第百五話 指きりげんまん でござる
お菊さんの世話で、自室にて飯を食っている時の事だった。
バン――――ッ。
部屋の襖が突然勢いよく開く。
俺も、俺の食事の世話をしてくれていたお菊さんも驚き目を丸くして、その突然乱暴に開けられた襖の方を見た。俺に至っては、あやうく食っていたものを喉に詰らせる所だった。その無礼者の顔を見ずにはいられなかったのだ。
まあ、予想通りの顔がそこにはあった訳だが。
「た~け~る~っ。今日のお話はどんなのかの? きのうもその前も、忙しいってお話してくれなかったのじゃ。今日はお話してくれるって、おやくそくじゃぞ?」
ちなみに、飯は飯でも今食っているのは朝飯である。そしてこの世界の朝飯とは、日の出とともに食うものであった。つまり、今はまだ早朝と呼ぶべき時間だった。
このガキャア、俺の貴重なご褒美タイムをなんと心得てやがるっ。しかも今は、まだ夜明けだ、夜明けっ!
俺はぶち切れかけた。
三日程前の事だ。
茂助らを見送って、いざ防衛計画の作成に取りかかろうとしたのだが、やはり筆が使えない事がネックとなって仕事がまったく進まなかった。
筆以外の筆記具の開発やら、筆そのものに慣れるべく訓練を行う事も当然考えてはいたが、どちらもすぐのすぐにはどうにもならない。しかし俺には、やらねばならない事が山とあった。
そこで、放浪していた時と同様、代筆を使う事を俺は決めたのだ。
ただ、今回の仕事は俺たちの組織にとって極めて重要なものである。それだけに、情報の漏洩だけは絶対に避けなくてはならなかった。
そこで、その考えも含めて伝七郎に相談を持ちかけたのだ。
そうしたら、何がどうなったのかお菊さんが俺の部屋にやってきたのである。
話を聞けば、お菊さんが代筆も含めて、一時俺の秘書官みたいな事をやってくれるという事だった。要するに、代筆も身の回りの世話も担当してくれるという話だったのだ。
とりあえず、俺が部屋の柱に頭をぶつけてみた事は言うまでもない。
まず夢を疑ったさ。だが、しっかり痛かった。現実だった。
以降、死ぬほど仕事を頑張りました。俺にとって、この過酷な労働が、途端に耐えるものから他の何かに変わった事は間違いなかった。
なにせ、向こうの世界で味わい続けた女の子との縁のなさを埋め合わせるかのような、とんでもないハッピーイベント再びなのだ。少々死にそうなくらいで、この権利を放棄する気になどなる訳がなかった。そんな勿体ない真似が出来るほど、女に裕福ではなかったし、また、ないのだ。
貧乏人舐めんな。
これが、全俺の満場一致をみた意見だった。貧者は時にとても強いのである。
以降、俺がどれ程の幸せを噛みしめながら、前向きに仕事に取り組んでいたのか。余人には分かるまいと思う。特にリア充どもには永久に分からない事だろう。生まれてから今までで、一番頑張った自信が俺にはある。
よもや、この様な素敵展開が待っていようなどとは。流石にこの神森武にも、まったく読めていなかったわ。
つい先日までは、やらないとヤバイという焦燥に駆られて仕事をする覚悟を決めていたというのに、死ぬ程大変でも、一日丸ごと紛う事なきご褒美タイムとなった。
こんな展開を用意してくれていた神仏への信頼度が、俺の中で百の内一ほど上がったのは言うまでもない。笑う事なかれ。零はどこまで行っても零だが、神仏への信頼度が俺に発生したという事は、それだけで十分画期的な事なのである。
そんな訳で、以降必死に計画作成に向けて頑張った。当然計画作成はとても捗った。
しかし、である。そうなると、当然他の仕事は出来なくなる。
俺は『お守り役』でもあった。即ち、千賀のお守りもしなくてはならない訳であり、その中には、千賀にせがまれている『お話ししてたもう』なる仕事があった。
それが熟せなくなっていたのだ。当たり前に、そんな時間は今の俺のどこを絞っても捻出する事はできなかったのである。
そうして、千賀の所に顔を見せぬまま一日、二日と経った。
その間何事もなかったので、ラッキーと思っていた。
しかしとうとう昨日の晩飯の最中に、御当主様自ら俺の部屋に乗り込んできたのである。
そして、今日こそは何かお話をすると約束させられたのだった。
で、今目の前にいる千賀は、その約束の履行を求めて押しかけてきている。
俺は開いたままの襖の方を見て千賀の姿を確認する。
そののち視線を戻し、上げかけたままになっていた箸を口へと運んだ。次に米のよそわれた碗を味噌汁の碗へと持ち替えて、汁を啜る。
ん、うまい。
残念ながら今食っている朝餉は厨で皆のものと一緒に作られているものであり、お菊さんが俺の為だけに手ずから用意してくれたものではない。彼女は横に座って、俺の食事の世話をしてくれているだけである。が、それでもうまかった。
「ちゃんとこっちを見るのじゃっ!」
色々となかった事にして食事を楽しもうと思ったのだが、千賀は諦めなかった。そう言うと徐に俺の下へと駆け寄ってきて、俺の顔をわしっと両手で掴んだ。そして、
ゴキ――――ッ。
「あいだ――――ッ!!」
無理やり自分の方へと捻りおったとです。
「だ――ッ、このチビっ! なんつう非道い事をしやがんだっ!」
俺は即座に吠える。
当然だ。筋が嫌な音を立てたぞ。死ぬほど痛い。涙がとまんねぇ。
「たけるが妾をむしするのが悪いのじゃっ!」
激しく抗議をするも、この女童は「知らんのじゃあ」とあさっての方向を向いて取り合う気は零だった。小さく唇をたてて、つーんと言ったもんである。
そこでお菊さんの援軍を請おうと横を見るも、彼女はそんな俺たちを見たまま固まっていた。
襖が開いた時には「まあ、姫様。またそんなはしたない」などいう声が聞こえていたのだが、その後の千賀の実力行使に「あら、まあ……」と言葉を失っていた。そしてそのまま、千賀を迎え入れようと腰を上げかけた姿勢で動きが止まっていたのだ。
これは駄目だ。
俺は諦める。
「……ったく、もう。あいてて」
俺は握ったままだった箸を置くと、千賀の手を顔から剥がす。そして、首に手をやって軽く回してみた。
うん、まあ、大丈夫だな。
思ったよりはなんともなさそうで、何よりだった。死ぬほど痛かったけど。
俺がそんな風に首を回し始めた所で、お菊さんはハッと再起動した。そして、
「あの……、武殿? すみません。大丈夫ですか?」
と、こちらを心配そうに見ながら尋ねてきた。
「お菊さんのせいじゃないだろ? あてて。まあでも、大丈夫。何とか無事だよ」
お菊さんには、無理やり笑顔を作って、そう答える。
それにしても、このチビである。
今以て反省するどころか、腰に手を当てて眉をつり上げていた。こちらを睨んでござる。胡座をかいた俺とは背の高さが釣り合っており、前傾に突きだしているそのちっこい顔は、丁度俺の目の前にあった。
いつもとは視線の高さが違うので、見上げて反っくり返る事もなく、これはこれでなかなか愛らしい。
が、今はそれを愛でる気にはなれなかった。
「で、何の話だっけか」
「おやくそくの話なのじゃっ!」
すっとぼけてみようと思ったのだが、千賀は誤魔化されない。日々成長していらっしゃった。
だが、俺も負ける訳にはいかなかった。
このままでは、まるで千賀が正しいみたいではないか。だから、改めて千賀を諭す事にする。
「わーってる、わーってるって。お話だろ? ちゃんと後で行くから。何もこんな朝早くから襲いかかってこなくてもいーだろうが」
俺は、ごく真っ当な正論をぶったつもりだった。しかし千賀はジト目になって、
「そんなことをいって、さっき何の話だっけっていったのじゃ」
と、ぷうっと頬を膨らませた。
おう……。本当に成長していらっしゃる……。
たくましく日々育っている千賀の姿に、目頭が熱くなった。断じて、童に言い負けて泣いているのではない。
そうして勝利を収めた千賀は、頬を膨らませてふてたまま、胡座をかいた俺の足の間へと入ってきた。勝者の権限とばかりに、敗者の俺を椅子代わりにでもするつもりらしい。
適当に按配のよい所に腰をずらすと、そのまま俺を背もたれ代わりに落ち着いてしまった。
そんな千賀を見て、お菊さんは横で軽く苦笑を浮かべている。それを咎めようとはしなかった。
まあそれだけ、お菊さんも俺の事を信用してくれる様になったという事だろう。さもなければ、大事な千賀を、俺の近くに置いたままにはするまい。
俺としても、別になんて事でもなかった。千賀の小さな体くらい、大して負担にもならない。
ただ――――、このままでは非常に飯が食いづらいだけである。
「はあ。わかった。約束は約束だもんな。飯食ったら、お話ししてやる。だから、もうちょっとだけ待ってろ」
「本当かっ! やったのじゃっ」
俺がそう言うと、千賀はキラキラと目を輝かせながらこちらを振り向き、俺の顔を見上げた。
――っと、と。危ない危ない。
「本当だ。だから、もう少し大人しくしてろって。人の膝の上で暴れるな。危ないだろ?」
とすん、とすんと、人の足の中で腰を跳ねていらっしゃる姫様の頭が、先程から俺の顎とニアミスを繰り返しているのだ。いま味噌汁呑んだら、大変な事になる事請け合いであった。
すると千賀は、「わかったのじゃー」と今度は機嫌良く応じてくれた。先程までのあれはなんだったのだと言いたくなる程、顔もニッコニコである。
まったく子供ってーのはと、若い身空で年寄りじみた事を考えてしまう。
だがよくよく考えてみると、自分の子供だった時も似た様なものだったなあと思い直した。結局、順番なのだ。
そんな感慨を覚えていると、千賀が再び俺を呼んだ。
「たける、たける。あとな、あとなあ」
「んあ?」
「あとなあ、おいしいもの……。ちゃんと覚えておるかや?」
ちょっと不安そうにしながら、千賀がそう聞いてきた。
あー……。そういや、千賀を奥に引っ込ませる為に、そんな約束もしたな。
あまりにも忙しすぎてすっかり忘れかけていたが、確かにそう約束をした。
「おーっ。覚えてる。うん、覚えているよ?」
俺はそうきちんと答えたはずだった。しかし、千賀は再びジト目になる。
「……やっぱり忘れていたのじゃ」
「いや、覚えているよっ?! ホントだよっ」
誤魔化す為に俺は必死になる。
なんでこうも勘がいいんだ。つか、これが女ってもんなのか? こんなチビの内から男の嘘には敏感なのか?
俺は焦った。流石にこれを忘れていたというのは、俺でも気が引けたのだ。
だが捨てる神あれば、拾う女神あり。我が愛しの女神様が、俺を助けてくれた。
「姫様? 武殿はこの所、本当にお仕事が忙しかったのです。どうかご勘弁下さいませ」
俺の代わりに言い訳をしてくれ、千賀へと謝ってくれたのだった。
マジで惚れ直しそうだった。
「ぶーっ」
お菊さんにまでそう言われてしまい、千賀は頬を膨らませた。だが、それ以上その事を言う事はなかった。
千賀は本当に聡い子なので、これ以上我が儘を言ってはいけないというラインはきちんと見極める事が出来る。おそらく本能的にやっている事だろうが、そういうものを確かに感じ取っている節があった。
結局、先程からの一連の事も、ただただ俺に甘えているだけなのである。
だから俺が言うべき事は、これだけでいいだろう。
千賀の頭に手をやって、一つ撫でる。
「あー、ごめん。本当はちょっと忘れていた。でも、今度はちゃんと覚えておく。絶対だ。でも、ちょっとすぐは無理だな……。その代わり、手が空いたらちゃんと作ろう。今度こそ約束だ」
そしてそう言いながら、左の小指だけを立てて、千賀の前へと持っていく。
千賀はそれを見て、コテンと小首を傾げた。
「これはな。俺の故郷での約束の仕方なのさ。こうしてな……」
俺はそう言いながら、千賀の小さな左の小指に自分の指を絡める。そして、
「指きーりげんまん。嘘ついたら針千本飲ーますっ」
と、千賀の耳元で歌ってやった。
突きだした俺の左の小指を見て不思議そうにしていた千賀だったが、俺のその歌を聴くと目を丸くした。そして、
「針を千本もかやっ?! すごいのじゃあ……」
と、思わずといった感じで呟いた。
いや、飲まない為に約束守るんだからな?
何かを勘違いしているとしか思えない千賀だった。