幕 平八郎(一) 姫様への対応
ただそれはそれとして、現実的な問題は未だに残る。
膿が出て擁する将兵の質が上がり、戦えるようになったのはよい。
しかし、現実的な話として戦は数だ。良質でなければ腐らせるが、それでも質だけでも戦えないのが戦だ。
今のままでは、どこまで戦えるか正直分からなかった。
が、それでもである。あの奸賊に膝を屈するなど、到底出来る事ではない。
御館様より託されたこの藤ヶ崎の町と民まで、あの愚物の玩具にするなど断じて認める訳にはいかない。
だから、決めた。
――――やはり姫様をこの町に受け入れぬ、と。
おそらく富山を脱した姫様は伝七郎らに守られて、ここ藤ヶ崎に向かっている。
だがこの藤ヶ崎をお渡しするには、この町を取り巻く現在の状況は厳しすぎた。し、姫様は幼すぎた。
とてもその重責を負う事などできぬ。それに負って欲しくなどない。どうしてあのような幼子に、そんな惨い事を望めようか。
かといって一度受け入れてしまえば、姫様の所在は白日のもとに晒されてしまう。受け入れれば、君として内外からその存在は常に意識される。隠し通すにも限度があるだろう。
今現在せっかく姿を眩ます事に成功しているのに、それを軽々に捨てるような真似をさせてよいのか。儂が破れた時、その時も再び身を隠す事に成功するとは限らぬというのに。
何度考えても出る結論は一つだった。心を鬼にしてでも、今の状況ではやはり受け入れてはならない。
それは絶対に姫様の為にはならぬ。
このまま市井に紛れてしまった方が、確実に安らかな日々を過ごせよう。
今どれ程の者らがお守りしているのかは分からぬが、少なくとも伝七郎と菊はその場にいる筈である。あの二人ならば、しっかりとお守りするだろう。
そしてその間に、儂が継直との決戦に挑み倒す。そして領土を回復し安んじてから、ゆるりと姫様をお迎えすれば良い。
それが現実とするにはどれ程急いでも十年はかかろうが、その頃には姫様も立派に成長なされている筈だ。
そしてもし仮に、仮にだが、この悲願が半ばで潰えるような事になるならば、そのまま市井にお隠れになったままの方が姫様の御為だろう。無駄に命を危険に晒すよりは、その方がずっと良い。
やはり、これしかなかった。
儂は決断したその方針に従って、敢えてそれ以上姫様の行方を捜す事をしなかった。
しかし継直の謀反から半月が経とうとする頃、伝七郎に連れられた姫様がこの藤ヶ崎へとやってこられた。
その間にも様々なことがあった。
まずは北の砦の陥落だ。
降伏勧告を無視し続けた儂に、しびれを切らしたのだろう。継直は強攻策に出てきた。そして、あっさりと北の砦を落とした。藤ヶ崎の兵が少なくなっていたのもあり、北の砦に十分な兵を置く事が出来なかったのが、こうも容易く砦を奪われた最大の原因だった。
とはいえ、やむを得なかった。
なにせ藤ヶ崎を狙っている者は継直だけではない。金崎や佐方の動きも活発になってきたと報告が入っていた。国境の敵兵の数が増えているとの報告が幾度も来ていた。
それらへの対応も必要だった為、極めて少数しか砦に兵を配備できなかったのだ。だがそれでは、敵が攻めてきた事を察知するのが精々だった。戦って防衛できる訳がない。結果、どうする事も出来ずにいとも簡単に落とされたのだ。
その後、早急に兵をかき集めた。そして次郎右衛門を将として差し向けたが、膠着状態にするだけで精一杯だった。今でも、次郎右衛門が頑張ってくれているおかげで、なんとか北からの侵攻を食い止める事が出来ている。が、それだけであった。
実際の所、北からの継直の侵攻ばかりではなく、今現在四方八方のすべての国境が不穏と言うよりない状態だった。その中で特にきな臭いのが、北と東というだけの事なのである。
ただ、こうして北方面が膠着状態にはいった頃には、継直の動きを探る為に放った乱波によって、姫様の動向も掴めていた。お探しするつもりはなかったのだが、継直の軍の動きを追っていた所、その情報と共に行方が掴めたのだ。
姫様は継直の追っ手に捕捉されていた。
乱波の報せを受けた時には、正直肝が冷えた。
しかし、その報せは最悪のものではなかった。なんと百に満たぬ手勢で、三百を超える継直の追っ手を完膚なきまでに返り討ちにしたというものだったのだ。
火を使い、山を使い、あっという間に遙かに多い継直の追っ手を壊滅させたらしい。
確かに真っ当に戦ってどうこうできる差ではないが、あの伝七郎が――――と思わずにはいられなかった。姫様をお守りする為に、伝七郎は武士の誇りを捨てたようだった。
儂同様、伝七郎も伝七郎の覚悟をした結果だろう。
すぐにそう思い至りはしたのだが、それでもこれを聞いた時には我が耳を疑った。報告に戻ってきた者に聞き直した程に。
しかしその者は、同じ報告を繰り返した。そして遠くからその様子を確認し、また戦後の戦場も確認してきたとも言った。我が目で見ていながらも信じられなかったと、その者は最後に言葉を付け加えた。
そしてその後、姫様らはここ藤ヶ崎へと向けて軍の進路をとったとの事だった。
伝七郎の迎撃戦に関する報告の後、その乱波はそのように報告してきた。数日のうちにはこの藤ヶ崎に到着すると思われた為、継直の動向を探るという任務を一時中断し、急ぎ馬を飛ばして戻ってきたらしい。
賢明な判断だった。
よもや姫様がこうも早く発見されるとは思いもしなかったし、優れた若者だとは思っていたが、伝七郎がこれ程にやる男だったというのも想定外だった。そのおかげで姫様はご無事だったのだから、ただただ喜べばよいのだが、この展開は本当に想定外だった。
対応の変更を検討する為の時間が必要だった。
しかしその時間は、あの者の才気により得ることが出来た。
おかげで姫様到着の報せを受けた今も、慌てずに済んでいる。あの乱波の報告通りに、姫様はこうして藤ヶ崎近くまでやって来ていた。
やってきた伝七郎らは、この藤ヶ崎に直接やってくる事はなかった。すぐ側に陣を張ったらしい。
そして使者を寄越してきた。
昨日乱波として放たれたという者が、未だこの町が陥落していない事を確認しこの館を訪れていた。その時に、儂はこの藤ヶ崎にいないと伝えているにも関わらずだ。
嬉しかった。水島を支える若い木は確かに育っていた。あれ程に汚れた土壌であったのに、しっかりと育っていた。
もし仮にそのままこの藤ヶ崎に直行してくるようならば、儂は伝七郎と戦わねばならなかった。
だが伝七郎は、儂すらもしっかりと疑ってみせた。姫様をお探ししなかったこの儂を、心に流されず事実だけを見てきちんと疑った。
掛かっているものが姫様のお命である事をきちんと分かっている。姫様をお守りする者に相応しい応対だった。
いま儂は、伝七郎を本当にすばらしい才覚の持ち主だと自信を持って言える。
しかしそんな若者の未来と名誉を、儂は汚してしまった。そういう選択をした。
なじられても文句は言えまい。
先の戦で伝七郎が被った泥は、本来儂が被るべきものだった。あの若者に肩代わりをさせてしまっていた。
儂に許されているのは、そこまでしてもきちんと姫様をお守りしようとしてくれる伝七郎に感謝する事だけだった。それすらも今の立場では、思うだけで口にする事は許されない事である。
今の儂は、姫様やあの者らにとって正しく『敵』なのだ。
だがその悔恨の念と共に、これで儂は安心して敵でいられるとも確信できた。姫様の事は、あの者らに任せておけば大丈夫だと心の底から思えたからだ。
儂は予定通りに振る舞えば良いだろう。
そのまま儂の描いた筋書き通りになるのか、それとも伝七郎の考えた筋書き通りになるのか、それはわからない。それでも、儂のとるべき対応はすでに一つに絞られていた。
いま伝七郎は、儂の出方を伺っている筈だった。
先程やってきた使者にも再び居留守を使った。だが儂がここにいると、伝七郎は間違いなく確信しているだろう。
近々なにがしかの動きをするに違いない。
それがどんなものかは分からないが、久しく感じていなかった気持ちの良い緊張がこの身を包んでいた。
あれから三日ほどになるか……。
伝七郎め、どうするつもりなのか。
相も変わらず、年甲斐もなく胸が弾む。次の報せが楽しみで仕方がなかった。決してそんな悠長な状況ではないが、かの若者の成長ぶりがあまりにも期待以上で、期待せずにはいられなかった。
先程、伝七郎の陣を密かに探らせていた者より報せが入っていた。
姫様と伝七郎が一部の兵らとともにこちらにやってくるらしい。菊も一緒にいるとの事だった。無事なのはすでに知ってはいたが、親としてはやはり嬉しさを感じずにはいられなかった。
だがその報せと共に、一つ面白い情報が入っていたのだ。
奇妙な出で立ちをした若い男が一緒にいるという。
伝七郎の陣営があまりに少人数のために、乱波は遠くから探る事しか出来なかったらしく、細かい事は分からない。だが、その男は姫様や実質の長である伝七郎とやけに近しい関係を築いているように見えたとの事だった。
伝七郎の交友関係をすべて把握している訳ではないが、姫様ともという所が気になった。儂が知っている限りにおいては、姫様とそのような関係を築いている人物はそうはいない。まして若い男となると、伝七郎くらいしかいない筈だった。
一体何者だ?
その者は伝七郎と同じくらいの歳の者だいう。
若い。若いが、この状況下で伝七郎が受け入れるような者だ。気にするまでもない者だとは到底思えなかった。
報告では、その者も一緒に今こちらに向かっているとの事だった。
この者の存在は、存在が不明すぎて儂の計画上歓迎できぬ存在ではあった。しかし、伝七郎の成長同様楽しみにさせる存在でもあった。