第八十一話 出陣! 東の砦へ でござる その二
「あー、伝七郎? 悪い。先に行っててくれ」
「わかりました。では」
そう言うと、伝七郎は一つ微笑んでそう答えた。そして、お菊さんに軽く会釈をすると、他に何も言わずに踵を返す。
一緒にいた三人衆もそれに続いた。
ただし、信吾は細い目を更に細くしニッと口角を上げ、源太はフッと鼻を一つ鳴らし、そして与平は力瘤を作って見せ「武様やる~ッ。が・ん・ば・っ・て下さいね~」と俺の耳元に囁きながら。
お菊さんはそれを聞いて、顔を真っ赤にしてしまう。
はしゃぎすぎだ。この馬鹿ちんどもがっ。
特に与平っ。一見そう見えても、そんな所まで進んでねぇんだよっ。せいぜいが東京発の新幹線で今横浜? って所なんだよ。せめて大阪辺りまで行ってれば、今頃俺は鼻高々よ? 言わせんじゃねぇよっ。
つか、やっと俺にもチャンスらしいチャンスが回ってきた訳で……。ホントにやっとの事なんですよ? 大事にしてやって下さい。お願いします。
心の中で、声を大にしてそうお願いをする。
実際に声に出して言う訳にはいかなかった。なにせ今は目の前にお菊さんがいる。
よっていつも通り、俺の心の中だけでお願いはなされた。そして、これもお約束のように俺の心の中だけで霧散する。相手に届かないところまでが既定路線だった。
結局、黙って奴らを見送る事しか出来ないのである。俺は無力だった。
嘆きたい気持ちで一杯だった。だがそこはぐっと堪え、気持ちを切り替える。今お菊さんに集中しなくては、色々と台無しになる気がしてならなかったからだ。
朝のおきよさんらの話と、ここ最近のお菊さんの俺に対する態度などから察するに、少なくとも俺は嫌われてはいない。これはほぼ間違いなかった。出会ったばかりの頃のお菊さんと今のお菊さんは、明らかに違う。
ちょっと希望を盛っているかもしれないが、多少の好意くらいは抱いてくれているに違いない。そう思いたい。たとえ厳しめに下方修正しても、興味くらいは持ってもらえている。そう考えて、まず間違いないだろう。
そこまで考えて思う。今までの歴史を思い返せば、すでに十分大快挙だなと。
とは言えその程度では、世間様では『落とした』とは言わないだろう。俺にもそのくらいの分別はあった。
これからなのだ。そもそも『これから』があるだけ、今までの俺と今の俺は違うのである。ホントの所のお菊さんの気持ちがどうあれ、すでにここが今までとは大きく違うのだ。十分に希望が持てた。
そう思考に没頭する事しばし、
「あ、あの……、武殿?」
と再び声をかけられる。
いかん。またトリップしてた。
うち震えるほど嬉しい分析結果に、軽く夢世界に旅だっていた俺は現実世界に戻ってくる。目の前に彼女がいるのに、夢の世界に行っている暇などない。逃げるな。頑張れ俺。
「あ、ああ。ごめん。それでどうしたの、お菊さん?」
「あ、いえ、その。そう。ち、父の事、よろしくお願いします」
更に顔を赤くし少ししどろもどろになりながら、そう言うお菊さん。
「ああ、任せといてよ。生き残ってくれてさえいれば、全力でなんとかしてくるよ。千賀とも約束したしな-?」
まだ千賀の頭の上においたままの手を、そう言いながら弾ませた。
すると千賀は俺の顔を見上げて、生意気にも俺に教えるような顔をして言う。
「そうじゃぞ。約束は守らなくてはいけないって、とと様言ってたのじゃ。じゃから、たけるはみんなで『ただいま』しなくちゃいけないのじゃ」
「そうだな。千賀もちゃんと『お帰りなさい』しなくちゃいけないんだぞ?」
千賀の『教え』に応えて言った俺の言葉を聞くと、千賀は「任せるのじゃっ」と言って自信満々そうにふんぞり返った。まるで、「妾の手にかかれば、そのくらい何でもない事なのじゃ」と言わんばかりに。
そんな千賀を見てお菊さんは、目を細めて柔らかく微笑む。千賀を見つめる視線は、俺に彼女の母性を強く感じさせた。
千賀のそんな元気な姿を見て、先程までどこか小さくなってモジモジとしているように見えたお菊さんは、次第に普段の彼女へと戻っていった。今では顔の赤みもとれ、そのきれいな顔には柔らかい笑顔だけが残っている。
そしてそれを確認して、俺は少しほっとした。
(今回は普通の戦いじゃあないからなあ。お菊さんも、爺さんからそれを直接聞いて知っている。親思いの彼女の事だ。そりゃあ心配だろう)
と、お菊さんの心の内に当たりもつける。
ちょうどその時、千賀から再び俺へと移した彼女の視線と俺の視線がぶつかった。すると今度は優しく微笑みながら、落ち着いた仕草と口調で、
「はい。信じております、武殿」
と、先程の俺の言葉に対する返事を口にした。
それはとても暖かく、柔らかな口調だった。それは、確かに彼女の俺に対する信頼を感じさせた。だが、それと共になぜか強さをも感じさせるものだった。
俄然やる気が出てきた。
美少女の微笑みを特等席で拝めるならば、俺は大概の事を成し遂げる自信がある。
恋愛カーストの底辺なめんな。ハングリー精神がリア充などとはまったく違うのだよっ。
俺はやる気メーター振り切らせて、お菊さんに笑顔を返し伝える。
「ああ、信じていてくれ。じゃあ、行ってくる」
もっと彼女と話していたかったが、あまりのんびりもしていられなかった。
だからもう一度千賀の頭を二度三度軽くぽんぽんと叩きながら、後ろ髪引かれる思いをしながらも、俺はお菊さんに背を向ける。そして、東の砦に向かって歩き始めた。
だが二、三歩歩いたところで、
「あ、あのっ」
と、お菊さんが再び俺を呼び止めた。
どうやら、まだ俺に用があるらしい。
俺はすぐに足を止める。そして半身振り返って彼女を見る。
再び彼女の顔は赤く染まっていた。
先程、伝七郎らと一緒に行こうとした俺を呼び止めた時にも顔を真っ赤にしていた彼女。この時は、千賀のおかげで普段の彼女に戻った。
なのでてっきり、最初恥ずかしそうにしていたのはあの三馬鹿のせいだと思っていたのだが、どうやらそれだけではなかったようだ。
再び顔を赤く染めているお菊さんは、口を開こうとしては思いとどまってという仕草を繰り返している。胸の前で重ねた手をもじもじとさせ、明らかに何かを伝えようとしていた。
そんな彼女を見て、千賀は不思議そうな顔をしてお菊さんを見上げている。婆さんはやれやれと言った感じで、一歩下がって見て見ぬふりをしていた。
お菊さんは見上げる千賀に優しく微笑みを向けながら、「なんでもありませんよ、姫様」と静かに答えた。
そんなお菊さんを見て、俺は振り返って半身のままだった身を再び彼女に正対させようとした。だが、
「あっ、武殿。そのままで……」
と、お菊さんに向き直るのを止められた。
「どうして?」と問う間もなかった。
彼女は心を決めたように背筋を正した。そして、すっと俺の背中へと移動してしまったのだ。
何事だろうと思った。
だが、逆らう気は湧かない。そのままでいようと決めた。
その時、俺の背中に移動し終わったお菊さんが、囁くように言葉を紡ぎ出す。
「ご武運を。あなたが戻られる日まで、毎日ご無事をお祈りいたしております」
そして、
「いってらっしゃいませ」
その言葉と同時にカチカチと音がして、俺の肩口に火花が走った。
俺はすべてが終わったのを確認し、振り向きお菊さんに正対する。
彼女は石と金を手にしたまま、下げた頭を静かに戻すところだった。
俺の視線と彼女の視線が交わる。彼女は少し照れくさそうにしながら、微笑んだ。
ああ、切り火。切り火か。そう言えば信吾もおきよさんにしてもらっていたなあ。あ、あれ? 誰が誰に切り火を切った? 毎日無事を祈る? 誰が誰の?
頭が混乱した。
しばらくして、ようやくその意味を頭と心が解するに至る。
これほど嬉しいと思った事など、過去になかったと断言できた。感涙の涙を流さずに耐えきった自分を褒めてやりたい程だった。
もう少し、彼女と一緒にいたい衝動に駆られた。
だがここで、これ以上彼女と会話を続けるのはあまりにも無粋だろう。彼女は女として俺を送り出してくれているのだ。
ならば、男の俺がすべき事など一つだった。
千賀との約束を守る為に。そして、これ以上お菊さんを哀しませない為に。俺はこの戦――なんとしてでも爺さんを無事連れ戻し、侵攻してきた敵を退けねばならない。
どんな手段を用いようと、何が何でもそれをなす。
それが、今俺がなさねばならない事だった。
だから気持ちを入れ替える。そして、
「ああ、行ってくる」
俺は一つだけ頷きそう言うと、今抱いた気持ちをすべて胸の奥にしまい踵を返した。
なすべき事をなすが為に――――。