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姫様勘弁してよっ! ~異世界戦国奇譚~  作者: 木庭秋水
第三章
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幕 鬼灯(二) 再び藤ヶ崎の館へ その二



 その後も観察を続けた。


 しかし神森武は、(もしかして、実は気付いていないのでは?)と思える程に、完全にこちらを無視し続けた。そしてついには、私を放置したまま部屋を出て、どこかへ行ってしまった。


 誰もいない部屋の天井裏に、私はポツンと残されたのである。


 神森武が出て行ってもうすでに半刻は経とうとしているが、一向に戻ってくる気配がない。


 これは一体何なんだろうか。


 忍びとしてそれなりに場数を踏んできたつもりではあるが、相手に気取られてここまで無視された事など只の一度もない。神森武にしてみれば某かの意図があるのかもしれないが、その意図は私にはまったく想像もつかない。


 観察すれば読めぬ心も多少は見えてくるかと思いやってきたものの、見えてくるどころか、ますますの不可解に頭を痛める結果となってしまっている。


 まあそれでも、このままこうしている事しか私には出来ないのだがね。


 不本意な事ではあるが、先程見つかってしまったので、このままここに隠れているのが一番安全と言えるのだ。もし神森武が人を呼ぶつもりなら、とっくにそうしている。そうしていれば、今頃私は猫に追われる鼠のように、大慌てで逃げ惑っていた筈だ。


 神森武が部屋を出た折、その事態に供えて構えた身としては複雑な気分だ。


 しかし、あれから一刻も過ぎようとしている今、もうそれはないと思う。


 と言うか、もし今更そんな事にでもなったならば、今後私は何を信じて判断したら良いのか分からなくなるので、是非とも止めてもらいたい。


 それに、もう陽は昇り始めている。


 いま神森武をつけて館の中をうろうろするなど、捕まえてくれというようなものだ。すでに人の目の数も少なくはないだろうし、これからは刻一刻と増えていく一方なのだ。


 腹を括って、このままこの場にいるのが一番安全というものである。


 それにしても、神森武は一体どこに何をしに行ったのだろうか。




 もうどれ程時間が経ったか。神森武は未だ戻らない。


 もう昼頃だろうか。天井裏に長く潜んでいると、時間の経過が分からなくなる。


 天井板の隙間から、下にある神森武の部屋の中を見る。


 うん、やはりそのぐらいの時間だろう。


 影の具合から察するに、昼頃か、その少し前ぐらいだと思われた。


 それにしても、まったく戻ってくる気配がないね。後をつけた方がよかったか?


 そんな考えも浮かび始めた。だが、それはすぐに打ち消される。


 これはただの焦燥感だ――そう『冷静な私』が『焦っている私』に言い聞かせた。


 当然だった。危険すぎる。人が寝静まっている時間帯ではないのだ。こんなに人が多い場所で、陽が昇っている内に動くだけでも危険きわまりないのに、誰かの後をつけながら動くなどとんでもない話である。それは、はっきりと断言できる自殺行為だ。


 それは分かっている。でも――と『焦っている私』が言う。


 ”あの”神森武にあれ程これ見よがしに無視されて放置されているのだ。そんな今の状態が安全であるとはとても思えない。不安で仕方がない、と。


 ほう、と大きく一つ息を吐いて、頭の中で戦う二人を仲裁する。


「まったく……。本当に厄介な男だよ」


 思わず、そんな愚痴が口から漏れた。


 その漏れた自分の声にはっとして、自分を戒める。忍びが『忍』の字を失ってどうするのだ、と。




 その後も、誰もいない部屋の天井裏で、私は気配を殺して隠れ続けた。


 すると、しばらくして部屋の外から神森武を呼ぶ声が聞こえてきた。


 誰だ?


 その声の主は返事がない事を確認すると、襖をそっと開けて部屋の中へと入ってきた。


 菊姫?


 永倉平八郎の唯一の実子――菊姫だった。今は千賀姫の世話役を務める程の才媛である。


 この部屋に何をしに?


 目に映る菊姫の姿に、率直にそう疑問が湧く。


 当然だ。菊姫はただの侍女ではないのだ。おいそれと、男の部屋にやってきていい身分の女性(にょしょう)ではない。


 しかし菊姫は部屋の中へと入ってくると、当たり前のように部屋を掃除し始めた。


 は? なぜ?


 私は至ってまともな筈だ。ここのところ自分の常識がことごとく破壊されて、自信がなくなってきつつあるが、私が正しい筈である。


 これは良家の子女のやる事ではない。ますます分からなくなってきた。しかし当の菊姫は、丁寧に丁寧に部屋の隅々まで綺麗に掃除をしてゆく。


 なんというか、まったく嫌々やっているようには見えなかった。むしろ、どこか楽しそうにしながらやっているようにも見えた。押し入れの襖を開け、敷居を掃除している時に少し手が止まって俯いていたが、それも少しの間だった。すぐに掃除へと戻っていった。


 まったく解せなかった。


 普通は、良家の子女が自ら掃除などしない。それは下女の仕事である。


 菊姫は武家の娘なので、永倉平八郎の某かの信念の下、修練の一環として掃除をやらせている可能性もなくはない。しかし、それだとしても掃除する場所がおかしいだろう。自分の部屋なりなんなり、もっと相応しい場所がいくらでもある筈だ。


 或いは、菊姫は千賀姫の世話役なので、千賀姫の部屋の掃除をというならば、まだ分かる話である。


 だが神森武の部屋というのは、一体どういう事なのか。


 改めて部屋の様子を確認しても、当主や特定の人物しか入れない場所のように、何か特別な物がある部屋のようにも見えない。偽装でも何でもなく、本当にただの何もない私室にしか私には見えなかった。


 やはりどうしても分からない。いや、あの菊姫の表情から一つだけ思い当たらなくもないが、果たしてそんな事などあろうかという気持ちが捨てきれない。


 良家の、それも武家の娘で、そんな事が許されるのか、と。


 しかし、もしそうだとすると、永倉平八郎がそれを認めているという事になる。この水島館の状態で、永倉平八郎が認めていないのにそれを行う事はまず許されないだろう。まして、こうも堂々と振る舞う事など出来はしない筈だ。


 惚れた男に心のままに尽くすなど、下々の者でもなければ許されはしまい。そんな話は、あっても精々が町娘までだ。商家の娘でさえ、ちょっと名のある商人の家であれば、そんな自由はないだろう。


 そこまで考えて、ふと考え直す。


 ああ、でも……。神森武か……。となると、これはあるか――と。


 確かに神森武の名は、まだそれ程のものではない。この藤ヶ崎の町と、継直や惟春らといった一部の人間しか、まだその名を知らないだろう。


 しかし、成した実績は疑うべくもなく本物だ。同じ事が出来る人物など、各国を巡って探したとて、他にいるかどうかすら怪しい。


 なるほど。いま名はなくとも、その価値は十分にあると――少なくとも、永倉平八郎らはそう見ているという事か。


 思わぬ収穫だった。このところ碌な目に遭っていなかったが、その苦労も報われた気がした。




 その後も菊姫は神森武の部屋を掃除し続け、終わると部屋から出て行った。もともと大して物が置かれていない部屋でもあり、あまり汚れているようには見えなかったが、それでも一目見て分かる程に綺麗になっていた。


 そんな部屋に、ようやく部屋の主が戻ってきた。


 やっとのお帰りかい。けど、あの姿は一体なんだい? ぼろぼろじゃないか。


 朝方に部屋を出て行った時にはきちんとしていた着物、いや体も、今やぼろぼろだった。その姿ときたら、先日の私のようだった。実に酷い有様だ。


 一体どういう事だろうか。


 注意深く観察する。今度は気付かれないように、細心の注意を払いながら。


 しかし神森武は、やはり只者ではなかった。気配を完全に消している私に、すぐに気付いてしまった。


 部屋に戻ってきた神森武は、部屋の中央に大の字になって寝転がった。そしてすぐにこちらに視線を合わせると、「まったく……未熟だなあ」と呟いたのである。


 カッと頬に朱が走った。


 今朝方は明らかに私が迂闊だったが故に、未熟と罵られても返す言葉もないが、今は間違いなく完全に気配は殺せている。微塵も漏らしていない。


 私が未熟なのではなく、あんたが異常なだけだよっ!


 そんな声が、思わず喉から出かかった。


 だが、それはなんとか堪えた。そんな事をしてしまったら、それこそ未熟と馬鹿にされる。


 私はとりあえず、その場からの撤退を決めた。


 朝方見つけた密偵がまだその場にいる訳がないという心の隙をついてこそ、今ここにいる価値があるのだ。なのに、まだいると気付かれてしまっていては、その価値がまったくない。


 これ以上ここにいても、神森武にいいように使われる事はあっても、私自身に得がある情報は何も得られないだろう。


 ただ、やはり悔しかった。


 音を立てぬように、梁の上を下がりながら、その思いを噛みしめる。


 こうも一方的にやられてしまったのは、流石に無念だった。館に潜り込んでいたのを見つけられた時からずっと負け通しである事も、その思いを更に強くした。


 それにである。


 こうして私が撤退している時だって、神森武はまったく動かない。私が撤退に移ったのは察しているだろうに、それでも声を上げる気配がまったくない。


 まったく相手にされていなかった。


 悔しい……。


 いくらかの収穫もあったが、やはりその思いは拭いきれなかった。

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