第七十五話 質素で贅沢な、闇夜の晩餐 でござる その一
「あ、ああ。有り難う。千賀は大丈夫だった?」
「はい。あの後姫様は、泣き疲れて眠ってしまわれました」
「そっか……」
泣き疲れて寝てしまったか。
「本当に迂闊でした。申し訳ございません。父から今回は少々不味い事態になったと報され、いざとなった時は頼むと言われまして……。それについてたえ様と相談していたところを……」
「それを千賀に聞かれちゃったんだ?」
「はい……」
そう言って、申し訳なさそうに項垂れるお菊さん。
迂闊だったと言えば迂闊だったかもしれないがなあ。まあ、千賀も武家の娘として受け入れねばならない所もあるからな。
いくら幼くとも、乱世の領主の娘な訳で。
まあもっとも、あれは失いすぎている。もうこれ以上失いたくないというのも十分理解の範疇だ。対道永の時も、ここまでは激しくはなかったが同じだった。
ましてやずっと離れていた大好きな平じいにやっと再会したと思えば、その平じいが敵の大軍と戦わねばならないという。その思いも強くなって当然か……。
「そこまで気にしなくてもいいと思うよ。あんな幼子に我慢させる事が好ましいとは思わないが、それでも千賀は領主の娘。いや、領主だ。耐えてもらわねばならない事もあるさ」
そう言って、お菊さんの肩をぽんぽんと叩く。
しかし、お菊さんの顔は曇ったままだ。
彼女もそんな事は分かっているだろう。ただ、納得したくないだけなのだ。
「それはそれとして、どうしたの? こんな夜中に」
だから、話を変える。あまりにも突然の訪問だった事もあり、変える話題としては最適だった。
すると、お菊さんは顔を上げた。先ほどまでの難しい顔はすっと心に仕舞うように消す。その代わりに、柔らかい微笑みを浮かべた。そして、
「武殿。お腹は空いていませんか? 今夜は忙しくて、まだお食事を取っておられないでしょう? だから……」
と逆に問いかけてきたのだ。
そして彼女は、返事を待たずに俺の部屋の前まで戻っていった。しかし戻ったかと思うと皿に載ったお握りを手にし、すぐに戻ってくる。
そして俺の前までやってくると、そっと差し出してきたのだ。
俺の位置からでは、皿が置いてあった場所がちょうどお菊さんの陰に隠れて見えなかったが、よく見ると俺の部屋の前には盆の上にのったお椀と急須も見える。
…………まじで?
そう思わずにはいられなかった。
女の子が俺の為にお握りを? しかもいつ戻るのか……いや、そもそも戻るのかどうかも分からない俺を待ち続けてくれた?
正直な所、涙腺決壊プログラムの強力さに危うく敗北を喫する所だった。涙を堪えるのが、これ程難しいと思った事はない。
悲しみの涙よりも、喜びの涙の方が耐えがたいとは知らなかった。
ましてや今の俺は、昇天しそうな勢いで大歓喜中である。いま必死に感涙を堪えているが、大型ダムの決壊をなんとかする作業に負けてないだろうとさえ感じられた。
そしてその喜びのあまり、俺は絶句してしまっていた。
しかし、これが不味かった。この時生まれた一瞬の間が悪かったのだ。
俺が一瞬黙って呆然としてしまったので、お菊さんは微笑んでいたその顔を曇らせ、申し訳なさそうにしながらやや伏せてしまう。
いっかぁーーーーんっ。不味い。これは不味い。
あれは絶対俺が迷惑に思ったとか、勘違いしているに違いない。
何とかしなくてはならない。迅速に、且つ最大限の歓迎の意を表明する必要がある。迷惑なんて、とんでもない勘違いだっ。
しかし、はしゃぎすぎても駄目だ。ここは自然に、そしてめいっぱい喜びを伝えなければならない。
だが、俺にそんな小器用な真似が出来る筈もなかった。
それでもなんとかお菊さんに言葉を返す。
「え、えっと。そのお握り……俺に?」
我ながら間抜けな台詞だった。
考えていた理想的な対応と大違いである。あまりの差に絶望した。情けなくて、廊下の壁に頭を叩きつけたくなった程だ。
しかし当のお菊さんは、
「は、はい……」
となんか小さくなりながら、呟くように返事をしていますよ?
もしかして、まだ試合終了していない?
ちょ、ちょっと待て。落ち着け、俺。もしかして、これはあれか? あれだよな? これなんてギャルゲー?
俺がこんなシーンを見るのは、ディスプレイの中だけだと確信していたのだが……。どう見ても、ギャルゲーの世界にようこそ、である。
お菊さん……、なんか顔を赤くしながらもじもじとしています。
うそーん。主人公俺で、こんな事が起こりうるのだろうか……。はっはっはっ。いや、そんな馬鹿な。
絶対なんかのドッキリ企画に違いないと、俺は思った。絶対どこかでカメラが回っていると、俺は確信した。
迷わず辺りの様子を探る。
物陰――そもそもこの廊下には物がない。
廊下の角――人の気配なし。
廊下の板――めくった跡は見つからない。
天井――板に穴はなし。
…………おかしい。どこも”おかしくない”。
ばたばたと駆け回る俺を見て、お菊さんはきょとんとした顔をしてこちらを見ている。
あ、いかん。このままじゃあ、またも変人扱いされてしまう。…………ときに変人と恋人ってかなり字は似てるよな? 意味はものすごーく違うけど。
って、そうじゃないっ。落ち着け、俺っっ。
とにかく平常心の自分を取り戻す事にする。そうしなくては、何も始まらない気がした。
一度目を閉じ大きく息を吸って、そして吐く。それを二度ほどゆっくりと繰り返した。
うん。多少マシになった気がする。
俺は目を開け、お菊さんに話しかけようとした。しかし顔を上げたら、とても楽しそうな顔をして、面白そうにまじまじとこちらを見ているお菊さんの視線とぶつかった。
するとお菊さんは、もう耐えられないとばかりに、小さくぷっと吹き出した。
「……ぷっ……くっ……、ふふ。ああ、可笑しい。武殿、いったいどうなされたのです?」
嗚呼……、俺の馬鹿……。笑われてしまったじゃないですかあ…………。
生涯で再びあるかどうか分からん、こんな幸せな嬉し恥ずかしイベントで、俺はいったい何をやっているんだああぁぁーーっ。もう死にたい。
俺が頭を抱えて猛烈な自己嫌悪に浸っているその間も、お菊さんは口元を袖で隠して、ころころと笑い続けていた。
やはり俺は、余程の間抜けを晒してしまっているようだ。
いかん。いかんぞ。即座にリカバリーだ。……できるかどうかは分からないけどなっ。
「あ、ああ。なんでもない、なんでもない。うん、そう。なんでもないさあ」
そう言って、あははと馬鹿みたく笑ってみせる。
Oh,shit.まったく駄目じゃん…………。
しかしそれでも諦められなかった。俺は粘り込みを図る。んっんっと軽く咳払いをして、言い直す事にした。
ええ。なかった事にしてしまおうかと。
「ん、ああ、そう。お握り、お握りだよ。うん、是非いただくよ。有り難う。もう腹がぺっこぺこだったんだよ」
そう言うとお菊さんはにこりと笑って、「よかった」と一言呟いた。
いやあ。信じられない事だが、恐ろしいまでにテンプレ的ギャルゲー主人公してますよ? この俺が。いったいどうなってんだ?
しかし、俺のそんな疑問が解消される事はない。ただ粛々とシナリオが進んでいる。
つか、この展開が俺に起こるなんて、あまりに非現実的すぎるだろ。俺はモテモテのイケメンではないのだ。哀しい事ではあるが、そのくらいの自覚はある。造形は人並みで間違いない筈だった。
そしてここが重要だが、女とは俺を避ける者で俺はそれでも求める者である。少なくとも過去はそうだった。
故に事ここに及んでも、ディスプレイを見ている気がしてならない。
「こちらにお茶もありますから」というお菊さんの言葉も、耳の右から左に通り抜けていく。
しかし、俺の体は正直者だった。もっと幸せを味わいたいと、素直に彼女について行く。まるで、脳みそと手足が別の思考で動いているような感覚だった。
そして二人して俺の部屋の前までに行き、そのまま廊下に並んで座った。
とりあえずあのお握りは、俺の為にわざわざ作ってくれたものに違いない。彼女の手にあるお握りを見ながらそう思う。
俺は、まずそれを信じる作業から始めなくてはならなかった。
自分に言い聞かせ、自分の為に作ってくれた物を見る。
すると流石に段々と、「いややっぱ、もしかしたら俺の為にわざわざ拵えてくれたんじゃね?」くらいには信じられるようなってきた。人間の適応力ってすごいと思います。
そして、欲望とは際限がないものだった。お菊さんが俺の為に作ってくれたというだけでも十分に幸せを感じられたのだが、そう信じられるようになってくると、やはり是非とも口に入れたくなってくる。これは人情というものだろう。
段々と我慢ができなくなってくる。
そうなってくると、俺は我慢しなかった。
さっさと白旗を振る。欲望に忠実な事って素敵だと思います。くけけ。
腹を擦る仕草を見せながら言ってみた。
「今まで忙しくて忘れていたけれど、そのお握り見たら腹の虫がさあ……」
すると計ったかのように、ぐうっと腹が鳴る。
さすがは俺の腹の虫であった。その忠実で、空気も読めるところにほれぼれとしたのは言うまでもない。
「まあ」
お菊さんはそう言って、目を丸くする。そして先ほどの笑いがぶり返したのか、くすくすと再び楽しそうに笑い始めた。
(むう。やはり俺は三枚目か。まあ、看板があるだけでもマシか……)
と楽しそうに笑うお菊さんを眺めながら、俺は前向きにそう受け止める事にした。現実を見る事は大事な事なのです。
まあ、お菊さんも楽しそうにしてくれているし、とりあえずさっきの間が致命傷にならずによかったと思うべきだろうな。
それにしても、である。未経験の連続にドキドキであった。おまけにその後ろにハラハラまで付くという。
そんな事を考えながらお菊さんを見つめていると、彼女はお握りの載った皿をそっとこちらに差し出してきた。
「どうぞ。召し上がれ」
そしてはにかみ、無垢な少女のような笑みを見せる。
それはとても優しく暖かく、愛らしい笑顔だった。
うーむ。俺……、今度の戦で死ぬかもしれんね。
本気で心配になってくる幸せ展開だった。自慢ではないが、こういうのは他の誰にあっても、俺にだけはないと思っていたのだ。
しかしそれは現実に起こり、いま俺の前には母ちゃん謹製ではない――可愛い女の子が、手ずから俺の為にこさえてくれたお握りが差し出されている。その女の子の珠玉の笑顔が添えられて。
今までしこたま大変だったし、これは駄神のお詫びの印か何かだろうか。
そう思わずにはいられなかった。
だから俺は、とりあえず心の中で十字を切って、柏手を打って、異界のメッカに向かって祈りを捧げてみる。
どれかが適合すればいいという適当さではあるが、神様には、実に日本的な宗教への大らかさだと寛大な心で受け入れてもらいたい所である。気は心。お礼を言った俺の心を汲んで下さい。
しかし当然、それに対する反応など何もなかった。