第百二話 千賀のお出迎え でござる その二
しばらくの間、その不思議な感覚に戸惑った。
そして、余りにも長くぼうっと馬鹿面を晒していたらしい。
お菊さんが、
「あの……武殿? どうかなされましたか?」
と、やや不安そうな顔をしながら尋ねてくる。未だ頬を赤く染めたまま上目遣いに見上げるその姿に、その感覚が更に強まるのを感じた。
だが、
あ、やばい――――と、適当に誤魔化す。
ここはクールに振る舞わねば。
暢気に混乱などしている暇はない。そう密かに自分を叱咤する。
タイムアタックだったら、どうすんだよ。
「ああ、ごめん。何でもないんだ」
なんとか、そう返事をする事には成功した。すると、
「そうですか」
と、お菊さんはそう言いながらどこか安心した様に、小さく一つ、ほっと丸い息を吐く。
ほんと責任感強いよな、お菊さん。
千賀を止められなかった事に、そこまで責任感じなくても――――と思う。聞いた限り、どう考えても言う事聞かなかった千賀が悪いだけだし。
そんな事を考えていると、いつの間にかやってきたおきよさんが、いつもとは違うどこか怯えたような声で俺を呼んだ。
「あ、あの、武様……。主人の姿が見えないのですが、まさか……」
雰囲気も常の彼女のものではなかった。
彼女は普段元気で豪快である。印象を一言で言えば、快活がもっとも相応しいと俺は思う。
だが今、目の前にいる彼女の中には、それがまったくなかった。
ただでさえ小柄な体を小さく縮こまらせて、実際よりもはるかに小さく見えていた。その表情も普段とは異なり、不安が全面に押し出されたような形相をしている。よく見れば、体も細かく震えていた。
あっ、そうか。
すぐに気がつく。
不吉な事を想像してしまったのだ、と。
信吾は今、俺の代わりに東の砦に残ってくれている。だから当然、この場にはいない。
聞きたい。でも、聞きたくない。だけど、聞きたい。
そんな思いの末の質問なのだ、と。
目の前のお菊さんの事はとりあえず置いておいて、俺はおきよさんに正対するように体の向きをずらした。そして、まったく心配はいらないという事がきちんと伝わるように、殊更明るい口調で返事をする。
「ああ、おきよさん。大丈夫、大丈夫だ。あいつは傷一つなく、ぴんぴんしているよ。でもやむを得ない事情で、東の砦に残って指揮を執ってもらっているんだ。だから、今あいつはここにはいないんだよ。不安にさせちゃったな。ごめんな?」
俺がそう答えると、おきよさんは本当に安心したというように、潤んだ瞳から涙をこぼした。そしてほうっと、大きな、大きな安堵の溜息を吐く。
その吐息一つと、胸元にきゅっと固く小さく握られた右手に、彼女の心境を容易に見て取る事が出来た。そして、
「――――よかった……」
そう、おきよさんは呟くように言葉を漏らす。
「ほんとごめんな、おきよさん。しばらく旦那を貸してくれ。俺ももう少ししたら、また東の砦に戻る。今度はちゃんと連れて帰ってくるから」
そんな彼女の様子に居たたまれなくなって、俺は必死に言葉を付け足していった。今までに怯えられた事はあっても、面と向かって女に泣かれた事はなかったので気がつかなかったが、俺は想像以上に女に泣かれるのが苦手なようだった。非常に落ち着かない。
するとおきよさんは、そんな俺の様子を見てくすりと笑う。そしてそっと指先で目元を拭うと、いつもの彼女に戻って言った。
「くすっ。いえいえ、きちんとお役に立てているならばよいのです。もう、しっかりとこき使ってやって下さい」
…………ほんと、女って強いよなあ。お菊さんといい。そういや、母ちゃんもそうだったなあ――――。
世界が世界、社会が社会だからというのが、その一番の理由だろう。しかしそれを差し引いても、やはり強いなと感心せずにはいられなかった。
「ああ、有り難う。おきよさん。使い終わったら、ちゃんと『元』の場所に戻すから。勘弁な?」
そんな彼女に、ようやく俺は気持ちが落ち着き、片目を瞑って少し戯けてみた。するとおきよさんは、
「まあ」
と、目を丸くした。そしてその後、今度はいつもの朗らかな笑顔を見せてくれたのだった。
そうしておきよさんと笑い合っていたら、それまで黙って俺たちの話を聞いていたお菊さんが、再び声をかけてきた。
「とても大変だったようですね。本当に武殿には、なんとお礼を言えばよいやら」
「あははは。まあ、大変じゃなかった……とは、言えないかな? でも皆で頑張ったんだよ」
東の砦を守っていた者たち――――。
爺さんと共に、俺たちの到着までを戦って散った者たち――――。
そして、俺の策の為に命を使ってくれた者たち――――。
その志を思えば、軽々に大変じゃなかったなどとはとても言えない。
でも男子の意地にかけて、このぐらいは強がってみせねばならなかった。
死者は口を開けず。
故に、これは生き残った俺らの義務と言っても過言ではないだろう。古今東西、いやたとえ世界が変わろうとも、男がいて女がいれば、男は女の前では良いかっこをしたいものなのだ。
それに、だ。
何も俺は、彼らの為にただ働きをしようって訳ではなかった。万感の思いを込めて、胸の中で英霊達に手を合わせる。そして、声を大に祈った。
――――さあ、みんなッ。俺に力を貸してくれッ!
「ああ、そうそう。礼って訳じゃあないんだけど……。そのぉ、お菊さん?」
「はい?」
「今度、藤ヶ崎の町の様子を見に行こうと思うんだわ。伝七郎らとも行こうと思うが、それとは別に目立たないようにしてね。でも俺ってばさ、ほら、こっちの人間じゃあないだろ? いまいち勝手が分からないから、付き合って欲しいんだけど……、駄目?」
無論、建前である。お菊さんとデートしたいから、こう言っています。ただこの建前は、俺の気持ち的に二割くらいは本当であった。将がこぞって町の検分をするとなると、それなりに大がかりな事態となる。通常の町を見るならば、それなりの方法で出向かなければ、とてもではないが常の姿は見られないのだ。
だから、二割くらいは本当なのだった。
お菊さん、これをチャンス到来と喜んでしまった俺を許してくれ。将としての仕事も大事だが、異世界くんだりまで来て、こんなに苦労しているんです。ご褒美が欲しいとです。人生初のでぇとなんです。
こんな機会をみすみす逃したら、三ヶ月くらいは引き籠もる自信が余裕である。
できれば、年末年始を自室の部屋の隅で丸くなって過ごしたくなどない。
それが、かぷーなイベントがある日はいつもネットで孤高に荒ぶってきた俺の、魂の声だった。
お菊さんは小首を傾げて、頬に手を当てなにやら考え込んでいる。
そんな彼女に、俺は「さあ、貴方は『はい』と言いたくなーる」と無言で力一杯に電波を飛ばす。今の俺の集中力は、戦の真っ最中にも匹敵すると思われた。
ただ、さすがにおきよさんには、俺の稚拙な手管などは通用しなかったようだ。先程までとはうって変わって、ニィっと嫌らしい笑みを浮かべている。今度お菊さんのいない所で、しこたまからかわれるのは必至のようだった。
師匠。これでも俺的には精一杯頑張っているんです。勘弁して下さい。
すでに、視線だけで俺を冷やかして遊んでいるおきよさんに向かって、同じく俺も視線でそう言い訳をしてみる。早く、もっとスマートに誘える男になりたいとは思っております。
こうしておきよさんと俺が師弟の無言の会話をしている間も、お菊さんはずっと考え込んでいた。
偶に俺の方を上目遣いに見ては、外すというのを繰り返していた。
糞っ……。やっぱ駄目なのか……。
返事がもらえない。俺は作戦の失敗を覚悟した。小人さん達が、俺の涙腺にある放水弁を全開にしようと準備し始める。ストレッチはすでに完了させているようだった。
しかし、その時である。
「はい。分かりました。私でよろしければ……」
と、一発逆転の返事がお菊さんの口より発せられた。
小人さんたちはチッと舌を鳴らした。そして、足で弁を蹴り開けた。
おお、神よ――――。俺は感涙にむせぶ。
苦節十七年。この神森武、生まれて始めて女の子をデートに誘う事に成功致しましたぞ。
先程まで何事かを考えている様であったお菊さんは、今は俺の顔を見ながら優しく微笑んでいる。
そんな彼女の横では、おきよさんが意味ありげな視線をお菊さんに送っていた。それに気付いたお菊さんも、再び少し頬を染めながら横目で返事を送っている。そして、小さく頭を下げるように動かしていた。
女二人の視線の会話が少々気にはなった。俺には翻訳できなかったから。
しかし、ついにお菊さんを誘えたのだ。細かい事など気にしている場合ではないだろう。とうとう俺の時代がやってきたのだ。
と、それは置いておく事にした。
俺は曲げた右腕を振り上げる。渾身のガッツポーズを決めた。
そんな俺を見て、お菊さんは更に頬を染め上げる。しかし、何も言わずに笑みを優しくした。
彼女の微笑みを見ながら、心底思った。
これ程のラッキーイベントなのに、どこからも邪魔が入らないとか――――今日の俺は、恐ろしい程にツイている、と。
ビバ、俺の日。




