幕 平八郎(一) 東の砦落ちる
「承知致しました。姫様の事はお任せ下さい」
菊は、儂の頼みには即座にそう答えてくれた。
ただ頼みは聞いてくれたものの、なおも儂の身を案ずる娘への対応に苦労する事となった。それを何とか宥め話を終える。そして再び、出陣に向けての準備へと戻る事にした。
可能な限り急いだ。
しかし最低限の準備が整ったと報告が来たのは翌朝だった。朝日とどちらが早かったのかというような刻限になっていた。
もうあと少ししたら、東の砦に向けて出発する予定だ。
今回の出陣は、姫様には内密にしておくように昨晩菊へと伝えた。ひっそりと発つつもりである。
伝七郎らに続き儂までもなどという事になれば、無駄に不安を煽ってしまうだろう。無用にその幼い心を不安がらせるような真似は、極力避けたかった。
出陣に向けての準備が終わったとの報告を受けた後、井戸端へと向かった。
そこで染みる朝日に目を細めながら、冷水を浴び身を清める。徹夜明けでぼうっと火照った体の表面を、桶からぶちまけた冷たい水が流れ落ちていった。井戸水の冷たさと朝のきりっとした寒気は、ぼやけがちの意識に活を入れてくれる。
意識が細く鋭く、研ぎ澄まされていく。これから戦場に向かうに相応しい心持ちへと変わっていった。もうすでに何度こうしてきたか分からないが、とても好きだった。戦場で武器を振っている時以外では、武人としての自分をもっとも自覚できるからだ。
その後部屋へと戻り、人を呼ぶ。共に長く戦場を駆けてきた愛用の鎧を身に纏った。
そして戦支度が整い終わる頃合いに、厨から侍女が湯漬けを用意して運んでくる。出陣前だ。のんびり座って飯など食う気分にはならぬし、またその時間もない。戦の前は、これが一番だった。
碗を受け取り立ったまま、ざぶざぶと飯をかき込み飲み下してゆく。碗を空にすると、
「ふぅ……」
と大きく、胸に溜まった息を捨てる。
そして空になった碗と箸を侍女に突き出し、
「出るぞっ!」
と館の者たちに向けて、そう大声で宣言した。
そのまま藤ヶ崎を発ち、八百程の兵を率いて東の砦に向けて街道沿いに進んだ。今はまだ道半ばといったところか。
乱波を放って、すでに二刻ほど経っていた。
東の砦がもしすでに落ちているならば、このままそこまで進軍してしまうと大変な事になる。正直この救援、間に合わぬかもしれぬという不安が、東の砦からの報せが届いたその時からあった。その為用心して、現在の砦の状態を確認させるべく、乱波を放ったのだ。
ただでさえ、今回の戦は儂らにとって良い材料は何もなかった。兵の士気でさえも、最悪といって過言ではない酷い状態である。
武士たる者、そんな覚悟の足りぬ事では士道不覚悟というのは容易い。だが、無理もなかった。武士も人なのだ。
東の砦の兵は二百程。儂らと合わせても千。敵勢の方が多かった。
それに、これでさえ最高に都合の良い見積もりである。儂らに最も都合が良い様に事が進んで、この条件で戦えるという有様だった。
砦の兵の数は二百。もし千五百の敵に布告でもされれば、まず間違いなく何も出来ずに敗北する。そして砦は奪われる。
その時には兵力差は約倍まで広がり、物資の補給もかなわぬ上に、こちらからあ奴らに布告をせねばならなくなる。となれば、戦場を選ぶ権利までもが奪われる事になるのである。
どう考えてみても良い要素などなかった。更に言うならば、儂らが知らぬだけで、もうすでにそうなってしまっている事も大いにあり得た。皆の者の士気が上がらぬのも無理のない事だった。
このままでは非常に不味い。将として、無論それは承知している。しかし、その負の思考を打破できる材料が何もないのが非情に痛い。
項垂れがちに歩む兵らをそれとなく観察しながら、戦が始まる前までには何とかせねばならぬと、あれこれ思考し続けた。
すると、前方遠くに騎馬がこちらに向けて駆けてくるのが見えた。
先程放った乱波だった。
そのまま道沿いに進み、戻ってくる乱波と合流する。
到着した乱波は馬から飛び降りた。周りの兵が乱波が乗っていた馬の手綱をとって落ち着かせている。
しかしその乱波はそれには目もくれず、すぐに儂の元へと駆け寄った。そして片膝をついて、口早に報告をする。
「申し上げます。東の砦はすでに陥落。砦は金崎らの兵で溢れかえっております」
……やはり間に合わなかったか。
予想していたとはいえ、辛くまた厳しい報せであった。
「それで彼奴らは皆砦か? 砦の者たちは? 戦場は?」
「はっ。敵勢は皆砦に入った模様。少なくとも道中で接触する事も、また大規模に展開されている部隊も見かる事もありませんでした。砦の兵は……、全滅です。砦の者らは砦の更に東の峡谷にて決死の戦に臨んだようです。あの狭く深い谷の底では逃げる事はかなわなかったでしょう。戦場の地形的に逃げる道を捨てて、少数で多数に少しでも打撃を与える道を選んだものと思われます。結果、雄々しく獅子奮迅の働きの末、全員力尽きたものと……」
乱波の任につく者にしては、時に言葉を詰らせ、時に言葉の最後を濁しつつの”らしくない”報告をしてきた。
現場には凄惨な光景が残っていたのだろう。
すぐにそう思い至った。話を聞いて脳裏に浮かんだ光景は、今までに何度も見てきた光景だった。そしてそれは、見慣れた者が見てもそうなり得るものであった。
儂は「耐えよ」と、藤ヶ崎にやってきた早馬に伝えた。が、いくら儂が耐えよと申したところで、二百と千五百の数の差で布告なんぞされれば、背中に回られぬ様な場所で戦い散るか、逃げるかしか道などないのだ。
そして砦の兵らは、戦い散る方を選んだのである。
真の武士であった。正に忠勇の士である。家臣の腐敗具合を嘆きながら亡くなられた御館様に、是非とも報告したい水島が誇るべき立派な家臣たちであった。
この潔くも苛烈な最期を遂げた砦の兵らに、武士としての敬意と、大将としての感謝の念をもって、刹那の黙祷を捧げた。
それから、
「そうか。ご苦労。下がれ」
と目の前の乱波に告げた。
「はっ」
任務を全うし砦の様子を知らせてくれた乱波は、そう返事をすると一つ頭を深く下げ着いていた片膝を上げた。そして、下がっていった。
どうする……。
砦の者らの心意気を無駄にするような真似は断じて出来ぬ。あの者らの志は、絶対に粗末に扱ってはならないものだ。だが、このまま当たり前に戦に臨んでも、まず間違いなく敗北してしまう。そして儂の敗北はそれ即ち、あの餓狼どもに藤ヶ崎までの障害なき道を開いてしまう事なのだ。
どちらも受け入れる事は出来ない。出来る訳がない。
だが……、どうする――――。
どうにもならない。
だがそれでも。どうにもならなくとも。誰かが成さねばならぬ……。成してのけねば――――すべてが終わるっ。
油断すると地を這おうとする視線に、何度も活を入れる。弱気が芽生える度に、何度でも何度でも己の心を叱咤する。
そして前を――落ちた東の砦ある方角を見据え続けた。
そこには、死の匂いなど全くしない光景が広がっていた。秋晴れの空の下、紅葉した木々に彩られた山々が、ゆったりとそこに座している。それは真に美しく、そして静かな光景だった。