幕 平八郎(一) 神森武 その二
まず姫様の前に膝をつき、臣下の礼を尽くす。
たとえ今日という日を境に袂を分かつ事になったとしても、その事自体には何の抵抗もなかった。姫様が疎ましくてそうしようという訳ではないのだ。
装う必要もなく、膝が自然と折れる。
そうした事によって低くなった儂の首に、姫様は躊躇うことなくぱっと飛びついてきた。
むっ。危ない。
あまりにも勢いよく飛びついてくるものだから、姫様は少し的を外される。儂の顎辺りに額をぶつけそうな軌道だった。
慌てて腕を回し、少しずらして抱きとめた。なんとか姫様は無事腕の中に収まる。
まったく、相変わらずおてんばな姫様だった。冷や冷やさせられる。
しかし姫様は、そんな事はまったく気もせず儂の首にかじりつき、顔をこすりつけてご満悦だ。
記憶の中にある姫様は一年ほど前のものだが、幼子の成長は早い。だから、体は大きくなられていた。が、紛れもなく姫様のままだった。
本当に愛らしい。この愛らしさは、他の何よりも儂の覚悟を揺する。しかし、それを思い留まらせてくれるのも、そんな姫様の愛らしさだった。
絶対に、餓狼どもの野心の贄になどできぬ。その思いが、揺れる覚悟に堅い芯を通してくれた。
再度そんな覚悟を胸に腹にと刻んでいると、件の男が声をかけてきた。
「貴殿が永倉平八郎殿でございましょうか」
その言葉で口火を切ったその男は、自身を神森武と名乗った。声も若い。間違いなく、報告通りに伝七郎と同じくらいの歳だと思われた。
それに、やはり富山からの脱出以降の合流との事だった。
彼奴の挨拶に、出方を伺いつつ相応の礼で返す。
若いからと侮る気はなかった。この小僧を舐めるのは危険だ。感がそう言って、先程からざわついている。現に、この永倉平八郎を前にしても、この者はまったく引く気がない様に見えた。この歳でそのような者に、儂は出会った事がない。
そして、その感はやはり正しかった。
彼奴はいきなり切り込んできた。まずは手始めとばかりに、儂が姫様の元に馳せ参じなかった事をもって、儂の腹の中を探りに来る。
以降、儂と神森の腹の探り合いがしばらく続いた。同時に、互いが少しでも立場の優位を得ようと言葉による鍔迫り合いを繰り返した。
やはり思った通り、やる。小僧と舐めてかかれる相手ではなかった。
そう改めて感じ、さて次の手をどうするかと思い巡らした。
その時ふと視線を神森から逸らすと、その先で姫様がぽかんとした顔で儂の顔を見つめていた。そうして儂の顔をまじまじと見ていたかと思うと、儂の腕の中でくるりと上半身だけで振り返り、今度は神森の顔を見ている。
いかん、いかん。どうやら儂とした事が、若者の才気に当てられて年甲斐もなく熱くなりすぎていたようだ。
神森も微かに苦笑を浮かべていた。
そして儂に向かって、姫様を部屋に案内するように言う。儂もそれに否やはなかった。
腕の中でよくわからぬといった顔で首を傾げている姫様を一度下ろし、奥の謁見の間へと案内する事を決める。
そして広間に向かって歩き出そうとすると、姫様は先程までの怪訝な表情をしまい無邪気な笑顔で儂に向かって手を伸ばしてきた。
手を繋げという事らしい。やはり、記憶の中のままの姫様だった。
少しでも油断すると、あっという間に心を持って行かれそうになる。固めた覚悟も容易に溶けようとした。
だが姫様を大事にしたいならば、事と次第によっては鬼にならねばならないのだ。そうなるかならぬかは、この神森次第だった。
全権を委ねられているだろう伝七郎は、この大事な話において一切言葉を挟まぬつもりのようだ。この神森に、儂との一騎打ちをさせる覚悟と見える。自身は静かな眼差しで儂らの戦いの行方を見守っていた。
儂の知る伝七郎は確かに才覚の片鱗は見て取れたが、まだまだ甘かった。才能のある若者であった。しかし、まだそれだけだった。これ程に肝の据わった男の顔をしていなかった。
だが、この伝七郎も成長を遂げていた。いや、儂が見損ねていた本当の伝七郎の才気が目覚めようとしている。
今の伝七郎は紛れもなく大将の顔をしていた。それも部下の能力に黙って未来を賭ける事が出来る、本物の大将の顔だった。これは、普通この歳の若者ができる顔ではない。少々の才能があったとしても、できる顔ではないのだ。
神森も異常だが、この伝七郎も異常な人物だった。
故に、先程から都合の良い――甘い考えが湧き続けて止まらなくなっていた。
――――もし、もしこの者らが本物だったならば……、と。
まだ何をどうしようとしているのかはわからない。だが、彼奴らの目的だけは明白だった。
彼奴らが市井に潜むという選択をするつもりがないのならば、選べる道など多くはないのだ。
儂を説得するか、或いは打ち破るか――いずれにせよ、この藤ヶ崎の統治権を得るしか道はない。
もしこの者らがそれを求めるに足る者ならば、そしてそれを求めた上でもなお姫様を守り切れる者であるならば、儂は喜んでそれを受け入れよう。
だがそれは、容易な事ではない。
そしてそれがどれ程容易でなかろうと、負えぬ者がそれを求めようとするならば、儂は許せぬ。認められぬではなく、許せぬ。
だから儂は試しているのだろう。この後に及んで女々しくとも、一縷の望みに縋ろうとしているのだ。
――――おそらく、これが今の儂の本当の気持ちなのだ。
姫様の手を引き、謁見の間へと移る。
すると着いてすぐに、伝七郎と神森は部屋の隅へと控えた。
なるほど、これが彼奴らの意思か。
姫様を儂の前でこれ見よがしに『君』として扱う。それによって、儂にも意思を問おうという訳か。
中々に芸が細かい。
内心喜びを覚えながらも、儂は姫様の正面に腰を下ろす。正面におられる姫様の左右後方に、世話役の菊と護衛役であろう先程まで姫様の後ろで警護を務めていた部隊長らしき男が控えている。
さて、儂の意思は伝わったか――と、伝七郎や神森の方を横目で盗み見るが、両名共にまったく動じる素振りもない。伝七郎はこちらをじっと見つめたまま表情を変えぬし、神森はさもありなんとばかりにこちらを見てすらいなかった。
まったくもって、歳に不相応な態度ばかりとりおる。そうも見せつけられると、期待せずにはいられぬではないか。
期待に感情が高ぶる。
そして、姫様が部屋の空気に落ち着かなさそうにきょろきょろとし出す頃、予想通りに伝七郎ではなく神森が口火を切った。
この時見た神森の眼差しその顔つきを、儂は終生忘れないだろう。
静かに、だが炎の意思を背負ってそこにあった。不退転の決意に充ち満ちて、儂の目を射貫いてくる。
まさに意を決した漢の顔を、儂に向けていた。
生意気な……。
心の中に再び歓喜が起こった。
面白い。実に面白い。やはりこの者は、儂を前にしても一歩も引くつもりはないらしい。
それを確信した。
そして、決めた。
ならば、やはり儂は儂であり続けようと。
そしてその儂を、見事破ってみせよ――――と。
以降は、互いに遠慮を置き去りにした攻防へと入っていく。
神森は本気で儂の足下を掬いに来た。どういうつもりかは分からぬが、間違いなく儂を敵と見立てて破りにきた。
応じる儂も、未熟であれば即座に殺す覚悟を決めて相手を務めた。
殺気を本気で神森に当てもした。だが、彼奴は引かなかった。それどころか、むしろ逆に更に前へと踏み込んでくる。
彼奴はここにきて、部屋の周りに伏せさせた儂の兵についても言及してきた。これまでその表情にわずかも出さなかったくせに、だ。
正直、気がついておらぬのかと少々がっかりしていたのだが、そうではなかったようだ。
この者らが資格なき者であった時の為に、兵を伏せていた。が、その存在に気づいていてなお、これまでの対応を貫いていたらしい。
修羅場を何度もくぐり抜けてきた者でも、儂の殺気を浴びればたじろぎぐらいはする。己を殺しに来ている多数の兵らを前にすれば、肝の一つくらいは誰しも冷える。
だがこ奴は涼しい顔をしたまま、遠慮なく儂の謀反を指摘しつつなじりに来た。
そんな人物を見た事は、今までただの一度もなかった。
なんという小僧だ――――そう思わずにはいられなかった。
驚愕せずにはいられなかった。そして感嘆せずにはいられなかった。
それを外に漏らすほど愚かではないが、もしかするともしかするかもしれない――そんな思いがどんどん、どんどんと強くなってくる。
期待が現実味を帯びてきていた。
この時すでに儂の心は、『面白い』から『祈り』に変わっていたのかもしれない。『本物だったならば』から『本物であってくれ』になっていたと思う。
言葉にしきれぬ、そんな期待感で一杯だったのは確かだ。
だが、その思いに流されるのは早かった。
まだ、この者は証明してみせねばならなかった。
己らこそが、この藤ヶ崎を統べる者に相応しい事を。御館様の思いを継ぐ者に相応しい事を。そして、己らこそが姫様の守護者に相応しい事を――――。