幕 平八郎(一) 間者
桜の仕掛けた罠にまんまと嵌まった。今夜は針の筵に座る事になるのかと覚悟をした。
しかし、そんな事にはならなかった。以降菊は、これまでの話を続けなかった。ただ儂の杯に、酒を注いだのである。
やや情けなくもあったが、それにほっと安堵の溜息を吐く。
気を取り直して、星を眺めながら娘の酌で酒を呷り、秋虫の声に耳を傾けた。
ささやかな幸せを、静かに味わった。
そしてその合間合間にぽつりぽつりと、離れていた一年の間にあった事などを、菊は話した。
そのほとんどが姫様の事であった。しかしそれは、きちんと姫様をお守りしお世話できていたという事である。誇らしかった。
それに話の中の姫様の悪戯ぶりは、いくら聞いても飽きる事はなかった。ただただ姫様らしくて、大変微笑ましかった。
それらの話は、星の瞬き虫の声と共に、ここの所ささくれ立っていた儂の心を癒やしてくれた。そうして癒やされるまで、己の心が想像以上に傷んでいた事に気がついていなかった。それを教えられた。
程よく夜が深まってきて、菊は儂の部屋を下がっていった。最後に「父上。ご心配なく――――」と背中越しに言葉を一つ残して。
さてその言葉が指すのは、姫様の事か、あの小僧の事か。はたまたその両方か。一つ間違いなさそうであるのは、儂はただ見守っていれば良さそうだという事だ。
お手並み拝見――――。育った我が子がそう言うのだ。親としてはそれを見守るべきだろう。外から娘の成長ぶりを眺めるというのも、それはそれで存外悪くなさそうだった。
菊が去った後も、しばらく一人で酒を呷った。同じ酒、同じ手酌だったが、ここの所一人で呑んでいた酒よりも、なぜか随分とましな味がした。
あのような経緯ではあったが、ここの所張り詰めていたせいで忘れていた桜の顔を、思い出したせいであろうか。
翌朝、まだ陽が昇らぬうちに目が覚めた。
昨夜――といってもつい数刻前の事だが、久しぶりに旨い酒を呑んだ。おかげで、普段よりもやや多く呑んでしまった。
そのせいで今朝は寝過ごすかもしれないと、眠りに落ちる前には思っていたのだが、むしろ普段よりも早く目が覚めた。しかも妙に頭がすっきりしていて、気持ちがよい。
良い酒というのは悪酔いをしないものだが、その『良い』というのはただ単純に品質の事だけではない。今までさんざん呑んできた酒だが、それを再確認した。
着替えをした後、庭側の障子を開け放つ。そして、夜明け前のまだ暗い庭を眺めた。
朝の匂いが心地よい。
しばらくそうしていると、閉じられた襖の向こうから急に呼ばれた。
「永倉様。永倉様。お目覚め願います――――」
慌てた様子で、そうやや早口で声をかけられる。
「起きている。こんな早朝から、何事だ?」
「はっ。申し訳ありません。先程から何人もの侍女がこちらに参りまして、何でも戦装束の神森様が館内を駆けているとか。侍女らが不安がっております」
はっ? なぜだ? まさかこのままここを奪おうとでも――――いや、それはないか。あれ程の者だ。それをして仮に成功しても、その後どうにもならなくなる事ぐらい承知しているだろう。そもそも成功する見込み自体が、ほぼない。
では、なぜだ?
「伝七郎や、やってきた兵らは?」
「いずれも、動いたという報告はまだありません」
やはりか。他が全く動いていない。
「報告があったのは神森一人で間違いないな?」
「はい。ですが侍女らの話では、鉢巻きをし陣羽織を羽織って、刀を手にされているとか。証言は皆同じですので間違いはないかと。尋常な事ではございません」
ふむ。
「分かった。儂自ら確認する。皆には儂からの指示があるまで動くなと伝えよ。それであの小僧は、今どこにいるのだ?」
「はっ。報告では、佐々木様方に割り当てられた部屋のある廊下のようです」
「分かった。下がれ」
「はっ」
一体何をしようというのかは分からぬが、おそらくは皆が心配しているような事ではあるまい。
それは確信していた。それ故に、何をしようとしているのか――と単純に興味が湧いていた。
すぐに部屋を出る。
朝っぱらから騒がしい事だが、彼奴らがやってくるまで、この様に何かが面白いなどと感じる事は久しくなかった。
若き日々を思い出す。
あの頃は毎日退屈だなど思う事はなかった。面白い事があればそれに顔を突っ込み、なければ無理やりにでも起こす。そんな毎日だった。
歳を食って忘れていたが、やはりこういうのもたまには悪くない。結局、三つ子の魂百までという事なのかもしれぬ。
そんな事を考えながら、小僧がいるという場所を目指して廊下を進んでいった。
その道中、何人もの侍女らに会った。
もうすでにこの者らの仕事は始まっているし、この館の侍女の数は決して少なくない。当然と言えば当然であった。
その皆が儂の姿を見かければ、廊下の脇に寄り頭を下げてくる。それに返事をするついでに、小僧の件について軽く聞いてみると、すでにかなりの人数が報告通りの姿の小僧を見かけてるようだった。
どうやら今は廊下の隅に片膝をついて、鋭い視線で信吾に割り当てた部屋の方を見据えているらしい。ぴくりとも動かないようだ。
将らに割り当てた部屋は、すべて同じ並びにある。つまりそこには、あの小僧にとって仲間しかいない。やはり予想通り、皆が心配したような事ではなさそうである。
ただ、なさそうではあるのだが、そんな所で戦装束を纏って一体何をしているのだろうか。ますますもって分からなくなった。
そう疑問を膨らませながら件の場所が見通せる所までやってくると、確かにいた。報告通りの姿で、まるで何かを待ち伏せしているかのように、ひっそりと夜明け前の廊下の闇に紛れていた。
「…………お主、朝っぱらから一体何をやっておるのじゃ? 侍女らが怯えて、儂の所まですっ飛んできたぞ」
近くまでいってもまだ気がつかぬ程に集中している小僧に、後ろから声をかける。
すると小僧は、体をびくりと大きく震わせこちらを振り返った。そして儂の姿を見ると、安心したようでもあり非難するようでもある眼差しに変わって、「おはよう」と応えた。
やはり儂らに対する害意はなさそうだった。ただその割りには、やたらと殺気立っている。これでは、武の心得のない者や未熟な者では勘違いしても仕方がない。
それ程に殺気と、他に苛立ちのようなものが滲み出ていた。
ただ、その理由もはっきりとわかった。小僧が先程の儂の質問に対し、明確な回答を寄越したからだ。
裏切り者を見つけたらしい。それを粛正するべく、伏せていたとの事だった。
もう少し穏やかな内容だろうと思っていた。しかし、予想以上に由々しき事態だった。もしその言葉通りならば、殺気立っていたのも当然である。今のこの町を、そして儂らを取り巻く環境を考えると、大変な重大事であった。
小僧が話を急ごうとしたのも、理解の及ぶ範囲の出来事と言えよう。
ただ、どこに――と小僧に聞いても「俺は見た」と言うばかりで、とんと要領を得ない。
だが、それもそうかと思い直す。よくよく考えれば無理もなかった。
怪しい現場を見たとして、おおよそすべてと言って良いほどに、この小僧は館内部の事情を知らない。どこに何があって、誰がどこに配属されていて、どういう仕事をしているのか――それをまったく知らないのだ。故に怪しいと感じた者を見ても、それを説得力のある形で説明できないのだろう。
これは、儂自身で調べ直した方が話が早そうだった。裏切り者が本当にいるのかいないのか自体は正直まだ分からぬが、怪しい現場だけは間違いなくあったのだろう。まったく油断ならぬ藤ヶ崎の現状を考えると、調べぬ訳にはいかなかった。
「そうか。おおよその話が見えてきた。この件は……。ん? 小僧? おい、小僧。小僧っ!」
この件は儂が預かると伝えようとしたのだが、小僧も小僧で何やら考え事をしていたらしく、儂が話しかけている事に気づいていなかった。だが何度か呼ぶと、ようやく気がついたらしく、きちんと応答を返してきた。
この時期のこの内容だ。小僧ほどに頭のきれる者ならば、気にして当然ではある。
本来、それ程の事態ではあるのだから。
ただ儂にとっては、確かに由々しき事態ではあるものの、正直またかという思いが心の内にあった。
旧時代の膿を出してからというものの、それまでの伝手を使ってこちらの情報を得ようとする輩が後を絶たなかったからだ。こちらの情報を継直に渡して、少しでもその覚えを良くしようというのだろう。膿は膿。それを実感させられていた。
ここの所、その類いの者を見つけては処理をし続けていたのだ。今回小僧が言っているのも、おそらくはそれらに同類の者と予想している。調査は先入観を抜いて行うが、まずその線で間違いない筈だった。
真に情けない話ではある。だが、これが今の藤ヶ崎の現状だった。
大体状況は把握できたので、その後軽く小僧と雑談を交わした。場の空気も少し和む。
そして話に一区切りがついたところで、もう一度この件は儂に任せるように念を押した。
交わした雑談の中でも、この小僧の非凡さが窺えた。伝七郎を本当に認めている事なども知る事が出来、大いに収穫があった。
でもだからこそ、この件は儂に任せろと言った。
この様な余計な事に気を遣わせて、今こ奴がするべき事を疎かにしてもらいたくなかったからだ。
これは儂のするべき仕事なのだから――――。
小僧と別れると、すぐに館の警備を担当している者らを呼ぶ。そして、ここ最近で館外に接触した形跡のある者を洗いざらいにしろと命じた。
ようやく処理が終わったと思っていた。
しかし、まだ残っていたのかもしれなかった。故に、まずはもう一度確認するように言い渡しのだ。
作業は非常に手際よく進められ、綺麗に、そしてわかりやすく纏められた報告書がさほど待つ事なく届いた。おそらく、ここの所この手の作業ばかりさせていたせいだろう。
嬉しいような嬉しくないような、複雑な気持ちになる。
ただ今回早かったのは、どうもそういう事だけではなさそうだった。調査資料の洗い直しなどしなくとも、あからさまに怪しい人物がすぐに浮き上がってきたらしい。
その者は、侍女の一人だった。これまで完全に白だと思っていた人物だそうである。今までも、特に怪しい行動などはしていなかったとの事であった。
その女は、儂と同時に富山からここ藤ヶ崎にやってきた者だった。
藤ヶ崎に来る前の事はまったく分からない。一侍女の雇用に際し、そこまで詳しい資料などとっていないし、仮にあったとしても富山である。
そしてこの侍女は、今日の早朝仕事場に姿を現したが、その後急に姿を消したとの事だった。
ただ、もしこの侍女が間者だとすると、少なくとも一年前から潜伏していた事になる。それはつまり、継直の謀反もそれ以上の前から計画されたものだったという事に他ならなかった。
思わず舌打ちが漏れた。悔しさで歯を砕きそうだった。
だが今はそんな場合ではなかった。己の無能さを責めるのは後だ。
まず考えねばならない、大きな疑問点がある。
これ程長く潜伏できるような用心深い者が、なぜこれ程急に、しかも正体を明かすのも厭わぬと言わんばかりに荒い撤退をしたのか。
その点がどうにも分からなかった。
正体がばれたのをいち早く察したか。
小僧は粛正する為にあのような場所で張り込んでいると言っていた。が、侍女らに姿を見られていた。隠業よりも攻撃のしやすさを優先したようだ。
だが、他の侍女らが騒いでしまったのが致命的だったろう。相手が侍女に扮していたのだから、小僧がその間者を見つけるよりも先に、その間者が小僧の姿を見つけた可能性が低くない。
とは言え、察したと言うには、いくらなんでも早すぎた。
小僧が狙っているのが自分だと、どこで判断したのか。早朝陽が昇る前に発覚して、今現在まだ昼前なのだ。それを判断する為の情報を集める時間も、小僧を観察する時間もなかった筈だ。
まあ、よい。捕まえて、取り調べてみれば分かる事だ。すでにその者を捕らえるように指示は出してある。後は待つのみだ。
だが結局、これは分からず仕舞いとなった。
逃げられました――――。
昼過ぎに、そう報告が届いた。