幕 平八郎(一) 西の盆地の戦い 一回目 ――出陣――
なんという自信。いや、堅い誓いだろうか。
姫様と約束をした。その約束は絶対だから――守らねばならないから必ず勝つ。
言うは容易い。が、それをやり遂げてみせるのは容易な事ではない。
だがあれらは、それでもやり遂げてみせると言い切っている。そして、それが口先だけではない事を証明し続けている。
現に儂との約定である北の砦も落したというではないか。こうも短期間で。
冗談ではなかった。
一体どうやって……。
悔しいが、想像もつかなかった。しかし、だ。
「くっくっくっ……」
腹の底から笑いが込み上げてきた。そして耐えられず、口からそれが漏れた。
「永倉様?」
「……くっくっ、あっはっはっ」
若者はよい。こうでなくてはならぬ。もし儂一人程度も超えられぬと言うならば、それは余りにも暗澹たる話ではないか。希望も何もあったものではない。
だが幸いにして、我らが水島の未来は明るいようだ。地を這ってでも、この窮地を乗り越える甲斐もあろうというものだった。
渡す価値がある。いよいよもって、是が非でも明日を残さねばならぬ。
心にそう滾った。
実に頼もしくなったものだ。
「永倉様っ?」
馬鹿みたく大笑いする儂に、片膝をついて頭を垂れていた男は不安げな表情で顔を跳ね上げる。そして、呼びかけてきた。
「よい。大事ない。くっくっ。そうか、そうか」
もう一度書状に目を落す。
読み違いではなく、勝って共に帰ろうと書かれている。そして、自分たちが着くまでは兎に角生き残ってくれとも。
「あい分かった。努力しよう。が、もうすでに彼奴らとの合戦は今日の朝と決まっている。伝七郎らも、流石にそれには間に合うまい。されどこの文のおかげで、先を見据える事ができるようになった」
身が震える程の歓喜を感じながら、目の前の男にそう伝えた。
「よくぞ無事届けてくれたな。大義であった。見た所ぼろぼろのようだが、砦の奴らに追われでもしたのか?」
「はっ。始め砦へと向かったのですが、砦の様子がおかしく中を少々探ろうとしました。しかし砦の見回りに見つかってしまい、兵を出されて追われる事になりました」
「そうか。それは失敗したのう」
「はっ。面目次第もございません」
跪いた兵は恐縮しながらそう答える。だがすぐに、
「しかし無事お届けできて、本当にようございました。佐々木様にも、この書状はなんとしても永倉様に届けて欲しいと申し伝えられておりましたもので……」
と言った。
消えた言葉の先が容易に想像できる様子だった。
万に一つの失態も許されぬと、己に言い聞かせていたのだろう。それが敵に発見される事になり、顔を青くしたに違いない。その中を無事逃げ延び、まだ生きている儂を見つける事ができた時には心底ほっとした事だろう。
伝七郎の奴め。余程に言い含めたようだな。
まだまだひよっこの身で、この儂の身までも案ずるか――と胸が熱くなった。
「うむ。見事に任務を果たしたのは大義ではあるが、主の任務はまだまだ終わらぬ。主には儂の返事を持って、是が非でも伝七郎の元に戻ってもらわねばならぬ。『よかった』と安心するのはまだ早いぞ?」
沸き起こり続ける歓喜を抑えながら、儂は安堵の表情を浮かべる兵に向かってそう伝えた。兵ははっとしたように表情を引き締め直し、再び儂の方を見上げた。
「はっ。申し訳ございません」
「よい。気持ちはわかる。が、伝七郎ではないが、主の使命は大事じゃ。それを十二分に肝に銘じておいてもらわねばな」
「はっ」
「うむ。それでは話の続きじゃ。伝七郎は、最終的に儂らとの共闘をもって金崎らを退ける腹づもりのようだな。当然儂らの事も、その折の兵の数として数えていよう。しかしそれは、こちらが無事である事、また連絡が取れた事が確認されなければ、実際に計算に入れて良いかどうかは判断がつかぬ」
兵は儂の言葉の一言一句を頭に叩き込むように、真剣な表情で話を聞いている。
「儂らは陽が昇ると同時に、彼奴らとの合戦に臨む。ここで合戦を避けると、後々に影響するからな。だが、なるべく多くの兵と共に生き残る方向で戦おう」
「はい」
「主はその結果を見届けてから、伝七郎の元へと戻れ。そして、その結果も合わせて報告せよ。本来ならば合戦前に西に移動していてもらいたいところだが、もう時刻が時刻だ。西への道には、敵が出ているかもしれぬ。今西へ行くと、無駄に危険を冒す事になるだろう。だから主は、戦場より少し離れて見ていろ。そしてくれぐれも言っておくが、万が一儂らに何かあっても戦場には出てきてはならぬ。よいな? 主の使命は、結果を持ち帰る事。それをよく肝に銘じておくのだ。それがどのようなものであれ、必ずや結果を伝七郎らの元へと持ち帰れ」
「はっ」
儂の指示に、兵は深く頭を下げてはっきりとそう答えた。
その返事に満足する。
藤ヶ崎を出てからというもの何一つ良い事のなかった儂らにとって、この早馬の到着は唯一の、だが特大の朗報だった。
翌朝出陣前、檄を飛ばす為に整列する兵らの前に立つ。
皆、何かを諦めたかのような目をしていた。それが何をであるかは、それぞれがそれぞれであろうが、共通して目の力が失われていた。
だがこの者らは、皆武士だった。それでもなお、逃げずに戦おうとしてくれている。希望は失われているが、誇りまでは失われてはいなかった。
先が見えている以上、気勢が上がらぬのも無理からぬ事。仕方ないで済ます訳にはいかぬというだけの事であり、それは自然な事だった。
故に知らしめねばならなかった。お前らの見ているものは、つい先程まで我々の先にあった未来だと。
その胸に希望の火を灯す必要があった。
誤った諦観で、無駄に命を諦めぬように。守るべきを守り、戦うべきと戦い、そしてなお生き延びる事ができる。そんな先が見えているのに、何もなせずにどこで骸を晒すかを考えて絶望するなど馬鹿馬鹿しいにも程がある。
武人の心構えとして、死に様は常に考えているものだ。この者らも、それは当然常に胸の内にある筈だった。ただ、今はそれが明後日の方向を向いてしまっているだけなのだ。
そう、今回も何をなしどのように死ぬかを考えて戦に臨めば良いのだ。いつも通りに、どのような死に花を咲かせるかを考えれば良いのだ。すでに、我々武人にとってもっとも忌避すべき『無駄死に』だけはなくなったのだ。
もっとも、今回は生き延びる事を優先してもらわねばならぬがな――とそう独りごちる。
伝えよう。
この戦で失われる命は、そのすべてが意味を持つようになったと。この戦の先に、主の安全、町の安全、民の安全――――そのすべてに光明が見えたと。
そして今日の”一敗”の先に、我々の勝利が見えているという事を。
未だ項垂れ、陰気な心持ちを隠しきれない様子の兵らに向かって、儂は胸を張り声を響かせた。
「これより我らは出陣する。が、この戦は十中八九、いやもっと高い割合で敗れるだろう」
言葉を濁さずに、はっきりとそう言い切った。
兵らもそれは分かっていただろう。が、儂までもがそれを明言するとは思っていなかったようだ。皆驚き、うつむき加減だった顔を跳ね上げた。そして、みな顔を何とも言えぬ表情に歪ませながら、儂を凝視した。
それでよい。
内心笑んだ。そして、言葉を続ける。
「が、それで終わりではない。藤ヶ崎から援軍が向かっている。北の砦を取り戻したそうだ。先日藤ヶ崎を出陣した者らが、次郎右衛門らと共にもう奪い返してしまったらしい。つい先程早馬で、援軍に向かうという言葉と共にその報せが届けられた」
儂のその言葉に兵らはざわめいた。
無理もなかった。どんな妖術を使えばそんな事ができるのだと、誰しも思うだろう。この者らとて、北の砦に向かった者らがいつ藤ヶ崎を出たのかくらいは知っているのだから。
だがその時、
「者ども静まれいっ! まだ永倉様のお言葉の途中であるぞっ!」
百人組の組長の一人がそう大声を張り上げた。
すると兵らは、すぐに口を閉じ静かになる。ただし今度は、顔をしっかりと上げてこちらを見ていた。
それを確認し、儂は一つ頷いてみせた。そして先を続ける。
「ただ援軍が来るとは言っても、流石に今日の戦には間に合わぬ。かといって、ここで戦をせぬという選択も出来ぬ。故に我らは、此度の戦敗れるだろう」
もう一度『敗れる』と明言した。しかし兵らに、先程のような動揺はもう見られない。
先程と違って意識が集中しており、注意力があるせいだろう。それを口にする儂に悲壮感がない事を、きちんと察する事ができている。話の続きを聞く体勢がきちんとできていた。
「今日は負ける。そう、『今日』は。しかし、最後に勝つのは我々だ。昨日まで見えなかったその道筋は見出された。すでに照らし出されている。もう一度言おう。この戦、最後に勝つのは我々だ。故に今日の戦――たとえ負けようと、断じて犬死にをする戦ではないっ!」
そう、声高に宣言した。
兵らは、真剣に耳を傾け続けている。
武人たる者、死は常時覚悟しているものだが、まったく価値を見いだせない死ほど恐ろしいものはない。武人にとって、そこだけは決して譲れぬ線なのだ。
しかし、それがなくなった――それだけでも、どれ程この者らの心に安堵を与えた事だろうか。
儂も武人だけに、その気持ちがよく分かった。しかし、そのまま心行くまで戦われても困る。だから、まずこれを伝えねばならない。
「だからもう、此度の戦で死を恐れる必要はない。されど、儂は主らに更なる過酷な要求をしようと思う。よいか? 水島の兵として存分に戦うがよい。勇猛に戦うがよい。……されど生き残れっ!」
場は静まりかえり、しわぶき一つない。
更に続ける儂の声のみが、低く、されど強くその場に響いた。
「ここで死のうが犬死にではない。国の礎になろう。されど、犬死にはなくなった――その意味するところは、主らがその命を賭ける戦はこの先もまだまだ続くという事だ。故に、軽々しく死んではならぬ! 安易に諦め、楽をする事など許さぬっ! ……よいな?」
そして兵ら一人一人の顔を見つめるように、全体を見渡していった。
儂の目に映る兵らの顔に、先程まで浮かんでいた絶望の色はすでになかった。心を支えるだけで精一杯だった誇りは力強さを取り戻し、もたらされた希望は覇気となって身から立ち上っていた。
誰もが紛う事なく同一人物ではあるが、兵として見れば先程までとは別人のようになっている。
ガン……、ガンッ……、ガンッッ――――。
一人、また一人と、手にした槍の石突きで地面を叩き出した。人数が増えるにつれて、音も次第に大きくなってくる。
槍を持たぬ者たちも、槍がないならばとその足でと地面を踏み鳴らし、力強くその存在を誇示し始める。
これならば戦える。
将として長い時を過ごした直感が、この兵らの様子を見てそう教えた。
だから最後の締めとして、儂は声を張り上げた。
「者ども、参るぞっ! 主の為、名誉の為、誇りの為、家族の為、そして民の為っ――この命を賭けて、いざ戦に臨まんっ!!」
「「「「「応っ!」」」」」
やや底冷えのする早朝の事、轟く儂の檄に応え、兵らに火が入った。
それは、戦を前に瀬戸際で間に合った――闘志の復活であった。