第八十二話 個人的な話で恐縮ですが、東の砦に向かう道中、衝撃の事実が発覚しました でござる
千賀、お菊さん、そして婆さん。三人に見送られながら、先に行った伝七郎たちの後を追う。
さほどは長くない兵列に追いつき、更に前へ前へと走っていくと、すぐに行軍速度に合わせてゆっくりと進む馬上の背中が四つ見えた。
まだ各々の持ち場には散っていないようだった。なにやら話し合っている。
急な出陣で十分な打ち合わせの時間を取る事もできなかった事もあり、行軍しながら軽く行っているのだろう。
そんな奴らの所まで、俺は必死に走る。そして近くなったところで、
「はあ、はあ、はあ。すまんな、遅くなった」
と、とりあえず謝りながら声をかけた。
個人的な理由で勝手をさせてもらったのだ。当然の礼儀だろう。
皆、俺の声に気づき、振り向きながら手綱を引いてくれた。そして止まった馬の馬上から伸ばされた手と、足を抜かれた鐙を使い、伝七郎の後ろに跨がる。
今の俺は、男の後ろなどと……と言っていた俺とは違うのだ。
学習したのである。現実の辛さの前には、矜持など実に脆いもの――容易に折れるし、曲がる。現実とは弱者にはとことん厳しくできているのだ。
体力や武術ももちろんだが、まず馬を覚えなくてはな……。
ぶっちゃけた話、この世界において、しかも仮にも将軍職にあるくせに馬に乗れないとか論外であった。使い物にならない。ここには、網の目のように張り巡らされた公共交通機関など存在しないのだ。
自転車も乗れません。車の免許も持っていません。
そんな話は田舎では通用しないのである。買い物いけないぞ? 病院は? 最近ではネットという便利な手段もあるが、依然としてその基本構造は変わらないのだ。
結局は、死にたくなければ頑張れとなる訳である。その摂理は、時代も世界も越えるのだった。
こうして考えてみると、文武ともに鍛えなくてはならない事、覚えなくてはならない事で一杯だ。なにせ武の方だけでもこれである。文武という言葉からも明白なように、文の方の鍛錬も必要なのだ。
やれねばならない事が山積みである。
ちょっと考えただけでも目眩がする。少なくとも、あちらの世界に残してきた詰みゲーの山よりは遙かに高そうな山だった。あれも結構な高さになっていたのだが。
そう思うと、自然と溜息が漏れた。
「いえいえ、早かったですね。……と、いきなり溜息など吐かれてどうかされたのですか?」
「いや、なんでもない。ただ、自分の未熟さ加減に軽く嫌気がさしただけだ」
伝七郎は俺からの返事に、よく意味が分からないといった顔をした。ただ、それ以上突っ込んでは来なかった。俺という人間を学習した結果だろう。きょとんとした顔をしたままではあったが、早々に受け流す事に決めたらしい。
甚だ遺憾ではあるものの、是非もなし。たまに訳の分からない事を言っている自覚くらいはあった。
しかし伝七郎は受け流す事に決めたようだが、それを受け継ぐものがいた。どうやらうちは人材の宝庫のようだ。
「良い女子がおれば、そう思ってしまう事があるのも男というものですからなあ……」
と、しみじみとおっしゃる。信吾であった。
「そういう話じゃなくてだなあ、信吾……。つか、この際それは良い。だがお前。ちょっと話を聞いてもらおうか? 昨夜何してくれちゃったのよ?」
俺は突っ込みを入れた。ああ、入れたとも。昨夜から絶対に言ってやろうと思っていたのだ。おかげで寝不足だよ、俺は。
しかし、信吾は全く動じなかった。
「はっ。きよの奴から頼まれましてな。微力ながら協力させて頂きました。何か不手際でもあったでしょうか? 申し訳ありません。全力で当たらせて頂きましたが、力が及びませんでした。次こそは完全にやり遂げて見せますっ」
信吾は心底申し訳なさそうにしながら、謝罪の言葉を俺に述べた。
ちっがぁーーうっ。謝る部分が違うよ、信吾っ。そうじゃないんだってばよ。
俺は心の中で、声を大にして叫んだ。俺の発声器官はただいま開店休業中だった。
信吾にはまったく巫山戯ている様子はない。いたって大真面目である。非常に困った事に、今も真剣な表情で「あれだけ駆け回っても、まだ足りなかったか……」などと反省の言葉などぶつぶつと呟いていたりする。
根本的なすれ違いがあるとしか思えなかった。
いや、だからね? そんだけ駆け回られるとだね。皆様方に俺の始まったばかりの小さな恋の物語がだね。バレてしまうのよ。
お分かりいただけませんでしょうか?
お陰様でここまで走ってくる間も、いくつもの生暖かい視線を注がれましたよ? それはもう暖かいご声援をいくつも頂きました。「神森様っ。うらやましいっす」はまだ良いよ? でも、いきなり「頑張って下さい。陰ながら応援しております。早くお子ができるといいですね」とか言われたら、俺はどんな顔をしてそれに応えれば良いんだ?
溢れかえる大量の言葉を、喉で押しとどめるのは大変だった。先ほどまでサボっていたくせに、今はものを言わせろと騒がしい。
しかし俺を思って頑張ってくれたらしい信吾の顔を見ていると、感情のままにその厚意を無碍に扱うのはどうかとも思える。実に悩ましかった。
このやり場のない気持ちはどこに持っていけば良いのだろうか? 俺には分からなかった。
そんな俺に、与平が追い打ちをかけてきた。元・狩人は伊達ではなかった。
「いいじゃないですか。お菊さん、あんなに美人で気立ても良くて。あんな人と噂が立つのは男児の誉れってもんですよ。いやあ、是非俺もあやかりたいものです」
こちらは信吾と違い、俺をからかう気満々であった。ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながらそう言いおる。
巫山戯んな。言ってる言葉自体には大いに同意しよう。しかし当事者としては、その発言は絶対に認められん。
「そりゃお菊さんとならば、願ったり叶ったりだがな。問題はそこじゃない。なんで晒し者にならねばならんのか、というところが問題なのだ」
俺は異議の正当性を訴えた。しかし、柳に風という言葉の意味を存分に学ぶ機会を得た。
与平はちっちっちっと一本立てた人差し指を振る。そして、さも「ヤレヤレ何を言ってるんだこいつは」と言わんばかりに反論しくる。
「武様? 世の中良い事ばかりじゃあないんです。お菊さん程の人と良い感じになれば、相応に代金も払う事になるんですよ」
こちらの世の中も世知辛いようです。
「お前。こんどから俺の代わりに交渉役してくれ」
俺は皮肉を込めてそう言ってやった。だが与平は、どこ吹く風だった。
「あはは。それは無理というものです。俺では力が足りませんよ。俺の限界は、せいぜいが武様をからかって遊べるところまでです」
やめれ。つーか、その才能の無駄遣いをやめなさい。俺がかわいそうでしょ。
そう思うも、与平はそれはもう楽しそうに笑っているのだった。こんな面白い事止められませんといった声が聞こえてくるかのようだった。
俺は自身の無力を感じた。
そんな俺たちを横目に、源太は愛馬静の首筋を撫でながら「フッ」と笑う。与平のように積極的には攻め込んでこないが、援軍を回す気はまったくなさそうだった。こいつもこいつで、俺を玩具にしているような気がしないでもない。
伝七郎も源太とは違った意味で静観しているだけだった。というか、こいつはなんでこんなに嬉しそうなんだ。その視線の生暖かさときたら、先程ここまで走ってくるまでの間に浴びた視線のそれなど比較にならない。
『男は敷居を跨げば七人の敵あり』と言うが、世界の境界を跨いだら味方が一人もいなかったでござる。ママン助けて。
あれ? でも母ちゃんだったら、間違いなく奴らの側に与するんじゃね?
俺はすぐに敵が増えるだけである事に気づく。
孤独を感じずにはいられなかった。