幕 鬼灯(二) 藤ヶ崎の町中にて
翌日、私は町へと出た。茶屋の客寄せをする為だ。これも町の生の声を集める事が出来る大切な仕事だ。
客寄せをしながら、行商とその客の間の会話に耳をそばだてたり、店先で主人を待つ従者らの雑談に耳を傾けたりしながら、ひたすら面白い話が聞こえてくるのを待つのである。気の長い仕事と言えば、気の長い仕事だ。だが、決して馬鹿には出来ない仕事でもある。
勿論、ただ待つばかりではない。時には茶屋の宣伝がてらに道行く人に話しかけ、その会話を誘い水に、直接聞きたい話を聞き出したりもする。
ここ藤ヶ崎における今旬の話題というと、やはり伏龍・鳳雛の話題だ。
大層な二つ名と共に、突然現れた英雄達である。しかも自分たちの町の統治者であり、話に伝え聞く英雄達よりもずっと身近な存在でもあった。
庶民らがこぞってその話をするのも、当然と言えば当然の話であった。
昨日その前と、こっぴどくやられた身としては思う所も少なくない。しかし民達が、まるで自分の事のように自らの英雄達やその勢力の躍進を誇る事にまで、疑問を挟むつもりもない。
それに、千賀姫がやってきてから――つまり、伏龍・佐々木伝七郎と鳳雛・神森武が将兵を率いてこの町へとやってきてから、町の動きは何かと激しくなっている。
そういった意味でも、彼らが庶民らの話題を攫うのは必然と言えた。
庶人達から離れた所では、警備体制の変更があったり、防衛施設やそれに付随するとみられる施設の新設改修が見られる。
一方、庶人達に身近な変化と言えば、一番大きな物は税制の変更になるだろうか。
紅葉が言っていた。今までにはなかった町に住む為の税が課せられる事になった、と。その代わりに、売り上げの一部を献上する運上金の掛け率を下げたり、座から納められる冥加金を拒否したりするようになったらしい。お目こぼしの為の上納金の側面もある冥加金をつっぱねたというのは、なんとも清い事である。
しかしその影響か、最近は物の値段も変わってきていた。一部の座が値を高く固定させていたような品が、こぞって値崩れを起こしていた。
そのせいもあり、水島家の町での評判は極端だった。概ねでは好評を得ているが、一部の者には酷く忌々しく思われているのである。褒める者たちは手放しで褒め称え、悪く言う者たちは蛇蝎のごとく忌み嫌った。
それぞれがどういう立場の者たちなのかが、はっきりと分かる状況だった。
これらから、なんとなく見えてくるものがある。
それは、藤ヶ崎の水島家が、これから商業に力を入れようとしているという事だ。
一方で関を設けたりもしているが、総じて判断すると、商業をより発展させ、そこから上がってくる金銭を重視しようという考え方をしているように見受けられた。
その代償は、決して安くはなさそうではあるが。
確かに治安もよくなり、町――特に市などは非常に活発になってきている。水島家が望む藤ヶ崎の姿に向かって、着実に進んでいるようにも見える。
しかし、それは昼の顔だ。
夜――今まで甘い汁を啜っていた者が、その味を忘れられずに蠢きだすだろう事は容易に想像できた。
そんな事を考えながら、店から少し離れた場所で私は客引きを続けていた。
今はもう昼過ぎだ。
そして、そろそろ店に戻ろうかと思った――――そんな時の事だった。北門の方から、神森武がこちらに向かって歩いてくるのが見えたのである。
なっ?! 正気か?
目に入った光景を見て、そう思わずにはいられなかった。
私は、自分の目を疑った。
神森武がこちらに向かってきたのはいい。神森武ほどの者が、町中をのんびりぶらぶらとしているというのも十分異様ではあるが、もともと奇矯なところのある男だ。それぐらいならば、あっても特におかしくは思わない。
だが、水島家現当主――水島千賀こと千賀姫も一緒となると、流石にどうなんだと言わざるを得ないだろう。おまけに、側には永倉菊――菊姫や、新しく将になった信吾と呼ばれていた男もいた。
その信吾と呼ばれていた将が警護に当たっているようではあったが、千賀姫は神森武と菊姫の間で二人と手を繋いで、この人通りの多い町中をまるで町人の親子のように歩いている。
これを驚くなという方が、無理というものだった。
知らない人間が見れば、若い夫婦とその娘の幸せそうな姿に目を細めるかも知れない。
しかし見る人間が見れば、あまりの事に腰を抜かすこと間違いなしである。道行く人々の群れの中で、見つけてよい顔ぶれではなかった。
なんと無茶苦茶な。
そう思わずにはいられない。
しかし、この好機を逃す手はない。
流石に千賀姫を攫うような真似をすれば、命はないだろう。信吾という名の将はかなりの手練れのように見えるし、他にも何人か、隠れて護衛をしていると思われる者たちの姿も散見された。
だが、他にもやれる事はある。
千賀姫は少し疲れ気味のようだ。神森武もきょろきょろと周りを見回している。もしかすると、どこか休憩出来る場所を探しているのかもしれない。
だとしたら、絶好機だ。
化粧も髪型も、下女に扮して館に入り込んでいた時とは違う。私には結びつくまい。同じ女である菊姫の存在だけがやや不安の材料ではあるが、菊姫との面識はないので、向こうは私の顔を知らない筈だ。
正体がばれる心配は、ほぼない。
私は客引きを続け周りに声がけをしながら、一行へと近づいていく事にする。
まずは、男達が好む少し媚びたような笑顔を作った。
その選択は正しかったようで、私が近づくと、神森武は刹那の時、表情を崩した。
やはり男だねぇ。鳳雛・神森武と言えども、やはり色は好むかい。いや、英雄殿だ。むしろ、やはりと言うべきなのだろうかね。
いずれにせよ、ここからが正念場である。私は何も知らぬ振りをしながら、ただの客寄せの声がけを装った。
「お兄さん、お兄さん。茶でも飲んでいかないかい。この近くに、『三幻茶屋』って茶屋があるんだ。是非、寄っていっておくれよ」
そう声をかけると、神森武は少し肩を落したように見えた。が、すぐにその仕草を隠し、私に愛想の良い笑顔を向けてきた。
やはり、休む場所を探していたか。よし、いい感じだね。でも……。
ふふっ。そんな顔を私に向けていていいのかい、神森武。あんたの後ろで、菊姫は不機嫌そうにしているよ?
あまりにも男むき出しの神森武に、先日の事を横に置いて、そんな事を思う余裕が生まれた。
『女』の勘って奴を、甘く見すぎである。見えていない絵も、女は心の目で見える時があるのだ。神森武の背中しか見えていないだろう菊姫の目には、だらしなく崩れた神森武の顔がしっかりと映っている事だろう。
そんな菊姫には悪いとは思うが、遠慮をするつもりは微塵もない。
魚は食いついたのだ。あとは釣り上げるだけである。
私は心の中でほくそ笑みながら、怪しまれぬように何食わぬ顔で、そのまま客引きを続けた。