『小さな同居人』
夜、窓を閉めようとして、ふと壁を見ると、小さな影が動いた。
「……ん?」
近づいてみる。
白っぽい壁紙の上に、五センチにも満たない小さな子がいた。
指先ほどの身体。
細い四本の脚。
そして、こちらをじっと見つめる黒い目。
「赤ちゃんじゃん」
逃げるかと思った。
けれど、ぺたりと壁に張りついたまま動かない。
しばらく見つめ合ってから、私はスマホを取りに戻った。
写真を撮って、家族に見せる。
ずっと同じ場所から動かない。
「飼いたい」
自分でも、なぜそう思ったのかわからなかった。
ただ、あまりにも小さくて、頼りなくて。
このまま外へ出したら、猫に見つかるかもしれない。
鳥に食べられるかもしれない。
寒さに耐えられないかもしれない。
「この子、うちに来たんだもんね」
そう言って、私は小さなケースを用意した。
土を敷いて、隠れられる場所を作り、水を入れる。
そして翌日、ホームセンターへ行った。
店員さんに聞きながら、食べられる小さな餌を買った。
帰ってきてケースを覗く。
隅っこの壁で固まっていた。
「怖いよね」
私は少し離れたところから眺めた。
最初の数日は、ほとんど姿を見せなかった。
夜になると、そっと顔を出す。
私が近づくと、すぐ隠れる。
「また逃げた」
それでも毎晩、ケースを覗いた。
今日はいる。
今日は餌を食べた。
今日は少し大きくなった気がする。
そんな小さな変化が、妙に嬉しかった。
ある夜、初めて餌を食べるところを見ることができた。
小さな身体が、一瞬だけ跳ねた。
「食べた!」
思わず声が出た。
彼は何事もなかったように、また壁に張りついた。
「……かわいい」
それから私は、すっかりその子の世話が日課になった。
朝、仕事へ行く前に水を確認する。
帰ってきたらケースを覗く。
夜になったら餌を用意する。
名前もつけた。
「モリちゃん」
あまりにもそのままだけれど。
呼ぶたびに愛着が湧いていった。
何週間か経つと、少し大きくなった。
そして、ある夜。
ケースの蓋を開けた瞬間、飛び出した。
「あっ!」
慌てて探す。
家具の裏。
カーテンの陰。
窓の近く。
そして見つけた。
最初に出会った、あの壁だった。
また壁にぴたりと張りついていた。
あの日と同じ場所。
ただ、あの日より少しだけ大きくなっていた。
「……ここが好きなの?」
彼は答えない。
ただ、壁をゆっくり登っていく。
私はしばらく眺めていた。
そして、ふと思った。
この子は、最初からここで生きていたんだ。
私が拾ったから生きているわけじゃない。
この家に来て、壁を這って、虫を食べて、夜を越えて。
小さな身体でちゃんと生きていた。
「そっか」
私は蓋を閉めなかった。
「好きなところにいな」
ヤモリは窓の隙間へ向かって歩いていった。
そして一度だけ振り返ったように見えた。
「また遊びにおいで」
窓を少しだけ開ける。
夜の風が入ってきた。
外へ消えていった。
その翌日から、ケースは空っぽになった。
それでも私は、毎晩壁を見るようになった。
そして数日後。
夜、電気を消そうとしたとき。
壁に、小さな影がいた。
「……モリちゃん?」
彼は何も答えない。
ただ、壁にぺたりと張りついている。
私は笑った。
「おかえり」
その小さな影は、まるで当然のように、壁をゆっくり登っていった。




