幕 平八郎(一) 西の盆地の戦い 一回目 ――舌戦――
兵らを率い、飯尾山を下った。そして、街道沿いに西進していく。
砦の兵は、すでに戦場である盆地に着いている筈だった。なにせ飯尾山の陣で、大軍が盆地に向かうのを見せつけられていた。
そう、見せつけられた。
そうでなければ、ああも早くあ奴らが出て行く理由などない。戦力的にはどう贔屓目に見ても、あ奴らの方が圧倒的に有利なのだ。もっとゆとりを持って、大様に構えてられる筈なのである。
にも関わらず、陽が昇る前からの行軍だった。まるで儂らが先に出陣するのを嫌うかのように。
いや、嫌うというのは可笑しいか。
楽しみが一つ減る。おそらくは、それだけの理由であろう。
なにせ、その必要もないのに陽が昇る前のまだ暗い道を、煌々と数多の松明を燃やして行軍し、我が陣営の前を通って西の盆地へと向かっていったのだから。
まず間違いなく、種田忠政による揺さぶりだった。あの者とて、このような小細工が儂には通用せぬ事ぐらいは分かっているだろう。が、兵らとなると話は別であった。
実に嫌らしい。奴らしいやり様だった。
だが悔しい事に、効果があるかないかだけを問うならば、間違いなく効果的なやり口ではあった。もし伝七郎からの早馬がなかったらと思うと、或いは兵らの気持ちの切り替えを未だに出来ていなかったらと思うと、背筋に走るものがある。
そんな事を考えながら、狭い道を馬上で揺られていた。
つい先程は連合の大軍が、そして今は儂らが行くせいだろうか。夜明けを迎えつつある今の時分、本来ならば道ばたに生える木々の梢で囀っている筈の小鳥たちの姿が見えない。
たまに吹く風に静かに揺れる枯れ草の音と、道を行く儂らが出す音のみが支配する――そんな道のりだった。
ぽくり、ぽくりと、馬の蹄が踏みかたまった街道を同じ拍子で叩き続ける。
そんな時間がしばらく続いた。そして――――、
西の盆地へと出た。
すると遠くに、種田、三森の両将に率いられ、いつでも戦う準備が出来ている砦の兵らの整列している姿が見えた。
敵ながらに壮観な光景だと感じた。
大国の将ならば兎も角、千を超える兵を率いる機会というものは中々ない。し、また、それに出会う機会もまずない。
そう言う意味では、少々の感動を覚えた。
だが、今からそれと戦わねばならぬという事実が、それ以上に気持ちを打ちのめしてくれた。背中に兵らの動揺も感じる。
いかん、いかん。
将が気力を萎えさせている様で、どうやって兵らに戦えと命じるのか。
そう己を戒め、弱気が生まれようとする度に、それを抑えていった。
そしてその兵列を真正面から見据えながら、堂々と周りの兵らに告げる。
「なかなか壮観なものだのう」
その儂の呟きに答える声はなかった。
しかし、背に感じる気配から怯えがいくらか消えた。
未だ動揺は残り、すべてが消えた様子はなかったが、それでもこの圧倒的な数の敵兵を前に、戦意を喪失させずに耐える事はできていた。
この時の安堵は筆舌に尽くしがたい。
流石にすべてを承知の上で我が元に残った兵らであった。それは伊達ではないのだ。
そのまま、その大軍に向かって軍を前進させる。急ぎもせず躊躇いもせず、堂々と。
そして互いの間が、一町あるかないかの距離をとって止まった。
そこからは兵らを残し、儂のみが前に出た。互いの間の半ば近くに来た所で、雄叫ぶ。
「これはこれは。丁重な出迎えご苦労。これ程に気が回るならば、今少し戦の礼も尽くしてもらいたかったな」
すると、こちらを威嚇するかのように並べられた敵の兵列から、先頭にいた二騎が前に出てくる。互いの間が十間ない距離まで近づいてくると、そこで止まった。そしてその内の一人が儂に応じてくる。
貧相な方だった。そしてその面構えには、その者の心根がよく出ていた。――――種田忠政である。
「これはこれは永倉様。お久しゅうございますな。富山以来ですかな? ご健勝そうで何よりでございます。どうも私どもの心配りが足りずに、ご気分を害されたようで。ご無礼はこの通り、私めの方からお詫び申し上げます」
などと言って、にやにやと見る者を不快にする――他人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、馬上で頭を下げてきた。慇懃無礼を絵に描いたような態度である。
本当に他人の神経に障る男だった。
いくら戦前の口上と言えども、出来れば目に入れたくない男であった。目が腐りそうである。どうせならば、若者の方に出てきてもらいたかったと真剣に思った。
その者――三森敦信は、忠政と共に馬を前に進めてきたものの、忠政の隣でその口元を一文字に引き結んでいた。表情を隠した無表情で、ただこちらを見つめているだけであった。
ただ、その大きく張りのある若者の体が、何故か今はくたびれた老人のように、小さく萎んで見えた。
それが妙に気にかかったが、黙っている者を見ていても仕方がない。心底嫌悪感が湧いたが、忠政に視線を合わせる。そして、
「ふん。心の伴わぬ詫びなどいらぬ。まだ馬糞を浴びる方が心地よい。それで?」
と、問うた。
その儂の言葉に一瞬ぴくりと頬を動かしたかと思うと、忠政はまた嫌らしい笑みを顔に張りつけた。
「なんともつれないお言葉にございますなあ。まあ、よろしい。我らの要望は、もう何度もお伝えした通りにございます。強情を張られず、継直様の元にお下りなさいませ。さすれば、永倉様ほどの方ならば、継直様も決して粗末には扱いますまい」
「言いたい事はそれだけか? ならば、儂の答えもすでに伝えた通りじゃ。断る。奸賊に下げる頭なぞ持ち合わせてはおらぬ。小汚い首をよく洗っておけと言われたと継直に伝えろ」
「何ともまあ、主家のお方に対して酷い口の利きようにございますなあ。ご乱心にございますか? 今の言葉、たとえ永倉様と言えども、決して許されませぬぞ?」
「誰が許してくれと言ったか。その様な事を望んだ覚えはない。――――我らは決して相容れぬ。これ以上の話など無用ぞ。それに、そちの不細工な面を眺めて続けて、そろそろ胸焼けがしてきた。さっさと始めるぞ?」
彼奴は勝利を確信している。だから我らを愚弄して、暗い喜びで心を満たしたいのであろうが、儂らがそれに付き合う義理はなかった。
すると忠政は刹那の時、その醜悪な表情を引き攣らせた。面をどす黒い赤に染め上げる。しかし何とか体裁を整えようと、すぐに取り繕って余裕を見せようとした。
もっとも、それができずに未だ頬の筋肉を痙攣させているあたりが、実にこの男らしかった。
それでも何とか言葉を紡ごうとする。腐り果ててはいるものの、中々の根性と言えた。
「は、はは。これは手厳しい。それ程に死に急がなくとも、と思うのでございますが……。されど、それが永倉様のお答えだというならば是非もない話にございます。しかし……、道連れにされる兵らが哀れでなりませぬな?」
思ってもいない事を言うものである。吐き気がした。この男が兵らを哀れむだと?
つくづく胸糞の悪い男だった。
これ以上余計な言葉を交わす気はなかった。故に、さっさと話を終わらせる。
「では布陣が終わり次第、三つ鼓を叩く。それが合図という事でよいか?」
挑発を儂に無視された格好の忠政は、再びその心を目に映す。が、儂の知った事ではなかった。
そんな儂の態度に諦めたのだろうか。忠政は収まらぬ苛立ちを顕にしながらも、その言葉だけは冷静さを取り繕って儂に答えてくる。
「……よいでしょう。あのような寡兵でどれ程我らと戦えるのか――見物ですな。せめて、その御高名を汚さぬ戦いぶり見せて下さる事を期待しておりますよ。ご健闘だけでも、お祈りいたしておきましょう」
「ふん。貴様に祈られるなぞ、呪詛をかけられるに等しい。余計な真似はするな。大事な我が兵が穢れる」
そんな忠政の言葉に儂はそう言い残し、さっさと自軍へと戻る事にした。
あの男の面を見る事にも、声を聞き続ける事にも、そろそろうんざりしていた。
自軍へと帰る道中、背中で何やら雑音が聞こえたような気がした。
しかし、どうせ大した事ではないと思い、振り返りはしなかった。