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姫様勘弁してよっ! ~異世界戦国奇譚~  作者: 木庭秋水
第三章
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幕 鬼灯(二) 再び藤ヶ崎の館へ その一




「ね、姉さん?」


 茶屋に戻ると、私の姿を見た紅葉が吃驚して駆け寄ってくる。


「はい、ただいま。まったく……散々な目に遭ったよ」


「いったいどうしたの? ぼろぼろじゃない……」


 今は忍び装束の上に着物を纏っているが、顔や手足などの露出している場所は隠しきれていない。如何ともしがたかった。傷だらけである事は一目で分かる。


 とはいえ、時は夕刻。まだ通りに人も多い。店舗と住居が一体であるこの建物の構造上、いや、それ以前に大通りに面して建っているようなこんな建物では、特別にしつらえたような部屋以外では、”本当の仕事”の話をするのは迂闊過ぎるというものだ。基本的に出来はしない。


「色々あったのさ」


 だから今答えられるのは、この程度だった。


「色々って……。ううん、そんな事はいいわ。早く手当をしましょう」


「有り難うよ。でも、大丈夫。どれも、それほど大きな怪我ではないさ。擦り傷程度だよ」


「でも……」


「大丈夫」


「姉さんがそう言うならいいけど……」


 私が断るから渋々首を縦に振ったものの、本心から納得していないのははっきりと見て取れる。とても心配そうにこちらを見ていた。忍びなんかしている割に、本当に優しい娘だった。


「ああ、本当に大丈夫さ。この程度なら自分でやれる。有り難う、由利」


 そんな紅葉に笑顔を作って応え、奥へと向かった。土間に置いてある水瓶から桶に水を移して、座敷へと上がる。


 薬まで使うのは大袈裟だと思うが、流石に傷の汚れぐらいは拭いておいた方が良い。


 外から見えないように衝立(ついたて)で隠して着物を脱ぎ、その下のぼろぼろの忍び装束と鎖帷子も脱ぎ捨てた。帷子がジャリッと重い音を立てて床に落ちる。


 身が軽くなった所で体を検めてみた。


 帷子に守られていた部分でも傷こそないが汗と埃でどろどろだし、帷子のない場所は汚れだけですんではおらず小さな傷でいっぱいだ。血も滲んでいる。際どかったが躱しきったと思っていた、鏃で裂かれた跡まであった。


 まったく。乙女の柔肌をなんと心得ているんだろうね、あの男は。大事な商売道具なのに、ぼろぼろじゃないかい。


 落ち着いてくると、そんな詮無い文句が脳裏を駆け始める。ただの愚痴なのは自分でも分かっているが止まらない。


 そして、傷を拭く為の清潔な布を桶の中に叩き込み、取り出して乱暴に絞ると、その布を同じ調子で腕の傷に当てた。


 びしゃり。


 濡れた布が激しく体を打った。


 思わず尻が跳ね上がった。それに合わせて乳房もぶるりと弾んだ。


 痛い。


 当然だった。


 あー、もう。本当に踏んだり蹴ったりだよ。


 更に苛立つが、今度は同じ過ちを犯さないように気をつける。慎重に、優しく傷口に布を当てて、一つずつ拭いていった。乾いた血と汗、そして土に汚れた体が、時間の経過と共に綺麗になっていく。


 四半時もそうして拭いていると、すっかり綺麗になった。鏃で少々深めに斬った部分にだけは、膏薬を塗った。


 体中細かい傷だらけで、水ですら酷くしみたが、体が綺麗になってゆくのはとても気持ちがよかった。


 そして、落ち着いたところで改めて考える。


 舐めていたつもりはなかったが、それでも私は神森武を舐めすぎていた。その報いがこれだとするならば、今こうして命があるだけでも、私は感謝するべきなのかもしれない。


 とは言え、業腹だった。


 それにあの包囲の穴だ。あれは何だい。あの男は一体何を考えているのか。戸籍の件等々――最近の水島家の動きと、やっている事が正反対じゃないか。


 いま藤ヶ崎の水島家は、間者にとても敏感になっている。そうなった原因の一つは、遺憾ながらも私自身の件だろう。というか、時期的に見て神森武に見破られた私の失態から始まっていると思われる。


 そんな私が言うのも何だが、今の水島家の方針からいけば、あの場でなんとしても私を捕らえようとするのが筋ではないのか。なぜ、私を逃がしたのか。


 神森武は私をわざと逃がした。悔しくはあるが間違いない。奴はわざと逃がした筈なのだ。あれだけ見事にはめられて包囲されたのに私が逃げられたのは、あの如何にもわざとらしく残されていた逃げ道があったからだ。


 今の水島家の方針に、神森武の考えが反映されていない?


 それは考えられない。あの場でも、あれだけの数の兵と将三人を前にして指揮を執っていた。神森武が水島家で軽んじられているなどとは思えない。どう見ても重鎮である。なのに、神森武自身と家の方針が真逆だ。これはどういう事なのか……。


 もしかして、神森武は敵の間者を利用しようとしているのか?


 ああ、そうか。それなら分かるし、筋も通る。何時どこに潜んでいるか分からない間者は排除したいものだ。だが、やってきているのが分かっている間者ならば、むしろ使いようがある。


 そういう事か。


 そう思い至ると、悔しさの代わりに、ふつふつと怒りが沸き起こり始めた。


 舐められたもんだねぇ。


 今、藤ヶ崎は色々とやっているようだ。


 体制を変えるような大掛かりな事から、新しい制度の施行、町の四方を守る砦の改修、いや南北は建て直しだね。いずれにしても、今までとは比較にならない急激な動きをしている。


 そしてそれらの中で、神森武は一体どんな情報を他国に流したいのか。その情報が真の情報か偽の情報かすらもまだ分からないが、それを望むというのなら乗ってやろうじゃないか。


 虎穴に入らずんば虎児を得ずと言う。


 継直や惟春にとってどんな情報になるかは私次第だろう。だがしかし、少なくとも私にとっては有用な情報が手に入るだろう。神森武の意図がなんであれ、だ。


 相手の懐の中に飛び込む――そう腹を括り、体を拭いていた布をパンと音を立てて延ばす。そして、まだ水気が残る体の上に町娘らしい着物を纏った。




 日が変わり、丑三つ時――まだ夜明けまではしばらくある月光のみの世界で、私は再び忍び装束を纏い茶屋の外に出た。


 無論、水島の館に向かう為だ。あまりにも不可思議な行動を取る神森武の心中を探りたい。その為には、本人を観察するのが一番である。


 流石にこんな時間では、河岸に向かう棒担ぎの姿はおろか、漁に出るべく船着き場に向かう男達の姿もまだない。


 そんな誰もいない夜の町を、私は館に向かって駆けた。途中鉢合わせたのは、夜闇の中でその目をきらりと光らせた野良猫一匹だけであった。


 何事もなく、無事館に着く。が、流石に寝静まっているなどという事はなく、門前にも、館の中も、夜番の者たちが警備についていた。


 こんな所に真正面から突入するなど、酔っ払いでもしないだろう。


 裏手に回わる。そして見回りの者の目に注意をしながら、壁を上り中へと入った。その後は物陰に隠れながら慎重に進み、以前北の砦の兵に関する情報を探った時のように天井裏へと潜り込んだ。


 目指すは神森武の部屋だ。


 下女として館に潜り込んでいた頃と変わっていなければいいのだが。


 報告された情報に間違いがなければ、武家町には犬上信吾という将しかやってきていない。犬上信吾――信吾。あの大きな体の男だろう。神森武と親しげに話していた将の内の一人だ。


 となれば、残りの将たちはここに残っている筈である。佐々木伝七郎や神森武が、長屋住まいなどという事はないだろう。


 そう考えながら、記憶を頼りに天井裏を縦横に走る梁の上を移動していく。気配を殺し、細心の注意を払いながら、そっと忍び寄っていく。


 じっくりと慎重に十分な時間をかけて進み、しばらくして目的の場所に着いた。


 天井板の合わせ目の隙間を見つけると、予想通りであっておくれと念じながら、さっそく下の部屋の様子を窺った。


 間違いない。神森武の部屋だ。見覚えのある顔がうっすらとだが見える。もう間もなく夜明けなのだろう。障子越しに朝の気配が届いている。かなり時間がかかってしまったようだ。


 周りの様子も確認する。質素な部屋だった。机一つと衣装箱と思しき箱が幾つかあるだけで、他には何もない。


 そんな部屋の中央で、神森武は仰向けになって眠っていた。腹の上に僅かに布団が載っているだけで、着布団を蹴散らかして、大の字になって平和そうな顔で眠っている。


 ふん。いい気なもんだよ。私が殺す気ならば、お前など今すぐにでも殺せる。


 昨日酷い目に遭わされたばかりだったせいか、思わずそんな気持ちになった。


 だが、それを実行する訳にはいかなかった。神森武が大人しく殺されてくれる保証もないし、仮に殺せても、その直前に大立ち回りにでもなって館の者たちに気付かれれば、大人しく逃げさせてくれるとは到底思えないからだ。


 そんな危ない橋を渡るつもりはない。あの二人の為にそこまでしてやるつもりはないし、仕事としてもそんな役目を引き受けてはいない。


 私は気持ちをすぐに切り替え、再び神森武の観察に戻る。いや、戻ろうとした。


 が、その時だった。


 神森武は「うーん」と低く唸りながら、目を細く開けてこちらを見たのである。


 身が凍り付きそうになった。


 昨日私は見つけられたばかりじゃないか。それなのに、また気を抜いてしまうなんて。


 心底後悔した。あの刹那の間もらしてしまった殺気を気取られたのだ。


 神森武は何も言わない。じっとこちらを見ている。私はその間、どうする事も出来ず神森武の目を見返していた。


 しかし神森武はすぐに再び目を閉じた。そして襦袢(じゅばん)のはだけた胸の辺りをぼろぼりと掻くと、むっくりと起きた。


「ふわー」


 大あくびである。その後、寝癖がついた髪をばりばりと掻きむしった。


 緊張感のかけらもなかった。


 なぜだっ? なぜ、何も言わない。なぜ人を呼ばないっ。


 もう、何が何やらさっぱり分からなかった。


 その後も神森武は特に反応を示さなかった。


 あの時感情が乱れて気配を漏らしてしまった。神森武もそれを察した。なのに、この態度である。一体どういう事なのか。


 なんて肝の太い奴……。


 正直呆れた。

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