。
あるかどうかも分からん外国の、しかも、すでに辿り着いているかどうかも分からん交易船を探して、あちらの歴史と同じならば同重量の金銀と交換とかいうキ○ガイじみたレートで取引される胡椒を、わざわざ求める必要はない。もっと簡単に、お手頃価格で手に入るというならば、是非とも手に入れたいとは思うが。
あー、でも。
胡椒はなくともなんとかなるが、ビーフステーキをおいしくいただく為には、なくてはならないものが肉の他にもう一つあるな。つか、調味料的にはこっちの方が大事だわ。胡椒はなくともなんとかなるが、こっちは駄目だ。
当然、それは『塩』。
二水の町での交渉がすんなり上手くいくなどとは到底思えず、こうして現実逃避をしていた訳だが、結局そこに戻ってくる。
やはり避けては通れぬか。
思わずそんな芝居じみたセリフが脳裏に浮かび、
「流石に必需品だ」
と、口からそのセリフの続きが漏れた。
「は?」
突然の俺の独り言に、横を進む源太がこちらを向く。
「あはは。いや、なんでもないヨ?」
まるで病気が再発したかのようなセリフ回しに照れくさくなって、俺は笑って誤魔化した。