第百十三話 藤ヶ崎防衛戦 戦勝の宴 でござる その二
「はあっ、はあっ、はあっ……。今回は俺の勝ちだ、与平」
「ぜい、ぜい、ぜい……。やりますね、武様」
不毛な戦いだった。が、それでも俺は懸命に戦った。そして、勝利を得た。
「――――かの?」
荒い息をつき与平と互いに悪い笑顔を向け合っていると、胡座をかいた膝の上にもぞもぞと何かがのっかってきた。
突然の事に何事かと驚く。
が、よく考えてみなくても、今この場にこんな事をするような奴は一人しかいなかった。
むろん千賀である。
お菊さんを信吾に連れ出されて、構ってくれる人がいなくなり暇をもてあましたのだろう。婆さんでは千賀の遊び相手を務めるのはしんどかろうし、お菊さんの他の侍女衆も藤ヶ崎の侍女衆や小間使い達に混ざって宴席の客の世話に回っていた。
「ん? 何だ、千賀か」
「うむ。で、よいかの?」
あ、何が? 膝の上の事か?
「ああ、好きにしろ。でも、大人しくしていろよ。今この無礼者にとどめを刺すから、大人しく待っていろ」
「わかったのじゃ」
「ああ、非道い。なんて非道い言いようっすか。俺らは、ただ武様に沢山呑んでいただきたかっただけなのに……。部下の気持ち、上司は知らず……」
よよ、とわざとらしく泣き崩れる与平。
ええい、キモチ悪い。男がそういう事をやるな。
つーか、お前見てくれ良いし、見方によっては似合ってしまうからホント止めなさい。
「どんな気持ちだよっ。そんな邪悪な気持ちなど、丸めてゴミ箱にでも捨ててしまえっ。真心を君に――――ってのは、お菊さんみたいなのを言うんだ」
ビシッと指差す。
お菊さんは困ったような笑顔を浮かべながら、黙って俺たちの戦いを見守っていた。
見ろっ。笑われているじゃないか。
「まあまあ。武殿、落ち着いて下さい」
伝七郎がそう言って、与平のフォローに入ってくる。すると、それまで沈黙を保って我関せずにいた面々までもが続々と割って入ってきた。
「そうですよ、武様。ここは一つ、呑んで笑いましょう」
源太は、相も変わらず空気を読んで空気を読まない事を言い出す。
「はっはっはっ。菊殿の酌で呑めるなど、これ程男冥利な事などないではありませんか。綺麗な女子に注がれる酒はいつもの倍は旨い。ささ、存分に呑んで下され」
おう。だから、それに異議はねぇよ。だが、俺が言っているのはそういう事じゃねぇんだってばよ、信吾。
「まったくだ。少しは落ち着かんか」
そして、爺さんまでもがそんな事を言う。
何、この完全にアウェーな感じ。もしかしなくても俺孤立してる?
次郎右衛門や又兵衛にしても何も言ってはこなかったが、ただただ楽しそうに手酌酒を楽しんでいるだけで、こちらを助けるつもりはまったくないらしい。
「あれ? 悪いの俺なん?」
「そりゃそうじゃ。それとも何か? ぬしは儂の娘の酌では不服だとでも言うつもりか?」
爺さんは手にした酒杯を呷ってニヤニヤと悪い笑みを造りながら、そんなとんでもない科白で俺を脅して来やがりました。わざとらしくすごむ仕草よりも、その科白自体の破壊力の方が半端なかったとだけ言っておこうと思います。
つか、爺さん。あんた、明らかに分かっててそれ言ってるよね?
俺は、喉からその言葉が漏れ出そうになるのを必死で堪える必要があった。
何せ目の前に、「また父上はそんな言い様を……」などと言っているお菊さんがいるのである。
男に男の誇りがあるように、女にも女の誇りという物があると思われる。惚れた女に恥をかかせるような真似など出来る訳がなかった。
ジジイにこの科白を言われた時点で、勝敗は決してしまっていたのだ。折角先程与平との言い合いに勝利を収めたのに、一転致命的な敗戦を喫してしまった格好だ。まさに局地戦で勝利をおさめたが、戦略で大敗北を喫した感あり――である。
俺ってば軍師なんだがなあ。いかんでしょ、これ。
とはいうものの、事ここに至ってしまっては打つ手などもはや残ってはいなかった。
「む……、ぐ……。ふ、不服なんかある訳ないじゃないか」
「そうだろうとも」
爺さんはご満悦だった。手酌で酒を空の杯に注いでいる。勝利の杯だとばかりに、勝ち誇った笑顔で手の杯を俺の目の前へと持ち上げた。
敗北感に歯ぎしりをしながら視線を上げれば、その先では信吾が親指を立てた拳をこちらに突き出してくる。与平はウヒャヒャと馬鹿笑いをし、源太も珍しい事に鼻で笑うのではなく声を出して笑っていた。
屈辱であった。
つか、お前ら。そんなに俺を酔い潰したいのかよ。
俺は頬を引き攣らせながらも、こんな狂騒の中まだ俺の横に控えてくれていたお菊さんに、そっと空の杯を差し出す。
もう、やけくそであった。
トク、トク、トク――――。
お菊さんは手にした銚子をそっと傾け、俺の杯に酒を満たしてくれた。
彼女の酌で呑める。
事ここに至っては、もうそれだけが唯一の幸せであった。
ああ、もしこれが俺の適量に合わせた酒だったら、ホントもう言う事などないのになあ。
そう思わずにはいられないが。
酒で満たされた杯を口元へと運ぶ。口に含むとカッと熱くなった。
だがこれは、正直酒のせいばかりではなかった。
美人に注がれる酒――確かに旨かった。それも惚れた女に注がれた酒である。旨くない訳がなかった。
酒ではなく、彼女に酔ってしまいそうだった。
お菊さんは馬鹿どもとは違って、決して無理に勧めてくるような事はない。横で静かに微笑み、あくまでも俺のペースに合わせてくれている。
そして俺が話しかけると、それに応えてもくれるのだ。
刻一刻と宴は盛り上がっていき、そろそろ会場全体が狂乱の域に達しようとしている。しかし逆に俺たちの周りには、そんな静かな時間が訪れていた。
三馬鹿も、空気を読んでいつの間にか退散してくれている。爺さんや伝七郎も他に労うべき者たちの下へと向かい、席を外していた。次郎右衛門らもそれに付いていった。
周りに人こそ沢山いるが、いま俺たちは間違いなく二人だけだった。
「いやあ、悪いね。お菊さん。でも、助かったよ」
「皆さん、お酒が回って楽しそうでしたね」
俺のその言葉に、お菊さんは先程までの事を思い出したのか、そう言って笑う。
「まったく。酒の肴にされる方はたまったもんじゃないよ」
俺もいい加減酔いは回っていた。
しかし、この降って湧いた二人っきりの状況に今潰れてはならぬと、必死に抵抗していた。ここで潰れてしまうのは、あまりにももったいなさ過ぎる。
とは言え、呑むだけというのも流石にそろそろ辛くなってきていた。
そして、そう言えば――と、まだほとんど箸をつけていなかった自分の膳の事を思い出した。肉も楽しみにとってある。
色々ありすぎて今の今まですっかり忘れていたが、その事を思いだし自分の膳へと視線を落とす。
すると、顎の下でもぞもぞと何かが動いた。
あー、そういやさっきこっちに来てたな。なんだ。二人だけの世界じゃなかったじゃん。
自分ではまだなんとか意識は保てているつもりだったが、やはり相当に酔っ払っているようだった。
だが今の今まで、よくこいつ大人しくしていたよな。あの三馬鹿よりも余程に空気読んでるじゃん。偉いぞ、千賀。
そう思って千賀の小さな頭を撫でてやろうとした。が、その手が止まった。
はて? これは如何なる事ぞ。まだ一口も食べていない俺の鳥さんが、いなくなっていらっしゃる……。
酔いで朦朧としていた頭が一発で覚醒した瞬間だった。
待て、待て。落ち着け。絞める前なら兎も角、塩焼きの鳥さんが勝手にいなくなる訳がないじゃないか。
探す。
すぐに行方は分かった。つか、一つだけ発見した。千賀が握る箸の先に刺さっていらっしゃいました。
ちょっ。
「ま、待て。千賀っ!」
しかし間に合わず。最後の鳥さんは千賀の口の中へと旅だって行く。
あー。
「んまーいのじゃ。うむ、むぐ。ん? たける、どうしたのじゃ?」
どうしたじゃねぇーだろっ、このガキンチョ。俺の鳥さん、全部食っちまったのかっ?!
皿の上には、すでにそのお姿はない。
つか俺の膳、まったく手をつけていなかったのに根菜の煮物くらいしか残っていなかった。
なんという肉食系幼女。今の今まで千賀が静かだった理由が、とてもよく分かった。黙々と俺の飯を侵略していたのである。
「ちーかー? な、ん、で、お前は俺の飯を食ってんだ? 自分のは? ちょっくら説明してみなさい」
俺は再び引き攣る顔に無理やり微笑みを浮かべて、千賀に尋ねてみる。
お菊さんも俺の膳の惨状を見て、「まあ」と目を丸くしていた。どうやらお菊さんも、俺たちが馬鹿騒ぎをしていたせいで気がついていなかったようだ。
「むぐ、むぐ。ん? 妾のはもう食べてしまったのじゃ。たけるはさっき『好きにしろ』と言うたではないか」
は? そんな馬鹿な。
記憶を探る。酔って呆けてはいるが、それでも必死に思い出そうと頑張ってみた。
だが、記憶になかった。でも確かに、なんか適当に返事をしたような記憶はあった。
なんと言う事だ……。
愕然とした。一方の千賀は、満面の笑みでもっちゃもっちゃと鳥を噛んでござる。とても美味しいらしい。ほっぺに両手を当てて、とても幸せそうであった。
楽しみにしていた久しぶりの肉が……。
諦めきれずに膳の中をもう一度見てみるも、鳥が載っていた皿の上には、脂に濡れて光る笹の葉が一枚載っているだけであった。
今回は宴会だった為、初めから米が配膳されていなかったのが敗因だった。千賀の奴、好きな物だけを思う存分腹一杯食いやがったのだ。
この怒り、どこにぶつければよいのだろうか。
無論、千賀にはぶつけられない。適当に返事をした俺も悪い。千賀はいいよと言われたから、喜んで食っただけだ。怒るに怒れない。
ぢ、ぐ、ぞーッ。
そんな俺の様子を敏感に感じ取り、千賀は不安そうな顔をして尋ねてきた。
「……だめじゃったのか?」
そういや、このまえ拳骨したばかりだっけ。
これは駄目だ。
心の中で血の涙を流そうとも、諦めるしかなかった。
「いや、いいよ……。旨かったか?」
顔で笑って、心で泣いて。それしか言える言葉などなかった。
だが、その効果の程は覿面だった。千賀はとても安心したらしく、パッと表情を明るくした。そして、
「んまかったのじゃーっ」
と元気よく答えたのである。
そうか、そうか。んまかったかー。ぐすん。
千賀の頭へと手をやる。千賀は嬉しそうに目を細めた。
そんな千賀を見ながら、お菊さんは小声で「あ、あの、ごめんなさい」と謝ってきた。千賀の側近中の側近としての謝罪であろう。
「あ、あは、あはは。おk。大丈夫。問題ない」
俺は精一杯の空元気で応えるしかなかった。一生懸命に笑った。
そんなこんなの、色々な事があった宴会だった。最後の最後で自業自得というか非道い仕打ちを受けた気もするが、それでも楽しい宴であったと思う。