幕 平八郎(一) 娘の恋路
その後も伝七郎の所の兵に不都合がないよう、食事や身の回りの世話までを含めた各種手配に奔走した。
そして、そのすべてを済ませる。可能な限りに手厚いもてなしを準備し終える頃には、陽は西の山の向こうに姿を消していた。代わりに、空には満天の星と大きく欠けた月があった。
すっかりと陽が落ちて、風も少々肌寒く感じるようになっていた。そんな中、外廊下を通り、星を眺めながら自室へと戻った。
さして大きくない角部屋である。
掛け軸一本に槍掛け、書机一脚、衣装用と刀用の箪笥が一棹ずつ、そして長持が一つに書見台が一つ――――。我が部屋ながら色気のない部屋ではあるが、ごてごてとしているのはどうも好かなかった。このぐらいすっきりとしている方が落ち着く。
自室に戻ると、庭側の障子を開け放ち、夜空に輝く星々を眺めた。そして静かに杯を傾け、酒を楽しむ。今日も虫たちはよく鳴いていた。
そうして秋の夜を楽しんでいると、内廊下にある襖の向こうから呼ばれた。
「永倉様。菊様がお越しです」
菊が?
緊急の報せでもなければ、こんな時間に儂の部屋を訪れる者などとんといなかったのだが、どうやらそれも終わりらしい。
「通せ」
「はっ」
出入り口の襖の向こうで、知らせに来た者がその場を離れる音が聞こえる。そして、すぐに二人分の足音が近づいてきた。
そっと襖が開けられると、昼間に顔を合わせていたが、久しく会っていなかった愛娘が部屋の前に立っていた。
久方ぶりに娘をまじまじと見る。
親の贔屓目ではなく、真に美しく育ったものである。年頃になり相応に艶も出てきたように思う。誰に似たのかこの娘は、男を寄せ付けぬような生真面目な気性であったので、色艶が出てきたのは大変良い傾向であった。その角張った所のある気性も、近いうちにはその艶やかな容姿につられて、多少は丸く柔らかくなって来るだろう。
「改めまして、お久しゅうございます。父上。ご健勝のようで何よりにございます」
「おお、菊。お前もな。さ、話があるのだろう? 入るがいい」
「はい。失礼致します」
開かれた襖の向こうで、菊は一度静かに膝を折り頭を下げた。そして儂の返事に立ち上がり、楚々とした足運びで中へと入ってくる。本当に、今は亡き妻の若い頃によく似てきた。
部屋の中に入ってきた菊は、儂の正面ではなく横までやってきて腰を下ろす。固いこの娘にしては珍しい態度だった。
だが床に置いたままの銚子の取っ手に手を伸ばした時、菊がどうしてそうしたのか理解できた。
「母上の代わりは到底務まりませんが」
そう言って、手にした銚子をそっと捧げるような仕草をしてみせたのである。
「ああ、貰おうか」
そう儂が応え空になった杯を差し出すと、銚子は傾けられた。
とくとくとく――――。
庭で鳴く虫の声が聞こえる程に静かな部屋に、酒が注がれる音がやけに響いた。そして銚子がそっと離された時には、愛用の朱塗りの酒杯に白みを帯びた酒が満たされていた。
注がれた酒を口に運び、呷る。そして味わった。妻に注がれた酒も良いが、娘に注がれた酒の味も負けず劣らず悪くない。もう男に酒を注げる歳になったのだなあ――と、今更と言えば今更な感慨が胸を満たした。
空になった儂の杯を見て、菊はまた銚子を差し出してきた。
儂も黙って空の酒杯を差し出す。が、菊の奴もただ儂に酒を注ぎに来た訳ではなかろう。
そう思い、視線を逸らし再び星を見る振りをしながら、それとなく目の端で娘の様子を探った。
菊はまっすぐに儂の顔を見ていた。それとなく探ろうとした儂の視線と菊の視線が、真正面からぶつかる。
少々ばつが悪かった。が、今更逃げられぬ。親の沽券に関わるというものである。
んっんっと少々の咳払いをして、儂の方から口を開いた。
「……で話は何だ? 聞きたい事があるのだろう?」
そう尋ねると、菊はどう話し始めるべきかと少し考えるような仕草を見せた後、静かに口を開き始めた。
「おそらく……、父上が何を思われて何をなさろうとしていたのか。それは武殿が昼におっしゃっていた通りなのでございましょう――――」
「…………」
「ですが、それでも直接なぜとお聞きせずにはいられません。本当に姫様よりこの町を奪うおつもりだったのですか?」
菊は真剣な表情で静かに、しかし強く問うてくる。
無論本気だった。し、厳密には今も本気だ。もし、小僧が証を立てられなかったその時は、従来の儂の計画通りに話を進めるしかない。もっとも、もうすでに一度この藤ヶ崎に姫様を迎え入れてしまったので、少々の細工をする必要はあるだろうが。
伝七郎……、いや今回はあの小僧か。あれはどこまで読んでいるのだろうな。
「あの小僧はなんと申しておった?」
すると菊は、何かを思い出したのか少し顔を赤くして、
「特別には何も……。ただ私が推察して話した父上のお考えに対して、あの方は否定されませんでした。ただ、その、あの……『いっぱい悩んだね』と。それ以上を直接聞いた訳ではございませんが、私たちがこのまま何もしなければ父上は間違いなくそうなさるだろうと、あの方は考えておられたと思います」
と言った。
ん? これは……。
いや、今はよい。
とりあえず、やはり思った通りか。
完全に読まれていたな。やれやれ、今日の儂は完全に茶番だったか。
だが、小僧のあの話しぶりでは当然の回答か。
「まあ、そうだろうな。あの小僧はよく見通していた。あの小僧の口ぶりから察するに、おおよそは読み取られていただろうからな」
「ですが、姫様を市井に放り出すなんて……っ」
儂の言葉に菊は食い下がった。
なる程のう。『藤ヶ崎を奪う』ではなく『姫様を市井に放り出す』か。あの小僧め。本当に見通していたのだな。いい歳した身としては、ひよっこにそこまで見透かされるというのは、流石に傷つくのだがな。
「まあ、儂なりに最も姫様にとってよいと思う選択をした結果だ。それで納得せよ」
「……は、はあ」
菊は一応儂の言葉を聞き入れ、首肯する。が、やはり納得しかねるのだろう。なんとも気の抜けたような返事を寄越した。
だから儂は、少しでも娘が口を開きやすいように呼び水をしてやった。
「聞きたかった事はそれだけか? お前には何も説明せずに色々押しつけた。遠慮なく聞いてくれて構わんぞ? 答えられる事は答えよう。言葉を聞き入れてやる事はできぬかもしれぬが、それがたとえ文句であっても構わんぞ? 甘んじて受けよう」
「はぁ……。父上はお狡い。聞きたい事も、言いたい文句も山とございましたが、もう結構です」
しかし菊は、大きな溜息を一つ吐いてそう返してきた。こんな仕草も桜――これの母に本当によく似てきた。
とりあえずは落着かな――と思う。と、なると先程の件だ。
まどろっこしい事をせず、単刀直入に切り出した。
「なあ、菊。お前、あの小僧と何かあったのか?」
先の菊の様子が気になり、尋ねたのだった。
「えっ? あ、あの……」
すると菊は、再び顔を赤くした。そして口ごもる。
やはり、そういう事なのか?
儂の頭は、その娘の様子に目まぐるしく働き出した。
菊は、永らく子が出来ずにいた儂ら夫婦にやっと授かった、たった一人の娘である。もう諦めていたところへの朗報だった。子が出来たと聞いた時には大層嬉しかったものだ。
しかしその代償は大きかった。歳が歳だったという事もあったが、妻は菊を生んだ事が響き、二人目はおろか体の調子を崩しがちになった。心ない言葉を陰で囁かれたものである。
ただそれを耳にする度に相応の報復をおこなったので、いつしかその声を聞く事もなくなったが。
要するにその意味するところは、永倉家の存続はこの菊にかかっているという事である。どこの馬の骨ともわからぬ者にくれてやる事など絶対に認められない。
だがもし、あの小僧がその口に見合う者であった場合、話は変わってくる。あの小僧が本物であるならば、なんとしてでも水島に縛りつけたい。
そして儂の感では、あの小僧は吐いた言葉通りに何とかしてしまいそうな気がしてならなかった。
そうなると、もし菊があの小僧に惚れているならば、むしろ渡りに船である。
菊と祝言を挙げさせてしまえば、名実ともにこの永倉平八郎の後継者となり、かつ水島の重臣への道が開ける。いや、家臣筆頭としての後継には伝七郎もいるから、後継者の一人となる、か。
あの小僧は、その伝七郎との相性がよさそうだったのも大変好都合だ。水島家を支えられる太い柱が二本も立つのだ。体制は盤石となるだろう。
故に、あれがその力を証明してみせるようならば、これを取り込まない手はない。
ただそうなると神森家が新たに興る事になるから、永倉家の存続は危ぶまれる事になる。
されど、流石に水島家の存続がかかる話とは比べられぬだろう。
しかしまあ、そこはそれだ。なんとかする手はある。
菊に頑張ってもらって、二人目の男子に永倉の家を継いでもらえるよう、あの小僧を説得してもらえばよい。永倉家が神森家の分家のようになってしまうが、それは是非もなしだ。本来嫡子をもうけなかった儂の責任なのだから、それ以上は望めまい――――。
と、儂は思案に暮れていた。そしてその間も、菊は腰元に寄せている手をもじもじとさせ続けていた。儂の問いに口を開く様子は、まだない。
この様子ではほぼ間違いなさそうだった。
無理に聞く必要もなかろう。大体わかった――とそう思い、
「ああ……、いや。儂の勘違いだったか。今の言葉は忘れ――――」
忘れよと続けようとした。
が、その言葉に被せるように、菊は意を決したように俯き加減だった顔を上げる。そして赤く染まった顔をそのままに、口を開いた。
「い、いえっ、父上。あの、その……っ、はい」
そして吃りながらではあるものの、最後には思いの外はっきりとした返事をしたのである。
「ふむ……」
『はい』というのがどちらの問いへの『はい』なのかは分からなかった。だがいずれにしても、そう言う事なのだろう。
なれば、もしあの小僧が己が力を証明して見せたそのあかつきには、遠慮なくそのように動くとしよう。そう決めた。そして、
「まあ、分かった。それで、あれの気は少しはお前の方を向いているのか?」
と、肝心要の部分を聞いてみた。もしまだそうなっていないのなら、下準備から始めなければならない。そうなると色々と大変だった。なにせあれには、そうせよと言う術がない。
そう思い尋ねたのだが、儂がそう言った途端に菊はぴくりと肩を一つ動かした。そして一度目を閉じ、先程までのいじらしい様子から急に雰囲気を変えたのである。
いつもの、きりっとした菊に戻る。
そして気のせいかもしれないが、再び目を開けた時にはその視線がどこかじっとりとした気配を帯びていた。
む……。なんだ? なんというか、これは昔懐かしい……。いや、しかしなぜ今菊から?
背中に走るものがあった。
「父上。生前母上は、まだ幼かった私にこうおっしゃいました。『殿方というものは、大層自分勝手な生き物です。菊、良いですか? 将来おまえが殿方をお迎えする時は、必ず惚れさせなさい。愛を口にさせるのです。これは女の戦いですよ? 決して負けるような事があってはなりません』と。…………父上、どうかなさいましたか?」
さ、桜よ……。幼い娘に、お前はいったい何を教えていたのだ?
動揺が抑えられなかった。
そしてそんな儂を、明らかにどう”どうなさった”のかを承知している顔で、菊は正面から見据えた。そこに、今は亡き妻の勝ち誇った笑顔が浮かんで見える。
迂闊な事は言えない。そも、いつ何の時の話でそう言われたのか――それすら分からなかった。
一転して窮地に追い詰められた。
流石はこの永倉平八郎の愛娘よと褒めてやりたいが、追い詰められているのが儂自身ではそんな余裕はない。
「な、なんでもない」
今の儂に許される台詞なんぞ、精々こんなものである。
「そうですか。なんでも、殿方はきちんと惚れさせないと、好き勝手な理屈を並べて浮気ばかりするそうです。そして、女子ばかりが哀しい思いするのだとか」
先程から嫌な汗が止まらない。非常に気持ちが悪かった。
そのような真似をした事はないと思うのだが……。
桜よ。これは余りにも酷い言い草ではなかろうか?
ただ少し、向こうから寄って来る事もあったというだけではないか。希……、いやもう少しあったかもしれんが、儂はお前を哀しませるような事をした事はただの一度もないぞ? その証拠に、我が永倉家はお家断絶の危機を迎えているではないか……。
思わず頭の中で、そう妻への反論が漏れた。
目の前にいるのは間違いなく菊なのだが、なぜか桜に責められているような気がしてならなかった。
菊の容姿が、若き日の桜に似てきたせいなのか。それとも、儂の中にどこか後ろめたい気持ちがあったのか。儂自身にもそれは分からなかった。
儂に分かっている事は、後ろめたい”行為”はした覚えがないという事のみである。
そんな事を考えている間も、菊の口を借りた妻の弾劾は続く。
「とは言え、そんな殿方を縛っては女として下の下だそうです。”自分の手の平の上で”自由にさせなさい――と母上はそうおっしゃっておられました。ですから私は、必ずやあの方の求愛を受けてみせます。さもなければ、私は二度と母上の墓前に参る事ができなくなります」
菊は話しながら改めて決意を固めたのか、更に表情をきりりとさせてそう言い切った。
そこには、先程までもじもじとしていた愛らしい娘の姿はなかった。生来の生真面目な気性を母に煽られて燃やしている――そんな熱い娘がいた。
とりあえず言葉の矛先が、儂から逸れた事にほっとする。
それにしても、桜の奴め。儂の知らぬ所で娘に何を吹き込んでいたのやら。
菊がまだ幼いうちに他界したものの、それでも妻は娘にしっかりと女の戦い方を教えていったようだった。
初な反応をみせていた菊。力強く宣言した菊。どちらも間違いなく菊なのだが、桜のせいで娘の恋は面白おかしい事になってしまったようだった。
生真面目な娘だ。おそらくは真っ直ぐに、小僧へと向けて全力を注ぐだろう。し、美しい娘だから、ただ求愛されるだけならば、それらしい言葉はあっさりと引き出せるだろう。
だがそれは、菊の求めるものとは異なる。おそらく菊は、自分が納得のいく言葉をもらえるまで、『求愛された』とは考えまい。
これと決めた相手に本当の意味で愛されるという事は、そう容易な事ではない。が、それも承知の上の事だろう。
しかしこういう話をされてしまっては、儂は裏方に徹するしかない。おそらくこれは、『余計な手出しは許しません』という娘の脅迫に違いないのだ。
儂には一つの言葉しか許されていなかった。
「そ、そうか」
それくらいしか言いようがなかった。下手な事を言えば、何が飛び出してくるか分かったものではない。それ程に、菊の目は本気だった。
そう答えた儂に菊は、
「はい。それに…………」
と続けようとした。しかし、
「…………いえ、なんでもありません」
と、先程まで儂を脅していた人物とは思えぬ――幸せそうにも面白がっているようにも見える少しはにかんだ表情で、言葉の先を濁してしまう。
「そうか」
「はい」
菊が最後に何を言おうとしていたのか。儂には分からず仕舞いとなってしまった。
しかし菊の表情を見る限り、それは儂が知らなくても良い事のようだった。少々寂しくはあるが、部外者――――という事なのだろう。
儂は今日、初めて娘の中に女を見た気がした。いろいろな意味で。伝七郎ばかりではなく、菊もしっかりと成長していたようだった。