第百九話 千賀の部屋にただいまを言いに行く でござる その一
爺さんのその言葉で、祝勝会は三日後に開かれる事となった。
御用部屋での報告を終えた後、俺は直接千賀の部屋へと向かう事にした。
『お話』のお務めを課されてからというものの、ちょっと顔を出さないでいると、千賀はすぐに拗ねるようになったからだ。帰ってきて顔を出さずにいてバレようものなら、百パーセントお拗ねあそばされる事請け合いである。
廊下を進む。奥へと続く扉を、控えていた者たちに開けてもらった。
するとすぐに、咲ちゃんに出くわした。
「えっ? 武様? 東の砦に向かわれたのではなかったのですか?」
俺の顔を見た咲ちゃんは小首を傾げて、そう尋ねてきた。
「そうだよ。さっき帰ってきたんだ。ただいま、咲ちゃん」
「あっ、いけない。私ったら……。申し訳ございません。お帰りなさいませ、武様。姫様ですか?」
俺の答えに納得がいったのか、咲ちゃんはすぐに柔らかい笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらに頭を下げてきた。
うーむ。やっぱ、あのイケメンにくれてやるのは惜しい。なんというか癒やし系? ほんわかとしてて、話しているとこちらまでリラックスできる。
まあ、ご本人様が伝七郎様ラブラブなので、俺にはもうまったく目はないんですけどね。イケメンなんて、死ねばいいと思います。
そんな事を考えていると、咲ちゃんが呼びかけてきた。
「あの……武様?」
おう、いかんいかん。最近忙しすぎて、久々の呪詛だったので、思わず熱中してしまった。
「あ、ああ。おー、あのチビ、顔見せないとすぐ拗ねやがるからな。いらん知恵ばかりつけやがって」
「ふふふ。それだけ武様が姫様に好かれているという事ですよ」
好かれているのかね。我が儘を聞いてくれる便利なお兄さんくらいじゃないかと。
「そうかねー。ほんと最近は我が儘言いたい放題だからな。好きだというなら、もう少しお利口さんにしてくれよと」
俺はわざとらしく溜息などもついて見せる。
咲ちゃんも侍女衆の一人。千賀の事はとてもよく知っている。だから、こういう冗談も言えた。
「まあ、ひどい言い方。姫様は武様に甘えたいだけですよ」
思った通り、流石によく分かっていた。腰に手を当てて、まあっと少し怒ったような表情を咲ちゃんは作った。
「うん、その通りだ」
俺は咲ちゃんのその言葉に満足し、そう言ってニッカリと笑う。すると、咲ちゃんもすぐに笑顔になり、軽く口元を押さえてコロコロと笑った。
あらら、やられたか。
向こうも俺に付き合ってくれていただけだったらしい。
「それで、千賀はいま部屋?」
楽しそうに笑っている咲ちゃんに尋ねた。
「はい。菊ちゃんと貝合わせをして遊んでおられます」
「そっか。有り難う」
「いえいえ、早くお顔を見せてあげて下さい」
礼を言うと、咲ちゃんはそう言ってもう一度軽く頭を下げ、俺を見送ってくれた。
それに応え、俺も手をヒラヒラと振って返す。そして、そのまま奥へと進んだ。
千賀の部屋の前に着くと、控えている侍女に言って障子の戸を開けてもらう。
「おう、千賀。良い子にしていたか?」
そう言いながら遠慮なく中に入ると、咲ちゃんの言っていた通り、千賀はお菊さんと遊んでいた。二人の前に、おそらくはハマグリだと思われる――内側に綺麗な絵が描かれた貝殻が沢山広げられていた。
俺の顔を見ると、千賀はすっくと立ち上がった。そして、てててとこちらに駆けてくる。
過日の惨事が脳裏を駆ける。冷や汗がぶわっと滲み出した。
しかし千賀は、あの日のように全速力で突っ込んでくるような事はなかった。
「おーっ! 武なのじゃっ。もうお仕事から帰ってきたのかや?」
千賀は俺の前までくると、今日はちゃんと止まった。そして、大きな目をくりくりとさせて見上げながら、そう聞いてきた。
「さっきな」
内心ほっとしながら、その問いには短く答える。変わりに、千賀の頭へと手をやって、なでくりなでくりと撫で回してやった。
千賀は、嬉しそうに目を細めた。
最近、できるだけしてやるようにしている事の一つだった。
先程の咲ちゃんとの話ではないが、千賀は最近よく甘えるようになった。それは、ここ藤ヶ崎に到着し爺さんと再会して以降、顕著になっていた。
構ってくれとアピールするようになったのだ。以前は、ここまではっきりと甘えてくる事はなかった。
そして、これには面白い特徴もあった。
相手によって要求するものが違ったのである。
爺さんとお菊さんには抱っこをせがむ。伝七郎には、その背中や足に張り付こうとする。
そして俺には、これだったのだ。
なでり、なでり――――。
しかも、このやってやっての合図を無視すると、盛大に拗ねるのである。大変困ったお子様になっていた。
まあ、しかし、だ。
最近遠慮がなくなってきたせいで困る事も多々あるが、子供が子供らしく甘える様になったのはいい事だと思う。
多少面倒ではあったが、やってやれる限りでは言う事を聞いてやるに限るというものであった。子供には甘やかしてやってよい場面と悪い場面があるとは思うが、千賀のこれはどう考えても前者なのだから。
なでり、なでり――――。
千賀が満足するまで続けてやる。
しばらく千賀の頭を撫でくりまわしてやっていると、俺の手の下で細めていた目を再び大きく見開いた。
「そうなのかや。ならば、お帰りなさいなのじゃ」
そして、元気よくそう言った。いつもの大きな仕草で、ぺこりと頭を一つ下げた。
はは。流石におきよさんやお菊さんらみたいな色っぽいものではないが、これはこれで良い『お帰りなさい』だよな。まさに千賀スペシャル。疲れた体に元気を分けてもらえるような『お帰りなさい』だ。
しかし、だ……。
「はい、ただいま。それにしても今日は愛想振りまきまくりだな、千賀。んん?」
俺は片眉を上げて見せ、腰を折りつつ千賀の目線の高さに合わせてやる。
千賀が元気なのはいつもの事だが、今日はなんというか愛想が良すぎた。そこで、少しばかり問い詰めてみた訳だ。
「な、なんじゃ?」
千賀は正直者だった。「なんじゃ?」と口にしながら、顔にはしっかりと『失敗しました』と表示した。
「千賀ちゃん? 一体何を企んでいるんだい? お兄さんに、ちょっとばかりゲロってみなさい」
そう言ってやる。
だが千賀も、中々に頑張った。あくまでも千賀的には、だが。
目線をあさっての方向に向けて抵抗しようとした。しかし、
「知らん。何もたくらんでなどおらんぞ。お話してほしいなんて、考えていないのじゃ」
とあっさりゲロった。頑張ってはみたようだが、やっぱり千賀は千賀だった。
「ほう……」
思っていたよりは、遙かに他愛のない事だった。
部屋でも漁って何か壊したり破いたりしたのかと思ったのだが、違ったらしい。心底安心した。
いや、待てよ? よく考えたら、俺の部屋には例の大傑作――神森武謹製、お菊さんの裸体画があるじゃないかっ。
そんな大事な事を思い出した。安心してちゃ駄目じゃん、俺。
もしあれを発掘されて、お菊さんに「菊ーっ、きーくーっ。見ろ見ろ、これ菊にそっくりじゃぞーっ」とかニコニコと渡されたりしていたら、今頃大変な事になっていた訳で……。
冗談じゃない。そんな事になったら、余裕で死ねるじゃないか。
その想像だけで、心臓がバクつきだした。胸の鼓動がまるで早鐘のようだ。
だが俺は、なんとか無理やりにそれを押さえつけた。そして何事もない顔を作る。ぶっちゃけ、かなり難儀をしたが。
そんな俺を、千賀は首を捻りながら見上げた。そして、
「どうかしたのかや?」
そう問うてきた。
「な、ん、で、も、ないぞ、千賀。ふは、ふはは」
俺は誤魔化すべく、そんな千賀の頭の上に再び手を置くと、先程よりも強くぐりぐりと撫でまわす事にした。
それ以外にどうしろと。
どう考えても説明する訳にはいかない。他に何も思いつかなかった。
「あう、あう、あう。いーたーいーのーじゃー」
千賀は首ごと振り回されて、あうあうと文句を言っている。
が、聞く訳にはいかなかった。
許せ――と心の中で一つ詫びる。お前の犠牲は無駄にはしない、と。