幕 平八郎(一) 届けられた言葉
夕暮れ近くには東の砦手前辺りまで来た。
砦より炊き出しの煙が上がっているのが見える。煙は幾筋も幾筋も上がり、風に棚引いていた。
その数を見れば、否応なくそこにいる人間の数を感じる。二百やそこらの兵の飯炊きの煙にしては数が多すぎた。
乱波が報告してきた通り、あそこにはもう敵しかいないのだ。それを改めて思い知らされた。
手綱を握る拳に思わず力が入る。が、今ここで力んでいても、また手をこまねいて眺めていても、どうにもならない。
こちらも、どこかに腰を落ち着けねばならなかった。
もっとも、選べるほどに幾つもの候補地がある訳でもない。まして状況に沿う妥当な場所という事になれば一つしかなかった。
双子山の片割れ――飯尾山だ。
水を確保でき、砦の監視が容易という二つの条件だけでも、選べる場所はそこ一つに絞られる。
飯尾山ならば、気付かぬうちに砦から藤ヶ崎に向かわれるような事はない。山が南北に綺麗に並んでおらず、赤銅山がやや東に、そして飯尾山がやや西にずれている。その為、軍が街道を通り藤ヶ崎に向かう為には、飯尾山に陣取る儂らの目の前を通過するしかなくなるからだ。
その利点を考えると、今の儂らにとってはもう他の選択肢がなくなる。
故に、軍を街道から外れて一度南下させた。そして裏へと回り、そこから入山する。
そのまま街道沿いに進めば容易に飯尾山に入山できるのだが、そうなると砦のすぐ近くから入山する事になってしまうからだ。それは流石に避けたかった。
いくら戦に作法があると言っても、そのような徴発じみた事をされて黙っていれば、逆に武人の面子は丸潰れである。
そんな真似をすれば、砦の兵が動き出してしまうだろう。
砦から丸見えの状態の儂らだ。兵力も誤差なく把握される。兵力差は歴然だ。まず間違いなく、その場で布告されて襲われるだろう。
そんな事になれば、その場で終わる。それは避けねばならなかった。
その甲斐あってか、飯尾山の陣敷設中も、いきなり砦から兵が出てくるような事はなかった。無事陣の敷設に成功する。
儂は陣の正面に立ち、再び砦を眺めた。
視界を邪魔する物は何もない。道一本を挟んで、二つの山の勾配に向き合って互いがあった。すでにすっかりと周りは暗くなっていたが、互いの姿はそこで燃やされる炎がはっきりと映し出していた。
こちらの様子も敵に丸見えではあるが、その代償に素っ裸の砦を真正面で観察する事が出来た。
どうにかこうにか、ここまでは無事に事が進んでいる。
背中で、兵らがばたばたと食事の支度をしている音が聞こえた。
ここまでほぼ一日歩き通しで、兵らも精々が糒ぐらいしか口にしていなかった。そのせいか、ようやくありつけたささやかだが暖かい飯に、小さな喜びを見出しているようだった。
儂もその恩恵に授かる。暖かな飯は冷え切った心を多少は暖めてくれた。
だがそんな小さな幸せは、そこまでの事となる。
食事が終わり人心地がついた頃、思わぬ来訪者があったのだ。正面の砦から、白い旗を掲げた使者がやってきたのである。宣戦布告の文を携えて――――。
正直、これは予想外だった。
もし仮にあ奴らから布告があるとすれば、もう少し様子見をした後だと思っていた。今の状況ならば、時は奴らに味方する。悔しいが、それが現実なのだ。故に、攻め手であっても無理をする必要がまったくない筈だった。
が、それに反して布告してきたのである。
様子見など時間の無駄。何かあってもそれごと食い破ればよい――そう考えたらしい。今現在でも十分といえば十分な兵力差をもって、儂らを踏みつぶす事にしたようだ。
今の儂らにとって、それは非常に望ましくない事だった。はったりがまったく利いていない。
無論、じっくりと腰を落ち着けて確実に来られるのが一番厄介ではあった。そちらを選ばれていたら、本当に苦しくなったであろう事は想像に難くない。
しかし、現状打開策が何もなかった。故に、それを考える時間を得る事ができなかったのは、本当に痛かったのだ。
実際儂は、とりあえずは北の砦と同様の方針でいくつもりだった。いや、それしか打てる手がなかったと言った方が正しいだろう。
少数でも堂々と振る舞い何事かあるかもしれぬと敵に用心をさせ、そうして稼いだ時間で増兵しつつ、抜本的な対策を模索する――――。
当面この方針で対峙する予定だったのである。
幸い儂の名前は世間に通っているので、今回はそれも儂らにとって都合の良い方に働くだろうと考えてもいた。
しかしそれは、無情にもこの布告ですべて御破算となった。
とはいえ、こうなっては是非もなしである。受けるしかない。たとえ、倍の兵力相手に勝つ方法が見つかっていなくとも。
しかも今回、布告に当たって敵方はとんでもない事を言い出した。戦場を指定してきたのである。
習わしにより、本来儂らに戦場の決定権があった。にもかかわらず、布告文の中に『双子山の西の盆地にて』と戦場を指定する文言があったのだ。
これは儂らにとって死活問題だった。彼我にこれ程の数の差がある状態で、あんな広い場所で戦うなど、明らかにこちらに不利だった。もっと正確に言うならば、ただの自殺行為である。
当然、使者にも異を唱えた。
が、完全に足下を見られた。曰く、「我々は貴公らを無視して藤ヶ崎に向かっても一向に構わぬ。その我らにいつ襲いかかって来て戴いても結構ですぞ? そちらの方がよろしいか?」と使者は言った。
金崎家の三森敦信にしては、なかなかに下衆なやりようだった。少なくとも、今まで見聞きしてきた彼奴の人物像からは外れるやり口である。
未だ若いが、それなりに認めていた者のこのやりように、儂は若干の失望を覚えた。
が、そこで一つ思い出す。そう言えば、今回はもう一人大将格がいたな、と。
そのもう一人は確かにある意味でやっかいではあるものの、武人として、将として、小物過ぎた。そのせいで、あまりにも自然に儂の思考から外れていた。
種田忠政である。
あの者ならば、この手のやり方をするだろう――そう思い出した。元々そういう男だからだ。奴はこのようなやり方で、今の地位まで上がってきた者だった。
そこに思い至ると、ここで怒るのは奴の思うつぼだと、荒れる心が静まった。
他人の思いや情を土足で踏みにじりながら利用し、そこに生まれる感情も当たり前に利用する――元々そういう男だったが故に、今更怒る理由など見つからなかったからだ。
三つ子の魂百まで。おそらく今もそうである筈だった。悔い改めるような殊勝な性格もしていない。
始めこそ三森敦信の手だと思い頭に血が上ったが、今回のこの布告はまず間違いなく種田の意思が多分に入っている。そう思われた。
となると、これ以上この使者と言葉を交わしても、まったく意義はなさそうだった。
そう結論し、それ以上の言葉を交わす事を止めた。その時間が勿体なかった。故にその使者に承知したと告げ、最後に「明朝日の出とともに西の盆地にて」とだけ伝えて陣外に放り出してやった。
明朝の戦が決定した瞬間だった。そして、おそらくは儂の命運も。
精々、御館様の名を汚さぬ死に花を咲かせて見せよう。そう、思う。
ただ、やはり無念ではあった。御館様の頼みを守れなかった事、そして姫様をこんな渦中に残して逝かねばならない事。それを思うと、胸が締め付けられた。
菊よ。姫様の事、くれぐれもよろしく頼む――――。
己の無力を噛みしめながら、胸中でそう娘に託す事しかできなかった。
そんな思いを胸に、戦の前夜を過ごした。当たり前に眠れぬ夜だった。そのまま運命の朝を待っていた。
だがそんな時、再びの思わぬ来訪が告げられたのである。
「何っ?! 伝七郎からの早馬だとっ?」
「はっ」
「すぐに通せっ」
一体どういう事だ? あ奴らは北の砦の攻略に向かった筈。それが何故ここに早馬などを寄越す? 失敗……したのか? いやそれにしても早い。早すぎる。分からぬ。一体どういう事なのだ……。
天幕の中でその報せを受けた時、正直儂は混乱した。そして焦った。あちらが失敗していたら、いよいよ儂らは打つ手なしになってしまう。今の儂に、あちらに手を貸せる余裕などないのだ。
待っていられずに、腰を上げた。そして油の光灯る薄暗い天幕の中から、外へ出て待つ。
敵に姿を晒している陣中だ。松明を遠慮なく焚いていた。そのせいで、天幕の中よりも遙かに明るかった。
するとすぐに、先程報せにきた者が一人の男を連れて戻って来た。
案内として先導する兵は、やや胡散臭げな様子で警戒しながら男を案内してこちらへと歩いてくる。一方問題のその男の方だが、水島の御貸具足に身を包み、堂々と顔を上げ歩いてくる。そしてその顔も、まるで何かを達成した者のように満足そうな表情をしていた。
ただ早馬という割に、まるで一戦交えたかのように貸し与えられた鎧は見事に埃まみれ泥まみれだった。しかしながら、土汚れた鎧のその胸に、見紛う事なき水島家の家紋――上がり藤一文字があった。
剥いだか?
そう思った。敵の間者が、こちらの兵の死体から鎧を剥いだ可能性を考えた。忠政ならば、そのくらいの事はやっても不思議ではない。
それと分からぬ様に、少し警戒を強める。
案内してきた兵は儂の前までその男を連れてくると、頭を一つ下げて下がっていった。儂の前には男が一人残される。
その男は案内の兵が下がると、すぐに片膝をつき頭を深く下げた。
「ようございました。本当に。間に合って、本当にようございました。永倉様。佐々木様からの書状と言伝をお持ち致しました。まずは、この書状に目をお通し下さいませ……」
そう言って、その者は鎧の下に右手を入れた。
密かに体を変える。見た目にはそうとはっきり分からぬよう。しかしいつでも動けるように身構えた。
だが、どうやら儂の思い過ごしだったようだ。
書状を入れた布は、余程体にしっかりと巻かれていたらしい。結び目が解けないようで、鎧の下に入れた手を未だ激しくもどもぞとさせていた。そしてそのままでは埒があかないとみたのか、男は「失礼」と儂に一言断ると鎧を脱ぎだした。
見ると、書状が入っているらしい長く折られた布の帯は、たすき掛けで胸部にしっかりと巻き付けられ、固く結ばれていた。男はその布を外し、中から書状を取り出す。そして再び片膝をつくと、取り出したその書状を儂に差し出してきたのだった。
差し出された書状を受け取り、中身に目を通すべくすぐに開く。
すると、まず最初に殊更力強く太い文字で書かれている一文が目に飛び込んできた。それはこの書状の一番始めにあった。そしてそれは、その下を読まなくても、この書状がどういう物であるかを察するに足るものであった。
北の砦奪還いたし候――――
驚いたの驚かないのという話ではない。儂はしばらく言葉を失った。
それはそうだろう。あ奴らが出て行って、今日が四日目なのだ。よもやあの伝七郎が、こんなつまらぬ嘘をつくなどとは思ってはおらぬが、それでもにわかには信じられなかった。
何は兎も角、その先を読み進める。
この書状を書いている時点で、すでに藤ヶ崎にいる事。ほぼ現在の状態は把握できている事。すぐに援軍に向かう事などが簡潔に書かれていた。そしてそれまでは、例え武名を泥に塗る事になろうがあらゆる手段を用いて生き延びて欲しいとも。
北の砦を落としてすでに藤ヶ崎という事は、藤ヶ崎と北の砦の距離を考えると、ほとんど向かったなりでそのまま落としてみせたという事になる。とんでもない事だった。
とは言え、援軍に来ると言っても、もう藤ヶ崎に余剰の兵はいない。儂が全部連れてきてしまった。今現在藤ヶ崎だというならば、伝七郎とてそれは承知しているだろうが、どうするつもりなのか。
しかしそれでも、読み進めていったこの書状を締める言葉が、今の儂には何よりも心強かった。未だ若輩と侮る気にはなれなかった。
あの者らは、結果を出し続けている者なのだ。そして、その者らがこう言うのである。
我ら皆で帰る
そう姫様と約束いたし候
故に此度も勝つのは我ら也――――




