幕 平八郎(一) 西の盆地の戦い 一回目 ――卑劣な罠、敗走――
「者ども、かかれいっ!」
な、なんだとっ?!
三森の槍の柄による一撃を受け止め、力比べをしながらガチガチと互いの柄を鳴らしている最中に、その忠政の号令は発された。
一騎打ちの最中にも関わらずである。思わず儂も、そして三森もが忠政の方を振り向いた。
恥を知らぬにも程があった。これは武人にあるまじき所行である。指示を受けた忠政の周りの兵らも、戸惑い動揺していた。
当然だった。一騎打ちの最中にかかれと言われても、と誰しもが思う。大なり小なり、武をもって何事かを成そうと考えている者ならば、これは困惑するだろう。一騎打ちの最中に相手方を襲うなど、どんな言葉を用いても申し開きなど出来ぬ行為だからだ。武の道を多少でも心得る者ならば、そんな卑劣な真似は出来はしない。
いや、むしろ逆の言い方をするべきだな。
そういう真似をする者を、武人とは呼ばない。
こちらの方がより現実に沿うだろう。
武人ならば、恥を覚えてできない行為だった。武名が汚れるどころではなく、地に堕ちる。
我が兵たちも、あまりにも非常識な事態に理解が追いついていなかった。吠えた忠政の方を、目を見開いて見たままである。呆然としてしまっていた。
そんな雰囲気の中で、再度忠政ががなった。
「何を愚図愚図しておるっ! さっさとかからぬかっ! 爺は敦信殿が抑えこんでおる。後は、ただの烏合の衆ぞっ! 今ならば、質も量もはるかにこちらが勝るわっ。一息に押し潰してしまえっ!!」
不味い。
その忠政の科白で、指示を出していなかった事に気付く。急ぎ、戦場すべてに響けとばかりに、腹の底から声を発した。
「者ども、戦闘態勢をとれっ! 突っ込んでくるぞっ!!」
呆然としていた兵たちは、儂の言葉にはっと気を取り戻す。そして各々が武器を構え直した。
そしてそこへ、忠政に尻を叩かれた敵兵らが突っ込んでいった。
辛うじて儂の声も間に合ったようで、我が兵らもそれに応戦している。刹那の差で大惨事になるところだった。
ただ、そうして我が兵らに襲いかかっている忠政の兵ではあるが、今以て相当動揺しているようだった。
この期に及んで、儂と三森の周りを避けながら、我が軍に突っ込んでいるのである。
すでに、戦で最も神聖な一騎打ちを冒涜したのだ。三森と打ち合っている儂の背中を槍で刺したとしても、今更というものである。これ以上汚れる名も、失われる名誉も存在しないのだ。
にも関わらず、兵の方へと突撃している。
判断能力を失ったまま、言われるままに突っ込んでいるだけのように見えた。
故にこれは、最悪の状況ではあるが絶好機でもあった。今なら撤退に繋げられるからだ。あの下衆のせいで、儂らは最大の危機と最大の好機を迎えていたのである。
ただ、これを好機とするには、まずこの者を何とかしなくてはどうにもならない。
儂は三森の方へと視線をやった。そののち改めて向き直る。
注意は三森に向けながら、撤退に向けての道筋を必死で考えた。そして、この三森がもし話しに聞いた通りの者ならば――と一案思いつく。
「卑怯なり。主の武に対する誇りとはこの程度のものか。三森敦信の勇名……、延いては主家金崎家の名声……。地に堕ちたり」
敢えて三森の矜持を踏みにじった。
おそらくこれは忠政の独断だ。三森の意思の中にはまったくない指示であったとは思う。
しかしこれは、使えた。
忌々しい事ではあるが、この忠政の愚行は、我が軍が撤退する為の正当な理由を提供してくれていたからだ。今回の敗戦で予定されていた敵に背を見せる行為によって、統治への多少の影響も覚悟していたのだが、そうはなりそうにない。
ただそれを利用するには、この三森にも同じ泥を被ってもらう必要がある。だから、同情はするが遠慮をするつもりはなかった。
先程忠政の号令がかかった時、三森は儂同様信じられぬとばかりに目を見開きあの男の方を振り向いていた。そして以降は、感情を隠した目を忠政に向けたままだった。
そこに、この悪罵を浴びせた。
三森ははっとしてこちらを振り向き、まっすぐに儂を見据える。
「…………ッ」
その口は真一文字に強く引き結ばれたままだった。しかし、噛み合わせた顎の筋がはっきりと浮き上がっていた。武人の誇りを汚されながらも、目の前の事実に何も言い返せぬ悔しさ故にだろう――彼奴の心中は容易に読めた。心で血涙を流している様子がありありと窺えたからだ。
忠政の号令前から押しあったままの互いの得物にも、再び力が入った。再開された力比べに、再び柄がミシミシと音を立て始める。
互いの騎馬も、再び荒い鼻息を吐きながらだくを踏み始めた。まるで回る絡繰りの置物の様に、対になってくるくると回りだす。背中の我らを助けようとしているのだ。
しかし一騎打ちを再開した後の三森敦信は、先程まで以上に精彩を欠いた。
味方の信じられぬ愚挙のせいに違いなかった。明らかに気がそぞろになり、集中力を失っていたのだ。
これも利用しない手はなかった。
この一騎打ちや、その後の統治など、見方によっては我らに風が吹いているとも言えなくはない。しかし現実的な問題として、我が軍は全滅の危機にあった。儂らにとって、好機であると共に最悪の状況である事も間違いなく事実であった。すでに敵の大軍は、我が兵らを圧殺殲滅するべく襲いかかっているのである。
敵に配慮をしているような余裕もなければ、愚図愚図している暇もなかった。もう一刻の猶予もない状況になっている。
そしていま三森の注意は、儂と、我が軍に襲いかかる彼奴らの兵との間を行ったり来たりしていた。
だから、その隙を突いた。
注意が彼奴らの兵の方に向いたその時に、奴の槍を長刀の柄で巻き上げてやったのである。
カラン――――
少し離れた場所に、巻き上げられ飛んだ槍が落ちた。
「…………」
三森敦信は、自身の手から離れ飛んだ槍を、無言で見つめていた。
「敦信殿っ! 何をやっておられるかっ!」
その時、遠くで愚物の喚く声が聞こえた。が、儂も三森もそちらを見る事はなかった。互いの視線を交えたまま、対峙し続ける。そして、
「さらばっ」
「…………」
儂はそう一声残して、その場を下がった。
背後の三森を残し、馬を返して兵らの元へと向かったのである。
すぐに兵らを纏め撤退を開始しなければならなかった。さもなくば、本当に取り返しのつかない事になってしまうからだ。なんとかしなければならなかった。
この時もうすでに、我が軍には深刻な被害が出ていた。兵列は散らされかけており、その数も一目で明らかな程に減じていたのだ。
「落ち着けっ! 慌てるとそれだけで死ぬぞっ!」
声を大に叫びながら、青嵐を駆けさせた。
その最中、なるべく敵方の突進の鼻を叩くように動いた。
三森敦信のような猛者が相手ならばそう簡単にはいかぬが、ただの雑兵ならば、先頭の二、三人の首を撥ね飛ばしてやれば、多少の逡巡は見せるからだ。それだけで、敵の勢いを削ぐ事が出来るのだ。
その隙に、可能な限りの兵らを逃がす。
「落ち着けい、恐れるなっ。されど、急いで下がるのだっ! 背中を見せるな。武器を捨てるなっ。冷静に敵の隙を窺い撤退せよっ!」
恐れるな、か。恐ろしいに決まっている。死が迫っているのだ。
しかしその恐怖に負ければ、より死に近づいてしまう。そういう状況だった。
それに、これ以上敵方を勢いに乗せる訳にもいかなかった。そうなってしまえば、助けられるものも助けられなくなるからだ。
難しい事は承知しているが、それでも兵たちには冷静に動いてもらわねばならなかった。
幸い兵らには、まだ儂の言葉を聞く程度の余裕は残っていたようだった。予想したよりも多くの兵らが、理性の残った撤退行動に入ってくれた。ほとんどを討ち取られる事も覚悟していたが、これならば存外残るかもしれなかった。
それを見て、儂自身も撤退行動に移る事にする。そろそろ潮時だった。
まだ明確な退路を見出せない者たちもいた。
――――が、儂はそれを見捨てるしかなかった。これ以上は共倒れになるからだ。
今までにも何度となくしてきた判断だった。
何度経験しようと胸が痛む。慣れるのは、その痛みに耐える事に対してだけだった。
すまぬ――と口の中で呟き、なるべく敵兵が少ない方向へと青嵐を駆けさせた。途中にある『障害物』は得物でなぎ払うか、青嵐で跳ね飛ばした。
時に真っ直ぐに駆け、時に蛇行し、兎に角少しでも敵が少なく退路が開けている方へと――――儂は全力で逃げた。若者の頼みを聞き届ける為に。
兵らもそれぞれが必死に逃げた。しかし、その多くが退路を塞がれていった。
それでもその者らは、武人らしく最期の最期まで誇り高い抵抗をしてみせていた。しかし圧倒的な数の敵兵には及ばず、程なく無残に蹂躙されていった。
それぞれがそれぞれに、散り散りとなって逃げる。一部は西に、一部は北に、そして東へと戻るように逃げた者たちもいた。しかしその大半は、南の山やその麓の森の中に向かって走って行った。
かくいう儂自身も、最終的に馬の鼻が向いた先は南方だった。