第七十七話 質素で贅沢な、闇夜の晩餐 でござる その三
それに気がつくと、心臓の音が喉の奥で聞こえ始めた。少し口を開く。バクバクと脈打つ心臓の音が喉から響いた。
そして生まれる熱は顔だけに収まらず、胸の内から全身へと広がっていった。
服の上からでも、にわかに冷たさを感じる筈の秋の夜の空気。だが、それを冷たいと感じない。
こんな事は今までにない経験だった。俺は大いに戸惑った。
だが、ただ戸惑い続けるわけにもいかない。だから俺は、思いつくままに言葉を口にする。
「ん、あ、そうだ、お菊さん。お菊さんも食べなよ。ほら、ちょうど二つ残ってる」
皿の上に並んだ二つのお握りを見ながらそう言った。反応に困って口にしたにしては、存外悪くない提案だと思った。まして俺がテンパって口にしたにしては、相当上等な部類だと思われた。
もっとも並ぶ二つのお握りを見て、単純に二人で分けたくなった――ただそれだけの動機ではあったが。小っ恥ずかしくて、とてもそんな事は言えないけれど。
何にしても、勢いに任せて俺が口走ったにしては上出来すぎる。愛すべき黒歴史を紐解けば、きょとんとしているお菊さんを目の前にしながらも、そう断言できた。
「あ……、でも他に何も持ってきていないので、武殿の食べるものがなくなってしまいます」
突然の俺の提案に、始めはやや吃驚したように目を見開いていたお菊さんだが、すぐに小首をかしげてそう返事をしてきた。
「大丈夫。もう一つあるし。二つも食べさせてもらえれば、腹の虫も朝までくらい大人しくしているって」
「でも……」
それでも勧めたら、どうしましょうと言葉を漏らさんばかりに悩んでいる。
無理矢理勧めるつもりはないが、ただ遠慮しているだけならば、それは無用だ。
ならば、と俺は皿の上のお握りを一つ取った。そしてそのまま二口ほどで、バクバクっと平らげた。
その様を見て、再びお菊さんは目を丸くする。
そんな彼女の顔を見ながら、
「んぐ、んぐ。ぷはっ。んじゃ、この残ったのを半分こしよう。俺はもう十分食べたよ?」
と、そう提案し直した。
返事も聞かずに最後の一つを手に取り半分に割る。そして、その片割れを彼女に差し出した。
お菊さんは目を丸く見開いたまま、視線を半分になったお握りに移す。そして、ぷっと吹き出した。
「ぷっ……、くっ。ああ、可笑しい」
……ああ、なんか笑われてしまったぞ。俺はまたもや何かやらかしてしまったのか?
袖口で口元を隠すようにして、小さく肩を揺らしているお菊さんを見つめる。そんな俺の脳裏には、(I’ll be back!)と良い笑顔でサムズアップする駄目な俺の姿が浮かんでいた。
彼女はしばらく笑い続けた。そしてしばらくしてようやく満足したのか、小さく小刻みに揺れていた肩は治り、再び優しい微笑みを浮かべ俺の顔を真っ直ぐに見た。
目の端に薄く浮かんだ涙に、周りを仄暗く照らす油の光が映る。
妙に色っぽい。俺は再び胸がどきりと大きく打つのを感じた。
「……本当に武殿は強引ですね」
微笑みを浮かべたまま、お菊さんはそう言った。
「そ、そっか?」
「はい」
「そっかあ……」
どうやらしつこすぎたようだ。俺の馬鹿……。
思わず首が落ちる。
すると、お菊さんは再びくすりと笑った。そして言う。
「はい。でも折角のご厚意ですし、いただきます」
お、お? マジで?
やらかしたと思って少々凹んでいた俺だが、そのお菊さんの言葉に希望の光を見た気がした。
どうやら完全な失態ではなかったようだ。というか、お菊さん……。もしかして俺に合わせてくれている?
そんな事を考えていると、彼女は俺の手からお握りの片割れをそっと受け取る。
俺は必死に顔に出さないようにしていたが、内実かなりテンパっていた。そんな俺を見てさらに微笑みを深くするお菊さん。そして、俺より受け取ったお握りの片割れを両手で口元に運ぶと、
「おいしい」
と、そう言って幸せそうに微笑んだ。
俺はそんな彼女を、残ったお握りを手にしたまま見惚ける事しか出来なかった。
そして再び思うのである。
(うーむ。やっぱ俺……、死ぬかもしれんね)と。
深夜の廊下での逢瀬……というと格好良く聞こえるが、皆々様が寝静まった後の館の廊下で、若い男女が座り込んで握り飯を貪るという――ちょっと他人様には見せられないイベントをこなした俺。
今は自分の部屋で、布団の上に座っていた。
(…………つーか、普通に部屋の中に招き入れればよかったんじゃね?)
と、そう思い至ったのは、お菊さんの作ってくれたお握りをおいしくいただき別れた後、しばらく廊下でぼうっと立ち尽くしていた時だった。
何度考えても、(廊下はないよな。廊下は……)という結論しか出てこない。
まあそれでもお菊さんは、最後「おやすみなさい」と言って別れるまでずっと笑顔だったし――と自己採点。辛くも赤点だけは免れた思われる。
だから、とりあえずよしとする。赤とって、フラグがべっきり折れていなければそれでいいのだ。
しかしその自己採点中に気がついたのだが、俺が最初に叫んだ声って結構大きかったと思うのだ。
――――なぜ、誰も人が来ない?
来られても困った事になったと思うが、誰も来ないというのもどうなのだろうと思わずにはいられなかった。
この館の警備は、爺さんがいなければザルなのか? つか、そういや爺さんも間者逃がしてたな。
出陣前にもう一度、チビやお菊さんたちの警護と投降者の監視をくれぐれも頼むと念を押しに行こう。
そんなこんなを考え続けた。
いつの間にか部屋はうっすらと明るくなっており、庭ではチッチッと雀が鳴いている。
うむ。寝るの忘れた。超やばい。
今日再び戦場へとんぼ返りだというのに、これはひたすらに不味かった。
昨夜の一件があまりにもインパクトありすぎたな……。ああいうのは、天地が裂けても俺にはないと思っていたし。
とりあえず頭をすっきりとさせる事にする。過ぎた事を言っていても始まらないのだ。
薄荷と塩と砂が混ざった粉とブラシ、そして手拭いを一本首に提げて部屋を出る。向かう先は井戸端だ。
さっぱりしない事には、気合いを入れ直す事もままならない。現代日本人はきれい好きなのである。
欠伸をしながら廊下を歩き、台所の脇を通り外へと向かう。
途中何人かの侍女たちとすれ違った。侍女たちの朝は早い。もうすでに台所では朝食の準備が進んでいるし、他にもやる事は一杯のようで、その動きには俺みたく寝ぼけた様子は見られない。
そんな彼女たちは俺とすれ違うと、皆頭を下げて朝の挨拶をしてくれる。綺麗な女の人、可愛い娘さんたち。そんな人たちが俺ににこやかな笑顔を向け挨拶してくれるのだ。
あちらの世界ならば、干からびた琵琶湖を見る日が来ても、これは見られない光景だと断言できた。
そもそも俺から逃げない女なんて、偉大なる我が母者以外には存在しなかったのだ。
やはり少々個性的な行動が問題だったのだろうか。もしそうならば、多少の自重も考えざるを得ないが、今となってはそれを確かめる術もない。
なにせ、もうすでにこの身は異世界にある。おまけに、厄介事にはこれ以上なく巻き込まれていて、仮にあちらに帰る為の方法を見つけても、簡単に「じゃあ、これで」とはいかない状態だ。
――――まあ、なるようにしかならんよな。
考えてみた所で、出る結論など精々こんなものである。本当になるようにしかならないだろう。
それはそうと、昨夜のお菊さんから引き続きまだ終わりを見せない幸せイベントだが、一つ気になる事があった。
美女美少女の皆さんが俺に朝の挨拶をしてくれるのはとてもうれしいのだが、その侍女たちが俺を見る目がなんというか、ものすごく生暖かいのだ。
もしかしたら俺の勘違いなのかもしれないと最初は思った。だが二人三人と続くと、流石に俺の勘違いだとは思えない。
俺はすぐに自分の身を改めた。
しかし、どこもおかしくない。まったく異常は見つからなかった。
どうにも気になったが、どうしても理由が分からない。
仕方がないので、とりあえず考えるのをやめた。そして当初の予定通り、井戸端へと向かう事にする。
台所脇にある小玄関から外に出られ、井戸はそこからすぐだ。そこに向かって、俺は廊下を進んでいった。
ただ考える事をやめただけに、謎は謎のまま残っていた。




