第一話「勃起スペクトル」
俺は野口雄星。しがない理系大学院生(M4)だ。
DMSOが凍るほど寒い実験室で、今日もずんぐりむっくりした身体を、同じくずんぐりむっくりした実験器具に向けて作業している。
うだつの上がらない日々。
下りない予算。
書けない論文。
取れない目的物。
出ない内定。
浪人までして旧帝に入り、院試も卒論も必死で乗り越えたのに――ちくしょう、どういう仕打ちだ。
俺は狂ってしまいそうだった。いや、もう狂っているのかもしれない。
カラム(アルミナ、半径2 cm、高さ15 cm)は完全に失敗だ。
すでに1ガロンほど展開溶媒を流しているのに、目的物らしきものは一向に出てこない。
もう嫌だ。
試験管を持った手が滑り、机に溶液をこぼす。
ノートが滲む。
ボールペンが溶ける。
ズボンに滴が落ちる。
「あああああ!!!もう嫌や!!!ほんまにどつくで!?おおんっっっ!?」
狂気をかき消してくれるのは、アイドル「ピンクブラックZ世代」。
そう、俺はもうシコるしかなかったのだ。
今は午前2時。
教授のほかには誰もいない。
念のため、ドラフト(注:局所排気装置)と換気扇を作動させる。
水気を伴った独特の音が、リズムよく実験室に響く。
ドラフトの低い唸りと、妙に調和していた。
長く禁欲していた俺が至るまでに、それほど時間はかからなかった。
具体的に言えば、卒研発表くらいの時間で足りた。
「いぐっ!?みどりちゃ(脱退済)、ん、んぁっ、ああああ!!」
ボボボッ!ボゴォッ!ボゴリリュウボフウウゥ!!!
とても勢いよく出た。
嗅いでみる。
そうだ。俺の特徴を説明するのを忘れていた。
俺のザーメンは、異様に臭いのである。
「うううう!?やっぱくせえええええ!?」
騒ぎを聞きつけて、先生が入ってきた。
先生の居室は、すぐ隣の部屋だ。
「ホッシー、大丈夫か?なんか変な音聞こえたで。実験進んどるか?
もうちょっとしたら俺も帰るさかい、実験室閉め頼むで。
修士はもうお前だけやからなぁ。先輩も同期もみんな行ってしもた。
ホッシー送り出すのが俺の最後の仕事や。
すまんけど退官するからDは無理や。行くなら紹介するで。
まぁ就職した方がええとは思うけどな。」
「は、はぁ……」
もう何年もいるのだ。
先生のマシンガントークには慣れている。
先生が眉をひそめた。
「ん?なんか変な臭いせぇへん?
なんか変なことやったやろ?正直に言わんと昨日言うた試薬買わへんで?」
ここは正直に言うしかない。
「オ、オナニー……してました……すみません」
「おはぁ!?抜いてたんか!?ここで!?
うわぁ頭おかしなったんか!?
それよりなんやこの臭い!ザーメンの臭いだけちゃう、ガソリンみたいな臭いもするで!
自分使っとるのクロホとかメタとかやろ?
そのへん展開溶媒でも使わへんやろ?何なんやこれ」
「全部……俺のザーメンの臭いです。
実は昔から臭くて……そのせいで親にもボコボコに殴られたりして……」
遊び好きの先生は、鼻で笑って言った。
「そうか。それ、残っとるならパスツールで吸って、水で振ってみ」
「ええ!?」
俺は勃起したままの手を滑らせ、ちんぽがびくりと震えて残り汁を撒いた。
「ええから、やってみ」
先生は時々変なことを言うが、だいたい本質的に的確だ。
先生の主張はこうだった。
通常、精液の主成分は水であり、タンパク質や糖などの水溶性成分が多い。
しかし世の中には、石油成分を生成する体質のものもいる。
もし精液に疎水性の有機物が含まれていれば、水と振盪したとき上層に何か浮かぶはずだ。
それを解析すれば、疎水性成分の正体が分かる。
つまり――
「俺のザーメンには揮発性有機物が含まれている」という仮説を検証できる。
俺は言われた通り、出したてのザーメンをパスツールピペットで吸った。
粘性のせいでうまく吸えない。時折、気泡の入る不快な音が鳴る。
0.5 mLほど吸ったところで、バイアルに移す。
水を加えて振ると――確かに相分離した。
上層には、薄い油膜。
そして石油の臭い。
これを慎重に採取し、重溶媒を加えてNMRチューブへ。
重DMSOは凍っていたので、解かすのが大変だった。
¹H NMR(800 MHz, in DMSO-d₆)で測定すると、大量のピークが現れた。
一見すると、草が生えたようなガサガサのスペクトルだ。
精製しきれなかった時の、あの嫌な感じ。
しかし、この草原は整然としていた。
既知スペクトルと照合する。
主なピークは――
ペンタン、ヘキサン、ヘプタン、オクタン。
つまり。
俺のザーメンに含まれていた謎の有機物は――
石油だった。
結果を伝えると、先生は腹を抱えて笑った。
「今、中東大変やからな。
ホッシーのザーメンで世界救えるかもしれへんで!
セレンディピティちゅうやつや!ワッハッハ!
とりあえず今日は片付けて、また明日考えよか!」
この人は何を言っているんだ。
まず俺の修了と就職だろ――
そう思いながら、俺は愛想笑いを浮かべるしかなかった。
そして――
この出来事が原因で、就職どころではなくなるとは。
この時の俺は、まだ想像もしていなかったのである。
第一話 おわり




