第百三話 千賀のお出迎え でござる その三
その後俺たち三人は、すぐそこでまだ爺さんの首っ玉にしがみついている我らが主の下へと歩いて行った。
すると、甘える千賀の横で苦笑を浮かべながらも暖かな視線を向けていた伝七郎が、俺たちの方を振り向いた。
「そちらの話は終わりましたか? 何やらとても嬉しそうですが」
「まあな」
その質問には適当に答えておいた。といっても、横でお菊さんが気恥ずかしげに頬を染めてしまっているので、どこまで誤魔化せるかは分からんが。
デリケートな時期なので、もう少し遠慮しなさいと、心の中で目の前のイケメンに中指を立てる。
こいつは、モテナイ男にやっと巡ってきたチャンスというものの重みを全く理解していない。これだからイケメンはいかんのだ。
なんにしても、下手な事を言うとドツボにはまりそうな気がしてならなかったので、口を開く訳にはいかない。
何せすぐ側に爺さんもいるのだ。ここで爺さんに、『儂の娘に手を出したのか』などとすごまれたら、俺は確実に泣く自信がある。
だから右の手の平をヒラヒラとさせながら適当に伝七郎をいなし、まだ涙をぽろぽろ零しながら爺さんに甘えている千賀の方へと目を向けた。
「……ひっく、ひっく。もういかないんじゃな? ほんとうじゃな? 平じい」
千賀は何度も何度も同じ事を尋ねていた。お菊さんらと話している時にも、似たような台詞は何度も聞こえてきていた。
「はい、姫様。もう片付きました。今回、儂はもう出て行く用事はございません」
『今回』ね。ホント大人って。
とはいえ、聞かれる度に何度でもそれに付き合ってやっているようだ。爺さんは優しい目をしながら、抱きつく千賀の背中をずっと撫でてやっている。
ははは。こりゃ、駄目だな。いつまで経っても終わりそうにないや。
伝七郎ではないが、俺の顔の筋肉も自然と苦笑を形作った。
まあ、このまま好きなだけやらせておいてやってもいいんだがな。
そう思いながらも、俺は二人の世界に割って入る。せめてここが奥の間ならば、明日の朝まででも見守ってやっていてもよかったのだが、ここは場所が悪すぎた。
俺は千賀の頭の上に手を置きながら、声をかける。
「よう、千賀。ただいま」
すると千賀は、こちらを振り向いた。その丸い大きな目は涙でぐちょぐちょで、目の周りは真っ赤になっている。
あらら。酷い事になってるな。
「た、だ、い、ま、だ。あれ~? 確か千賀は、笑顔でお帰りなさいしてくれる筈だったよな~? 笑顔の千賀はどこかな~? ん?」
俺は戯けながら、そう言ってやった。
すると千賀は今思い出したとばかりに、ハッとして目を見開いた。わざわざ我が儘言って出て来たくせに、爺さん見て全部ぶっ飛んでいたらしい。いかにも千賀だった。
すぐに千賀は、
「平じい、おろしてたも」
と爺さんに言う。
それを聞いた爺さんは、千賀の小さな体をそっと下ろしてやっていた。
その間中、俺はその様子を観察し続けた。無論勝ち誇ったように見下ろしながらである。顔も自然とニヤついた。
こうしてみせれば、千賀が次にとる行動は容易に想像がつくからだ。
千賀は涙に濡れた大きな目に両手の甲を当てた。そのまま、くしくしと擦る。
そして涙を拭い終わると、何事もなかったように反っくり返った。
やはり、思った通りの行動であった。堪えていたが、ぷっと笑いが漏れた俺を誰も責められないだろう。それ程に子供らしい――実に微笑ましい反応だった。
千賀が子供らしく振る舞ってくれると、とても安心できる。
そんな事を考えている俺、いやおそらくは俺たちの前で、千賀は今も反っくり返って強がったままだ。
なかなかに可愛らしい態度であった。
態度だけはLLサイズなのだが、その表情は千賀の意思に従っていない。絵に描いたような『頭隠して尻隠さず』であった。
子供はこのぐらいで丁度よいのだ。
子供が子供のうちから演技がうまいのは、大概の場合周りの大人が屑だからである。大人を騙せる程にうまい演技を子供が身につけるという事は、そういう事なのだ。
子供は子供らしくあればよい。
壮絶な幼少期を千賀は今現在送っている訳だが、それでも子供らしくあってくれているというのは何よりだった。伝七郎や婆さん、お菊さんらの苦労の賜物であろう。
そんな千賀の様子に、伝七郎も、爺さんも、お菊さんもおきよさんも、皆が今まで以上にその表情を優しく崩している。こんな人達に囲まれていた事は、千賀にとって本当に不幸中の幸いであったと思う。
ふん反り返っていた千賀は、疲れたのか体を戻した。そして、俺を見上げる。俺は膝に手を置き中腰になりながら、そんな千賀と視線の高さ合わせた。
すると――――、
千賀は約束通りに、太陽の笑みを浮かべた。そしてペコリと大きく頭を下げて言った。
「おかえりなさいなのじゃっ」
この笑顔を守れて本当によかった。心底そう思った。しこたま苦労もしたが、その甲斐は十分にあったと心から満足した。
俺は一つ頷いて、
「ああ、千賀。ただいま。ちゃんとお約束守れたな? エライぞ」
と、千賀の頭をわしわしっと撫でてやる。
すると千賀は、撫でられた子猫のように目を細めた。そして、更に輝くような笑顔を俺たちに見せてくれたのだ。
その後、出迎えてくれた千賀らと共に、町の中へと入るべく移動する。
その際に再度俺と伝七郎から、良いと言うまで奥から出て来てはいけないと千賀に伝えた。
これからあの館で俺たちがやろうとする事に、主君である千賀は関わるべきではない。し、千賀を見れば、あいつらがよからぬ事を考える事も十分あり得る。
それに――――、これが感情の話である事は重々承知しているが、正直俺は、まだ千賀には見せたくなかった。
立場上、後々にはこういう事も覚えてもらわねばならないとは思う。だが、今から覚えなくてはならないという事はないだろう。
今はまだ、子供だけがいられる世界に居させてやりたかった。
そしてこれは、俺だけの考えではなかったようだ。伝七郎や爺さんらの思いにも合致していたらしく、誰も異を唱える事はなかった。一人を除いて。
当然、千賀ご本人である。
俺が出て来てはいけないと言うと、千賀はごねた。
おそらくは、今回それを言っているのが俺たちだからだ。
今までは俺たちが居ないのだから、千賀にしてみればどうでもよい話であっただろう。だから出るなと言われても、それならそれでよかったに違いない。
しかし今回は話が違う。俺たちが戻ってきたというのに、出て来ては駄目だと言われたのだ。それが納得いかないに違いなかった。
それに千賀にとって俺たちは、我が儘をいってよい相手だった。藤ヶ崎責任者代理相手とは訳が違うのだ。
千賀にとって、その判断基準は相手の地位ではないのである。そもそも地位というならば、千賀自身がここの頂点なのだ。
要するに、千賀にとってはよく知らないオジサンの言葉は余程でもない限り黙って聞けるのだが、伝七郎や爺さん、そして俺などには感情のままに嫌なら嫌と言うのである。
千賀は安心して甘えているのだ。遠慮などしてくれる訳がなかった。
「なんでじゃっ! なんで妾だけのけ者にするのじゃっ!」
千賀が吠える。
「だーかーらー、いま館には敵が居るの。あいつらが帰ったら、好きなだけ出て来ていい。でも、今は危ないって言ってるだけだろーが」
そう説明した所で納得する訳ないのは百も承知しているが、一応そう説明もする。
だが案の定、
「敵なんて、たけるなら『ぱいっ』っとできるじゃろうーがっ!」
と返ってくるだけだった。
「いや。『ぱいっ』とするつもりなら、苦労してわざわざ連れてきてねーって……。って、そんな話をしても分かる訳ねーな。兎に角、駄目っ! 駄目なのです。良いと言うまで大人しくしていなさいっ」
食い下がる千賀に、俺も強硬な態度で駄目だしをした。
説明できぬ辛さを知った。子を産み育てれば、親は必ずこれを経験するのだろうが、よもやこの歳でそれを思い知る事になるとは思ってもいなかった。正直、世のお父さんお母さんに尊敬の念を抱いた。
千賀は涙を浮かべ始める。
俺は言う事を聞いてくれないし、周りにいる伝七郎や爺さん、そしてお菊さんやおきよさん――――いつも我が儘を聞いてくれる人らも困ったような顔をしているだけで、誰も俺を説得しようともしてくれない。
「……たけるは、妾の事がきらいなのかや?」
とうとう不安そうな顔をしながら、恐る恐るそんな事まで言い出してしまった。
もう、ただ駄目だと突っぱねる訳にはいかなくなってしまった。
そんな事をしたら、千賀の心にどれ程の傷を残す事になるのか想像も出来ない。分かるのは、幼い心に癒えない傷を間違いなく残すだろうという事だけだ。
目の前で千賀は怯えていた。だが俺は、それ以上に自分の予想に怯えた。
ここだけは失敗する訳にはいかなかった。
だから俺は、やり方を変える事にした。
俺は再び膝を折る。土に膝を着け、不安そうに見上げる千賀と目の高さを合わせた。そして、おでこをくっつけるようにしながら、千賀の頭へと手をやった。
なでり、なでり――――
「まさか。俺も皆も、千賀の事が大好きだよ」
まず最初に、そうはっきりと答えてやる。いつものように誤魔化したり、照れ隠しをしたりはしない。千賀が怯えているのはここだからだ。ここだけは、そのまま放置する訳にはいかなかった。
そのおかげかどうかは千賀にしか分からない。しかし俺のその言葉を聞いた千賀は、心底安心したように、その視線から怯えを消した。
それを見て、心の中で盛大に安堵の吐息を一つ吐く。
そして、そのまま言葉を続けた。
「だから俺たちは、千賀が危ない事になるのは黙って見ていられない」
千賀の頭の上に置いた手は、千賀の頭をずっと撫で続ける。
その間千賀は、真っ直ぐに俺の目を見つめ続けた。
しばらくして千賀は、下唇をきゅっと噛んで口をひよこのように尖らせた。そのまま黙る。ただそれでも千賀は目を逸らそうとはしなかった。涙目になりながら、真っ直ぐに俺の目を見つめ続けた。
おそらく、視線を外すのが怖いのだろう。全身にまで及んだ怯えこそとれたが、未だ心は先程生まれてしまった不安に苛まれたままだと思われた。
本当に不憫な奴だった。表情には出さないように気をつけたが、正直同情せずにはいられなかった。
でも、だからこそ。俺はこうしてやるべきだと思った。
「もう一度言うぞ? 俺は千賀の事が大好きだ。……でも、だからこそ、危ない我が儘を言った事と、駄目だと言われていたのに俺たちを出迎えに出て来てしまった事を、お仕置きだ」
そう言って、撫でていた右手を握る。そして、少々痛いだろうと思われる程度にごちんと一つ落した。
それを見た伝七郎始め、爺さん、お菊さんらは目を丸くした。
こいつらには、これは出来まい。
主君に手を上げるなど、下手をしなくても普通は腹切りものだと思われる。当然そういうものだと思っているだろう。
だからこれは、そんな事は知った事ではない俺の役割なのだ。
俺に拳骨をもらった千賀は、目を見開いて驚く。そして、すぐに頭へと両手を持っていった。大きく見開かれた目に、今度こそ涙粒が浮かんだ。
「痛いのじゃっ! なんでごんするのじゃっ!」
そして、かひゅうと音を立てながら大きく息を吸ったかと思うと、貯めきれなくなった涙をぼろぼろと零しながら、俺をそう責めたてた。
「言っただろう? 千賀の事が大好きだから、千賀が危ない事をしたら叱る」
俺は睨む千賀の視線を真っ直ぐに受けながら、そう教える。我が儘は言って良い。でも、危ないのは駄目だ。千賀は賢い。何度か叱れば、それも覚えるだろう。
目を潤ませ睨む千賀と、それを真っ直ぐに受け止める俺。
しばらくの静寂がそこに生まれた。
そんな静寂を破ったのは、千賀だった。
相変わらず涙でべしょべしょの目で俺を睨みながら、うーうーと唸りだす。
俺の言っている事がまったく理解できていない訳ではなさそうだった。気持ちの問題として納得がいかないものと思われる。
千賀はテテテと伝七郎の元へと向かった。その足にしがみつく。
そして――――。
「ひどいのじゃ! たけるがぶったのじゃ。めっしてたもーっ」
伝七郎に言いつけやがった。
まだ駄目だと分かってはいるのだが、そんな千賀に頬が緩んだ。
千賀は必死こいて伝七郎に訴え続ける。それを受ける伝七郎も「そうですね。そうですね」と、懸命になって宥めていた。
そんなやり取りが、目の前でしばらく続いた。
ただ、そんな千賀ではあったが、俺にどこかへ行けとだけはついぞ言わなかった。