第百二十六話 どうやら何かが起きたらしい でござる
「のわっ。ちょ、静っ! まち、ま、あーッ」
ドサッ。
訓練を始めた頃は、むき出しの地面と、ところどころに残る枯れ草しかなかった原っぱが、いま青々とした雑草で覆われている。
乗馬訓練を開始して半年以上経つ。
そして俺は、今日も元気に落ちていた。静先生の授業は相変わらず厳しい。
「どうっ、どうっ」
源太は静の手綱を掴んで落ち着かせている。もっとも、静にそれが必要だとは思えないが。
半年間落ちまくった俺としては、それは断言できた。
今も静は、未熟な乗り手を振り落としはしたもののケロッとしていて、興奮している様子は毛ほどもない。
ただしそんな事は、当たり前の事ではあるが、俺なんかよりも源太の方がよく知っている。俺の為に、万に一つの間違いもないように念を入れてくれているだけの事だ。
今この場にいるのは、俺、源太、静の二人と一頭だった。源太も静も、俺が乗馬訓練を開始してから、ずっと付き合ってくれている。最初は、信吾や与平も毎日付き合ってくれていたのだが、今はいない。
俺が丁重に断ったからだ。
それはそうだろう。俺にとっては信吾も源太も与平もただの馬鹿三人衆であり、気心の知れた仲間であるが、あいつらはもう部将なのだから。つまり、部下も沢山いれば、やるべき仕事も掃いて捨てる程ある訳であり……。
源太は先生役としてどうしてもいるが、残りの二人の時間までもを無駄に消費してしまうのは、正直憚られた。
だから今は、源太だけには申し訳ないが頭を下げて付き合ってもらい、残りの二人には普通に仕事に行ってもらっているのである。
そして、この二人と一頭とで、訓練を続けているのだ。
「もう少しです。大分乗っていられる時間も増えましたし、静が言う事を聞く回数も増えて参りました」
落馬して、着地と同時に手綱から手を放した俺は、未だ地面に転がっている。静の足にだけ気をつけて転がったので、結構無様な有様だ。
俺が乗馬訓練を行っているのは、水島家の訓練場――という事になっている原っぱであり、整地されたグラウンドなどではない。背丈の高い雑草などは多少度抜かれているものの、大きな石もごろごろ転がっているし地面も凹凸が激しい。
おかげで、この身は傷だらけだ。体中にこさえた擦り傷が、流した汗のせいでひりひりと痛い。
それに痛いだけではない。体中がそんな状態であると言う事は、その見た目も敢えて口にするまでもない程にボロボロだった。
額は勿論の事、顔中に汗が吹き出して大変な事になっているのだ。噴き出した汗と、まみれた土埃のせいで、まるで泥のパックを塗ったようになっていた。当然、腕も足も、そして着ている着物も全部土まみれで、ぐちゃぐちゃである。
俺は落ちた拍子に口の中に入った土や、草の切れ端をペッと吐き出しながら、目の周りを伝う汗を手の甲で拭った。そして、ゆっくりと腰を上げながら源太に応える。
「とはいえ、正直ここまで難しいとは思ってなかったよ」
「はは。いや多分、普通の馬ならば、もう乗れますよ」
なんですと? それはちょっと聞き捨てなりませんよ、源太。じゃあ今、泥まみれ傷まるけになっているのはなんなのさ。
「は? どゆ事?」
そう聞き直さずにはいられない。
「普通の馬に普通に乗るぐらいの技量は、武殿はもう身につけておられると言っているのです」
しかし源太はしれっとした顔で、まったく同じ内容の言葉を繰り返した。俺の聞き間違いではないらしい。
「いや、ちょ、は? じゃあ何? 今やってる事って、まったくの無駄な事なん?」
源太のその発言は、俺には少々ショッキングだった。だから、即座にそう尋ね返さずにはいられなかった。毎日毎日、地面とのハグを繰り返している身としては、とても無視できる言葉ではなかったのだ。
「もし……、適当な馬に適当に乗る事が目的というならば、確かに無駄な事でしょうな」
だが源太は、俺の困惑を他所に、この問いにも再びはっきりと断言した。
ちょっ。
俺は思わず絶句してしまう。だが俺の困惑を他所に、源太は顔つきを真剣なものにして更に言葉を続けた。
「でも、将が戦場で馬を駆るというならば、まだまだまったく足りません。静が振り落としているうちは、その最低限にも達していないという事です。日々の足代わりに、癖のない馬の背に跨がるくらいの事は、今の武様でも十分出来ます。しかし、武様がおっしゃられていたように戦場で馬を駆ろうとするならば、まだまだ今のままでは駄目です。武様は決して代わりのきかぬ御方。万に一つもあってはならぬ身です。武様が希望された事ができるようになる為には、まだまだ沢山の時間と鍛錬が必要になるでしょう」
あー、そういう事か。
源太は源太なりに俺の身を案じてくれているのである。そして、本気で乗馬の技を俺に修めさせようとしてくれていたのだ。
うっかり文句なんか言わなくてよかったと、心底安堵した事は言うまでもない。
俺は一瞬芽生えかけた不満をなかった事にする。恥ずかしくて言えたもんじゃなかった。
「そうか。わかった。そうだよな。率いる将兵を戦場で不安にさせる大将とか、ゴミすぎるよな。そうさせないように、しっかりとした技を修めておくのが俺の務めってもんだろうな」
「はっ」
「よし。じゃあ、もうひと頑張りするかね。源太、よろしく」
「はっ、承知致しました」
静は、まるで俺と源太の会話に参加しているかのように、ダクも踏まず円らな瞳を向けながら、その場でじっと、こちらを見ていた。そんな静の鼻面を、源太がそっと撫でてやっている。
俺は体中に着いた土埃を軽く払い落とすと、そんな先生二人に「じゃあ、もう一度頼む」と声をかけた。
騎乗訓練が終わると、今度は文字を書く練習である。
最近は少し様になってきた。
努力の甲斐もあり、簡単なものならば、漢字でもそれなりの速度で書けるようになってきているのだ。ただ字が汚いのは相も変わらずで、なんとか判読できるというレベルであった。
判読と言えば、草書っていうのか、行書って言うのか、こちらの文章は所謂『ミミズさんのダンス』的なものがほとんどで、書く方ほどではないが、始めは読むのにもかなり手こずった。だがそれも、最近では、ほぼすべて自分で読めるようになってきている。
慣れとは恐ろしいものである。
そのおかげで、現在俺の事務処理速度は飛躍的に上がっており、それは素直に喜ばしい事であった。
それはともかく、今日も今日とて千賀の部屋で、幼女と一緒に文字を書くお勉強である。勿論、先生役はお菊さんだ。
「さて、ほんじゃあ今日も頑張りますか」
千賀もすでに筆を持って、元気いっぱいに『いろはにほへと』を書いている。俺の自尊心を栄養にして、千賀はめきめきとその腕を上げており、最近お菊さんの機嫌がとても良い。曰く、「武殿と一緒にお稽古するようになってからというもの、姫様が前向きにお稽古して下さるので、とても助かっております」だそうだ。
さて、俺もいつまでも油を売っていても仕方がない。筆を手に取り、その先を硯の墨に着ける。
その時だった。
「失礼致します。伝七郎です。中に入ってもよろしいですか?」
この時間は千賀が稽古事をしているという事は、当然守役の伝七郎も知っている。故に、この時間に伝七郎がやってくる事は非常に珍しい。千賀に甘い伝七郎は、自分が側にいては千賀の集中を乱してしまう事は重々に承知しており、稽古時には邪魔になってしまうので、側にいる事を避けているからだ。
どうかしたのだろうか。
入り口近くにいた侍女が、婆さんの指示ですぐに障子を開けた。
「おう、伝七郎。この時間に、お前がやってくるとは珍しいな」
中に入ってきた伝七郎に、俺はそう声をかける。するとすぐに、
「お、でんしちろーなのじゃ。何かようかや?」
と、さっそく集中力を切らした千賀が、目の前の紙から目を上げて、伝七郎にそう声をかけた。
文字を書いている途中だったらしく、
「姫様。まずはここまで書いて下さい。気をそぞろにしてはなりません」
と、手本を指差しながら、お菊さんは即座に千賀を叱っていた。
千賀は「うみゅう」と声ならぬ声を発しながら唇を小さく尖らせたが、黙ってお菊さんの言う事を聞いて、手に持った筆を動かし始めた。
なんのかんので、千賀にとってもお菊さんはお姉さんみたいなもののようで、余程に強い意志がある時でもなければ逆らわないのである。御年数えで六歳になられて、少しは成長したような、そうでもないような……。そんな感じだ。相も変わらず、暇つぶしのお話をせがむしな。
そんな千賀を見ながら伝七郎は、
「いやあ、少々悩ましい事がありまして……」
と、申し訳なさそうな顔で頭を掻いた。
ふむ。
「急ぎか?」
「そうですねぇ。出来れば早い方が……」
伝七郎は、こちらに顔を向ける。そして、
「申し訳ありませんが、武殿。少しお時間を頂けませんか? 武殿のご意見も伺いたいのです」
と、困ったような顔をしながら言ったのだった。
2014/10/10 もう間もなく夏がくる。気温も高くなってきていた。
の文を削除。ちょっと計算間違えていた事に気づきました。二ヶ月ちかくの空白の時間が出来てしまうので修正します。申し訳ありません。