第百八話 実質、軍務のトップに立つ事になってしまいました でござる
藤ヶ崎に無事到着した俺と信吾は、兵を解放するとすぐにその足で伝七郎の下へと報告に向かった。
廊下を何度も曲がり進む道中、おきよさんがきょろきょろと周りを見ている姿を見かける。
彼女はこちらを見つけると、ぱっとその顔に華を咲かせた。見るからに、とても嬉しそうだった。少々息を弾ませているところからも、俺たちの到着を知り、慌てて探しに出て来たのだろう。
しかしすぐに、その喜びの表情は安堵の表情へと変わる。そしてついには、目を潤ませた。
だがおきよさんは、すぐにすっと背を伸ばし、信吾に向かって「おかえりなさい」と深く頭を下げた。元々綺麗な彼女ではあるが、その時の表情は、人妻ながら思わず惚れてしまいそうになる程によい顔をしていた。
信吾も少々照れくさそうにしながらも、優しい目をして「ただいま」と返している。
正直、先日の嫉妬モードとは別に、目の前の二人をうらやましいと感じた。もし、自分も所帯を持つ事になったら、こういう夫婦になれるといいと思った。
おきよさん……。「無事ならいい。こき使ってやってくれ」などと言っていたが、本当はすんごく心配してたんだろうなあ。
俺は信吾に、
「報告は俺がしておくよ。お前はここにいろ」
とだけ伝えて、先に行く事にした。
このままここにいても、信吾を急かしても、俺には馬に蹴られる役しか与えられないだろう。
源太に「馬に蹴られるのは、周りの状況をしっかり把握できていないからです」とか、分かっているようで全く分かっていない忠告でもされたら、今なら俺は全力で泣く自信がある。そんな事になったら、俺のガラスのハートは粉々ですよ。
それは回避しておかねばならなかった。
だが信吾は、「いや、それは……」などと往生際の悪い事をぬかす。
だから俺は言い直す。
「命令です」
今の俺にはなんの権限もないので、むろん強制力のある命令ではない。が、これまでに重ねた『実績』が、多少はものを言ってくれるのだ。『命令』はできた。
信吾は、こちらに向かって軽く頭を下げてくる。
俺はそれに手首をひらひらと振って応え、その場を去る事にした。
なお、視線を前方固定にする事も忘れなかった。やっと秋が深まってきたばかりだというのに、背中はなぜか真夏に逆戻りをしていた。
伝七郎のいる御用部屋近くに行くと、今日も警護の者たちが何人も控えていた。
俺の顔を確認すると、その者らは皆一様に頭を下げた。
そんな彼らに片手をあげ応えながら、俺はそのまま部屋への道を進んだ。
「よう、伝七郎。今戻った」
部屋の前まで着くと、控えていた小姓に襖を開けてもらった。
俺は、ずかずかと遠慮なく入っていく。
伝七郎の周りで仕事をしていた者たちは、そんな俺を確認すると、先程の警護の者たちと同じように皆頭を下げてきた。
これにも俺は、同様に応える。
多少慣れてきた。つか、慣れないとやっていられない。
そして伝七郎の机に近づくと、奴は顔を上げた。書き物をしていたようだ。そして、いつもの微笑みを浮かべた温和な顔で言葉を返してくる。
「随分と早いお戻りでしたね。しばらく向こうにいると言っておられませんでしたか?」
「おう。そのつもりだったんだがなあ。信吾や残していった兵が優秀すぎてね。向こうに着いてみたら、ほぼそのまま作業を引き継いでもらえばいい状態だったんだよ。おかげで、俺があちらにいる必要もなくなってな。さっさと帰ってきた」
そして奴の机の前まで来ると、俺はどかっと胡座をかいた。
「ほう、それはそれは。信吾のお手柄ですね。っと、あれ? その信吾はどちらに? 今回は信吾も帰ってくる予定ではありませんでしたか?」
伝七郎は少し上目をするようにして考え込むと、視線をこちらに戻してそう尋ねてきた。
「おお、一緒に戻って来ているぞ。さっきまで一緒だった。が、ここに来る途中でおきよさんに会ってな。命令して置いてきた」
「ああ、なるほど。そう言う事ですか。彼女、気を張って頑張っていましたが、時々寂しそうな顔をしていましたから……。それは良い事をなされましたね」
流石によく見ている。
俺はその伝七郎の言に頷き、
「そういう事。俺も馬に蹴り殺されたくはないからな。ちょいとばかりの気配りって奴ですよ」
と肩をすくめて答えて見せる。
それを見て、伝七郎は笑った。そして、
「はは、そうですね。大変結構な事かと。では、我々で仕事の方は片付けておくとしましょう」
と、信吾がこの場にいないのをいい事に、俺と一緒になって好き勝手言いたい放題である。
それは承知していたが、反省する気は俺には微塵もなかった。伝七郎もないだろう。
そして一通り笑った後、俺たちは報告会を開始する。
「おう、そうするとしよう。まあでも、それ程いま報告すべき事はない。戻ったという連絡が主だ。細かい報告は、後で書類を出すからそれを見てくれ。とりあえず、俺の口からお前の耳に入れておかないといけない話は――――」
そうして、俺の方からの報告が終わった所で、伝七郎が思い出したように口を開いた。
「ああ、そう言えば。次郎右衛門殿の三沢の町の奪還は、無事完了したそうですよ。武殿が東の砦に行っている間に報告が届きました」
三沢の町まで奪い返せたか。完璧じゃん。先に落した真北の二水、北西の須郷と合わせて今回の北東の三沢――これで藤ヶ崎の町は、対継直の北部戦線からは完全に外れる。
考え得る最良の結果が出ていた。
「おお、次郎右衛門殿もすごいな。流石は爺さんの懐刀と言われているだけの事はある。それで?」
「ええ。こちらに連絡を寄越した段階で、すでに周辺の村落もこちらへ恭順させ終えたとの事でした。これで北方戦線は、藤ヶ崎の鼻先からは離れますね。それになにより、今回の奪還作戦の成功により、北から北東にかけての二町六村、北西方面の一町八村が新たに私たちの領土に加わります。今後も続く継直との戦いを考えると、これは大きい。まさに値千金の成果です。武殿、本当に有り難うございました」
「計三町十四村か……。思いのほか良い成果だったな。無理を押してやった甲斐もあったというもんだ。次郎右衛門殿や源太、与平が頑張ってくれたおかげだな。ただただ感謝感謝だね。――――これでもまだ足りないと言えば足りないが、贅沢を言い出すとキリがないからな。今までと比べれば、随分と先々が明るくなった。とりあえずは、それで満足すべきなんだろうな」
「はいっ。格段に違う。まだまだ足りないとは言え、今回の成果のおかげで、何をするにせよ打てる手の幅は格段に広がります」
「そうだな」
伝七郎は本当に嬉しそうに、届いた報告をそう語って聞かせてくれた
この他にも、継直軍が戦線を回復しつつあり当面の奪還作戦はここまでになりそうだという事や、北の砦から兵を連れて逃げた三森敦信が金崎領に戻ったらしい事なども、伝七郎は教えてくれた。
最初の報告以外は決して嬉しい報告ではなかったが、それでも伝七郎はすこぶる上機嫌だった。
それ程に、今回の逆撃の成功が嬉しかったようだ。まあ確かに、今の俺たちにとって今回の作戦の成功は、実入りが大きかったのも確かだ。奴の言う通り、先々の展望の開け具合が、奪還作戦前とは段違いに変わっている。
そんな事を考えていると一人の小姓が、
「永倉平八郎様、お見えです」
と伝えてきた。
「お通しして下さい」
伝七郎が、それに応える。
「はっ」
小姓はそう返事をして、入り口の襖の方へと早足で戻っていった。
するとすぐに、入り口の襖が開かれた。巻いた紙らしき物をいくらか抱えた爺さんが、中へと入ってくるのが見える。
「おう、小僧もおったか。随分と早い帰りだったな」
「ああ、爺さん。ただいま。兵たちが優秀すぎてね。俺がいてもいなくても大して変わりなさそうだったから、さっさと戻ってきたよ」
「ほう、それはすばらしいな。ここから出した兵たちも、ちっとは使えたか?」
「もちろん。俺たちが率いてきた兵たちも勿論だが、兵の質ならうちは他所には負けていないだろうな。少なくとも、俺が戦ったどの継直の兵にも負けていない。願わくば、この質を保ったまま数を増やしたいところだ」
「はは。それが難しいのよ。とは言え、難しくともやるしかないがな」
「だな」
俺とそんなやり取りをしながら、爺さんは俺の隣にどっかりと胡座をかいた。
そんな爺さんだったが、どこか嬉しそうに見えた。やはり手塩にかけて育てた兵を認められるというのは、将にとってはとても嬉しい事のようだ。
爺さんは腰を落ち着けるとすぐに、
「小僧も一緒にいるなら丁度よい。例の『検地』だったか? それと農村の『戸籍』の作成な。一応それぞれの部署の立ち上げの準備と、配属する役人の選抜だけは済んだぞ。その報告じゃ」
と言いながら、巻き止められた紙を何巻か伝七郎に渡した。
おー、腰が軽いな。あれもう動かしたのか。
このまえ伝七郎と仕事の分担について話し合った時に、ちらっと話した内容についての事だったのだ。
基本俺の知識はすべて上辺だけの知識であり、深いものはない。何かの専門家だった訳でもなく、ただの高校生だったのだから当たり前と言えば当たり前である。
それ故に、何をする事になるにせよ、俺は仕事をしようとすれば一から学ばねばならない人間だった。
つまり、何をするにしても零からの出発となるのである。
だから俺は、自分でやると決めた軍師の仕事に集中する事にした。
とはいえ、これが無謀である事は自分でも理解していた。しかし他のどんな仕事だろうが、似たようなものになると思われた。
どんな仕事を選ぼうと、一番下から経験を積ませてくれるとは到底思えないからだ。
とりあえず、僅かでも経験を積んだものに縋ったようなものだった。
それに、一側面としてはアイデア勝負に持ち込める仕事ではあるし、なにより一度しか使えないとはいえ、オタ知識で偉大な先人の知恵を拝借できるのは大きい。今となっては、かつての厨二な日々に感謝したい思いで一杯である。
知識に無駄なものはなし――――。
俺はそれを今実感していた。それが例えオタ知識であろうとも、こうして十二分に役に立ってくれているのである。
とはいえ、オタ知識を補助輪にして軍務に励もうというのも大概だとは思うが。
されど、この世界はあちらの世界よりも厳しいのだ。
働かざる者食うべからず。我らが水島家も例外ではなく、ニートを飼っておける程に裕福でもなければ、ゆとりもなかった。真に残念な事に。
だから、
「武殿には何を担当していただきましょうか。ご希望などはございますか?」
と伝七郎さんに尋ねられた時に、それなりの覚悟を込めて、
「これからも軍務に励もうと思います」
と、俺にしてはきりりと引き締まった顔を作って答えましたとも。
すると伝七郎さんは、
「わかりました」
と、二つ返事でそれに答えられました。
ここまではよかった。
しかし次の瞬間、伝七郎さんは筆を走らせました。
軍政の二番目――一番上が伝七郎である事を考えると、実質の総責任者として俺の名前を書きやがったとです。
どうしてこうなった?
と、俺が思ったとて、一体誰が俺を責める事が出来ようか。
俺は「軍務に励む」と言っただけなのに、なぜか軍政全部を投げ渡されるという仕打ちを受けたのだった。
俺は大いに凹んだ。
だが、それはとりあえず置いておく事にした。(ほらみろ。やっぱりお守り役だけではすまんかったじゃないか)と思った事も置いておいた。
俺は強い子だから。例え太陽が滲んで見えようとも、空を見上げて生きていこうと思った。
よくよく諦めては駄目だと言われるが、世の中諦めなくてはやっていられない事の方が多いのである。
まあ、つまり、だ。その結果、政務は伝七郎、軍務は俺という構造が出来上がった。
だから政務関連は、基本的には俺が手を出す必要はなくなったのだ。
とは言え、俺のオタ知識はなにも軍略に限るものではなかった。軍略の知識同様に浅く広くではあるが、多岐に及んでいた。
かつての厨二な日々における俺の妄想は、なにも戦場に限ったものではなかったのだ。
時に神となり、時に無人島に漂流した人物になり、時にテロリストに襲撃される学校の、異能を隠して平凡を装っている学生になっていたのである。
その妄想を補完する為に必死こいて溜め込んだ知識は、当然多種多様なものであった。
そして、だ。俺は有能な政治家にもなっていた。NAISEI万歳だった。だから、スゲーできそうな政治についての知識も当然ネットの海を漁っていたのだ。
これを使わないというのは、現状の水島家の状態を考えると、余りに勿体なかった。
その為、その知識を伝七郎に伝えて、奴にトライアンドエラーをしてもらおうと思ったのだ。
そうしてみると、今回決まったこの役割分担は存外悪くないかも知れないと思えた。我ながら現金なものである。
なにせ伝七郎らにはこの世界の知識があるのだ。
と言う事は、この世界に合うように俺の知識を適切に加工して使ってくれるだろう。同じトライアンドエラーをやるにしても、効率がいいかもしれないと思えた。
となると、政務関連のものの方が、よりこの世界に合うような加工を必要とすると思われる以上、この役割分担を歓迎するべきだと思えたのである。
もしかすると、俺があちらの世界の先入観で試し続けるよりも、ずっと良い結果を生むかも知れない――――と。
だから、とりあえずは雑談程度のものではあったが、この水島の政治に移植するといいと思われるような事柄を思いつくままに語っていったのだ。
そしてそれらの話の中に、今回爺さんが報告書を持ってきた『検地』と『戸籍』があった。
この話の流れだと、伝七郎が『検地』と『戸籍』を扱う部署の立ち上げを、爺さんに振ったのだろう。
で、爺さんがその仕事に対して動き始めた――と。
しかし伝七郎の奴、部署の立ち上げから、いきなり爺さんに振ったのか。
どうやらかなり本気で、これに取り組むつもりのようだ。
そう思いながら、俺も伝七郎から回される爺さんが持ってきた報告書に目を通していく。
うん。正確にメリットを把握できている。
細かい部分は、この世界――というか、水島の政に合うように爺さんが加工していってくれるだろう。
これで、検地により収穫量が今までよりも正確に予測できるようになるし、士族だけでなく農民町民の戸籍が作られる事により、各種政策も捗るようになるだろう。収税、治安、軍役などその影響が及ぶ範囲は多岐に及ぶ。いくらでもでてくる。当然その効果の程は、計り知れないものがある筈だった。
どちらも政策として新たに立ち上げるのは極めて大変なものではあるが、やるだけの価値が大いにある政策だった。
「おお、いいんじゃね?」
「はい。この前は大変良い知恵をいただきました。有り難うございます。平八郎様も、こんなに早くどうも有り難うございます」
「うむ。これはなかなかに良い知恵だったの。初めは大変だろうが、後々の実りが大きいだろうて」
「だろ? ただ如何せん俺は細かい事が分からないから、伝七郎や爺さんに料理してもらわねばならない訳だが」
「ふふ。でも、料理しがいのある食材ですよ」
「そうじゃの。これだけの食材だ。出来上がった料理を食わせて、料理人の腕が悪かったなどと言われんように、しっかりと調理してやるから楽しみにしていろ」
「ああ。期待しているよ、爺さん。伝七郎もな」
「まかせておけ」
「はい」
俺たちは、そんな軽口を叩き合いながら笑った。
すると爺さんが思い出したように膝を叩いた。
「そうじゃった。料理で思い出したが、出ていた皆も戻ったし、遅ればせながら祝勝会を開かねばな。むろん、約束通りに儂のおごりじゃ」