第百二十二話 藤ヶ崎の町 でござる
「蛙~。蛙はいらんかね」
「ちょいと、そこのお兄さん。うちの鰻を食っていきな。今夜は奥さんも大喜びだよ。いやあ、そんな綺麗な女房もらったなら頑張らないとね。さ、食っていきな、食っていきな」
藤ヶ崎の町は活気に溢れていた。少し歩くだけで、棒担ぎや道端の露商に呼び止められる。
「芋~。芋はいらんか~」
籠を担いだ里芋売りが声を張り上げ、
「ねーねー、そこのお姐さん。これを見てっとくれよ。さっき荷揚げ場に着いたばかりの富山の魚だ。最近では貴重だよ。烏賊の干し物と、福来魚(ブリの中年魚)の味噌漬けさ。夕餉に一皿つけてやったら、旦那も喜ぶだろうね。是非買っていっとおくれ。次は何時入るかわからない品だからね」
魚介の担ぎ売りのおばちゃんも周りの喧噪に負けないように、殊更大きな声で商品をアピールしている。
大通りを行き交う人の群れに、千賀は目をぱちくりとさせていた。朝の元気はどうしたのやら、目をまん丸にして俺の足にしがみついている。
お菊さんは魚の担ぎ売りのおばちゃんに捕まっていた。困ったような顔をしながら、「あ、あの、また次の機会に」とおばちゃんの迫力に気圧されながらも断っている。
かく言う俺も、鰻売りの姉さんに捕まってセクハラ攻撃を受けている真っ最中な訳だが。
鰻はすぐ横の七輪で壮年のおっちゃんが、それはもう慣れた手つきで焼いていた。甘いタレと鰻の脂の焦げる匂いが、道行く人々の鼻と胃を激しく刺激している。俺も、その匂いに誘われた口だ。
売る者、買う者――――。
どちらも多い。店を構えている者たちばかりでなく、この賑やかな道端商売がこの町を支えているのだと実感できた。
少し人混みに慣れてきた千賀は、興味を惹かれるものがあると、そちらに行こうとするようになってきた。
お姫様には物珍しい物ばかりだろう。本当は自由にさせてやりたいが、やはり一人で離れるのは危険すぎる。何かがあってからでは遅い。信吾がすぐ後ろをついて回っているから、まず問題は起きないとは思うが、それでもだ。
「おーい、千賀。離れるなよ。危ないからな」
俺がそう呼びかけると、千賀ははっとしたように体をぴくりと一つ震わせる。そして、テテテとこちらに駆け寄ってきて、再び俺の足をがっしりと抱きかかえた。
先程から、もう何度も繰り返している光景だった。
色々な物に興味津々ではあるものの、やはりまだ道行く人の多さが怖くはあるらしい。千賀は、戻ってきて俺の足に纏わり付く度に「すごいのじゃー」と呟くのである。
千賀がこんなんだから、俺たちはさっきから親子だと勘違いされっぱなしだった。
やっぱりこちらでは、結婚にしろ子作りにしろ俺の常識よりもずっと早くするようだ。
あちらならば歳の離れた兄妹にみられるだろうに、皆当たり前に親子だと勘違いした。千賀が実際より幼く見られているのか、それとも俺が実際よりも老けて見られているのか。それは分からないが、いずれにしても向こうの世界ならば、親子に見られる事はまずないだろう。
ただ、俺もそんな勘違いを訂正する気はまったくない。役得というものである。
千賀を子供に見られるという事は、当然その横にいるお菊さんはお母さんという事になり、その、なんだ、俺の奥さんという事になる訳で……。ただの勘違いではあるのだが、悪い気はしなかった。いや、正直になろうぜ、俺。ぶっちゃけ、大歓喜だろ? 一々勘違いを解くなんて、そんな勿体ない事する訳ないじゃないですか。
だが、それは外に出さないように注意する。当然だ。恥ずかしすぎる。
そんなちょいとあれな事を考えつつも、俺は改めて道行く人らに目を向けた。この前、無理やり門を押し通った時とは大違いだった。ここは町の中心あたりであり、特に人の多い地区でもあるが、それでもここまで沢山の人が行き交っているとは思わなかった。
確かに向こうの世界の都心部とは比ぶべくもないが、人口一万程度の町で、真っ直ぐに走ると、すぐに人にぶつかりそうになるほど人通りがあるというのは凄い事だろう。
「信吾、すまんな。こんなにも人が多いとは思わなかった。俺ってば、軍と一緒にしか動いてなかったのを失念していたよ。俺が知っているこの町の人通りが、普段の人通りの訳がないよな……」
「はは。今日は特に多いようですな。しかし、ご安心を。いずれにせよ、姫様には傷一つ負わせたりなどいたしません。お任せ下さい」
「うん、頼むよ。こうなってくると、真剣に信吾頼みだから」
「はっ」
先程千賀がいた場所から、こちらに向かって歩いてきた信吾とそんな会話を交わす。
信吾は、常に千賀の一歩半後ろで周囲を警戒し続けてくれている。しかも、なるべく千賀の視界に入らないように後ろに回った上で、更に俺やお菊さんにも気を配ってくれながらだ。本当に頼りになる男だった。
信吾と話していると、お菊さんもこちらにやってきた。
「ああ、吃驚した」
その割りには機嫌が良さそうだったが、商魂たくましいおばちゃんに押しまくられてやや気後れ気味のようだ。
「はは、お疲れさん。おばちゃん、すごかったなあ」
「もうっ! 見てらしたのならば、助けて下さってもよいではございませんか」
そう言って、お菊さんは軽くぷっと頬を膨らませる。
……可愛いなあ。
お菊さんのこんな顔は初めて見る。いつもと違う環境のせいか、彼女も少しだけはしゃいでいるらしい。ぱっと見、そうは見えないが。
とりあえず、楽しんでくれてはいるようだった。
その事が素直に嬉しかった。
しかしそんな思いは隠し、俺はカラカラと高笑いをしてみせる。
「そういうのを楽しむのも、こういう場所の醍醐味じゃない。それを邪魔するような無粋な真似はできないよ」
「ひどい人」
しかしそう言った後、お菊さんは小さくぷっと吹き出して笑った
やっぱ、たまには息抜きも必要だ。こんな他愛もない事が、とても楽しい。
その後も、俺たちは色々な店を見て回った。
まだ午前中である。見るべき物も、見たい物も、まだまだ沢山残っているのだ。
千賀と手を繋ぎながら、人混みの中を進む。千賀は俺と繋ぐ手の反対側に、棒飴を握り、それを舐めている。すこぶるご機嫌だ。
さきほど棒担ぎの飴売りより買った飴だった。千賀の『買って買って』光線に負けて、俺は財布の紐を解く事になった。
まあ、おかげで今は大人しいものなので、元は取ったと言えよう。
もっとも、こんなところを婆さんに見られでもしたら、また「姫様に立ち食いなど……何を教えておるかあーっ!」とドヤされるだろうが。しかし、今あのババアはいない。ざまあみろ。くけけ。
「立ち食いなんて、はしたない」と言ったお菊さんを「こういう場所にはこういう場所の流儀ってものがあるのさ。今日は、そういうのは言いっこなし」と言いくるめる事が出来たのが勝因である。それ以降は露店で買ったものを、お菊さんもその場で俺らと一緒に食べてくれるようになった。
こちらには昼飯を食べるという習慣がない。そのため買い食いが捗る訳だが、お菊さんが食べてくれないと楽しさ半減どころではない。だから、お菊さんの柔軟性に俺は拍手を送りたい気分だった。
それに、伝七郎にも感謝しないといけない。こうして楽しめるのも良いタイミングで給金が出てくれたおかげなのだ。こんなに活気のある城下町で、無一文で町視察をしなくてはいけなくなっていたとしたら、俺は多分泣いた事だろう。伝七郎さまさまだった。
「はう、はむ、はぐ」
俺の腰のあたりで、飢えた獣が獲物を貪っているような音が聞こえる。
まあ、千賀な訳ですが。
千賀は、それはもう真剣な顔をして、串に刺して焼いた雀と戦っていた。
一つしか見つけられなかったが、鳥を焼いて出している露店があったのだ。
「おお、おお。嬢ちゃん。本当に旨そうに食ってくれるなあ」
「んまいのじゃ」
店主の親父は、俺の横で幸せそうに雀を囓っている千賀を見て笑う。言われた千賀も、満足そうに太陽の笑顔を返していた。そんな千賀をお菊さんは優しい眼差しで見守っている。信吾は変わらず、俺たちの安全に気を配ってくれていた。
そんな信吾に心の中で「ご苦労様」と労いながら、俺も串の雀を囓る。そして、今も目の前で、串に刺した雀を七輪の上で回している親父に聞いてみた。
「なあ、おっちゃん。このあたりじゃあ、焼き鳥屋ってのは珍しいよなあ?」
「いつも必ず獲物が獲れるわけじゃあないですしね。店を構えてやるとなると、ちょいと難しいだろうなあ。あっても、うちみたいに猟師が酒代稼ぎをしているような露店ばかりだと思いますぜ?」
ああ、やっぱりそうなんだ。
「そっか」
「ああ、でも、あんた様みたいな若旦那様が行くような店じゃあないが――――」
ブッ。
噴いた。
俺の大事な雀さんが……。
つか、今はそれどころではない。
「わ、若旦那?」
「えっ? へへ、あっしは確かに猟師ですが、こうして商売もやっている人間です。多少は人も見れまさあ。その小綺麗な身なり、可愛い嬢ちゃん、綺麗な奥方、そして見るからに強そうな護衛……。どこからどう見ても、どこか良い家の若旦那様でございましょう? お忍びですかい?」
むう。言われてみると、状況的には確かにその通りだな。つか、やっぱり俺お菊さんの旦那に見られてる。最高じゃん。もしかすると俺って、そう捨てたものでもないのかしら。あちらではおそろしくモテなかったけどなっ。
まあ、いいや。若旦那じゃあないけれど、今日ぐらいこの幸せに浸っても罰は当たらん。きっと、頑張った俺へのご褒美だ。
何度も何度も、夫婦に見られていると、段々とその気になってくるのだ。そして今、俺は恥ずかしさよりも、そこから得られるささやかな幸せの方を大事にしたかった。
なにせ、もう一人の当事者であるお菊さんが、まったくこれを嫌がっていない。最初こそは恥ずかしそうにしていたが、今はもうそれが事実であるかのような態度だった。これが『もう、今日はこのままでいいや』という思いに拍車をかけていた。今も焼き鳥屋の親父と俺の会話は聞こえているだろうに、いつも通りに優しい目をして、千賀の世話を焼いているだけなのだ。
「あ、ああ、その、まあね」
結局俺は甘い誘惑に負けて、そんな曖昧な返事を親父に返す。
まあ、もっとも――――『ここの領主様とその側近一、二、三です』などと言える訳もなかったが。
「やっぱり」
「しっ。一応お忍びなんだから。おっちゃんも、そのつもりでよろしく」
「へいっ。承知いたしやした」
「うん、それでいい。それでさっきの話だけど」
「ああ、獣の肉を扱っている店でしたっけ。先程も言いかけやしたが、上流階級の家の方々にはお勧めできるような場所ではありませんがね。あっしら猟師が、物ではなくて銭が欲しい時に使う『獣屋』っちゅう店がありまさあ」
「ほう」
「そこは主に猟師が皮を剥いだあとの獣や鳥の肉を買いとって、その肉を食用として、そのまま売ってます。あっしらとしても、毛皮以外で銭になるので結構有り難い店なんですがね。ただ、やはり上の方々は肉を召し上がらないので、どうしてもそういう扱いの店になってしまいますなあ」
そういう事ね。でも、やっぱりあるんだ。
これは、俺もほぼ確信を持っていた。ない訳がないと。
猟師という職業が成り立っている以上、いくら上流階級が獣を口にする習慣がないといっても、庶民レベルでもそうとは限らないのである。まして、十分に食料が行き渡っている社会ではないのだ。そういう商売だって、出て来て当然だと思っていた。
そして案の定、その通りだった訳である。