第八十八話 赤銅山鉱山跡 ――坑道―― でござる
……カチン……カチン……カチン……。
「足下気をつけて下さい。なんかまた落ちています」
「わかった」
兵ではなく、夜目が特に利く与平が自ら俺や兵を先導している。ただ与平は俺の護衛でもあるので、与平が先頭を行く兼ね合いで俺も前に来ていた。そのせいで随分と前の配置になっていた。
与平と俺、そして弓兵五十と槍兵五十で構成されたこの砦奇襲部隊は、薄暗い道をガチャガチャと武器や鎧を鳴らしながら進んでいた。
……カチン……カチン……カチン……。
松明によって、わずかに周囲のみが照らされているだけの真っ暗な道。場所は赤銅山坑道内。砦のある場所から見てちょうど山裏辺りにある試掘坑から入り、坑道内を第二坑道の入り口に向かって歩いている。
坑道内には、うち捨てられ腐りかけた荒縄や朽ちかけの木っ端板などがかなり多量に散乱していた。そればかりか放置された木箱の山などもあったりする。銅が出ていた頃そのままに、ただ朽ちただけの散らかすだけ散らかしたままといった様相だった。
空気は時にかび臭く、時に土臭く。また湧水が漏れ出ている所では湿っぽい。
そのすべての場所に共通していた事は、空気がとても澱んでいた事だ。これだけ穴が多量に開けられて、外気に繋がっている場所も一つ二つではない坑道であるにもかかわらず澱んでいた。
それはつまり、それらのほとんどがしっかりと塞がれているという事の証拠とも言えた。
その影響もあるのだろう。坑道内はひどく暑い。まるで地熱が籠もっているかのようだ。
そればかりではない。少し広い場所に出ると、どこから入り込んでいるのか分からない住人たちの歓迎を受ける。蝙蝠だった。
松明の光と人間の気配に驚いたらしい。人を襲うような種類ではなかったものの大乱舞されて、先へと進むのに少々の忍耐力を要求された。
また、湧水のあるところでは当たり前に苔が生えていた。ただでさえ薄暗く足下が覚束ないところにこれである。容易に人を転倒させた。
無論それだけでもうっとうしいのだが、一つ無視できない大きな問題があった。
俺たちは皆、各々が口に荒縄を巻いた大量の油壺を背負っている。ちょうど拳二つ分ほどの小さな油壺だ。ただし、それを一人あたり二十も三十も背負っている。おかげで、先程からカチンカチンと壺同士がぶつかる音がうるさい事この上ない。
その壺なのだが、当たり前の事ながら転ぶと割れたり、封を破れて中の油が零れたりと大変なのである。この壺は俺たちの生命線なのだから。
それだけに、少しでも夜目の利く人間を先頭に用いねばならなかったのだ。
それを重々承知している与平は、普段ならばとるに足らないと無視されるような足下の変化も、逐一警告を発してくれていた。おかげで俺もその後に続く兵たちもいくらかの壺は割ったが、そのほとんどを失う事なく無事運搬できている。
まあ、来る前に想像していた通りと言おうか。この坑道には、『廃坑』という言葉からイメージできるものが正しくそのままあった。
屈強なこちらの兵たちと言えども、この悪環境でそれだけの荷物を背負っての行軍は決して楽ではない。しかしそれでも、兵たちは呼吸を荒げ胸を激しく弾ませながら、黙ってついてきてくれていた。
三日前の晩、伝七郎の出した早馬がようやく戻った後の会議で、俺はこの作戦を皆に説明した。
その時には又兵衛は勿論の事、いい加減俺という人間に慣れてきている伝七郎や三人衆までもが、目を大きく見開いてしばらく言葉を失っていた。
その沈黙を破ったのは、伝七郎の「あれは本気だったのですか……」というようやくといった感じで吐きだした言葉だった。そう言えば、そんな話をした事もあったなあ――などと思った事を憶えている。
まあ確かに今回の策は、今までの物と比べても少々過激である事は否めない。
しかし今回は状況も状況であるし、またこちらの兵力も兵力である。爺さんの所の兵まで含めて、やっとなんとか敵の半分である。
しかも、それをそのままの数字で計算する訳にはいかない。
爺さんが現在率いている兵は、すでに一戦して激しく打ち破られた兵だ。身も心もボロボロに違いなかった。
名将と名高い爺さんならば、それでもなんとかその兵たちを立ち上がらせはするだろう。しかしそれは、実数通りの戦力とは言いがたい。し、またそれを要求するのは、あまりにも酷という物だった。
それを考えれば、少々過激だろうが無茶だろうが、この策に頼る道しか俺には思いつかなかった。
俺個人の立場からも、将としての立場からも、また軍師としての立場からも、出来ればもっと安全且つ確実な方法で戦はしたいとは思う。
戦という物は、勝てる状況を用意して勝つ為にやる物であり、決して博打ではないのだ。百戦百勝がないのはそれを用意するのがとても難しいからだが、理想としては間違いなくそういう類いの物なのだ。
ただそれはやはり理想の話であり、まして乱世では常にそれが望めるとは限らない。望まぬ戦が向こうからやってくる事もある。特に俺たちのような弱小の存在では。
哀しい事ではあるがそれが真理だった。故に、理想を語ってその通りに振る舞える日はまだまだ先になる。俺の冷徹な部分はそう答えを出していた。
足りない物を補う必要があった。
その代償は……、仲間たちの命に他ならない。足りない実力は身を削って足すしかないのだ。
良い悪いを論じる余裕など、今の俺たちにはなかった。そうしなくては生き残れない。
だからそんな軍の将には、普通の将以上に配下を死なせる覚悟と、その業を背負う意思が必要だった。
俺たちには逃げる場所すらないのだから。逃げられるという事は、とても贅沢な事なのだ。
「武様? 武様っ。そろそろ着きますよ?」
先頭を歩いてくれている与平の呼びかけだった。考えに没頭していた為に右から左に流れていたが、どうやら何度か呼ばれていたようだ。
振り返る与平の右腕に巻かれた、白い布の端が揺れている。それは与平だけではなく、俺も、そして他の兵たちにも巻かれていた。
俺たちはこれから夜襲をかける。
本当は新月の夜に実行したかった。だが、策を整えきれなかった。
必要な準備を整えなくてはならなかったし、また爺さんとの連携をとる為に、連絡する時間も必要だった。
その為に、夜襲の決行は新月を二日程過ぎたのだ。まあそれでも、まだなんとか俺たちの姿を夜の闇に隠してくれはする筈だった。未だ月は十分に育っていない。
砦から敵を引きずり出す方向から、敵の元へと飛び込む方向に思考を切り替えた時、ちょうど新月を迎えようとしていた。
それに気づき、本当に天が俺たちに味方してくれているのではないかと俺は小躍りして喜んだ。
それはそうだろう。夜襲に最高の状況だ。深い闇が俺たちの姿を包み隠してくれる。
確かに夜戦の訓練をしていない兵たちには、闇が深くなればなる程、より戦いにくくはなるだろう。しかしそれは今更だった。兵が不慣れだからと少々視界が利く時期を選んだところで、適切に動けるようになる訳ではない。それにその条件下では、敵の視界も良くなってしまう。それならば、やはりより深い闇の中の方が作戦の成功率は高くなる。
だから俺は、その闇を目一杯生かす事を考えた。それ故にあの廃寺で、兵たちには夜間明かりを与えなかった。し、また今こうして、腕に白い布を巻かせているのだ。
闇とは言っても、夜闇は完全な闇ではない。僅かな光はあるのだ。ならば、白い布はその存在を周りに知らしめてくれるだろう。いくらかの同士討ちは防いでくれると期待できた。それで十分だった。
無論それは敵の目にも目立つだろう。だが、敵はその意味を知らない。
ならば、敵がそれに気づく暇を与えなければいいのだ。もっと端的に言うならば、気づく前に倒せばいいのである。
そう考え俺は、我が軍全員が腕に白い布を巻くように提案した。
本当ならば蛍光塗料を塗りたいくらいだったが、そんな気の利いた物はなかった。
それでも、これでいくらかの同士討ちは避けられる筈である。それで満足するしかなかった。
戦で味方を死なせない事など、ほぼ不可能だ。道永と戦った時、俺は味方の戦死者零を達成したが、あんなものはただの偶然だ。もしくは状況が良すぎただけと言ってもいい。
だから将は、軍師は、最小限の犠牲で最大限の効果を狙うのだ。そしてそれによって生まれる犠牲は、ただひたすらに受け入れ背負うしかないのである。
まだ戦場に出てこれで三度目だが、もうすでにその事は身に染みて感じていた。
「武様?」
与平が少し心配そうに、俺の顔を覗き込んでいる。
おっと、いかん。
「ああ、大丈夫だ。すまない。ちょっと考え事をしていたんだ」
俺は軽く笑いながら、そんな与平に向かってひらりひらりと小さく手を振り応えた。
いらん心配をかけてしまったようだ。それに、ここはもう戦場だ。目の前の事に集中しなくては、冗談でもなんでもなくあっさりと死ぬ事になる。
「そうですか? なら、いいんですが」
「いらん心配をかけてすまない。本当に大丈夫だ」
そう詫びながら、もう一度問題ないと伝えた。
普段通りの調子で話す俺に安心したのか、今度は言葉通りに受け取ってくれたようだ。与平は、ほっと小さく安堵の息を吐いている。
「それで、あの目の前の板の向こうが?」
「はい。図面通りならば、東の砦本郭の北側――第二坑道の入り口です。ここからは少し注意が必要ですね。又兵衛さんの言葉通りなら、砦と入り口は相当近いみたいですし。気をつけないと、ちょっとした事ですぐに見つかって兵が来ますよ?」
そう言って与平は、目の前にある、板で完全に封印された坑道の出入り口を指さす。
「ああ、分かっている」
「皆ももう準備は整っていますかね?」
「どうだろうな。ただ俺たちは、大丈夫と信じて動くしかないな」
とりあえずの目的地である第二坑道の入り口に、俺たちは無事到着した。
そしてほっと一息とばかりに、与平はようやくいつもの奴らしい口調で他の皆の事を口にしたのだった。