第百二十一話 デートの日の朝 でござる
翌朝、飯も食い終わり一息をついた頃、俺は館の門の方へと移動した。
最初に見た時は、あまりの立派さに圧倒された館の正門だが、何度も見ているうちに慣れてきた。何度見ても立派だとは思うが、圧倒される事はなくなった。
だが今日の俺は、いつになく緊張している。無論、門に気圧されている訳ではない。
生まれて初めてのおデート――――それ故にである。
思えば、自分の両手両足はおろか、家族親戚全員の手足の指を借りても数え切れない程に女の子らを誘った。
しかし次のステージに進めたのは、今回が初めてだった。緊張するなと言われても、無理を言うなとしか応えられない。
現に、こうしてこんな下らない事を考えていないと冷静さを保てなくなっているのが、その良い証拠というものである。
あー、やべ。まじで緊張してきた。
飯食った後も、意味もなく二度? いや三度か。歯も磨いた。くせっ毛で手入れいらずが自慢の髪にも、無駄に手櫛を入れてみたりもした。服は残念ながら選べる程持ってないから、普段通りに伝七郎のお下がりだ。
門まで来てしまっているせいもあるが、もうする事がない。まな板の上の鯉だった。
つか鯉だって、生きたまま、まな板の上に載せれば暴れるのだ。早いところ綺麗に絞めてくれと思ったとて、何を恥じる事があろうか。
もう、そろそろだろうか。
時計などという物がないこちらの世界では、時間というものは大らかに流れている。社会そのものが、だいたいで進んでいるのだ。三十分から一時間ぐらいの誤差は誤差の内に入らず、誰も気にしない。あちらの世界で言うところの官庁である政務棟でさえ、そうなのだ。他の場所など、推して知るべしである。
だー! 落ち着かねぇーっ!
とは言え、待ち始めて、まだいくらも経っていないのだろうとは思う。俺的にはもう随分待っている気がするが、こういう時の感覚は絶対に当てにならない。
自分でも情けなくなってくる。なんで、こうも落ち着けないのかと。
つか、あれだな。ちょっと考える時間があると、すぐに余計な事を考えてしまう。これがいけない。
もし忘れられていたら――――。
もし気が変わってしまっていたら――――。
ヤメヤメ。碌な過去がないせいで、後ろ向きな発想しか出てこねぇーや。ちゃんとやって来る事前提で、今日どうやって一緒に楽しく過ごすかを考えた方が健全だ。うん、絶対そっちの方がずっといい。
軽く首を横に振る。深く一つ息を吸い、そして吐く。
するとその時、館の方から元気な声が聞こえてきた。
「たーけーるーっ! おーはーよーなのじゃっ!」
なんだと?!
なぜ、その声が聞こえてくるんだ……って、そんなの一つだよねー。ねー。
この展開は、流石に想定していなかった。
申し訳なさそうな顔をしているお菊さんと手を繋いだ幼女が、元気よく反対側の手をぶんぶんと振っているのである。その顔には満面の笑み。今日の快晴の空に相応しい笑顔だった。
「あ、あの、武殿? ごめんなさい」
「あ、あはは。何も問題ないさー。なんくるないさー。あははは。はあ……」
「な、なんくる?」
「だいじょぶ。なんとかなる。うん、そういう事っ」
俺は一気に気持ちを入れ替える。
うん。なんか話がうまくいきすぎてたしっ。俺なんかが、そうそううまい事いく訳ないしっ。
なんか、むしろ納得いったわ。俺らしくて。
これは如何なる事ぞと最初は思った。しかし、如何なるも何もないだろうとセルフ突っ込みが入るまでに一秒かからなかった。
こんなもの、千賀が「妾もつれて行ってたもーっ」とぎゃーすか我が儘言いまくったに決まっているのだ。
俺は笑顔を作る。まずは申し訳なさそうにしているお菊さんを安心させてやらないと可哀想だ。
そして、そのとき初めて気付く。
うおっ。
お菊さんはいつもの打掛けとは違うものを着ていた。薄い桃色の小袖で、普段着ている物より色使いが明るい。柄も大柄の牡丹と、いつもよりも派手目だ。
今日の彼女は、『お嬢さん』という感じがした。
思わずまじまじと見つめてしまった。
お菊さんは、体を少し捩るようにして頬を赤く染めた。
こうなってくると、低空飛行をしていた俺の心も一気に奮い立ってきますよ。我ながら単純だとは思うが、それ程に嬉しかった。
だってこれって、俺とのデートにわざわざおしゃれしてきてくれたって事だろ? でも、もしかしたら、そういう意味ではないかも知れない。いやいや、そう思おう。うん。そうすれば、今日一日幸せじゃないかっ。
ささやかな幸せだった。でも、その幸せを喜ばずにはいられなかった。
そんな事を思って感涙にむせんでいる俺に、お菊さんは言う。
「本当にごめんなさい。たえ様にお休みをいただいていた折に、姫様が『妾も行くのじゃー』と」
やっぱり。
視線を下げる。
その先では、相も変わらずご機嫌な千賀がニコニコとこちらを見上げていた。
はぁ。
心の中でそっと溜息を吐く。でも、まあそれならそれである。
「ま、まあ、いいんじゃないかな? どうせ駄目だと言っても聞かないだろうし。でもそうなると護衛がいるな。流石に護衛なしでは千賀を連れては行けないよ」
「ええ。ですので、昨日のうちに信吾殿にお願いしておきました」
「え?」
「あ、来られたようです。ほら」
見れば、門を潜って入ってこようとする信吾が、丁度見えた。
初デート、始まる前に終了のお知らせ。俺氏涙目。
こぶ付でもなんとかデートにする方法を考えようと思ったのに、それすらも許されず強制終了がかかっていた。
だが信吾が護衛を務めてくれるならば、まず安心ではある事は間違いない。この流れで、俺が逆らえる理由など存在しなかった。千賀を連れていく以上、諦めるしかないのだ。あれこれ考えたとしても、同じ結論にしかならないという事が容易に予想できる。
とはいえ、である。
「……おはよう」
潔さが足りないと自分でも思うが、多少声が恨めしげになる事ぐらいは許されて然るべきであろう。
俺はダダ下がりのテンションのまま、信吾にジト目で朝の挨拶をした。
信吾の奴も、俺のその態度の理由ははっきりと理解できているようで、
「ははは。お早うございます。武殿」
と空笑いをしながら、バツが悪そうに頭を掻いた。
俺は近づいてきた信吾の首に腕をかけた。そして奴の首を下げさせつつ、千賀とお菊さんの側から数歩離れる。
それにしてもデカい体だな。俺だって決して小さくはないのに、並ぶと俺がチビで貧弱に見える。
そんな事を考えながら、お菊さんらに聞こえないように小声で言う。
「お前な。俺に何か恨みでもあるのか?」
「いや、あはは。勿論、そんなものはございませんよ。でも、現実問題として他に手がないでしょう? 兵をつけてこっそり見張らせるだけにしようかとも考えましたが、武殿と菊殿だけなら兎も角、姫様までを守ろうとするならば、それでは不十分です。間に合わないかも知れない。そのやり方では、兵がその場に駆け込むまで、ご自身で耐えていただかなくてはなりませんからな」
やっぱ、そうだよなあ。
とりあえず恨み言を言ってはみたものの、その俺自身も信吾の言う通りだと考えていた。それでも文句を言ったのは、ただ単純に俺の心の健康だけが理由である。
結局千賀を連れて行く時点で、デートとしては終わっているのだ。
「やっぱそうだよなあ。はあ……」
俺は盛大に溜息を吐いた。
だが、それを最後に気持ちを入れ替える事にした。このまま凹んでいては、何もかもが駄目になってしまうからだ。
もう来るところまで来ているのだから、諦めて最大限楽しい一日になるよう努力するべきである。それでこそ次に繋がるというものであろう。
そう思った。
「信吾の言う通りだな。二人っきりのデートは次の機会を待つ事にするわ……」
「でーと?」
「逢い引きの事だよ、逢い引き。でもなあ、あー、畜生ー。やっとこさだったんだぞお」
「ああ、でも大丈夫です」
「何がだよお」
「武殿に運気は向いていると、私は思います。武殿が望まれるならば、次の機会などすぐに訪れる事でしょう」
「お前、いつからインチキ占い師に商売変えたの? 俺がそんなにモテル男に見えるのか? やっぱお前、ちゃんと目が開いていないだろう?」
「はは、これは酷い言いようですな。確かにただの予感ではあります。しかし、今回のこの『予感』にだけは自信がありますよ?」
「そうかよ。慰めてくれて有り難うよ。まあ、何にしてもだ。今日は宜しく頼むわ。あれが行く以上、お前が言っていた通りだ。なんか、千賀の奴すごく楽しみにしているみたいだし。お前がいるのに、今更危ないから連れて行けないとは言えんわ。可哀想だ」
そう言いつつ、千賀の方に目をやった。
話している俺たちを待って、他所の方を向いて遊んでいた。お菊さんの手を握ったまま、飛び跳ねて遊んでいる。いつにも増して落ち着きのない様子だった。
これでもお姫様だからな。外に行った事など、ほとんどないのだろう。
視線を戻して、俺は再び信吾を見る。すると、信吾は一つ頷いて言った。
「はい、お任せを。万に一つも、姫様に害が及ぶ事態が起こらぬよう取り謀らいます。お側には俺が。その他にも五名が、離れて皆様をお守りいたします」
「そっか。用意が良いな。じゃあ、そちらはすべて信吾に任せるよ。俺は町の検分と、二人の相手に集中するわ」
「はっ」
「ああ。あと念の為に、爺さんか伝七郎にこの事を伝えてきてくれ。一言もなしに千賀を連れ出すのは、流石に不味い」
「そちらは大丈夫です。菊殿から相談を受けた時点で、伝七郎様に相談いたしましたので。私がここにいるのは、伝七郎様の指示でもあります。『宜しくお願い致します』との事です」
まったく……。
「本当に用意が良い。わかった。じゃあ、宜しくな」
「はっ、お任せ下さい」
「何をさっきからコソコソ話をしておるのじゃ? はやく町に行ってみたいのじゃ」
いきなり横から、そう声をかけられた。
額を付き合わせるようにして話していた俺たちを、千賀が見上げていたのだ。つい先程までお菊さんの側で遊んでいたというのに、なんたるワープ幼女。
「あ? あー、いや、なんでもないぞ? な、信吾」
「ええ。今日は宜しくと頼まれていただけです、姫様」
信吾も俺の言葉に合わせてきた。
「むー、そうなのかや? では、妾からもよろしくたのむぞ。よきにはからうのじゃ。たのむぞ、しんご」
「はっ。お任せ下さいませ、姫様」
千賀にとって、こんな機会は滅多にないのだ。そして、どうせ無理をするならば、警護だ何だと窮屈な事を言わずに、存分に楽しませてやりたかった。
どうやら信吾も同じ考えらしい。細かい事は何も言わなかった。それは自分らが気にしていれば良い――そう思っているのだろう。
俺は信吾と話をしている千賀から目を離し、お菊さんの方を向く。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
お菊さんも、俺らの考えは十分に察してくれているようである。千賀の事に関して何も言及してこなかった。