第百二十話 そうだ デートに行こう でござる
「何をしてたのじゃー。おそいのじゃ」
俺たちが当主の間に着くと、我らが姫様はむくれてござった。
いつも、いざ習い事が始まるとすぐに「もうやーなのじゃ」と文句を垂れ出す癖に、今は待たせるなと膨れてござる。ほったらかしになっていたので、退屈だったというだけではあろうが。
いずれにせよ、なんつー我が儘なガキじゃあ――という事である。
しかしお菊さんは慣れたもので、千賀の我が儘はすっと流し、
「申し訳ございません、姫様。武殿にお薬を塗っていたのですよ」
と、先程まで俺の治療に使っていた薬箱を千賀に見せた。
千賀はその箱を見て、小さく「ううぅっ」と唸ると、とっても嫌そうな顔をして、「お薬はしみるから、やーなのじゃぁ……」と呟いた。
先程までの膨れっ面はどこにいったのか、聞かれてもいないのに「今日はどこも怪我などしてないぞ。本当に本当じゃぞっ」と必死な顔をしてお菊さんに訴えていた。
まあ、分からないでもない。あれはゲキ染みる。子供は嫌がるだろう。
が、これは愚策だ、千賀。お前……、どっか怪我してるだろ?
子供らしいと言えば子供らしいのだが、必死な千賀の様子は口から放たれる言葉に背き、明確にその事を白状していた。
ざっと頭の先から足の先まで目を走らせる。ぱっと見では、どこも怪我をしていないように見えた。おそらくは小さな傷程度なのだろう。
お菊さんも千賀のこの態度には気がついたようで、「そうですか」と口では答えながら、俺よりももっと念入りに、注意深く千賀の頭の先から足の先まで、視線を動かしていた。
ただ、その結果出した結論は俺と同じだったようで、そのまま放置する事にしたようだ。無理やり治療をする程ではない――と判断したのだろう。
そのまま話を変えて、
「では、姫様。そろそろお習字を始めましょう」
と、千賀を促した。
流石だった。千賀の扱いに関してキャリアの差を感じずにはいられない。
千賀は渋々といった感じで、
「むー、わかったのじゃ」
と答えた。
その顔には、『お習字は嫌です。でも、お薬はもっと嫌です』と書いてあった。
お菊さんは部屋の隅に置いてあった文机を部屋の真ん中に移動させる。すると、今まで一緒にいて千賀の相手をしていた婆さんは、部屋の隅へと移動した。
選手交代である。
そして、「さあ、姫様」とお菊さんはもう一度千賀を促した。
ここまで来ると、千賀も覚悟が決まったようだ。もう嫌がる素振りもなく、大人しく机の前に座る。
お菊さんによると、こうして俺が一緒に字を習うようになる前までは、始めるのはもっと大変だったそうだ。毎度相当にごねていたようである。
だが最近は、そこまで嫌がらなくなったと嬉しそうに話していた。
お菊さんが運んできた千賀の机の横に、俺も机を持ってくる。一緒に習うようになったので、俺用の机も一緒に置いてあるのだ。
そして、千賀と並んで座る。
お菊さんは、俺と千賀の間に座っていた。婆さんは、咲ちゃんら他の侍女衆と共に部屋の隅に控えている。つか、ありゃ一服しているな。自分主体の子守の時間から解放されて、やれやれといったところのようだ。
さて、折角習っているわけだし、俺も集中しよう。筆記具そのものをどうこうする事も考えてはいるが、筆も使えなくては困る事も出てくる。乗馬に並んで、これも必修なのだ。やるしかない。
お菊さんに指導をして貰いながら、何枚かの紙を真っ黒にするまで、つらつらと筆を走らせた。
んーむ。恐ろしいくらいに”ど下手くそ”だな。文字は太く、寸胴で、止めも払いもどこにあるのか分からない。びっくりするくらいに拙い文字だった。
もう何枚目かの真っ黒になった紙の上から文鎮を動かし、ぺっと後ろにやる。俺の背後には、俺に書かれたばっかりに無残な姿を晒している紙達が恨めしそうにしていた。
紙も貴重品である。つか、それでなくとも資源は大切にしよう。あちらの世界の二十一世紀に生きていた人間として、そうありたいと思う。
だから、とりあえず次こそは、もう少し見られる物を書こう。
俺は再び神経を集中した。
目の前には再びセットした真っ白な紙。擦られた墨は、硯の中にまだたっぷりと残っている。
あとは書くだけだ。
て――――――。
心を研ぎ澄まし、さっと筆を走らせて行く。
再び文鎮を外し、紙を持ち上げてみる。
先程とあまり代わり映えのない『いろはにほへと』がありました。
部屋の隅にいる侍女衆達の方から、小さく「ぷっ」と吹く音が聞こえてきた。
もうね。笑いたければ笑うがいいさ。つか、自分でも笑えてくるわ。なんで俺は、ここまで下手なんだ?
お菊さん曰く、「力の入れ方と抜き方からしてなっていません」との事だ。
そうはおっしゃいましても、この腕が言う事を聞いてくれないんですよ。
背後で散らかっている紙の中から一枚を取り上げ、横に並べて見比べてみる。
いやいや、捨てたものでもありませんよ。ほら、この『ろ』も『ほ』も、なんとなく今書いた奴の方が見栄えがいいじゃありませんか。……相変わらず、のっぺりとはしてはいるが。うん、バランスはこっちの方がいいよ。よくなっている。ちゃんと上達しているよっ。
俺は、そう自分で自分を褒め称える。
ぶっちゃけ、そうでもしないと心が折れそうでした。
なぜなら――――。
「書けたのじゃっ!」
横で子供の甲高い声が響く。
「あら。とてもうまく書けましたね、姫様。お上手ですよ」
お菊さんは、両手を合わせて上機嫌だ。
ぐっ。
そう。これが原因である。
そしておそらくは、俺と一緒にやるようになってから、千賀が前ほど習字の時間を嫌がらなくなったという理由でもあった。
毎度の事ではあるが、俺は大変屈辱的な思いをしている訳である。
千賀は書き上がると、まずお菊さんに見せる。先生役なのだ。妥当なところだろう。
しかしそれを褒められると、
「どうじゃ、どうじゃ。たけるっ。すごいじゃろっ」
と、まあ、ものすごいドヤ顔で、それはもう誇らしそうに、俺に見せる訳ですよ。
そして、だ。
ここが重要なところなのだが、真に、ま・こ・とに遺憾な話ではあるのだが、数えで五歳の幼女の書いた字の方が、どう見ても俺の書いた文字より上手いのである。発作的に首の一つくらい吊りたくなっても何も不思議ではない、哀しい現実だった。
そんな、このところ日課となっている屈辱を今日も味わいつつも、俺は字の練習というか筆の練習に精を出す。
このままでは実務に支障が出る以前に、大人としての威厳を保てなくなりそうだからだ。俺としては、こちらの方が由々しき問題であると言わざるを得ない。
本来の目的はとりあえず放置中だ。今の俺にとっては、これこそが習字を頑張る主な原動力となっている。
小一時間程続けただろうか。
「今日はここまでにしましょう」というお菊さんの言葉があるまで、俺は頑張った。気付けば、結構な枚数の紙を真っ黒にしていた。
ほっと、息を溜めて吐く。
隣では千賀が筆を持ったまま、「おわったのじゃー」と万歳をして喜んでいた。「墨が飛びますじゃ」と婆さんに叱られている。
これもいつもの事だった。
千賀と婆さんは、二人でやいのやいのとやっていた。
思わず笑みがこぼれる。平和な光景だった。
お菊さんも、その様子を楽しそうに見ていた。
「千賀……、ずいぶん元気になったね?」
俺は、お菊さんにそっと小声で話しかける。
「はい。富山から逃げている時には一日中怯えていらして、正直見ているのがとても辛かったものですが」
「あれで怯えていたの? そりゃあ確かに、今程は元気ではなかったと思うけど……」
お菊さんの言葉に、ちょっと吃驚した。
無論、千賀が取り繕っていたのは俺も気付いていた。しかし、はっきりと怯えと言われる程だとは思ってもいなかった。
「はい。今とは違って怖いのを我慢して、それを私たちに気付かれないようにされていたと思います。我が儘にしても、無理にいつも通りに振る舞おうとするような不自然さを感じておりました。姫様をよく知っている私たちには、それがとても痛々しく映っておりました」
「……なるほど」
ああ、そっか。そりゃそうか。
千賀は両親が今どうなっているかを知らない。賢い子だけに、もしかしたら朧気に感じてはいるかも知れないが、少なくとも理解できてはいない筈である。
そういう意味では、追っ手から逃げていた時も今現在も変わらない。
だが今は、少なくとも身を落ち着ける事も出来ずに追われるストレスからは解放されている。それにあの時は追われている最中でどうにもならなかったが、今は生臭い話からは遠ざけるようにもしている。それと、爺さんの存在か。
未だ両親に対する不安からは解放されてないものの、とりあえずこれらの分の差は明確にあった。そして、それらが千賀の胸の痛みを和らげている。そういう事なのだろう。
急にこの世界に飛び込んできた俺では、そこまでの千賀の様子の違いには気付く事ができなかったが。
「…………」
そんな事を考えながら、俺から視線を外して再び千賀の方に目をやっているお菊さんを、俺は眺める。
「でも今は、武殿や皆さんが頑張って下さっているおかげで、姫様も少しは安心してくれているようです。私はそれがとても嬉しい」
視線は千賀の方に向けたまま、お菊さんはぽつりとそう呟いた。
ああ、やっぱり妹が可愛くて仕方のないお姉ちゃんなんだな――と思った。
いつも通りの優しげな眼差しで、今も千賀の事を見守っている。
そして俺は、そんな彼女の表情がとても好きだった。無論、いつぞやの夜に俺へと向けられたあの表情も俺の宝物だ。でも、俺じゃなくて、千賀に向けているこの表情も、俺はたまらなく好きだった。
なんというか、とても柔らかくて、暖かくて、そして他のどんな時よりも優しげで――――。
本当に『良い女』だと思った。
そして、ふと大事な事を思い出す。
町を見に行こう――――と。
そうだよ。そうだ。そろそろ落ち着いてきたし、警邏も軍務の一つだしな。計画組むのにも、一度生の町を見ておく必要があるだろう。つか、それがなくても、単純な好奇心としてそろそろこの町を見てみたいし。何より、折角お菊さんにデートの約束をとりつけてあるってのに、話が立ち消えにでもなったら泣くにも泣けん。
俺も男ですから。良い女を感じれば、すぐにそういう良からぬ事も考えてしまう訳で。
「お菊さん、お菊さん……」
まだ千賀の方を見ていたお菊さんに、先程以上に小さな声で呼びかける。
こんな話を婆さんに聞かれて、からかわれてはたまらん。どうせバレるだろうが、せめて終わった後にして貰いたい。
「はい?」
小さな声だったのだが、お菊さんはすぐに気付いてくれて、こちらを向いてくれた。
それを見て、俺が手元を口に当てる仕草をすると、真っ直ぐに座っていた体を少し傾けて、耳を寄せてくれた。
その時、ふわりと動いた空気が、彼女の香りを運んでくる。
香か何かだろうか。それほど強くはないけれど、確かに甘い香りが鼻をくすぐった。
思わず頭が痺れそうになる。そんなに強い香りではないのに、その香りは俺の脳から正気を奪いそうになった。
が、なんとか堪えた。目的がなかったら、ちょっとヤバかった気がしなくもない。
「ん、あ、コホン。あ、あのさ」
「はい」
「お菊さんって休みとかあるの? ほら、この前言った町見物。そろそろ行こうと思うんだ」