第百十九話 惚れた娘に手当てをしてもらっても、痛いものは痛い でござる
朝食を終えると、俺は与平や源太を探す事にした。信吾は多分まだ来ていないだろう。
この二人は、俺が館に居着いてしまった事もあり同じ流れで居着いていた。それぞれに割り当てられた部屋で今も生活している。
伝七郎も館住まいだ。
富山には佐々木家の屋敷もあるかもしれないが、こちらではまだ館を持つつもりはないようだ。奴は若いながらに佐々木家の当主でもある。しかし妻を娶るまでは、千賀の世話もあるし、このままでいいと言っていた。幾人かの陪臣も抱えてはいるが、その者らは長屋の方にやったようだ。
その一方で、信吾は屋敷を与えられ、そちらで寝起きをしている。
すでに妻を娶っているので、きちんと家を構えさせようと御用部屋の会議で決まったからだ。住人達がこぞって逃げ出した武家屋敷街に屋敷をもらって、そこからおきよさん共々この水島の館に通っている。信吾の屋敷の場所は、爺さんの屋敷からそう遠くはなかった筈だ。
結果として、館は独身寮みたくなってしまっていた。もちろん、色々と考えてもっとも不都合がないようにしたら、そうなってしまったというだけの事ではあるが。
二人の部屋に行ってみる。が、いない。
顔でも洗いに行っているかと、そのまま井戸の方へと足を向けた。
二人を探しているのは、無論昨日の失敗を繰り返さないようにする為である。
今までも何度も何度も痛感してきたが、やはりこの世界でこの仕事をしていて乗馬が出来ないというのは痛すぎた。本格的に乗馬の練習を始めるつもりでいる。
井戸端に向かって歩いて行くと、思った通り、二人は顔を洗い歯を磨いていた。
近づいて行くと、人の気配に気付いた二人が揃ってこちらを振り向いた。そして俺の顔を確認すると、安心したように軽く笑顔を浮かべて挨拶を寄越してきた。
「あっ、武様。おはようございます」
「おはようごさいます」
俺も、それに挨拶を返す。
「うーす。やっぱ、信吾はまだみたいだな」
「信吾? ええ、今日はまだですね。でも、そろそろ来る頃だとは思いますよ?」
与平が答える。
「そっか、なら――――」
と、俺は言葉を続けようとしたが、その時だった。
「おや、今朝は早いですな。おはようございます」
その信吾が、ここへ来る為の館の小玄関から出て来たのだ。
なんとも空気が読める奴であった。非モテ系のツラの癖に、伊達に既婚ではないなと感心させられた。
「つか、お前らホント動き出すのが早いのな。源太と与平もそうだが、特に信吾。お前だよ。一体いつ頃に起きてんだ?」
こちらの人間は皆、朝日が昇る前から平気で動き出す。最初の頃は、そんな時間に目が覚めるなんて、人間じゃないと思った程だ。
それを知っていたから、おそらくもう起きているだろうと源太と与平の二人を探したのではあるが、ぶっちゃけまだ早朝も早朝である。おそらく今は、六時前くらいの時間である筈なのだ。
にも関わらず、この館に住んでいる源太と与平は兎も角として、武家屋敷街に住んでいる信吾までもがここにやってきている。
故に、尋ねずにはいられなかったのである。俺の感覚は正しい筈だ。
しかし信吾は困ったような顔をして、糸目をさらに糸目にしながら右手を顎に添えた。
「いつ頃と申されましても……。普通ですよ?」
何かおかしい事でも? と言わんばかりの表情だった。
源太や与平もそれにウンウンと同意するように首を縦に振り、「普通だよな?」などと言っている。
あれ? おかしいの俺なん?
俺は何もおかしな事は言っていない筈だ。なのに、場の空気は俺が変という事になってしまっていた。
が、この空気は覆せそうになかった。
こちらでは、恐ろしい程に健全なリズムで皆が日々を暮らしているようだった。ところ変わればという事を、俺がもっと認識するべきだったようだ。
「……もう、それでいいや。つか、信吾も来たなら丁度いいや。――――馬。乗り方教えてくんね?」
最後肝心な部分がボソボソと呟くようになってしまったが、俺はなんとか用件を言う。
だがそれでも、しっかりと皆に伝わったようだ。三人とも何かを思い出すように、「あー」と口を揃えて声を漏らした。そして、
「勿論いいですとも。昨日は散々でしたしね。今後の事も考えると、少しでも早く始めた方がよいかもしれません。我々にとって馬術は必修でしょう。お任せ下さい」
信吾はそう言うと、合点がいったと胸を叩いて快く承諾してくれた。
与平の奴も、「お任せください」と言ってくれた。が、こいつはまた俺をからかうネタができたとでも思っているようだった。ニヤニヤと嫌らしい笑いも浮かべていた。
そして残る源太だが――――、いつになく燃えていた。背後に炎が見えそうな勢いだった。
腕を組み胸を張って立つその姿は、ただでさえデカい奴の体をいつもの五割増しぐらいにして、俺に見せていた。
「……はっ。わっ?! ちょ、ちょっ、ちょおおっ?!」
静先生の超スパルタな馬術指導が続いていた。
信吾は眉を顰めながらも、心配そうにはしてくれている。が、与平は腹を抱えて、ゲラゲラ笑っていやがった。ちくせう。
あのあと井戸端から場所を移し、少々開けた場所へと移動したのだ。ちょうど館の裏手あたりになるだろうか。
そこに源太は自分の愛馬である静を連れてきてくれた。
静は乗り手に教えるのがうまいタイプの馬だと、その時に源太より説明を受けた。信吾や与平も、源太が連れてきた馬が静であるのを見て、なるほどと頷いていた。
もっとも、今ならば俺も、この時の源太が言っていた言葉の意味がよく分かる。
馬に乗り手の意思を伝える動作を『扶助』と呼ぶらしいが、静はその扶助が悪いとまったく言う事を聞かないタイプの馬だったのだ。おまけに乗り役が重心を崩すと嫌がる。戦場ではそれはないらしいが、普段は乗り手を落とす事もあるらしい。
素人の俺は、それを始めに聞いた時、駄馬の素質全開じゃないか――と思った。もっとも、戦場で源太を乗せた静を見ていたから、静が駄馬だとは思わなかったが。それ程に、戦場での静は駄馬とは対極の存在だった。
だがそれでも、素質自体は駄馬だと思ったのだ。
そう思った俺は、素直に自分の抱いた感想を源太に伝えた。すると源太は笑った。そして、「乗ってみれば分かります」とだけ言葉を返してきたのである。
教わる身としては、そう言われてしまうと乗ってみるしかない訳であり……。乗ってみた。
確かに源太の言う通りだった。
とにかく静は動かなかった。そして背中で俺が焦れてくると、それを見透かしたかのように俺を振り落とした。そのくせ、落とした俺を暴れて踏んだり蹴ったりする事もなく、澄ました顔をしながら、じっと俺の目を見つめるのだ。
しかし、偶然扶助がうまい事行くと、その時だけは指示通りに動くのである。
なるほど――――と思った。
乗り手が、自身の未熟な部分を学ぶには最適な馬だった。
大体な指示では言う事を聞かないし、姿勢が崩れれば落とすという形でそれを教えてくれる。おまけに、馬が小心という訳でもないから暴れない。
戦場で見たこいつも大した馬に見えたが、実際はそれ以上に大した馬だったのである。
それを悟ると、俺は何度も静に挑んだ。が、挑んだ数と同じ数だけ落馬する事となった。
静先生はなかなかに厳しいのだ。
源太は静に挑んでは落されている俺の近くで、色々と助言をしてくれた。信吾は相も変わらず心配そうにはしているが、口を出さすにじっと見ていたし、与平の奴は最初から最後まで笑い転げていた。
信吾も与平も、静の事はよく知っているようだった。
だから何度落馬をしても、どちらも先日のように危ないから止めてくれとは言わなかった。最後まで見守っていてくれていたのである。
「あてて……」
結局、昼過ぎまで訓練を続けた。
勿論、一度もまともに乗る事などできなかった。とはいえ、諦める訳にもいかない。信吾も言っていたが、俺の立場では騎乗技術の習得は必須なのだ。
源太も、「一日やそこらでどうこうなるものでもありません。これから毎日やりましょう」と言っていた。
分かってはいた事だが、やはり地道にこつこつとやっていくしかない様だった。
俺は、「今後も宜しく頼む」と三人に頭を下げ頼んだ。そして全身の打ち身、擦り傷に顔を顰めつつ、普段使っていない筋肉を使ってへろへろの足腰を動かしながら、自室へと戻る事にしたのである。
当たり前だが、まだこれで終わりではないのだ。俺にはやらねばならない事が山のようにあるのである。
しかし部屋に戻ると、流石に緊張の糸が切れ体の疲れもどっと増してくる。
この後は筆を使う訓練――習字の時間だ。
こちらの方は今日が初日と言う事もなく、東の砦から戻ってきて以降続けている。字が書けなくてさんざんお菊さんに世話になっている身としては、やらない訳にはいかなかった。だから砦より戻ってきてすぐに、お菊さんに頼んだのだ。
習字の後にも、軍部の事務仕事がある。
まだまだ一人では碌に字も書けない俺を、引き続きお菊さんがサポートしてくれる予定となっているのが救いではあるが、それでも中々に大変なのである。ただ判子をぽんぽんと押していればいいだけならば楽なんだけどなあと思う事も、もうすでに日課のようになっていた。
やらねばならない事が一杯だった。
だが結局、少し畳の上で大の字になる事にした。休むのも仕事の内なのである。
もう間もなくお菊さんが呼びに来てくれる事になっているので、ほんの一時の休息ではあったが、ほっと一息をつく。体がとても喜んだ。
ぼうっと天井の木目を眺める。
「まったく……未熟だなあ」
ぽつりとそう言葉が漏れた。
当然と言えば当然の結果だったが、やはり悔しかった。それなりに運動神経には自信があったのに、まさに手も足も出ずだったのだから。
そんな事を思いながら畳の上で横になっていると、部屋の外から声がかけられた。
「武殿。菊です。入ってもよろしいですか?」
予定通り、お菊さんが俺を呼びに来てくれたようだ。
この後の筆の訓練は、これまた屈辱ではあるが、千賀と共に当主の間で教えて貰うのである。そう、数えで五歳――要するに四歳児と一緒に字を書くお勉強なのである。
「もちろん。どうぞ」
「失礼いたします」
俺が返事をすると、お菊さんはそっと襖を開けて中へと入ってきた。
俺も、痛む体を無理やりに起こす。
すると、ただ呼びに来た筈のお菊さんは、何やら箱を抱えていた。その箱は、お菊さんが丁度一抱えに出来ている程度の大きさだった。
「あれ? それは何?」
好奇心に負けて、俺はそう聞いてみる。すると、
「薬箱ですよ。与平殿より、『武様が馬から落ちまくって全身打ち身と傷まるけなので、手当をお願いできますか』と頼まれました」
ぐっ。与平……、ものすごくグッジョブだが、お前はもう少し気をつかわんかい。馬から落ちまくったとか――恥ずかしいだろうがっ。
喜べばいいのか怒ればいいのか、分からなかった。
おかげで顔の筋肉も混乱している。
しかしお菊さんは、そんな俺を無視して部屋の中へと入ってきた。
そして俺の横に膝を着くと、すぐに「さあ、上をはだけて下さいな」と俺の上半身を剥いてしまったのである。
キャア――――ッとか、お約束のギャグを飛ばす間もない。日頃から千賀で鍛えているせいなのだろうか。電光石火の早業だった。
そして、それだけに止まることなく、流れるような仕草で箱から貝殻を取り出すと、その中に入った膏薬を指先に取り、すっと傷の上で延ばしたのである。
しい、染みっ、ぎゃーっ。
塗ってくれた薬が染みるの染みないのって、もう……。俺は涙目になった。
「……痛いです」
「我慢ですよ。ふふ、そうしているとまるで童のようですよ?」
お菊さんは俺の顔を見ると、そう言って微笑んだ。しかし、そんな会話を交わしている間も彼女の指は、緑とも茶色とも言えぬ色の薬と俺の体の間を往復していた。
「この薬はとても良く効くのですよ。私も、武芸の鍛錬などで怪我をした時にはよく使っていました」
俺の体のあちこちにある傷に、優しく丁寧に薬を塗ってくれながら、お菊さんはそう説明してくれる。
本来ならば、ご褒美タイム再びの場面であった。しかし残念な事に、俺はそれどころではない。今も非道く染みる薬に歯を食いしばって耐えているまっ最中である。
まあそれだけに、すんごく効きそうな気はする訳だが。
そうして、ようやく手当が終わる。
お菊さんは上半身が終わると、足の傷もすべて、丁寧に薬を塗ったりさらしを巻いたりしてくれた。
お菊さんに「はい。終わりです」と言われ、俺は着崩れた着物を直す。
なんかすんごく幸せな時間であった割に、我慢の子を続けたせいで疲労感が凄かった。
つか、なんであんなに染みんだよ。あの薬を開発した奴は絶対サドだ。もうちょっと怪我人に優しい薬を作って下さい。お願いします。
が、そんな事を手ずから治療してくれたお菊さんに言える訳もなく……。俺は、ただただ「有り難う」と言うしかなかった。
そして俺たちは、千賀のいる当主の間へと向かう事にした。もちろん習字のお勉強の為に、である。