第七十六話 質素で贅沢な、闇夜の晩餐 でござる その二
「頂きます」
では――とばかりにそう言うと、皿からお握りを一つ手に取り口へと運んだ。
それはもうすでに冷え切っていた。一体どれ程待っていてくれたのだろうか……。その冷たいお握りは、空っぽの俺の胃袋を優しく宥め、冷たい筈なのに俺の心を温めてもくれた。
ごくごく普通の、うっすらと塩味のするお握り――だけど俺には、かつて食べた事のあるどんなご馳走よりも旨いと感じた。
「うん、おいしい。有り難う、お菊さん」
感動に打ち震える心を抑えながら、俺は彼女に礼を言う。装った冷静さが不自然に見えなければいい、とそう思いながら。
だが、その心配は無用だったようだ。
彼女は少し照れたように微笑み、碗が一つと急須がのったお盆を彼女の膝の上にのせ、
「お粗末様です。お茶も用意してあります。如何ですか?」
と勧めてくれた。
怪訝そうな様子はまったくない。とりあえず今のところは大丈夫なようだ。俺はまだやらかしていないらしい。
「本当に至れり尽くせりだね。有り難う。頂くよ」
膝の上のお盆を眺めながら、俺はそう言う。
しかしお菊さんは、
「いえ。今の私にはこれくらいしかできませんから……」
と言い、少し寂しそうに笑った。ただ、それは一瞬の事だった。すぐに、いつものしっとりとした仕草で急須を傾けた。
お菊さん真面目だからな……。他人を頼らざるを得ない事続きで、歯がゆい思いをしているのだろうなあ。
んーむ……、よしっ。
「あー、お菊さん? もしかして……、気にしちゃってる?」
俺は思いきって気になっている部分を聞いてみる。敢えて『親父さんの事』という言葉を省いたが、通じる筈だ。いま彼女が気にするとしたら、爺さんのこと以外にない。
しかしもしそうなら、それはそこまで気にしなくてもいいと言ってやりたかった。そんなものはお互い様なのだ。俺だって身一つでこの世界に飛ばされて、皆にどれほど世話になっているか。むろんお菊さんにだって、ものすごく世話になっているのだ。
そう思って聞いてみたのだが、聞かれたお菊さんはきょとんとした顔をする。そして、
「え? いえ、あの。もちろん父の事でも感謝しておりますが、そうではありません。ただ私が出来る事で、少しでもお返ししたかっただけで……その……」
と、言葉の末尾をくぐもらせた。膝の上の乗せた手をもじもじとしている。
あれ? 違ったのか?
省いた言葉のせいで通じていない訳ではない。それは間違いなさそうなのだが……。
その言葉に俺は勘違いを悟った。ただ……、である。悟ったのだが、何をどう間違えたのかは、困った事にさっぱり想像がつかなかった。
女ってのは本当に難しいな……。だがとりあえずは、『有り難う』って事だろう。この様子ならば、嫌われているって事だけはまずなさそうだ。
今までの歴史を振り返れば、それだけでも大快挙であった。さすがは俺主人公で、俺用に構築された世界である――そう思わずにはいられなかった。
なんとしてもこのイベントを生かす。
肩を小さく縮込めるようにして、もじもじとしているお菊さんを眺めながら、俺はそう心に誓った。
とりあえず話を途切れさせないようにしなければならない。
かつて愛読していた『女にモテる為の100のテクニック』にも書いてあった。とにかく話を聞け! そして途切れそうになったら、何でもいいからしゃべって間をつなげ! と。
「あ-、あ、そうなんだ。うん、でも本当に気にしなくていいからね?」
しかし俺がそう言ったとたん、お菊さんはしゅんとしてしまう。
なーーぜーーだーー? なぜこれほど無難な選択肢で外れる? どう見ても今のお菊さんの反応は、ギャルゲーでミスチョイスした時の反応だぞっ。
いかん。兎に角リカバリーだ。BADENDフラグが立っていない事を祈るしかない。
「あ、いや、その……。そうだ! お菊さん、お茶! お茶が飲みたい。ほら、さっきの」
とっても早口になってしまいました。しかし、俺のナイスファイトによってスムーズに話の流れを切り替えられたと思います。というか、そう信じています。
その証拠に、俺の激しい要求に最初こそ目を丸くしていたお菊さんだったが、すぐに微笑みを取り戻し「……はい」と返事をしてくれた。そして、
「はい、どうぞ。入れ立ての熱いお茶ではありませんが」
と先ほど茶を注いだ碗を、俺にそっと差し出してくれた。
「あ、ああ。有り難う」
俺はそう言って、差し出された碗を受け取る。そして、中のお茶を一息に飲み干した。
お菊さんが言っていた通り、確かに冷えていた。入れたお茶を移して、持ってきたようだ。でも味はよく、グイッと一息に喉を通すにはちょうどよい飲みやすいお茶だった。
とりあえずお菊さんのテンションが戻ってきてくれて、よかった。と言うより、助かった。
こんなおいしいイベントは、俺の人生でもう二度とないかもしれない。無事お菊さんを落とせたら、或いは再びこの幸せを味わう権利をもらえるかもしれないが、如何せん挑むのが俺である。落とせる保証がない。
なら、この幸せな何かの間違いを満喫しないという選択肢はない。そんなのは、もったいない精神への挑戦である。罰当たりも甚だしい。
ましてや、うっかりイベント終了フラグを立てるなど論外であった。
「あの、武殿? お結び……、もう一ついかがですか?」
そんな事を考えていたら、やや上目遣いのお菊さんが再びモジモジとしながらお握りをもう一つ勧めてくる。
「あ、ああ。勿論頂くよ。有り難う」
俺はそう答えながら考える――――この感覚……なんだろう、と。
胸が高鳴り、極度の緊張を覚える。でも、それがまったく不快じゃない。妙に小っ恥ずかしく、普段なら絶対そんな状況からは一秒でも早く逃げ出したくなるのに、そうする気にまったくなれない。むしろ一秒でもその空気を感じていたい。
なんというか……、居心地の悪さそのものが嬉しい――――そんな感じだ。
我が事ながら、理解に苦しむ。自分で言うのもなんだが、俺は割と自分の気持ちには素直に行動をする方だ。でも、今の俺は普段の俺とは似ても似つかない。
正直なところ俺は、今の自分が分からず困惑している。
そんな謎めいた自分に思いを巡らせていると、お菊さんは皿に載ったお握りを再びそっと差し出してきた。俺が欲しいと言ったからだろう。
その差し出された皿を見る。
皿には、まだ二つお握りが載っていた。薄い褐色の玄米のお握りだ。
俺が持っていた油皿の明かり一つしかない真夜中の廊下で、それはまだ艶々と輝いている。むしろ薄暗い明かりに照らされて、その水気を多分に含んだ表面は、まるで夏に見る水辺の少女のような艶めかしさを感じさせた。
お握りが艶めかしい……。やはり俺の頭は、さっきからおかしいようだ。
だが差し出された皿の上から、その皿を持つお菊さんの顔へと視線を移した時、俺はなぜお握りが艶めかしいなどと感じたのか、分かった様な気がした。
星明かりの届かぬ廊下の奥。ほぼ闇の中と言ってよいその空間に、頼りなく小さく灯る油の光。そして、小さく揺れる炎の影を映してまっすぐに俺を見つめる女の子。
そんな彼女の放つ気配のせいで、そう錯覚したのだ。
そこに含まれる純粋な厚意と、もしかしたら有るかもしれない小さじ一杯の好意。
それが、俺に教えようとしていたのだ。
皿の向こうに見える微笑みは、いつも見る清楚なものと異なった。
楚々とした仕草は、確かに普段の彼女でもあった。しかし、確かにどこか艶めいていた。