第八十五話 託された襷(たすき) でござる
埃っぽくどこかかび臭い部屋の中、俺たちは兵の報告に耳を傾け続けた。
時折揺れる油皿の炎に合わせて、部屋の中に伸びる影は揺れている。しかし、誰も身動き一つしていない。床に直接胡座をかいたまま、それぞれが思い思いの様子で話を聞いていた。ある者は瞑目しながら、ある者は語る兵に真剣な眼差しを向けて。
「……なるほど。爺さんもひどく苦労したようだ」
「武殿の予想通りか……。早く戻ってこられて本当に良かった。あやうく藤ヶ崎も平八郎様も失う所でしたよ。継直め、本当に手段を選ばぬつもりのようだ。領土を切り売りするばかりか、金崎と手を組むなど……」
「そこの所は推測だがな? でも、まあまず間違ってはいないだろうよ。それ以外にめぼしい餌がないからな。つまる所、それ程に千賀が邪魔だという事なのだろうさ。まさに不倶戴天って奴だ」
兵の報告を聞き、伝七郎は怒りを秘めるように、そして俺は吐き捨てるように感想を口にする。苛立ち、今は普通にしゃべる事が難しい。
三人衆も、ここまでの行き路に俺が語った予測とほぼ変わらぬ内容の報告ではあったが、苛立ちを隠せずにいた。
話は聞いていたものの、予想語りと現実の報告とでは、やはり受ける印象が違うようだ。
水島と犬猿の仲であった金崎なんぞと、との思いは特に強烈に違いない。こいつらは、元々伝七郎の配下という訳ではなく、千賀の父の頃から水島に仕えていたと聞いている。だとすれば、そう思わずにいられないだろう。
まして、藤ヶ崎か別の土地かは分からぬが国の一部を売り渡した可能性が高い――などという予測までつけて皆には話していたのだ。
金崎が出している兵数も、種田忠政が連れてきている兵数も、どう見ても様子見ではなく本気で落としに来ている数だ。
連合の千五百という数字からみて、多少の誤差はあっても、おそらくそれぞれの割合は半々くらいの筈である。そうでないならば、わざわざ連合を組む意味はない。それぞれの野心に従い単独攻略を試みるだろう。どちらかが連合の半数を大きく超えるような割合になっていると仮定すると、超えている方の陣営はそれが可能な数に達する。
となれば、それぞれが七百から八百……。爺さんが藤ヶ崎に用意していた余剰兵力が八百である点から見て、おそらくそれと国境の均衡を保っていた兵をすべて振り向けてきている筈だった。
そして、継直と金崎が手を組んだ事も今回の報告で明白になった。
これらは俺が語った予想に更なる信憑性を与えた。
俺の予想を聞いても、流石にそれはないと思いたかったのだろう。事実こちらに来る折に俺が予想を語った時には、真剣に受け止めてはくれていたものの、どこかまだ余裕がある様子であった。しかし今のこいつらの表情には、あの時の心のゆとりはなくなっている。
国を欲して兄を殺し、その妻を殺し、そしてその娘までも殺そうとしている男が、よもやその国を売ってまでそれをなそうとするのか――と思っているに違いない。皆、その言葉を口にせずとも顔に出ていた。
そして今回の報告で、それから目を反らす事が出来なくなった。
継直は、本当にただの物欲と兄への嫉妬で、今の事態を引き起こしている。此度の件で、それが確定したようなものだった。
それを改めて突きつけられ、苛立ちを隠せなくなったのだろう。そんなものの為に己の主は殺されて、そしてその姫はこんな目に遭っているのか――と。
又兵衛に至っては、初めて聞いただろう話がこの内容である。目を大きく開き、口を開けたまま固まっていた。
その様子から継直の振る舞いは、こちらの感覚でも突出して非常識である事が窺える。あちらの世界では、歴史を紐解けば比較的この手の屑を見つける事は容易いが、こちらの世界では情報というものが少ない。そのせいもあるのだろうが、衝撃が強かったようだ。
権力欲に捕らわれて馬鹿をやる奴はどこにでもいる筈だ。当然こちらの世界にも沢山いるし、いたに違いない。
しかし、そうして手に入れた物を一部とは言えあっさりと手放している所が、やはり異様なのだろう。
それは、言ってみれば狂人の振る舞いであるから。常人が聞いて唖然とするのも当然と言えた。
客観的に見て、これは欲や感情といった物を完全に支配下における人間が冷徹な計算の元に行ったものであるか、或いは思考や行動に合理性を欠いた狂人の所行なのだ。
そして伝七郎たちの話を聞く限り、継直は前者ではない。となれば、後者しかないのだ。そして前者であろうと後者であろうと、常人の理解の範疇にない事は共通している。
今まで見聞きした事から察するに、基本的にこちらの価値観や常識は、向こうの世界と比べると真っ直ぐな傾向にあると思う。
それ故に、継直のように外れている人間にとって、この世界はさぞ与しやすいに違いない。
奴がすべての人間を騙しきっている可能性は捨てきれないが、今の所の情報では決して有能な人物とは思えない。例えば伝七郎のように、その価値観や常識を有しつつも、にも関わらずそれから外れる事を厭わない人間とは違うだろう。
それでも奴の思考や行動は、常人には理解できないし読めない。
だから皆にとって、奴は狂人以外の何者でもないのだ。そして奴にとって、奴以外のすべての人間が良い鴨なのだ。
そう。ちょうど俺が、エセでも軍師を務める事が出来るのと同じ理由で――――。
「まったくもって巫山戯た真似を……。何にしても、永倉様がご無事で良かった」
しばらくして、続いていた沈黙を信吾が破った。
「まあ、そういうこった。爺さんが生きていてくれただけでも十分だ。後は、他人様の家に土足で上がり込んだ盗賊どもに、どうお仕置きをするかという話だな」
「そうですね。まずは平八郎様が無事であった事を喜びましょう」
伝七郎は俺の言葉に同意する。そして、
「それで、他に平八郎様から言伝などは預かっていませんか?」
と、俺たちに遠慮して一度報告を切って様子を伺っていた兵に尋ねた。
すると兵は殊更身を正し、これまでの報告以上に畏まって伝七郎に答えた。
「はっ。永倉様が佐々木様と神森様に伝えよとおっしゃられた内容は計五つ。一つ――敵方の数について。二つ――その数故に裏を取られ、藤ヶ崎に兵を送り込まれぬよう気をつけられたし。三つ――自分の事は気にしないよう、目前の敵に集中されたし。四つ――総大将は佐々木伝七郎とする。五つ――自分はその指揮下に入る。なんでも言ってこられたし。以上です」
は?
「何? 伝七郎だけでなく、俺にも伝えろと?」
「私を総大将にですって?」
俺と伝七郎は兵の語った内容に、ほぼ同時に疑問の声を返した。
しかし、兵はただ首肯する。そして、
「はい。神森様にも伝えるように念押しもされましたし、間違いなく佐々木様を総大将とするとおっしゃっておられました」
と、改めて報告し直した。
俺と伝七郎は顔を見合わせる。
そのまま室内に、再びしばらくの沈黙が訪れた。誰も口を開かなかったし、動かなかった。油皿の炎が、朽ちた壁や、戸の壊れた入り口から吹き込む風によって、時折揺れていただけである。
三人衆と又兵衛は、胡座をかき座ったまま俺たちに視線を注ぎ続けていた。
与平は口角を上げてニカッと笑いながら、源太は微かな笑みを浮かべ誇らしそうに、そして又兵衛は真剣な表情で。
そしてそんな皆を代表するように、しばらくの後信吾が口を開いた。
「永倉様は決められたのでしょう。お二人を認め、信じる事を。だから、自分が使われる事にしたのだと思います」
背筋を伸ばして身を正し、柔和な笑みを浮かべたまま、敢えて言葉にしたといった様子でそう述べる。そして直後、その表情すらも引き締めて、今度は厳かにゆっくりと頭を下げた。
それを見た与平、源太、又兵衛も居住まいを正し、信吾に習うかように静かに頭を垂れた。
それは、まったくもって安い物ではなかった。
……ふう。これはもう逃げられんね。俺も、伝七郎も。
俺たちはこいつらの上に立たなくてはならない。この一礼はただの一礼じゃない。とてつもなく重い一礼だった。
これで背を見せるようでは、以降漢を誇るような生き方なぞはできない。今、目の前にある物はそういうものだった。
俺たちは再び顔を見合わせる。
ただし今度は、戸惑い故ではない。互いの覚悟を確認する為であった。
どちらからともなく微かに笑み、頷く。そして、
「……上等だ。やってやろうじゃないか」
「是非もなし。やってみせましょう」
と、俺たちは皆にそう決意を宣した。そして同時に、自身の心へと深く刻んだ。
「爺さんもお前らも大胆な事だ。この後がない状況で、小僧二人を担ぎ上げるか」
「まったくです」
俺は軽く毒づく。それに伝七郎までもが同調してきた。無論本気で愚痴っている訳ではないが、俺たちにはこの言葉を言う権利くらいはある筈だった。
しかし信吾は、そんな俺の言葉に笑って返した。
「はは。まあ、永倉様や木村殿は兎も角、我々は歳も変わりません。それに何より、お二人の力を見てきている。担ぐのに今更肝など必要ありませんな」
他の皆も信吾のその言葉に過不足がないのか、それ以上に口を挟もうとする気配もなかった。黙ってこちらを見ているだけである。
「よーし、分かった。やってやるっ。お前ら、後悔するなよ? 間が良い事に、廃れているとはいえ、ここは寺だ。手始めに武の誇りは穴掘って埋めてこい。後で経文でも唱えておいてやる。俺たちは今回も必ず勝ち、そして生き残るっ。だが世間様が、生き残った俺たちを何と言うかまでは俺は知らん! 一つ二つ悪く言われる事だけは覚悟しておけよっ」
皆の顔を真っ正面から見据えながら、俺はそう宣言してみせた。ここで俺がぶれる事だけは許されない。
だがその俺の言葉を聞き、伝七郎は気負った様子も見せずに笑った。
「もうすでに、その覚悟は決まっています。私たちは新しい水島家の臣下であり、私たちは新しい水島の軍を率います。その軍は世の習いになど従わない。私たちは姫様の剣であり盾です。姫様や藤ヶ崎の民を守る事こそが誇りです。そして、いつか必ず巫山戯た真似をしてくれた継直の首を取ってみせる!」
そして、そう吠えてみせた。
俺たちの言葉を聞いた将たちは、皆満足そうに笑む。そして揃って、
「「「「はっ!!」」」」
と一際鋭く大きな一声を発し、再び深く頭を下げたのだった。