第百十二話 藤ヶ崎防衛戦 戦勝の宴 でござる その一
「たっけるっ様っ。ちゃんと呑んでますかあー」
俺は地蔵。俺は地蔵。
「やー、これはいけません。もっと呑まなければ。ささ、その空の杯をお取り下さい。不肖、この鳥居源太。武様への酌をさせていただきます」
不肖なのはお前じゃなくて、お前のそのババ色の心根だ。この馬鹿ちんがっ!
宴も酣――――。始まって小一時間ほどでこの有様だった。
広間の上座で、開宴直後から箸を逆手に必死で料理をかき込む千賀は、それはそれは幸せそうだった。「んまーいのじゃ」と何度も声を上げていた。
今までじっくりと千賀の食事風景など見た事がなかったが、まだ箸をきちんと持てないらしい。
犬食いだった。だが、とても満足そうだった。満面の笑みを浮かべていて、見ているだけで、ほっこりとした気分になった。
そして俺は、千賀が頑張っているそんな姿を眺めながら、注ぎ続けられる杯の酒をちびりちびりとやっていた。
するといつの間にか、伝七郎や爺さんはおろか、次郎右衛門や又兵衛らまでに囲まれていたのである。一人一人から酌は受け俺も返杯していたら、気がつくとそんな事になっていた。
いやあ。俺ってば、酒は言う程嫌いじゃないけど間違いなく弱い部類だし、こんな人数に囲まれて注がれたら簡単に潰れるってばよ。
そう思わずにはいられなかった。つーか、すでに苦しかった。
とはいうものの、男子たる者、そうそう何度も何度も同じ相手に負ける訳にもいかんかったのです。だから、俺も俺なりに頑張った。
そして、その攻勢を見事に凌ぎきったのである。
成せばなる。酒一つでも成長があった。
が、しかし、だ。
その後すぐに三馬鹿の襲撃を受け、勝利は幻と消えたのだった。我が記念すべき初勝利は、いつも通りの敗戦へと一気に成り下がる事となったのである。
俺としては、そろそろ落ち着いて料理を楽しみたかった。逃亡中の食事は言うに及ばず、この藤ヶ崎館で普段食べているものから比べても、今日の料理はご馳走である。品も違えば、皿数も違った。これを楽しまない手はないだろう。
それに何より『肉』である。久々に口に出来る食材だった。肉大好きな俺にとって、皿の上に五切れほど載っている鳥は輝いて見えていた。
まだ手をつけていない。すでに冷えているからという事もあるが、最後の楽しみにとっておいてあるのだ。
いやまあ、この鳥の塩焼きに限らず、宴会が始まってから、碌に物は食えてないけどね。酒はしこたま呑まされているけれど。
おかげで酔いが回るのが早い早い。
しかし三馬鹿は、そんな俺の状況などお構いなしだった。
右から与平に杯を差し出された。左には、すでに源太が銚子を手にスタンバっている。
そしてこの二人のニヤついている顔が、こいつらの目的を如実に語っていた。口で語ってもらう必要などないくらいに。
なんなの? こいつらのこのチームワークの良さは。幼なじみの以心伝心をこんな所で無駄遣いするんじゃありませんよ。
つか、あれだよね。ここには沢山人がいるんだから、他の人間を狙えよ。俺以外なら許すから。空の杯なんて、この部屋の中にはいくらでもあるでしょ。なんで俺のばかり狙うのさ?
さっきの伝七郎たちは兎も角、この二人、いや三人は、確実に俺が酒に弱い事を分かって狙ってきていた。
あれ? そういや、その三人目はどこ行った?
襲撃を受けた時は三人だった。しかし、今は二人しかいない。残る一人姿が消えていた。
どこ行きやがった。あ、いや、いなくなったならそれはそれで――――。
そんな事を考えながら、信吾の奴を探して周囲に視線を走らせる。
すると、突然声をかけられた。
「あ、あの……。武殿? 信吾殿から武殿のお酌をと頼まれたのですが……」
お菊さんだった。
銚子をそっと両手で持ったお菊さんが、困ったような顔をして立っていたのだ。
信吾。謀ったなあぁっ!
その当人の姿はお菊さんの後ろにあった。デカい――熊みたいな体なので、隠れようもない。
つーか、隠れるつもりなんてなさそうですね。してやったりとばかりに、嫌らしくニィッと口を曲げて笑っていやがった。
なんたる仕打ちであろうか。
こいつらには男の情けというものはないのか。
そりゃあね。素面の状態からなら、これは最高のご褒美だ。手を両手で握って感涙にむせび、「有り難う」と感謝の言葉も述べよう。
しかし俺は、すでに限界が近いのだ。
このタイミングでお菊さんを連れてくるとか、鬼過ぎるだろお前。
とは言え、断れる訳がないのである。
他の人間なら兎も角、連れてこられた人間がお菊さんでは、俺には断る事などできなかった。
そりゃそうだろう。惚れた女の子が、わざわざ酒を注ぎに向こうから出向いてきてくれているのだ。男なら断れる訳がないじゃないか。出来る奴は、間違いなくチ○コがもげている。断言できるわ。
俺は立ち上がるしかなかった。たとえこれ自体は奸計であったとしても、彼女自身に悪気などなく、まったくの善意と厚意で俺の下までやってきてくれているのだから。
「あ、あははは。いやあ、お菊さん。わざわざお酌しに来てくれたんだ。お菊さんにお酌してもらえるなんて、俺は幸せ者だなあ」
俺に許された科白など、これ一つしかなかったのだ。
お菊さん、マジ女神。
俺の様子がおかしい事を察してくれたらしく、俺の横にそっと寄り添いながらも、酒を注ぐ速度を調整してくれた。
おかげで随分と楽になった。
酒を注ぐ速度もさる事ながら、お菊さんが酌をしくれているおかげで、他の人間に酒を注がれる事がなくなったからだ。
正義は必ず勝つのである。
当てが外れた三人の顔は、なかなか見物だった。いや、厳密には二人だな。
信吾はいまいち何を考えているのか、その顔から読めなかった。さっきまではからかうような気配満々だったのに、今はもうその気配も消えているし、別段悔しそうでもない。お菊さんを連れてきた本人としては、もう少し悔しそうにしていても良いのではとは思うのだが。
だが残りの二人は、はっきりと考えている事が分かった。与平は露骨に舌打ちをしていたし、源太は肩をすくめて二、三度顔を横に振った。
信吾の様子は気になったが、まあ俺の勝ちとみていいだろう。
そう思うと、喜びの感情も膨れあがってきた。
っしゃあっ。見たか、俺とお菊さんの絆を。
ほんと、コミュニケーションとっておいて良かった。やはり人脈は金だ。
俺は勝利を確信し、攻勢に出る。
「お前ら、これをよーく見ておけ。お酌ってのはこういうもんだ。決して、決・し・てっ。常に杯を満たし続けて、呑め呑めと強要する行為ではないっ」
ビシッとお菊さんを指差し、俺はそう言ってやる。
しかし、与平はめげなかった。
「えー。杯の底を乾かしてはならないってのは、酒の席のお約束じゃないっすかー」
ちいっ。往生際が悪いな、与平。
こうして、俺と奴らとの戦いは舌戦へと移っていった。