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2話



§



 翌日、昨日買ったシューケア用品を早速、試す事にした。

 学校で履くローファーを手入れするのはこれが初めてで、なかなか汚れが目立っているけれど、果たしてどれくらい綺麗になるのか。効果を実感する意味でも、まず片足だけを磨いていく。

 氷室さんに教えてもらった手順を思い出しながら、道具を手に取る。

 まずは、除菌シートで靴の内側を拭き取り、それからシューケアを入れる。

 シューツリーを入れる事で靴のシワが伸びてクリームの浸透率がよくなるのだ。

 そしたら次は、馬毛ブラシで靴の表面に付いた砂や埃を払っていく。

 払い終えたら、今度はステインリムーバーで小さな埃や汚れを落としていく。これは直接手に触れて塗るのではなく、指に布を巻いて、布に染み込ませて靴を磨いていく。ムラなく、優しく、丁寧に。

 うぅむ、楽しい。

 こういう手作業は僕の性分に合っている。一つひとつの作業は地道だけど、手を抜かなければ目に見えていいモノが出来るし、まるで正しい努力の仕方を教えてもらってるみたいだ。

 そうして塗り終えたら乳化性クリームで保湿をする。クリームを塗る際にペネトレイトブラシを使用する。毛先にクリームを付けて靴に塗り込む。これも靴全体に、ムラなくだ。

 そしたら次、豚毛ブラシでブラッシングして乳化性クリームを馴染ませる。

 丹念にブラシで靴をブラッシングしたら、最後はクロスで靴を磨いてツヤを出す。あまりゴシゴシと擦り過ぎず、優しく。

 そうして出来上がったのが、艶やかな光沢を放つローファー!

「おぉ・・・・・・」

 なんという達成感。

 まだ一足だけだけど、やってみるとなかなかにやり遂げた感がある。

 もう一足、なにもしてない方と見比べてみると、その差は歴然としていた。

 磨いた方の靴は新品同様の輝きを放っており、今すぐにでも履いて歩きたいと思わせた。

 逆にもう片方の手入れしてない方は汚れが目立ち、みすぼらしく見える。

 両者を比べて見てみると、確かに靴は綺麗に越した事はないなと思う。周りの人が見ても綺麗な靴を履いてる方がその人はよく映るだろう。

 よく「オシャレは足元から」なんて言うけれど、足元は意外と見られているから気を遣えっていう事なのかもしれない。

 ふぅむ、だから氷室さんは靴を磨けと言ったのか。なかなかに観察力がある。

「あらあら、休日から靴磨きなんて、殊勝な事を」

 と、不意にランドリーケースを持ったお母さんがリビングに通りかかるついでに玄関で作業する僕にそう声を掛ける。

「どういう風の吹き回しなのかねぇ。急に靴磨きがしたいって言い出した時はどうしたのかと思ったわ」

 怪訝そうな顔をしつつ、でもすぐにニヤリと笑う。

「もしかして、好きな子でも出来たのかしら?」

「ち、違うよ・・・・・・そうやって、なんでも恋愛に絡めてこないで」

 でも実際、好きな人はいるので語気は弱い。

 するとお母さんは「おほほ」と、おかしそうに笑う。なんだその笑い方は。笑いづらいだろ。

 僕は無反応を示し、作業を再開。これ以上の詮索を避ける為の無関心を装う。すると母は「青春ねぇー」とか、僕に好きな人がいる事を前提にチープな言葉を呟く。

 違うって言ってるのに・・・・・・。


 靴を磨き終えたら今度は制服のアイロン掛け。

 アイロンはリビングにあるので、足付きのアイロン台を立てて制服のシワを伸ばしていく。

 制服は、直接アイロンに当てるのではなく、当て布をしてシワを伸ばす。そうしないと生地が痛んだり、光沢が出て不格好になってしまう。

 襟、袖、肩周り、前身、後ろ身という順で掛けるのがいいそうだ。小さな部位から始めて、最後は大きな部位にアイロンを掛ける、と覚えればいいと氷室さんが言っていたのを思い出しながら、アイロンを掛ける。 シャツが終われば、今度はスラックス。こちらも当て布をして、ムラなくアイロンを掛ける。

 ほどなくしてアイロン掛けは終了。そこまで数がある訳ではないのですぐ終わった。

「ふぅ」と、一息。

 シワの伸びた綺麗な制服を見ると、気持ちがいい。綺麗な制服に身を纏えば、自然と背筋も伸びそうだ。

 しかし、制服のアイロン掛けはすぐに終わって物足りない。

 僕はシワだらけの衣類を求めて立ち上がる。

「お母さーん、アイロン掛けするもの、なんかないー?」

 丁度リビングにお母さんがいたので声を掛けると、キッチン周りを掃除しているところだった。

 声を掛けると振り返って、

「なに? アイロン? さっき洗濯物干したばっかりだからないよ?」

「そこをなんとか」

「なんとかって言われてもあんた・・・・・・なに、そんなにしたいの? じゃあ、お父さんのTシャツアイロンしてもらおうかなー」

 と、なんとか融通を利かせてくれる。

「てゆうかなに急に。家事に目覚めちゃった? それならアイロンじゃなくて、掃除して欲しいんだけど」

「や、そういうの募集してないんで」

「いや、募集とかじゃなくてもう少し手伝いをしてよって」

「それは、ちょっと・・・・・・」

「調子いいんだから・・・・・・。はいはい、アイロンね。分かったわ、寝室から取ってくるから待ってなさい」

「わーい」

 その後、お母さんからお父さんの来ているTシャツをいくつか持ってきてもらった。



 ――以降。

 僕はすっかりアイロンにハマる。

 週末、アイロンを掛けるのが僕の日課となり、楽しみとなり、趣味となり、暇な休日の、いい時間つぶしになった。

 勿論、アイロン掛けだけじゃなく、靴磨きの方もちゃんと継続してる。毎日、家に帰ればブラシで埃を払い、雨の日は防水加工を怠らない。雨で湿度が高い日は、靴箱は開けたままがいいのか、閉めた方がいいのか分からなかったけど、それも調べてみれば、どうやら出来るだけ風通しをよくする為に開けておいた方がいいらしい。日課を続けるうち、僕の知識が増える。そして、細かなところにも気になるようになる。

 ふと、靴底のすり減り具合が気になって、ローファーの靴底を確認してみると、右足の方が極端に磨り減っていた。僕は右足に重心を傾ける癖があって、どうやらその積み重ねで歩いている内に負担が偏っていたようだ。

 そのすり減り具合を見ると、どうにもバランスを取りたくなる。アンバランスさが気に食わなくて、僕は歩き方にも気を配るようになる。歩く時の重心が気になると、今度は前傾姿勢が気になる。僕はいつも首が前に突っ込む癖があって、横から鏡で見ると、実に不格好だった。それも直す。背筋を伸ばし、胸を張る。けど、そう意識しながらも、学校にいる時はどうしてもそれが出来ない時がある。人目が多い時は自然と内気な自分を演出したがるのか、猫背になり、頭も前に出る。改めて、態度とメンタルは繋がっているのだな、と思う。

 こんな風に自分の事に自覚的になってきた。自身を引きで見られるようになったのは日々の日課のお陰だろうか?

 これが氷室さんの言う、「目を養う」なのだろうか? 細かなところに目を向ける事で、養われる感性は、僕にいい影響を与えているだろうか? かもしれない。



 ある日、氷室さんが髪型を変えた。 その事を直接本人に話してみると、「へぇ。よく気付いたね」

 僕の指摘に、氷室さんは感心したような嬉しそうな反応を示すので、僕は満更でもなく「たまたまだけどね」としたり顔。

「休みの日に美容院に行ってきたの。襟足だけ残してカットしてもらったんだ」

 なるほどそれで。

 氷室さんの髪型は劇的な変化ではなかったものの、それでもパッと見の印象、雰囲気というのは違って見える。

「どう、似合ってる?」

 氷室さんはそう言ってはにかむので、僕は面映ゆい気持ちにさせられる。

 なんかこういう会話って親密な間柄の人とするものな気がして、僕なんかが褒めても別に大して嬉しくないんじゃないかと思うんだけど、でも聞かれた以上は答えない訳にはいかない。

「うん、似合ってる。可愛いよ」

 僕は見たまんまの印象を素直に答えると、途端。氷室さんは呆気に取られた顔をした。

「か、かわ・・・・・・あ、そう。ありがと」

 と、どこか歯切れが悪い。

 え、もしかして僕、受け答え間違えた?

「あ、零。上里くんだ。二人ともおはよ~」

 と、そこへ安田さんが登場。とことこと可愛い足音を立てて僕らの元へ近付くと早速、安田さんは氷室さんの髪型の変化に気付く。

「あ、零。髪切ってる。なに、襟足伸ばしてるの? ウルフカット? 可愛いねぇ、似合ってるよ!」

 安田さんは矢継ぎ早に言って褒め立てるのでむしろ氷室さんは苦笑いだ。でも忌憚のない意見に嬉しそうでもある。

 でも安田さんの褒め言葉を聞く限り、別に僕もおかしな事は言ってない。なのにさっきの呆気はなんだったんだろう。

 しばし褒めちぎった後、安田さんはおもむろに切り出す。

「ところで上里くん!」

「な、なんでしょう?」

 安田さんはグイッと顔を近づけるので、僕はつい仰け反る。

 勢いそのままに安田さんは言葉を続けた。

「夏休み、クラスでバーベキュー行く計画立ててるんだけど、上里くんも参加しないっ? てゆうか参加して欲しいんだけど!」

「え、バーベキュー?」

 突然言われて僕は戸惑う。

「今、参加者を募ってるんだけど意外と皆乗り気で、クラスの過半数は参加するって事なんだけど、上里くんも是非来ない? きっと楽しいよ! いや、絶対楽しいよ!」

「えーと・・・・・・」

 安田さんからの熱烈なお誘いは非常に有難いし嬉しい限りだけど、しかしそういうクラスメイト主導の企画って、あまりいい印象がない。

「僕、そういうのは苦手っていうか、内輪ノリの感じがするし・・・・・・」

「大人しめの子たちも参加するって言ってるし、仲間内だけのノリじゃなくて、クラス皆で楽しもう、みたいな感じだから上里くんもきっと楽しめると思うの」

「そうかなぁ」

「そうだよ! それに零も来るよ?」

「え?」

 安田さんは急に、氷室さんを引き合いに出す。その言い方がまるで、

「なんで氷室さんが来ると僕も来ると思うの?」

 すると安田さんは一瞬、目を丸くした。そしてあっけらかんと言う。

「だって上里くん、最近零とすごく仲良いから」

「それはそうだけど」

「ね? だから一緒に参加しようよ。ほら、零も誘ってよ!」

 そう言って安田さんは氷室さんに協力を仰ぐ。

 すると氷室さんは慎重な姿勢を見せる。

「来てくれたら嬉しいけどね。でも無理に誘っても朝日がイヤならしょうがないから」

「もう、そこは普通に来て欲しいでいいじゃん」

「まだ時間あるんだし、今すぐに答える必要もないでしょ? 朝日も急に言われても答えられないだろうし」

「そうだね・・・・・・」

 氷室さんの言葉に頷くと、安田さんは分かりやすく残念そうな顔をした。

「そっかぁ~。でも考えといてねっ? 行きたくなったら気軽に言ってくれたらいいから!」

 最後まで安田さんはウェルカムな姿勢を貫いた。

 そこで話は終わり、安田さんはこの場を離れると、彼女の背中を見つめながら氷室さんがおもむろに切り出す。

「さっきはああ言ったけど、私は朝日にバーベキューに参加してくれたら嬉しいよ?」

「え?」

 言いながら氷室さんは振り返って僕を見る。微笑を浮かべながら優しく語りかける氷室さんに、僕はなぜだか固唾を吞んだ。

 なにか期待してる自分がいた。

 すると氷室さんはすぐに注釈を入れる。

「別にこれは、寧々と仲良くなるチャンスだから行くべきだって話じゃなくて。ただ普通に、私の個人的な思いで言ってるだけだから。朝日も一緒に参加してくれたら楽しいだろうなって」

「それは、」

「だからって無理に参加しようとしなくていいよ。あんたがクラスのイベントが苦手なの大体分かってるから。だから気が向いたらでいいから」

 そう言って氷室さんもこの場を去ろうとするので、僕は咄嗟に呼び止めた。

「氷室さん」

「なに?」

 すると勿論、振り返る。その際に黒髪が揺れ、悠然とした雰囲気が漂う。氷室さんを前に、僕は自然と言葉が口を突いて出てきた。

「僕も、参加してみようかな」

「本当に?」

 すると意外そうに目を丸くする氷室さん。

 僕も自分で言って意外だった。

 こんなにも躊躇いなくそう言えた自分に驚く。

 でも無理してるとか、その場の勢いとかじゃなくて、あくまで自然に僕はそう言っていた。

 なんとなく、氷室さんの言葉で行く理由が出来た。

「興味がない訳じゃないし。それに」

「それに?」

 氷室さんは僕の言葉を真似て、続きを促す。でもその先を言うのは少し照れ臭いから、少しだけ間を置いてから続ける。

「氷室さんがいるなら、楽しめそうな気がするから」

 すると氷室さんは少しだけ黙り込み、一瞬沈黙が訪れる。

 しまった、言葉選びを間違ったかもしれない。

 僕はすぐに訂正したい気持ちに駆られるも、言い訳を縷々述べるより先に氷室さんは言った。

「じゃあ決まりだね。一緒に行こう」

 そう言って氷室さんは微笑む。

 その笑顔に、僕の心は躍らされる。


§



 期末テストが終え、いよいよ夏休みが目前に迫る。

 教室では皆、夏休みはやれ海だ、プールだ、夏祭りだ、フェスだ、お泊まり会だと浮かれた事を言ってる最中、僕は誰に誘いを受ける事もなく教室の片で黙々と読書に興じていた。

 黙々と興じてる割に周りの声がよく聞こえてるじゃないのと言う人、ちょっとお口チャックしようか。

 僕だって聞きたくて聞いてる訳じゃないのだ。ただ、皆の声のボリュームが大きいだけだ。

 僕は必死に本に集中しようとするけれど結局、諦めて机に突っ伏してしまう。

 別に、泣き顔を見られないように顔を伏せた訳じゃないよ? 本当だよ?

 しばし突っ伏していると、それは不意にやってきた。

「朝日」という声が聞こえるのと同時に、僕の脇腹になにかが刺さる。

「ひょえっっ?」

 思わず僕は飛び起きると、目の前に氷室さんがいて、クスクスと笑っていた。

「ふふ、ふふふふ・・・・・・なに今の声」

「氷室さん・・・・・・」

 どうやら僕の脇腹をつついたのは氷室さんらしかった。

「ごめん、寝てたからつい」

「氷室さんは寝てる人の脇腹をつついて起こすの?」

「ごめんて、からかっただけだよ」

 平謝りすると、氷室さんは「それより」と切り替えた。僕の気持ちなど置いてけぼりにして。

「今日の放課後、教室に残ってくれる? バーベキューの予定でクラスで集まるからさ」

「あぁ、そうなんだ」

 氷室さんの後押しを受けて僕もバーベキューに参加する事にしたけれど、改めて不安な気持ちにさせられる。でも今更断る事も出来ない。

 それにここで断れば今までの僕と同じ歩みを進む事になる。それは避けたかった。

 少しでいいから、昔の自分より変わったと思いたい。ここで逃げたら、きっと安田さんに想いを伝える事からも逃げ出しそうだ。だから僕は逃げない。前に進むのだ。

「分かった」

 僕は頷き、了解した。

 そして放課後。



 教室には二十人が集まった。なかなかの大所帯だ。

 主催者メンバーのうちの一人と思われる男子が司会役を務め、バーベキューの内訳について説明する。

「えー、今回のバーベキューの開催地は渓流地にあるキャンプ場で電車とバスを乗りついで行く。コンロや炭、テント、イスなどはレジャー施設からレンタルするけど、クーラーボックスは持参しなきゃいけない。それと食料品や食事回りのアイテムだな。一応、必要なアイテムは纏めてある」

 そう言って司会は、アイテム一覧の用紙をクラスメイトに配っていく。それを見たクラスメイトの一人が「お~、マメだねぇ」と感心する。

 用紙を見てみれば、分類別に必要アイテムが書かれてある。

 大きく分けて四つ。

 食材・調理や食事回り・飲み物・安全グッズだ。

「買い出し品はそれぞれグループを分けて事前に購入してもらって持参してもらう形で。ちなみにここまでで質問ある人いる?」

 と、司会の男子が訊ねるので、

「あの、ちょっといいかな」

「お? どうした朝日」

 僕はおずおずと手を上げる。すると皆が一斉に注目するので居たたまれない。

 しかし、意を決して口を開く。

「ここには書かれてないけど、調味料も必須だと思う。肉はタレを漬けて食べるにしても、下味を付けた方がより美味しく食べられるし。それに人数が多いと、味の好みも分かれるだろうから、焼き肉のタレも何種類か、ポン酢やレモン汁とかもあるといいかもしれない」

「「「・・・・・・・・・・・・」」」

 はっ!

 喋り終えると、教室中がシンと静まり返っていた。

 しまった、調子に乗って喋り過ぎた。陰キャがなにをはしゃいんでんだよとか思われてるかもしれない・・・・・・。

「ま、まぁ荷物多くなるから、なければないでも大丈夫だけど、はい」

 僕はすかさず、言い訳を述べると、おもむろにクラスメイトの一人がポツリと漏らした。

「朝日、お前すっげぇ気が利くじゃん! 確かに調味料はあると便利だよな。俺は肉にポン酢漬けて食べたい派だから朝日の意見に賛成ー」

「私もタレは甘口がいいかな。それとバターがあればコーンバターやじゃがバターも作れるよねー」

「それとデスソースも必須だよねー」

「お前は黙れ」

 すると途端、僕の話をキッカケに話題が盛り上がりを見せる。

 僕は驚きに包まれていると、隣にいた氷室さんが目配せをして、小声で言う。

「やるじゃん朝日」

「あ、ありがとう」

 僕は気恥ずかしくて俯きながら小さくそう返すに留まる。

 こんな事、らしくないと思う。自分の意見を積極的に話すなんて。でもこうして、僕の意見を聞いてくれて、盛り上がってくれる事に、僕はクラスメイトと一体感を得る。それがすごく嬉しい。クラスの一員として溶け込めてるみたいで。

「上里くんすごい! よくそんな事気付いたねっ? もしかしてバーベキュー経験者?」

 と安田さんが嬉々として訊ねる。

「家族でよくキャンプに行くから」

「上里くん家族と仲良いんだねぇ。え~、じゃあ他にはなにか必要なものとかない? 上里くん経験者だし色々教えてよっ」

「朝日、他になにかあったら教えてよ」

 安田さんの言葉に続き、司会の男子も訊ねる。クラスメイトの視線が僕に集まるから居たたまれない気持ちになるも、でも僕は勇気を振り絞り、声を出す。

「買い出しだけど、食材なんかは鮮度のあるものはバーベキューの当日や前日の方がいいんじゃないかな。後は飲み物だけど、これだけの人数となると持ち運びが大変だから、一人1リットルを持参して、現地でクーラーボックスに収納するのがいいんじゃないかな。飲み物は事前に凍らせて持っておけば冷たさもある程度はキープ出来るよ」

「なるほどなー。じゃあドリンクは一人一本ずつ買うとして。なにを買うかはまた決めないとな」

 司会の男子が頷く。

 他にも気になった事をいくつか挙げていくと、クラスメイトは熱心に話を聞いてくれた。今までクラスメイトとの交流はほとんどなかったけれど、こうして輪の中に入って一緒にイベントに参加できる一体感に、僕は面映ゆい気持ちにさせられながら、気分が高揚するのを感じる。

 不意に実感するこの気持ちの正体は――。

「じゃあ、買い出しリストについてはもう少し細かく詰めていくかー。それは後でも出来るから、それより先に買い出しグループを分けよう」

 司会の男子は話を進め、買い出しリストの四つの分類から四つのグループを作っていく。

 一グループ五人として計二十人。

 まずはグループ分けを行うところから始める。真っ先に氷室さんが僕に声を掛けてくれたので、一安心。で、次に誰がメンバー入りするかだけど、氷室さんがいる時点で必然的に安田さんが加入してくれる。

「零、私も混ぜて~」

 で、後二人だけど、安田さんが男手として必要だからと大貫くんを招集。

「無駄に筋トレしてる成果を見せてよね」

「うっせぇ。荷物持ちの為に呼ぶな」

 安田さんの軽口に大貫くんは気怠げながらノリよく反応する。

 で、最後の一人だけど、大貫くんが選出。

「お前、こっち来い」

 そう言って大貫くんは肩を回して男子を一人連れてくる。彼は暖木晃大くんだ。大貫くんとは性格が対照的で、誰とでも仲良くなれるタイプ。僕のような人にも優しい、温和な男子だ。

「話出来る奴が欲しいんだよ」

「分かったよ」

 強引に連れて来られるも、暖木くんは頷く。するとすぐに安田さんが声を掛ける。

「ノギちゃんよろしくね~」

 とは安田さんだ。

 親しげに愛称で呼ばれてるの羨ましい。

「うん、よろしく」

 暖木くんは安田さんを一瞥すると笑顔で会釈する。その流れで氷室さんも「よろしくね?」と笑顔を差し出すと、暖木くんは「あぁ、よろしく」と安田さんと同様に愛想のいい笑みを浮かべる。

 暖木くんの加入でグループが感性、次になんの買い出しをするかという話になり、話し合いの末、僕らは食材の買い出しを任される事となった。「よっしゃ、肉大量に買うぞー」

 大貫くんは楽しそうにはしゃぐと、他グループの人たちから窘められる。「お前、予算あるんだから肉ばっか買ってくるなよ?」

「はいはい、分かってるよ」

 などと軽くあしらう大貫くんを見て周囲は呆れた顔を見せつつも、ただの冗談として済ませる。

 他のメンバーもいるから大丈夫だろうという事だ。

 で、おおよその話は終えて、解散する流れになった。

 その前にクラス内でグループメッセージを作る事に。クラス全体のグループと、そして買い出しグループ二つ分のグループを作成。そこで僕は安田さんとの繋がりを得た。

 や、それを利用して個人的に連絡を取るとかはしないけれど、繋がれただけでも嬉しい。

 で、いよいよ解散となると、安田さんが僕ら買い出しグループを呼び止める。

「買い出しはいつ行くか、日程決めよう。上里くんが言うにはなるべく日が近い方がいいんだよね?」

「そうだね、鮮度の問題もあるし」

「じゃあ当日の方がいい?」

「えー、でも早く起きないとダメなんだろ? 面倒だな。前日に買い出しでいいんじゃね?」

「また鋼矢くんはそういう事言う~」

 大貫くんが気怠げに言うと、安田さんが窘めるけれど、どこ吹く風といった様子だった。

「もちろん時間の都合もあるし、前日でも全然いいと思うよ。あくまで日は近い方がいいってだけだから」

 僕は弁解すると大貫くんはすかさず「んじゃ前日だな」と言った。

「いいんじゃないの? 前日の方がじっくり選べるし、もし買い忘れがあったら当日リカバリー出来るから」

 氷室さんも大貫くんの意見に乗ると、安田さんも「そうだね」と頷く。さっき大貫くんに噛み付いたのは、ただの軽口だったのかもしれない。

 ともあれ、買い出し日は決まった。買い物するスーパーについては各々の自宅から通える範囲のところを見つけたので、そこにする。

 話が纏まると、改めて安田さんはバーベキューへの思いを口にした。

「具体的に話が進んでいくと実感が湧いてきてワクワクするよね~。クラスの皆とバーベキュー。楽しみだなぁ~」

 安田さんはしみじみと言う。

 ――楽しみ。

 さっき僕がクラスメイトとの交流で不意に感じた気持ちの正体はこれだ。

「ね、上里くん?」

 不意に安田さんが同意を求めるように訊ねるので、僕は――「うん、楽しみだね」

 と言っていた。

 楽しみ? 僕が?

 まるで温めたバターナイフで切り取ったみたいに、楽しみなんていう言葉がなめらかに口を突いて出てきた。

 今までの僕だったら有り得ない。

 自分で言っておいて驚いてしまう。 これが心境の変化というやつか。実感してみると、不思議な感慨である。

 やがて話は終わり、解散する事になった。皆そそくさと教室を後にする。最後の人がカギの戸締まりをする決まりなのだ。まぁいい。と僕は開き直ってゆっくり帰り支度を済ませると、声が掛かる。顔を上げると氷室さんがいた。

「あれ、先に帰ったんじゃないの?」

 僕は訊ねると、氷室さんは「そうだけど、気になって戻ってきた」

 というから僕は首を傾げる。すると氷室さんは気遣うような表情を見せながら、

「ねえ朝日」

 と呼びかけるので、僕はなんだろうと不思議に思っていると、氷室さんは続ける。

「さっきちょっと様子が変だったから気になって声掛けたんだけど、大丈夫?」

「変だった? そう?」

「寧々と話してる時、ちょっと」

 というのは、楽しみかと聞かれた時か。表情に出さないようにしてたのによく気付いたな。

 僕はかぶりを振る。

「バーベキュー、楽しみだよ。ただ、そう思える自分が不思議だったんだ。だからもし、様子が変だと思ったなら、別にネガティブな意味じゃないよ」

「不思議?」

「うん。今までの僕だったら、楽しみとか気軽に言えなかった。けど、安田さんに聞かれて、自然と言えたんだ。それが不思議で。って、こんな事言ってもよく分からないよね。とにかく、全然大丈夫だよ。心配してくれてありがと」

 僕は改めてお礼を言うと、氷室さんは安堵しながら「そう」と相槌を打った。

 気に掛けてくれていた事がその態度から伝わってくる。

「朝日が楽しみにしてくれて、安心したよ。私、無理に誘ったのかなって少し思っちゃった」

「そんな事ないよ。あの時、氷室さんに誘ってもらった時、嬉しかったから」

 楽しいを構築する一部として必要とされてるみたいで嬉しかったから。「ならよかった」

 そう言って氷室さんは笑った。口元から溢れる歯並びのいい笑顔は、そこは優美な印象を漂わせる。 

「以前までの僕なら参加してなかった。こうして僕が参加しようと思えたのは氷室さんが僕を変えてくれたお陰だよ」

 すると氷室さんはかぶりを振った。「変わったのはあんたの頑張りだよ」

 そう言ってあくまで僕を立てるけれど、でも僕は自信を持って言える。「ううん、氷室さんのお陰だよ。なにもかも」

 心の底から思う。

 僕は氷室さんのお陰で変われたのだ。少しずつ、過去を清算して、前に進めている。そんな実感が確かにあった。

「僕さ、昔から友達がいなくてさ。こういう行事に参加するの、ずっと憧れてたんだよね」

「昔って、去年の話じゃないよね?」

「うん。中学生の頃からなんだけど。中一の時に交友関係で失敗して。まぁ、単なる僕の勘違いが原因だったんだけど」

「勘違い?」

「うん・・・・・・」

 中学一年の時。進学するとクラスには誰一人として同じ小学校だった友達はおらず、全く新しい関係を構築しないといけなくなった。けれど元々引っ込み思案だった僕は誰にも声を掛ける事なく、孤立していた。

 このままではぼっちルートは確定だった。内心では焦りつつも、行動する勇気もなく、ただ時が流れるのに身を任せていた。

 そんな時、転機が訪れた。

 たまたまその日、漫画雑誌をコンビニで買って学校に持ってきていたのをクラスメイトの男子に見つかった。彼らはいわゆる陽キャで、今まで僕が関わってこなかった人たちだった。

 最初、バレた時は先生に言われるのかと思ったけれど、三人は黙ってやるから雑誌を読ませてくれと言ってきた。僕としてはバラされるよりはずっといいと、その言葉を受け入れると、彼らと一緒に雑誌を読む事に。すると読んでいる連載漫画の話題で僕らは盛り上がる。

 そしてそれをキッカケに、また来週も漫画を持ってくるように言われた。それから僕は毎週、雑誌を持ってくるのが習慣になった。そして雑誌の発売日以外にも一緒につるむようにもなった。

 でも漫画以外の話題となると共通点がないので、なにを話したらいいのか分からず、ぎこちない会話になる事も少なくなかったけれど、彼らは対等に接してくれた。

 彼らの懐の広さに僕は有難いと思ったし、初めて出来た友達を手放したくないと思った。

 そう、彼らは友達だ。その時はそう思っていた。

 中学で初めて出来た友達に、僕は嬉しくなるのと同時に、彼らを手放しちゃいけないと必死になった。

 本当はこういう意識を友達に持ちこむのは違うのだろうけれど、分かっていつつも僕は必要以上に彼らに対して気を遣うようになった。

 宿題を忘れたら写してあげたり、買い物ついでに皆の欲しい物を買っていったり、用事があると聞いた時は掃除当番を代わったり、自ら率先して三人の役に立てるように振る舞うようになった。

 それがただの都合のいい人間の振る舞いである事に、その時は気付かなかった。

 はじめこそ感謝されたけれど、次第に彼らは「ありがとう」と言わなくなった。彼らにとっては僕になにかをしてもらう事が「当たり前」になっていた。僕はそれで次第に気付いたのだった。自分がただの便利屋である事に。

 そして気付いた時にはもう遅くて、対等は関係はすっかりなくなり、上下関係が出来ていた。それも雲泥の差が付くほどの関係差だ。

 僕は少しでも対等に近付きたくて、行動を変えるよう努めるも、露骨にイヤな顔をされた。頼まれ事を断ると「いつもならやってくれるのに」と恨み節が溢れる。頼んでいる方が権力が強かった。僕がなにかをするのが当たり前になっている。その状態から関係を対等に持っていくのは困難を極めた。

 やがて僕が扱いづらい人間だと評価されると彼らは自然と離れていった。どころか、彼らは僕に嫌がらせをするようになった。ショックだった。今まで友達だと思ってきた人たちに嫌がらせを受けるなんて思わず、僕は立ち直れなかった。

 それと同時に、僕は誰かと仲良くなる事が怖くなってしまった。信頼していただけに、裏切られた時のショックが大き過ぎて、他人に自分の本音を打ち明ける事に恐怖心を抱いてしまった。

 だから僕は誰かと話していても本音を素直に受け取れず、言葉の裏面を探してしまうし、ネガティブな意味に捉えてしまう。すると僕も下手な事は言えず、話す事に慎重になってしまう。相手の本心が分からない以上、僕も本心を語る事は難しく、常に当たり障りない言葉を探した。

 そんな奴と仲良くなろうと思う人間などいる筈もなく、結局僕はずっと、友達のいない生活を送り続ける事に――。

「なるほどね。それで一年の時に寧々に言われた言葉があんたの中で大事な思い出になってたのね」

「うん」

 ――朝日くん、大丈夫だよ。自分のペースで話せばいいんだよ? ほら、落ち着いて。

 まるで僕の過去を見透かしての発言だったみたいでドキリとした。

 あの時の安田さんの表情と声は色褪せる事なく僕の瞳の内奥に刻まれている。僕の心が掬われた、大事な言葉。

「でもそう。そんな事があったんだね」

「あ、ごめん。急に重たい話して。別に今はなんともないから」

「ううん、いいよ。話してくれてありがとう」

 そう言って氷室さんはかぶりを振る。

 そう言って受け止めてくれる。そういう信頼があるから打ち明ける事が出来たのだ。

「でも今の朝日なら大丈夫。クラスの皆ともきっと上手くやれるよ。さっきも皆の前で話が出来たじゃん? あんたが本音で喋れば、自ずと皆も心を開いてくれるよ」

「でも皆に注目されるのは居たたまれなかったけどね」

 僕は照れ臭く笑うと、氷室さんも笑い返した。その反応にまた、くすぐったくなる。

 氷室さんといると、居心地がいい。 氷室さんの前だと繕わなくていい、裸の心でいられるのが僕には清々しく、心地がよかった。

 改めて氷室さんと出会えてよかったと思う。



§



 終業式を終えた。

 いよいよ夏休みである。

 ホームルームが終わるとクラスメイトは部活へ行く者、帰宅する者で二分し、教室を後にする。そんな中、僕は一人、進路を違えていた。

 向かう先は図書室。

 夏休み期間中に読む本をいくつか見繕っておきたいのだ。

 図書室に着くと、カウンターに司書の先生が座っていた。軽く挨拶を済ませ、適当な座席に荷物を置いて本を物色する。

 図書室の本棚はある程度、目を通しているから今更新たな発見をする事はないけれど、見知った作家の本を見つけると、ご近所さんと顔を合わせたみたいな気分になり、つい会釈してしまう。端から見たら変な生徒に見えるだろう。

 でも僕にとって本は読み物じゃなくて対等な関係を築ける生き物なのだ。

 もし友達がいないとか出会いがないと嘆く人がいれば是非、読書をオススメする。

 本を開けば出会いがある。

 そして本は寛容だ。ページにカギを掛けて読む人を選ぶような事はしない。自分の思いさえあれば確実に出会いがある。

 僕にリアルの友達はほとんどいないけれど、頭の中になら一杯いる。

 とくに西尾維新、万城目学。舞城王太郎とはマブダチだ。

 今日もここへ来た理由は彼らと会う為だ。

 こういう長期休みの時はいつもは手が出しづらい大長編に挑戦出来るチャンス。

 僕はマブダチの万城目学と舞城王太郎から『ヒトコブラクダ層ぜっと』上下と『深夜百太郎』入口出口をピックアップ。共にお弁当箱のような厚みの本で、しかも上下巻だからなかなか手が出せなかった代物だ。遂にこいつを手に取る時がきた。覚悟は出来ているさ。勢いづいて他にも躊躇って読めなかった本を選び取り、カウンターで手続きを済ませる。

 図書室から出た時にはカバンはずっしりと重くなっていた。電子書籍が主流の時代に、紙の重さに苦しめられるとは、僕も随分とアナログ人間だ。けれど、作家が積み上げてきた文章を重さという情報で実感出来るのが紙の本のよさなのだ。これは電子書籍では味わえない感覚だ。

 だからと言って、こんな重たいならもう少し借りる冊数を減らしてもよかったと遅蒔きながら後悔してる。 さて、今度こそ靴箱へと向かい、渡り廊下を進んだ後、曲がり角に差し掛かると、ふと声がした。

「氷室、呼び出してごめん」

 と、男子生徒の気遣わしげな声音が聞こえる。

 これはもしや!

 僕は咄嗟に身を隠す。

 曲がり角の壁に貼り付いて、耳をそばだてる。

「話ってなに?」

「うん、大事な話があって」

 どうやら僕の事は気づいていないっぽい。ひとまずは一安心だ。けど、どうしようこれ。とんでもない場面に出会してしまった。これっていわゆるあれでは、告白というやつでは?

 現実でこういう事って本当にあるんだ・・・・・・。

 今どき呼び出して告白する人とかいるんだなぁ。今はもうスマホでする時代だと思っていたけれど。なんだったら強者は、告白すらなく自然な流れで付き合っているという。なんだそれ、羨ましい。そんな事が可能なら僕もどさくさに紛れて安田さんと付き合いたいよ。

 てゆうか、こんな時代に呼び出して告白なんて古の儀式を行う人がいるなんて、レトロ好きなんだろうか。いや、こんな時代だからこそこういう古の儀式が再び評価されているのだろうか。インスタントカメラも逆にエモいって評判だし、そんな感じで。 てゆうか、相手は誰だろう。どこかで聞いた事のある声だけれど・・・・・・って考えてる場合じゃない。早くここを引き返さないと。

「・・・・・・・・・・・・」

 と、頭では思いつつも僕はその場を動けなかった。

 正直、氷室さんがどう答えるのか気になる。

 もし氷室さんが告白を受け入れれば、僕らの関係はどうなるのか。今までみたいに手ほどきをしてくれる事はなくなるかもしれない――というのはただの言い訳で、実際は単に気になるだけだ。浅ましい奴である。 少しして、男子が意を決したのか、さっきまで言い淀んでいた声は消えて、毅然とした話し方に変わる。

「たぶん薄々気付いてると思うんだけど、単刀直入に言うね。――氷室の事が好きだ。付き合って欲しい」

 真っ直ぐな声音だった。

 少しの間、氷室さんは沈黙を保つ。それは考える間だったのだろう。

 そして――

「ごめん」

 短い沈黙を挟んだ後、氷室さんが言った。

 するとその場に重たい沈黙の幕が下りる。盗み聞きしている僕はさらに罪悪感で息苦しさを覚えた。

 やがて、男子の弱々しい声が聞こえる。

「そっ、か」

 落胆の声。

 次いで、

「もしかして・・・・・・好きな奴とか、いたりする?」

 と訊ねる。諦める為の理由を欲するみたいに、訊ねる。でも、自分の都合でしかない事は自覚してるようで、断れる雰囲気は残してる。

 でも氷室さんは、律儀にその質問に答える。

「うん、いるよ」

 そう言った。

 ――うん、いるよ。

 その言葉が、響く。

「そっか、分かった。返事聞かせてくれてありがとう。じゃあ、それだけだから」

 そう言って、足音が鳴る。それは段々と遠ざかってやがて聞こえなくなっていく。

 すると残ったもう一人の足音も、後を追うように歩き出す。

 僕は注意深くその音を聞きながら階段を降りているのだと理解する。

 シンと静まり返る廊下で硬直していた僕は、やがて壁際から踊り場に視線を落とすと、そこには誰もいなかった。

「はぁ」つい安堵の溜め息が溢れる。もし僕の存在がバレてたら大変な事になっていたところだ。

 ・・・・・・それにしても。まさか告白の現場を目の当たりにするとは思わなんだ。

 しかし氷室さん、好きな人がいるのか。

 サバサバして、誰に対してもクールに接する彼女が特定の誰かに好意を向けるって、全然見かけなかった。いや、僕の知らないところでは関係構築に務めているのかもしれないけれど。あくまでクラスメイトAの視点では分からないというだけで。

 しかし、氷室さんは好きな人がいながら僕の片想いに協力してくれてる事になるけど、それはいいんだろうか。

 いや、別に僕と一緒にいる事で誤解を生むんではと言ってる訳じゃなく、僕にリソースを割く事で好きな人と接する機会を失っているんじゃないかと言ってるのだ。

 そんな別に、僕如き虫けらが誤解を与えられるほど価値のある人間だなんて思わない。そんな傲慢な人間ではない。・・・・・・自分で言ってて虚しいけど。

 でも全ては氷室さんが決めてやってる事だし、僕がとやかく言っても仕方ないけど。

 ともあれ、これ以上考えるのはよそう。僕は隠し事が得意な方ではないのだ。変に気になって詮索してしまうような素振りを見せてボロが出ては大変だ。

 幸い、これから夏休みに入るからしばらく氷室さんと顔を合わせる事もない。それまでの間にはきっとなんて事もなくなってるだろう。



§



 クラス主催のバーベキューは七月末に行われる。

 バーベキューの日が訪れるまで、僕は淡々と夏休みを過ごしていた。

 図書室で借りた本を読んだり、漫画を読んだりゲームをしたり、たまに本屋やゲーセン、カラオケで遊んだり、思いおもいに夏休みを過ごす。 僕はただただ遊び呆けていた。夏休みを思う存分に謳歌していた。

 大きな問題を抱えている事に気付かずに。



 問題が発覚したのはバーベキュー三日前の事だった。

 僕はとんでもない事実に気付く。

 クラスメイトとバーベキューをするにあたって、僕は大きな危機に瀕していた――それは。

「バーベキューに着ていく服がない!」

 以前、氷室さんとデートに行った時、僕のコーディネートは散々な評価だった。

 つまり、それを皆の前で着ていく事は自殺行為に等しい。それを安田さんに見られたらもう最悪だ。そこで僕の片想いはひと思いに殺やれるに違いない。それはまずい、マズすぎる。早急に手立てを打たないと・・・・・・。

 取り急ぎ僕は氷室さんに連絡を入れ、メッセージを打ち込んだ。こんな時、頼れるのはいつだって氷室さんだ。神様仏様氷室様くらい頼りにしてる。

 するとほどなくして着信音が鳴った。「わっ、なに?」電話? 液晶画面を見てみれば氷室さんだった。

 ちなみに、僕が電話の着信音にビックリしたのは、僕のスマホに電話が掛かってくる事がほとんどないからだ。

 僕は電話に出ると、早速氷室さんが声を発した。

『メッセージ見たよ。着ていく服に困ってるって。丁度よかったよ。その事で私も連絡入れようと思ってたから』

「そうだったんだ。いや、そう言えば前に氷室さんに私服で酷評を受けたのを思い出してさ・・・・・・それであの、出来れば一緒に洋服を買いに付いて来ていただきたいんですけど・・・・・・」

『あぁ、買い物はいいや』

「え、でも」

 食い下がる僕に氷室さんはさらに被せてくる。

『うちに使わなくなった兄貴のお古があるから、よかったらそれあんたにあげようと思って取ってあるんだ。だからうちに来てくれない? 都合のいい日あるかな? 出来たら今日中だとありがたいんだけど』

 矢継ぎ早に話すので割って入るタイミングがない。一通り聞いた後、一つひとつ質問していく。

「でもそれ、貰っていいの?」

『いいよ、別に使わなくなったものだし。それにあんたには前に買い物で色々買わせちゃったし、そのお返しでもあるから』

「や、それは別にいいんだけど」

 靴磨きに関しては僕の趣味の一つに追加された。あれは素晴らしい集中力を発揮出来る。

 僕に新たな楽しみを見出してくれてありがとうと言いたいくらいだ。

『ともかく、暇な日ある?』

「全然、今日でも大丈夫だけど」

 僕のスケジュールはいつだって空白だ。

『じゃあ今から来れる?』

「大丈夫だよ」

『じゃあ待ってるから』

 と、話はトントン拍子に進んだ。

 急な展開だけど、でもバーベキューまで時間もない事だし用意は早めに済ませておきたい。

 電話を切った後、僕は私服に着替える。この着てる服もきっと酷評ものなんだろうけど、でもクローゼットにあるどの洋服を組み合わせても氷室さんが納得するものはないだろうしそこは諦める。これは今後の課題だろう。まぁでも、私服を見せる機会ってあんまりないんだよね。だから氷室さんも最初、ファッションの事は教えの中に入ってなかったのかもしれない。

 今日をいい機会に、氷室さんに色々教えてもらおう。身だしなみに関しては随分と習慣化された事だし新しい知識を仕入れていい頃合いだろう。

 さて。服を着替えてスマホと財布を持って僕は急遽、氷室さん宅へと向かう。

 玄関を開けて外に出た途端、真夏の猛火が襲いかかる。

 日差しは地上に根を張り、養分を得て殊更太陽は燃え上がる。

 夏休みに入ってから日中はほとんどエアコンの利いた室内で過ごしていたから、少し熱気に触れただけで怯んでしまう。

 一旦、家に退避して急遽、帽子、タオル、汗拭きシート、うちわ、それから水筒に麦茶を入れ、リュックを担ぐ。

 スマホと財布だけだったのが急に荷物が増えた。夏は衣類は軽くなっても荷物は重くなるのだから結局、身軽とは言い難い。

 さて。改めて氷室さん宅へと向かおう。



§



 前に一回来た道をちゃんと覚えていたので、スムーズに氷室さん宅に着いた。

 インターホンを押すと、少しして『今開ける』と、端的に氷室さんの声がした。少しして、扉が開くと、部屋着姿の氷室さんの姿があった。

 Tシャツにショートパンツ姿で脚線美が眩しい。真夏のビーチよりも眩しいよ。

「おっすー」

 顔を合わせたのは終業式以来で、随分と久しぶりだ。

 僕は軽く会釈すると「入って?」と、中に案内される。僕は「お邪魔します」緊張しながら入る。二度目でも、慣れる事のない緊張感・・・・・・女の子の部屋って、なんでこんなにも意識させられるんだろう?

 家の中に案内されると、生活音が聞こえてこないので、前回同様、氷室さん以外いない様子。それがまた緊張を掻き立てる。

「先上がってて? 飲み物とお菓子用意してくる」

 そう言って氷室さんは二階へは向かわず、リビングの方へと歩いて行く。ので僕は恐縮しながら階段を上って氷室さんの部屋へ向かう。

 二回目とはいえ、女の子の部屋に入るのは厳かな気持ちにさせられる。ドアノブを回して扉を開き、中に入ると「ん?」ふと足元に視線が向かう。見てみれば床に紙袋が二つあった。中身を見てみると、衣類っぽい。もしかしてこれがお兄さんのお古だろうか?

 気にはなったけど勝手に触る訳にもいかず、一旦スルーして前回同様クッションをお借りして腰を下ろす。今回は最初から胡座を掻く。

 にしても、まさか二度も氷室さんの家に来る事になるとは。

 こんな気軽に部屋に呼ばれるって信頼されてるのか舐められてるのか。それとも他の男子も気軽に呼んだりしてるのかな?

 他の男子――好きな男子とか?

 告白で言った氷室さんの言葉が思い出される。

 いや、本当誰なんだろう氷室さんの好きな人って。 

「お待たせー」

 少しして氷室さんが戻ってきた。

 前回同様、トレイにジュースとお菓子を乗せている。

 氷室さんは腰を下ろし、ジュースを差し出しながら労うように「外暑かったでしょ? こんな時間に呼び出してごめんね。でもこの時間丁度、家族出掛けるからさ」

 と言うので僕はかぶりを振る。

「別にいいよ、予定も全然ないし」

「夏休みどっか行かないの?」

 僕はずっと一人で過ごしている事を話す。すると氷室さんはかざぐるまを回したみたいにカラカラ笑う。

「そっかぁ。寂しい夏休みを送ってるんだね」

 失礼な! 一人でも楽しいよ! 一人っ子を舐めないでっ。

「なにそれ、一人っ子関係ある?」

「あるよ。一人っ子は家の中だと基本一人遊びしてるから、一人でも楽しめる術を身に付けている事が多いんだよ」

「へぇ、私は三人兄妹だからそういうの分からないや」

 氷室さんは感心しつつ、短い感想に留めた。兄妹がいる家庭では想像しづらい感覚なのかもしれない。

 とまぁ。ここまでの様子を見る限り、いつもの氷室さんだ。

 別段、変わった様子もない。

 氷室さんの好きな人が僕という線は、これを見る限りないだろう。

 や、最初からないんだけどねそんな線。国境線みたく僕が勝手に引いてるだけの本来、存在し得ない線だ。傲慢も甚だしい!

「さて、それじゃあ早速なんだけど、バーベキューに着ていく服を選んでいこうか」

 そう言って氷室さんは本題に入る。側にあった紙袋に手を伸ばすと、適当に中身を取り出し、広げてみせる。

「この紙袋に入ってるの全部兄貴のお古なんだけど、サイズとか色味とか、デザインとか気にいったやつは全部持ってっていいよ。どうせ使わなくなったやつだし遠慮しなくていいよ」

 見たところ、新品同様のように見える。

「どれも綺麗でしょ?」

「うん、本当に使ってるの? これ」

「兄貴、洋服買うのが好きなんだけど新しいモノを買っては前着てた服をすぐ捨てていくんだよね。でもまだまだ着れるやつばっかだから私よく貰っては自分で着たり、売りに出してお小遣いにしてるだよね」

「へぇ。男物の服とか着るんだね」

「オーバーサイズで着たい時はメンズ服が丁度いいんだよね」

「でもお兄さんの洋服を着るとか、兄妹ならではだよね」

「朝日は一人っ子だもんね。貸し借りが出来るのはいいよね。普段はバカでしょうもないけど、こういう時は兄貴も役に立つんだよね」

「ははは・・・・・・」

 氷室さんのお兄さんへの評価が辛辣だったので、愛想笑いに留めると、氷室さんは切り替えて洋服を次々広げていく。

「それより。遠慮しないで好きなのあったら言ってね? 全部持って帰っていいから」

「でも、新品同然のもの貰うのは申し訳ないな・・・・・・。それになんか高価なものっぽいし」

「気にしなくていいよ。私が貰わなかったら捨てられてたものだし。誰かに使ってもらった方が服も本望でしょ。それとも朝日、古着苦手だった?」

 と、気に掛けるので僕はぶんぶんと首を横に振る。

「そんなんじゃないよ。ただ本当に申し訳ないだけだから」

 むしろ気遣われてしまう。どうやら氷室さんは服を譲る事を譲る気はなさそうだ。恩に着せるつもりも。服は着せようとしてるのに。

「まぁ私としてはさ、あんたにはいい格好してもらいたいっていうのもあるんだよね」

「え?」

「折角、プライベートでクラスメイトと集まるんだもん。あんたにはいい格好して欲しい。プロデューサーの私としてはね。兄貴、センスはいいから、あんたの予算で新しく洋服を買うより、兄貴の洋服貰ってくれた方が、クラスの男子を出し抜ける可能性は高い。朝日だって、できる事なら寧々に洋服を褒められたいでしょ?」

 それを言われると気持ちが揺らぐんだけども・・・・・・。

 確かに安田さんにカッコいいね(洋服が)って言われたい。

「まぁ・・・・・・」

 そして僕は引き下がる。

 すると氷室さんは微笑を浮かべて軽く手を叩いた。

「じゃあ、洋服選んで! 気に入ったものの中からコーディネートを考えようっ」

 氷室さんは嬉々とした表情でそう言った。

 前に買い物で洋服を試着した時も随分ノリノリだったけど、ファッションへの情熱がすごい。

 僕はただただその熱量に圧倒されながら、彼女の言う通りに従った。

 まず一通り洋服を見てから気に入ったものと好みに合わないものの仕分けから始める。

 予め氷室さんが僕の指向を読み取ってくれているのでそこまで好みに合わないものはなかったので、後はサイズの問題だけど、比較的僕に近いサイズ感のものが多い。

「前に買い物に行った時に、一緒に洋服の試着もしたでしょ? ファストファッションはサイズ表が明記されてるから、それを参考に洋服を選んだから、そこまでサイズ違いはないと思う」

「まさか、あれは伏線だったのっ?」

「服だけに?」

「え」

「今の忘れて」

「え、伏線と服を掛けたの?」

「黙れ」

「氷室さんが言ったんだよねっ?」

 黙れって、黙ってられない駄洒落でしたけど?

 氷室さんもこういう事言うんだ。いや、分からない。これは後で推敲する時、削除案件かもしれない。氷室さんの圧力で。屈するな、作者! 氷室さんの数少ない弱みを確かな証拠として残しておくんだ!

「とにかく、サイズ違いはそこまでないと思うけど、実際着てみないとシルエットは分からないし、試着はしてね」

「そっか、じゃあ家に帰ったら確認してみるよ」

「いや、ここで着てみて欲しいんだけど」

「え?」

「そこにスタンドミラーあるから」

「え」

「確認しときたいし。そこは最後まで責任持ちたいから。私のあげた服で、変な格好されても困るし」

 さり気なく、ここでの試着は回避しようとした僕だけど、氷室さんは退路を断ってくる。

 そんな僕を尻目に、氷室さんは嬉々とした表情を見せる。

「最高の組み合わせで男子たちを出し抜くわよっ」



§



 ここから、氷室さん主催、着せ替えファッションショーが始まる。

 色んな服の組み合わせを、あーだこーだ言いながら何度も、なんどもなんども、くたくたになるくらいなんども繰り返し、くりかえし試着していく。

 様々なパターンを考察、実践しては、色味が微妙、シルエットが違う、生地が合わない、TPOに合わない、などと注文が入り、僕の気を摩耗させる。

「上着くらい私がいる前で着替えなさいよ」

 最初のうちは着替える度、廊下に出て着替えていたのだけど、途中から煩わしくなったのか、氷室さんはそう言うので僕は抵抗を示す。

「や、でも一応」

「いいから」

「やっ、やめて! 乱暴しないで・・・・・・!」

「女みたいな事言うな!」

「やだっ、恥ずかしい・・・・・・!」

「なにが恥ずかしいのよっ」

 完全に男女逆転して、氷室さんは強引に上着を脱がせに掛かるので、僕は必死に抵抗する――けれど、意外と氷室さんの腕っ節は強くて、僕は腕を取られると、勢いそのままに床に押し倒されてしまう。

 すると、僕に覆い被さるように、氷室さんは僕に馬乗りになっていた。 なんか見覚えある、というかこれはラノベ的ラッキーハプニングでは? いやでもこれ、立場逆だしラッキーなのかな? いやでも女の子に押し倒されるのは、それはそれでドキドキのシチュエーションだった。「あの・・・・・・」

 二人とも、事の意外性に呆気に取られて言葉を失ってしまった。ややあって、僕が声を振り絞ると、その時、不意に第三者の声が差し挟まれる。

「零、なにしてんの?」

 突如として、聞き慣れない声がした。

 僕と氷室さんは、同時に声のする方へと振り返る。すると気付けば部屋の扉は開かれ、廊下で立ち尽くす男の人の姿があった。

 すぐには誰か分からず侵入者かと思ってしまったけど、相当気が動転してる。そんな訳はない、むしろ侵入者で言えば僕の方だ。

「あ、兄貴・・・・・・」

 他でもない、その人は氷室さんのお兄さんだった。

 甘いルックスに、ゆるくパーマのかかった栗色の髪。上背が高く、身に纏う洋服は垢抜けて素人目から見てもオシャレだと分かる。

 この人が氷室さんのお兄さん・・・・・・なるほど、これは確かに兄妹だ。

 けれど、お兄さんの方は少しルックスにあどけなさがある。氷室さんは大人びた表情だからそこは違いがあるけれど、いずれにせよ美形の兄妹だった。

「へぇ、お前って意外とガツガツ行くタイプなんだな」

「ち、ちがっ・・・・・・!」

 一瞬、呆気に取られた氷室さんだったけど、すぐにガバッと体を起こし、僕から距離を取ると、膝を突いた状態で両手を広げて降参のポーズを取る。この場合だと、手を出してない、といったようなニュアンスのポーズだった。

 誤解を招く言動に、氷室さんはすかさず言い返すけれど、すぐに反論が出てこない。

「ちょっ、来て!」

 氷室さんは慌てて立ち上がり、お兄さんを部屋から遠ざけるように両手で押し退けると、渡り廊下の奥へと向かっていく。

 僕はその間に身体を起こし、体勢を立て直す。そして、扉の向こうで会話する兄妹の会話に、耳を傾ける。 扉は開いたままなので、会話は、鮮明ではないけれど、聞こえてくる。「お前、付き合ってる奴いたんだ」

「違うって! 友達だからっ」

「はぁ? 友達押し倒すの?」

「それは、たまたまそうなっただけで・・・・・・」

「いや、意味分かんねぇぞ。なんだよ、たまたまって。てゆうか、俺の服着てなかった?」

「それはだから、服が欲しいっていうから、あげたの・・・・・・。私にくれたんだから、私がどうしようと勝手でしょ?」

「いや別に、俺の許可なく勝手に服あげた事を注意してるんじゃないんだけど。てゆうかあの子、お前が友達なるタイプと全然違うけど」

「別に、そんな事ないし・・・・・・。大体、人選んだりとかしないし」

「いや、傾向の話を言ってるんだけど、まぁなんでもいいけど。でも、友達にしてはちょっと、あれだよな」

「なに・・・・・・?」

「不用意だよな。男を部屋に連れ込むなんて。いや、あの子が不用意だったのか。襲われてるし」

「っ、だからっ・・・・・・!」

「ああいうちょっと冴えない感じが好みなの?」

「違うって言ってるでしょ・・・・・・! そういうんじゃないってば! そもそも、あの子には好きな人いるから、別に兄貴が思うような関係じゃないの!」

「え? そうなの?」

「そう! だから変な詮索しないでっ。てゆうか、なんで帰ってきたのっ?」

「いや、忘れ物したから」

「じゃあ、早く取りに戻って、早く出てって!」

「分かったわかった。お楽しみのところ・・・・・・、じゃなくてお取り込み中のところ悪かったよ」

「っ、もう、バカ・・・・・・!」

 手玉を取る側の氷室さんが、お兄さんの前では手玉に取られている・・・・・・!

 あまりにも新鮮なシチュエーションに僕は驚きを禁じ得ない。

 なるほど、氷室さん。家ではあんな感じなのか。

 ややあって、

「ごめん・・・・・・今の忘れて」

 肩を落として部屋に戻ってくると、氷室さんは力なく言った。再び座り直すと、ジュースを一口飲みながら「ったく、あいつ」と悪態を吐く。その怨めしそうなセリフには負け惜しみの側面が強い。

 さっきはお兄さんの事しょうもないとか言ったけど、もしかして日頃、こんな調子でからかわれてるから根に持ってるだけなのでは?

 なにはともれ、僕が発端でこんな事になってしまい申し訳が立たない。「ごめん、僕のせいで」

 一言謝ると氷室さんは仏頂面のまま「別に」と答える。

「あんたはなにも悪くないでしょ。全部兄貴が悪いよ。あいつマジで許さない」

 心底怨めしそうに言うので、相当根に持っているようだ。こんなに感情を露わにする氷室さんは珍しい。

「はぁぁぁ」と深い溜め息を吐きながら氷室さんはテーブルに頬杖を付いておもむろにお菓子に手を伸ばす。小分けにされたチョコレートで、包みを解いて口に放り込むと、

「色々着てみて、どれがよかった?」

 と、訊ねてくる。

 切り替えて話を戻してくるので、僕はいくつか気に入った組み合わせを提示すると、氷室さんは「そう」と淡泊な相槌を打った後「じゃあそれ全部あげるから持って帰って。バーベキューの時はその組み合わせの中から好きなの着てきたらいいよ。どれも似合ってたから」

 そして最後に、微笑を浮かべながら氷室さんは言う。

「バーベキュー楽しみだね」

 それを聞いて僕は少し感慨深い気持ちになる。何気ない言葉だけど、氷室さんと共通の楽しみを共有出来ている今の自分が不思議に思えたのだった。

 氷室さんと出会わなければ僕は今頃、家でゴロゴロしてるだけだった。いや、それは今もそうだけど、でもクラスメイトとバーベキューに行くなんて絶対なかっただろうし、そうした心境の変化の積み重ねが、またさらなる変化を遂げて違う環境に身を投じるかもしれない事を思うと、誰かと関係を構築する事は、不安もあるけれど、新たな可能性が開ける前向きなものとして解釈出来る。

「――そうだね」

 氷室さんの言葉を受けて、僕は期待を込めてそう言った。



§



 バーベキュー前日。買い出し当日である。

 待ち合わせの駅に向かうと、既に数人が到着していた。僕は足早に向かうと、「上里くん、おはよ~」と手を振る安田さんの姿が。白のブラウスに花柄のロングスカートと、楚々とした洋服に身を纏い、端的に可愛い。歩く清楚だ安田さんは。

 僕は近くまで来てそれぞれ挨拶を済ませると、おもむろに安田さんが僕の洋服を差した。

「上里くんの私服、初めて見たけどオシャレだね! すごくセンスいい!」

「ほ、本当に?」

 僕は前回、氷室さんから貰った洋服を着ているのだけど、早速安田さんに褒められた!

 いや、あまりに期待通りの反応過ぎて、もはや仕込みではないかと疑ってしまうけれど安田さんに限ってそれはない。

 思惑通りの展開に、僕は氷室さんの様子を窺うと、目が合ってニコリと笑いかける。

「本当だね。朝日すごくオシャレじゃん」

 洋服をコーディネートした張本人が平気な顔をしてシラを切る。氷室さんが役者過ぎる。芸能界に入ったら本格派として名を轟かせてるんだろうな。

「でも意外だな。朝日にこんな一面があったなんて」

 とは暖木くんだ。そういう彼も、なかなかにオシャレな私服姿だった。襟付きシャツとジーンズ、スニーカーというシンプルな着こなしだけど、それ故に誤魔化しが利かない。自分の体型に合ったサイズ感で、自然とこなれた感じが出ていた。

「ちなみにどこのブランド?」

 暖木くんが何気なく訊ねるので、僕はキョトンとする。

「ぶ、ブランド・・・・・・」

 いや、そんなの知らない。だってただのもらいものだし・・・・・・。

 僕は咄嗟に、氷室さんに視線を向けると、氷室さんはすかさず助け船をくれた。

「古着なんじゃない?」

「そ、そうそう。これ古着だからブランドとかよく分からなくて・・・・・・」

「あー、古着かぁ。古着屋で服買ってんのか。朝日って意外とオシャレなんだなあ」

 関心する暖木くん。どうやら誤魔化せたみたいだ。

 ありがとう、氷室さん!

「上里くんってバーベキューの知識もそうだし、ファッションの知識も豊富なんだね。自分の世界を持っててカッコいいね」

「え、カッコいい?」

 今サラッと言われたけれど、カッコいいっ? カッコいいって?

「うん、上里くんカッコいい」

 ――上里くんカッコいい。上里くんカッコいい。上里くんカッコいいカッコいいカッコいいカッコいい。

 やばい、僕の脳内で安田さんの声が反響する。もう一生聞いていられる。てゆうか録音して毎日登下校で聞きたい。

 僕は幸せで一杯になっていると、そこへ最後の一人、大貫くんがやって来る。

「お前ら早いな。もう全員集まってんのか」

 そう言って待ち合わせ時間丁度にやって来た。

 大貫くんはポロシャツにジーンズ姿と、意外と楚々としたコーディネートだった。大貫くんは体を鍛えているのか、ポロシャツはピタリと体に密着するような具合で、二の腕辺りは窮屈そうだった。でも洋服のサイズ感から、筋肉を主張したいという思惑が透けて見えた。

「鋼矢くん、おはよ~。ちゃんと遅れず来れたね。偉いえらい」

「うっせぇ。上から喋んな」

 相変わらず二人は仲がよさそうだ。でも不思議なもので、今ではこの光景を自然と受け流せる。慣れって怖い。

「さて、じゃあ早速出発しよっか」

 安田さんの号令に皆は頷き、スーパーへと向かう。

 目的地に到着して中に入ると、冷房の利いた室内に生き返るような気持ちになる。

 僕らはカートにカゴを乗せて店内を導線に添って歩く。

「まずは野菜だね。バーベキューの定番と言えばピーマン、タマネギ、ナスとトウモロコシだね。二十人分ってどれくらい買ったらいいんだろ」

 安田さんは野菜を物色しながら言うので、僕はスマホを取り出す。

「あ、僕メモ取ってきたよ」

「上里くん流石っ。わ~、すごい。個数からグラム数まで書いてる! それにデザート用にマシュマロって書いてる。可愛い~」

 僕のささやかな遊び心をしっかり拾って笑ってくれる安田さん。

 事前に人数分、必要な量を調べてスマホのメモに残しておいたのだけど、用意しておいてよかった。

「朝日は気が利くね。付き合うならこういう気が利く男がいいよね」

「本当だね。上里くんと付き合う女の子はきっと幸せになるよ」

 氷室さんのさり気ないアシストに、しかし安田さんは他人事のような感想を漏らした。でもそんな風に褒めてくれた事は嬉しい。

「野菜は少なくていいだろ。バーベキューといったら肉だよ肉」

 すると大貫くんがぞんざいな事を言うので、安田さんが窘める。

「鋼矢くん子供みたいな事言わないの。それにお肉ばっかりだと予算オーバーしちゃうんだから」

「へいへい」

「あ、適当に野菜入れないで! ちゃんと見た目で選んでよ!」

「いちいちうるさい奴だな。てゆうか寧々、野菜の良し悪しとか目利き出来んの?」

「出来るよ! 私だって料理するんだよ?」

「へー、初耳。とか言って焦げた料理出すんだろ?」

「失敬な! ちゃんと美味しいご飯作れます~」

「本当かよ」

「嘘だと思うなら、今度お弁当作ってくるから食べて確かめてよ」

「ほー、そりゃ楽しみだ」

 二人のやりとりはじゃれ合いのような可愛げがあり、仲睦まじい感じが漂っていた。

 それを適わないと思ったら最後、僕は諦めてしまいそうで、だからそれは言わない。けれど、二人にしか作り出せない空気感に僕は嫉妬せずにはいられない。

 そんな僕の内心を気遣ってか、氷室さんが二人の間に割って入る。

「二人とも、それより野菜選んで」

「は~い」

 氷室さんの声には素直に反応する安田さん。

「あ、そうだ。上里くん、野菜もいいけど果物で焼いたら美味しいものとかあるかな? 折角だし、普段食べられないものとかあったらいいよね~」

「あー、それなら焼きリンゴとか、焼きバナナとかはどう? リンゴは芯をくり抜いてシナモン、ハチミツ、砂糖を入れてアルミホイルで丸焼きにすると美味しいし、バナナは切り込みを入れてチョコレートやマシュマロを入れて焼くと美味しいよ」

「なにそれ! 絶対美味しい! 私それやりたい!」

 と、安田さんが食いつく。

「おーい寧々、予算はどうした。予算は」

 大貫くんは自分の事を棚に上げる安田さんに軽口を挟むと、即座に反論が返る。

「バーベキューで甘味は絶対人気出るよ。上里くん、その案採用!」

「でもシナモンとかハチミツとかそれだけの為に買うのもどうなの?」

「あ、それなら僕が持ってくるよ。キャンプ用に調味料セットあるから」

「へぇ、そんなの持ってるのか。流石だな朝日」

 暖木くんは感心したように言う。

 安田さんは「流石上里くんっ」と声高々だ。

 という訳で追加でバナナとリンゴも購入する。

 後はエリンギやしいたけも購入して野菜コーナーを後にすると、次はメインのお肉コーナーだ。

「肉はやっぱカルビだよな」

 大貫くんは躊躇いなく肉をカゴに入れていく。

「ちょっと鋼矢くん、適当に入れないでグラム計算してっ。上里くんがちゃんとメモしてるんだから」

「グラム? 腹一杯分買えばいいんだろ?」

 ・・・・・・なんだそれ適当過ぎる。

 腹一杯分て。いや、確かにそうだけど。なにその、お肉の焼き加減はいかがなさいますか? って聞かれて美味しく焼いて下さい、みたいな答えは。いや、真理は突いてるけども。でもあまりに具体に欠けるよ。

「私、鶏肉食べたいな。あっさりしてるし」

 ここへ来て氷室さんも主張する。

 僕は頷きつつ、留意すべき点を説明しておく。

「鶏肉はそのまま焼くとパサつくから下味付けた方がいいよ。あっさりベースなら塩麹か、塩とオリーブで下味を付けて焼いた後にレモン汁を掛けると美味しいね」

「塩麹いいね。でも下味ってどれくらい?」

「数時間は欲しいかな。でも大丈夫、僕が翌朝やっておくよ。こういうの慣れてるし」

「さすが朝日~」

 そう言って氷室さんは楽しげに鶏肉を手に取る。

 皆、思いおもいに好きなものを口にするけれど、ふと気付く。

「暖木くんはなにかリクエストない? 皆、好きなの選んでるし暖木くんもなにかあれば言ってよ」

 僕は言うと、暖木くんはかぶりを振った。

「別に食にこだわりとかないからさ。強いて言えば、色んな種類があればいいな」

 暖木くんのそれが食に関心が薄いからなのか、遠慮なのかは判然としないけれど、自然と人柄が見えたような気がした。

「ノギちゃんは他人ファーストだよね~。こんな時くらい意見言ったらいいのに」

「だな。後であれ食べたかったー、とか言っても知らねーぞ」

「ははは、大丈夫だって」

 暖木くんはあくまで控えめだった。「・・・・・・・・・・・・」

 そう言えば。僕はふと気付くけれど、さっきから氷室さんと暖木くんの絡みがない。

 二人の間に僕がいるからかもしれないけれど、改めて見てみると二人が目を合わせる様子もない。

 たまたまかもしれないと思って、その時はスルーしたけれど、その後も二人が会話をする事はなかった。

 買い物の途中で、偶然にも僕と暖木くんで二人になるタイミングがあった。するとそこで暖木くんの方から話を振ってくれる。

「朝日って学校の時と印象違うよな」

「え? そんなに調子に乗ってるように見える? ごめん・・・・・・」

「いや、違うよ。なんでそうなるんだよ」

 と暖木くんは苦笑いを浮かべる。

「学校の時は大人しいから。今日みたいに積極的に喋ってるのがなんか意外」

「学校だと接点がないからね」

「でも安田や氷室と話してるのよく見かけるよ。普段大人しい朝日に美人が集まってるの、クラスの皆がよく不思議がってたよ」

「そ、そうなんだ」

 僕の知らぬところで噂されていたのか。まぁ確かに、こんな陰キャに美人二人が集まったら何事と思うのも当然だ。

「まぁ、それはたまたまだよ。一年の時も同じクラスだったから」

「でも最近はとくに仲良いよな。とくに氷室」

「そ、そうかな」

「そうだよ。それと、氷室と仲良くなってから朝日変わった気がする」

「変わった?」

「大人しいのは変わりないけど、なんていうか雰囲気? が違って見えるっていうか。なにが違うとかって明確には分からないけど、とにかく雰囲気が変わった気がする」

「そっかぁ」

 それはきっと身だしなみに気を遣ってからだろう。制服のアイロン掛けやスキンケア、背筋を伸ばして歩くなど、地味だけど所作について気を配るようになってから印象が変わっていったのだろう。やっぱり氷室さんのアドバイスって的確なんだなと思う。

「ちなみになんだけど」

 暖木くんが気さくに話しかけてくれたので、僕は少し緊張がほぐれてきて、ちょっと切り込んでみる。

「暖木くん、氷室さんとなにかあった?」

「え?」

「や、気のせいかもしれないけど、二人とも話さないからなにかあったのかと。勘違いだったらごめんね」

「あー・・・・・・」

 すると、暖木くんは微妙な反応を示した。て事はやっぱりなにかあったのか。

 少し間を置いてから暖木くんは力なく笑う。

「やっぱり分かる? 実は俺、夏休み前に氷室に告白したんだけどフラれてさ。何気に気まずいんだよねー」

「へぇ、そうなんだ――て、えっっっ?」

 今、告白って言った?

 あっけらかんと言うギャップで一瞬スルーしかけたけれど、今告白って言ったよね?

 という事は、僕が出会した告白現場にいたのは、暖木くんだったのか!

「え、暖木くん、氷室さんの事好きなの?」

「うん。ま、フラれたけど」

「や、てゆうかなんでそんな事を僕に?」

 普通、そういうの隠さない?

「ずっと黙ってるのも気まずくてさ。だから朝日に言って、ちょっと気持ちが楽になった」

 道理で二人とも言葉を交わさない訳だ。

「時間経ってるから大丈夫かなと思ったけど、氷室と顔合わせると、氷室も気まずそうで。ちょっと申し訳ないと思う」

 フラれたにも関わらず氷室さんの気を遣う暖木くんに、人のよさを感じた。さっきもリクエストを聞いても主張しなかったけれど、彼はそういう質なのかもしれない。

「てゆうか、暖木くんこそ大丈夫なの? 氷室さんと一緒にいて」

「まぁ、顔見たらやっぱ好きだなぁ

、って思うけど、諦めは付いてるから」

 諦めは付いてると言いながらも、どこか未練がある感じが尾を引いているのを感じる。まぁ、好きってそんなすぐに捨てられるものじゃないだろうしなあ。

「でも、気になる事があって」

「ん?」

 暖木くんはふとそんな事を口に為る。気になる事とは?

「フラれた後、好きな人いるの? って聞いたら、氷室が『いる』って言うんだよね」

「・・・・・・・・・・・・」知ってる。

「氷室が好きな奴って誰なんだろうって思って。それがずっと気にはなってる。あ、別にそいつと比較して俺の方が絶対いい、って思いたい訳じゃなくて、単なる好奇心なんだけど」

「そっかぁ。確かに気になるよね、氷室さんの好きな人」

「でさ、俺は何気に、朝日がそうなんじゃないかと思ったりするんだけど」

「あー、そうなんだ」

 僕がね。あーはいはい。・・・・・・っ?

「ファッッッ?」

「うわぁっ! ビックリしたぁ、急にどうした・・・・・・」

「あ、ごめんつい・・・・・・」

 ナチュラルに驚かれた。

 いや、普通そういう反応だよね。

 僕の素っ頓狂な声が店内に広がり、通りすがりの客が振り返るので、気まずくなる。

 僕は気持ちを切り替えついでにかぶりを振った。

「いや、流石に僕はないでしょ。氷室さんならもっと相手選べるし、僕ではないよ絶対」

「そうかな? 最近二人仲良いじゃん。それに今日二人の様子を見てると、氷室は朝日に対して親密な感じだったじゃん」

「それは単に仲がいいだけで、そういうんじゃないと思うよ」

「でも案外、二人は相性いいのかなって思ったけどな」

「いやいや・・・・・・」

「いやいや、本当に」

 あっけらかんと暖木くんは言う。

 正直、暖木くんの気持ちが分からない。フラれた相手と、僕をお似合いだと言う彼の心理が。それともあれか? 僕が好きな人だったら納得するのか? でも僕がそうだったら絶対、フラれた事を納得出来ないと思うけれど。だって僕よりも暖木くんの方がいい男だ。顔もカッコいいし、すごく人当たりがよくて優しいし。正直、氷室さんに好きな人がいなければ告白を受け入れていた可能性もあるんじゃないかと思えるくらい、暖木くんはナイスガイだった。

「ともかく、僕はないよ。氷室さんの好きな人はきっと別でいるよ」

 僕はそう言って話を切る。氷室さんに限ってそれはない。身の程を弁えろって話。

 それに僕、氷室さんには二度も家に招かれている。普通、好きな人を簡単に家に上げたりしないだろう。家で話してる時も至って普通だったし。意識していたらなにかしら変化がある筈だ。

 だからない。もしそんな事があったらコペルニクスが地動説を立証した時以来の驚天動地だ。

 だが、普通に考えて僕を中心に世界が回ってる訳ないだろ!

 ラノベの主人公じゃないんだから!

 そんな都合よく考えるなんてどうかしてる。現実はそんな甘くはないのだ。

 けれど暖木くんの言葉が呪いのように僕に貼り付き、氷室さんへの意識が強まる。

「あ、朝日いた。もう、はぐれないでよ」

 と、気付くと目の前に氷室さんたちがいた。

「あぁ、ごめん」

 と僕は空謝りしながら氷室さんの顔を見やる。

「?」

 氷室さんはきょとんとした顔をする。合点した様子はない。

 表情から、僕への想いが透けて見える事は勿論ない。

 やっぱり氷室さんに限ってそれはない。絶対。だよね?

 僕は改めて氷室さんを見つめると、「なに? 顔になにか付いてる?」と、ただただ怪訝な様子を浮かべるだけだった。たぶん、それが答えだ。


§



 そして翌日。バーベキュー当日。

 前日のうちに、荷物や待ち合わせ場所の行き方は入念にチェックを済ませているので、当日にバタバタする事はないけれど、やっぱりどうしても緊張してしまう・・・・・・。

 人見知り&クラス内カーストが反映されて、ちゃんとその場に馴染めるか心配だ・・・・・・。

 なんかちょっとお腹痛くなってきた。

 でも今更行かないという選択肢はない。ここまで来たら腹を括るしかない。

「ん?」

 とそこへ、スマホに着信が鳴った。見てみれば、氷室さんからだった。

 氷室さん・・・・・・。

 メッセージには『もう家出た?』と来ていた。なんだろう、なにか用事だろうか? 怪訝に思いつつ『まだだよ』と打つと、ほどなくして『じゃあ、待ち合わせ場所に行く前に、落ち合おうよ』と返信があった。 思いがけない返信だったけど、ありがたい提案ではあった。

 一人で待ち合わせ場所に向かうより、氷室さんと一緒に行った方が精神的には楽だ。

 その提案を承諾し、時刻表アプリで時間を確認して乗り合わせのタイミングを共有する。で、時間になると荷物を持って家を出る。



 駅に着き、電車に乗り入れると、そこで氷室さんと合流。あらかじめ時刻と、車両のチェックを済ませていたので予定通りの邂逅。氷室さんと目が合うと軽く手を振ってくれる。 ゆったりしたシャツに、ショートパンツ、スニーカーというシンプルなコーデ。ショートパンツは氷室さんのお気に入りなのだろうか。前も家にお邪魔した時穿いてたな。

「おはよう朝日」

 という言葉を受けて僕も挨拶を返すと、隣の席に腰掛ける。

「クーラーボックス重たくない? 大丈夫?」

 肩に担ぐクーラーボックスを太ももの上に乗せると、おもむろに氷室さんが言った。

「大丈夫だよ」

「そう。それと――」

 不意に氷室さんの視線が上に向かう。

「あんた、その帽子に付いたトンボなに?」

「え」

「一瞬、ガチの虫止まってんのかと思ったわ」

 という指摘を受けて僕は少し嬉しくなる。

「氷室さん、お目が高いね。これはオニヤンマくんだよ」

「いや、トンボの種類は聞いてないんだけど」

「いや、そうじゃなくて。これ、虫除けアイテムなんだ。キャンパーの人とかアウトドアグッズ好きな人からは結構有名なアイテムなんだよ」

「え、虫除け? それが?」

 言うと、氷室さんはキョトンとする。

「アブとかブヨとかスズメバチとか、オニヤンマを天敵と見なしてるんだよ。この胴体の縞々で判別してて、これを付けとくと、虫が寄って来にくいんだ」

「へぇ。なんだてっきり、オシャレに自我出してきて私が考えたコーディネートぶち壊してきたのかと思ったわ」

「え、ぶち壊すほど・・・・・・? ブローチみたいで可愛くない?」

「可愛くない」

 ・・・・・・さいですか。

「そこまで言うなら帽子に付けるのは止めて、リュックに付けるよ」

「うん、是非そうして」

 是非と言うか、是が非でもって感じのニュアンスが声音から読み取れた。そんなにダメかな、オニヤンマクン。

「でさ、そのリュックもなんだけど」

「まだあるのっ?」

「なんでそんなリュックパンパンなの? そんなに荷物いらなくない? 折角、洋服決まってるのに、リュックのせいで一気に野暮っくなるんだけど」

「え、でも日帰りとはいえ色々準備しとかないと不安だからさ」

 今回バーベキューするのは渓谷にあるキャンプ場も併設する施設で、マップを確認してみればスーパーやコンビニは徒歩で行くには遠いところにある。

 施設があるので問題があればある程度対処してくれるだろうけど、リスク管理など出来る事は自分たちでして迷惑を掛けないようにするべきだろう。

 という訳だから色々と準備出来るものを用意してきたらリュック一杯に荷物が詰まったしまった次第である。

「ちなみに中身はなに入ってるの?」

「日焼け止め、虫除け、かゆみ止め、薬を各種、救急セット、除菌シート、紙石けん、消臭スプレーに携帯用ティッシュ、タオル、代えの衣類・・・・・・」

「もういい、分かった。わかったから」

 なぜか頭を押さえる氷室さん。

 いやこれ、大事な事だから。本当に。

「朝日って心配性なんだね」

「まぁね。野外ではなにが起こるか分からないから」

「そう。分かった、とりあえずリュックはいいよ。そういう事なら仕方ない。でもコーディネート考える時にカバンのチェックもしておくべきだったわね。もう少しアウトドアに近いコーディネートなら」

 と、反省の弁を述べる氷室さんに、申し訳なくなる。僕のオシャレ偏差値が低いばかりに。

「でもなにかあれば頼りにするわ。それに話すキッカケになるかもしれない」

 なんだかんだ、いい風に解釈してくれる。頭ごなしに否定しない氷室さんの優しさを見た。

「それと、腕に付けてるブレスレット」

「ん、これ?」

 氷室さんが僕の両手首を指差して言う。

「あんたもオシャレとかするんだね」

「あぁ、これはパラコードだよ」

「パラ・・・・・・? なに?」

「パラコード。言わば命綱みたいなものだよ。緊急時、なにかあったらこれを解いて命綱として使うんだ。これは三メートル紐を編み込んで作ってあるから、僕は他の人より三メートル分、命を拾えるって事だね」

「三メートルか。ないよりマシって感じね」

「他にも靴紐が切れた時には代用して使えるし、骨折して患部を固定する時に使ったり、物を束ねたり、着火剤としても使えるから、これ一つで色んな使い方が出来て便利だよ」

「万能アイテムなんだね。見た目も可愛いし、いいねそれ」

「値段も千円程度だし、いいよ。ちなみに僕のは自作なんだけどね」

「え、自分で作ったの?」

「うん。それとリュックの持ち手もパラコードを巻いてるんだ。持ち手の補強にもなるし、紐がアクセントになっててオシャレでしょ?」

「朝日って結構、器用なんだね。それに職人気質っていうか」

「こういう手作業とか好きなんだよ。だから靴磨きとかアイロン掛けとかもハマったんだよね」

「苦にせずやってくれてるのね。てゆうか、いいなぁそのブレスレット。私にも作ってよ」

 改めて話を戻すので、どうやら興味があるご様子。ので、

「いいよ! 紐は何種類かあるから好きなものを選んでくれたらそれで編んで作るよ。長さを変えればもっとシャープな作りにも出来るし、そこはお好みで調整するよ」

 思わぬ反応のよさを見せた氷室さんに、僕は前のめりになる。自分の好きなものに興味を持ってくれるのは素直に嬉しいものだ。

 行きの電車はそんな感じで、意気揚々としたテンションで過ごす事が出来た。すっかり氷室さんへの意識は薄らぎ、緊張がほぐれてきた。

 いつもの関係が戻ってきて僕は安心する。



§



 待ち合わせ場所に指定した駅に到着する。改札を抜けて近くに時計台広場があり、そこでクラスメイトと集まる事になっている。来てみればもう既に数名のクラスメイトの姿があった。

 その中には安田さんの姿も。

「あ、零っ。それに朝日くんもいるじゃん。二人ともおはよ~」

 僕らの姿を見つけた安田さんが声を弾ませ手を振るので僕たちはそれに応えた。

「へぇ、二人とも一緒に来たんだ」

 安田さんの何気ない一言に、僕は慌てるも、すかさず氷室さんが返答する。

「たまたま同じ電車にいたの。ね?」

 と言って氷室さんは僕を一瞥する。口裏を合わせておけ、という視線を感じて僕は頷くと、安田さんは別段疑った様子もなく「そうなんだ!」と頷くだけだった。

 挨拶が済むと、安田さんは僕らを手招きして先にいるグループのところへと誘う。

「来た人は点呼を取るの。――零と朝日くん来たよ~」

 そう言って安田さんはグループの中に入っていくと、終業式の時に司会役を努めていた男子生徒に僕らの到着を知らせた。

 すると司会の男子はスマホを操作して、「氷室と朝日くんね」と確認を取った。どうやらスマホで出席を管理してるようだ。

「今どれくらい集まってる?」

 安田さんの問いに司会の男子は「十九人。残り一人だけだな」と答えた。待ち合わせまでまだ十五分ある。

「来てないのは鋼矢くんだけなんだよねぇ。寝坊してないといいけど」

 と安田さんが眉を八の字にして呆れた様子でそう言った。

 でもまぁ、残り十五分あるし。

「ところで上里くん、なんでリュックにトンボ付いてるの?」

 不意に安田さんが言った。

 氷室さんと同じリアクションだ。オニヤンマくん、僕より大人気だね。「これはオニヤンマくんだよ。虫除けアイテムなんだ」と説明すると安田さんはクスッと笑って「なにそれ」と溢した。

「でも可愛いね。帽子に付けるといいんじゃない?」と提案するので、それには氷室さんが、「さっき帽子に付けてたよ。でも流石にダサかったから止めたんだけど」「え~、可愛いじゃん~」「帽子に付けたら虫取り編み持った子供に捕まえられるよ」と氷室さんが冗談を言うので、それには安田さんもおかしそうに声を立てて笑う。

「ははは、なにそれウケる~」

 思いがけず、オニヤンマくんを皮切りに会話が盛り上がっている!

 オニヤンマくん付けてきてよかった! ありがとう、オニヤンマくん!

「なんだか楽しそうだな。朝日がどうしたって?」

 僕たちの会話を聞きつけてクラスメイトたちがやって来る。その中には暖木くんもいた。

「よ、朝日。おはよ」

「お、おはよ」

 気さくに挨拶してくれる暖木くんに、僕は少し戸惑いつつ返事を返す。暖木くんがクラスメイトから友達フェーズに入りかけているような気がして、ちょっと怖じ気付いた自分がいた。やはり踏み込むには勇気が足りない。

 でも暖木くんは僕の反応に気にした様子もない。

「さっきはなにで盛り上がってたんだ?」

 と自然と話し掛けてくれる。

 安田さんが皆にオニヤンマくんを紹介してくれるので、またひと笑い稼ぐ。オニヤンマくん様々である。

 出だしとしては悪くない滑り出しだ。

 僕はひとまず安堵すると、最後の一人である大貫くんがここで登場する。

「おっすー」

 と軽い調子でやって来る大貫くん。この時点で待ち合わせ五分遅れである。

 黒の柄物Tシャツにジーパン、サンダルというシンプルなコーデで、首元にはシルバーネックレスを下げている。そして大貫くんから漂う甘い香り。どうやら香水まで付けているようだ。

「・・・・・・・・・・・・」

 黒のTシャツは蚊に刺されやすいし、ジーパンは伸縮性がなく動きに制限が掛かるし、サンダルは足場が不安定なところでは歩きづらいし、甘い匂いは虫が寄ってくるし、ハッキリ言って・・・・・・TPOがなってない!

 しかしそれを直接言える筈もなく、僕は黙って見過ごす。

 そんな事がありつつ大貫くんがやって来た事で参加者全員が集まり、いよいよ目的地へと向かう事に。

 電車の次はバスに乗り継ぐ。ここからは集団行動とあって、僕に緊張が走る。バスに乗る際、座席選びが行われる。ここがまず始めの難所だ。


§



 シャトルバスが出ているので指定の場所で待っていると、ほどなくしてバスがやって来る。そしてクラス全員では乗り切れない事から二手に分かれる事にした。そして、僕は氷室さんや安田さんたちと同じバスに乗り合わせる。そして座席については氷室さんが気を利かせて隣に座ってくれた。

 そして安田さんと大貫くんは、通路を挟んで隣の席に座る。

「バス移動って、何分くらいなのかな」

「三十分くらいだって」

 予備知識が入っていたので僕は言うと、安田さんは少し不安な表情を見せる。

「私、車酔いしやすいんだけど、大丈夫かなぁ」

「そういう時はガムを噛むといいよ。ミントガム持ってきてるけど、いる?」

「本当に? いただこうかな!」

 リュックを開け、ガムを探す。

 すると、隣にいた安田さんが僕のリュックを覗き見て、

「上里くんのリュック一杯入ってるけど重くないのそれ」

 さっき電車の時にも指摘されたけど、安田さんも気になる様子だった。「一応、お父さんの趣味で登山にも行ってるし、重たい物を背負って歩くのは慣れてるんだ」

「へぇ、登山男なんだね、上里くん」

 ポケモントレーナーみたいな言い方。

「めちゃくちゃ張り切ってんじゃん朝日」

 と言ったのは大貫くんだ。

 大貫くんが肘掛けに肘を乗せ頬杖を突きながら横目で僕を見てそう言った。

 軽い茶化しを入れただけで別段、恥を掻かせるつもりはなかったかもしれないけれど、そんな風に少しでも思われる事に気恥ずかしさを感じた僕は返す言葉が見つからず黙ってしまう。こういう時、コミュ力の高い人ならすぐ適当に返すんだろうなぁ。

 そんな僕に代わって安田さんがフォローを入れてくれる。

「いいじゃん! 楽しみにしてくれて私嬉しい!」

 と、好意的に捉えてくれるので取り巻きのクラスメイトの空気感も寛容的だ。

 僕は気を取り直してガムを取り出すと、安田さんは不思議そうな顔をする。

「なんでガムをジップロックに入れてるの?」

「ボトルに入れたままだとかさばるからさ」

「物自体を減らすっていう選択肢はないんだね」

「不安は尽きないからね」

「でもこれだけ準備がいいと頼りになるね! 上里くん、なにかあったら助けてね!」

「うん、任せて」

 安田さんの言葉に、僕は二言返事でそう言った。非常時に備えて知識も荷物も万全である。



§



 目的地に到着すると、受付でチェックインを済ませ、早速僕らはバーベキュー会場である河原へと向かった。川沿いに添ってテントがいくつも張ってあり、僕たち以外にもバーベキューをしている団体が何組もいた。

「さて、まず火起こしだなー。誰か出来る奴いるかー?」

 今回のバーベキューはテントやイス、コンロなどはレンタルだけど、火起こしは基本的に自分たちでやるのだ。

 クラスメイトの一人がそう言って誰ともなしに呼びかける。僕は一瞬、反応しそうになるけれど、まだ少し踏み止まってしまう。

 もしかしたら親しいクラスメイトに語りかけた発言かもと、遠慮してしまう。

 すると不意に暖木くんが僕の隣にやって来て「朝日、火起こし出来る?」と言うから僕は控えめに頷く「出来るよ」

 すると、暖木くんがさっき呼びかけしたクラスメイトに声を掛ける。

「朝日出来るってー」

「おー、じゃあ朝日頼むわー」

 そう言って橋渡ししてくれる。

 再び暖木くんは僕の方に振り返って笑顔を差し向ける。

「朝日、火起こし見せてよ」

 屈託なく笑うので、僕は緊張がゆるゆるとほどける。

「分かった」

 そして僕は着火剤を用意して、炭を並べていく。

 このキャンプ場では着火剤のレンタルはない。着火剤は持参というキャンプ場もあるので、念の為に持ってきてよかった。

「準備良すぎだろ朝日」

 そう言って笑いかける暖木くん。

 そうやって合いの手を入れてくれる暖木くんのその場を温める会話には気遣いがあり、優しさがあり、細やかなコミュニケーションでもう、彼が素敵な男子である事を僕は確信した。

 僕は照れ笑いを浮かべながら作業を続ける。

 僕の使う着火剤はパウチ状のもので袋ごと燃やせるタイプ。

 コンロの真ん中に着火剤を置き、それを囲むように炭を積み上げていく。そしてチャッカマンで着火剤に火を付ける。すると火が立ち上り、自然と積み上げた炭に火が燃え広がるという仕組みだ。

「あー、なるほど。キャンプファイヤーと同じ仕組みだな」

「まぁ、そんな感じだね」

 十分ほど経つと炭が白くなるので、積み上げた炭をトングで崩していく。「なんで炭を均等に広げていかないの?」

「あぁ、これ? バーベキューはつまみがないから火力を調整する時は炭の量で強火、中火、弱火のゾーンを作っておくんだよ」

 食材によって火加減が変わってくるから、ゾーンごとに炭の量を調整するのだ。

「なるほどなぁ。朝日ってアウトドアになると急に頼りになるな」

 そう言って暖木くんは笑いかける。僕もそれに釣られる。すると、そのタイミングでクラスメイトが集まる。「おー、朝日火起こし出来るなんて頼りになるなー」

 何気なく話しかけるクラスメイトに僕は人見知りをして相槌をするに留めると、変わりに暖木くんが会話を続ける。

「朝日の知識がすごいんだぜ? あっと言う間に火付けるし、炭の量で火力を調整するんだって」

「へぇ、朝日こういうの得意なんだ」

「バーベキューの知識もすごかったもんな。頼りになるぜ」

 クラスメイトの嬉々とした声に僕は照れ笑いを浮かべるばかりだ。

 僕は気恥ずかしさから逃れるように話を逸らす。

「それより、肉を焼こう」

 僕は食材を取りに戻り、クーラーボックスから食材を取り出すと、おもむろに氷室さんがやって来る。

「朝日、肉焼くの? 私も手伝うよ」

 と、申し出てくれるけれど、僕は一つ気になる事があった。

「ちょっと待って」

「え?」

 氷室さんを制する。

「あのさ」

「なに?」

 僕は視線を足元に向ける――氷室さんの足元を見やる。するとショートパンツから伸びる素足が見える。スラリと伸びる御御足が相まみえる。「コンロの前に立ったら炭が飛ぶし、そんな素足を晒してたら火傷するかもしれない。肉は僕が焼くから氷室さんは大丈夫だよ」

 僕は指摘を入れる。すると氷室さんは目を丸くした。

「別に大丈夫だよ」

 すると、意に介さずといった感じで言うので、僕はかぶりを振った。

「いや、僕が大丈夫じゃないんだ。そんな格好でコンロの前に立たれると気になってしょうがないから」

「あんまりジロジロ見ないでよ。恥ずかしいんだけど」

 と言って照れるから、それを言われて僕も恥ずかしくなって目を逸らす。

 や、でも本当に、

「危ないから。火傷して痕付けたくないでしょ? ここは僕に任せてくれたらいいから」

「そうやって足元見るんだ」

「いや、なにを上手い事を・・・・・・」

 てゆうか別に、そういうつもりで言った訳じゃないし。ただ純粋に氷室さんの御御足を慮っただけだ。

 素足を露出する事の多い氷室さんはきっと、自慢の部位でもあるのだろう。自慢の脚線美ならもっと大事にするべきだと思うけど。

「だからジロジロ見ないでって」

 てゆうか、見せてるのはそっちだよね?

 するとそこへ安田さんがやって来る。

「どうしたの二人とも~」

 と言うから氷室さんが「朝日が私に肉を焼かせてくれないの」と語弊のある言い方をする。

「違うよ! 火傷するからいいって断ったの!」

 すると安田さんはニヤリと笑う。

「いいじゃん零。ここは上里くんの男気を買おうよ。零の事気に掛けてくれて優しいじゃん」

 そんな風に言われると恥ずかしいんですけど・・・・・・。

「まぁ、やってくれるなら有難いけど」

 と、どこか調子の狂った様子の氷室さん。

「零は女の子扱いされる事に慣れてないんだよね~」

 と安田さんは楽しげに言う。

「別にそういうんじゃないし」

 歯切れの悪い氷室さんは珍しい。

 いつもはからかわれるばかりの僕だけれど、事アウトドアにおいては僕の方に軍配が上がったという事だ。 氷室さんのこの表情を見ると、僕でも氷室さんに勝てる事はあるんだなと思う。そして氷室さんも、完全無欠ではないのだ。

「コンロはもう一つあるから、どうしようか。――あ、鋼矢くんいいところに来た!」

「なんだよ・・・・・・」

 たまたま通りかかった大貫くんに声を掛ける安田さんは大仰に手招きする。そして焼く係をお願いすると大貫くんは「えー、ダルいんだけど」と言って気怠げな様子ながら近寄ってくると、安田さんが焼く係をお願いする。

「上里くんがお肉焼いてくれるんだけど、もう一人人手がいるから鋼矢くん手伝って!」

「人にやらせるならまず自分でやれよ」

「こういうのは男子の仕事でしょっ?」

「台所は女の持ち場だろ」

「今は男も台所に立つ時代だから」

「はぁ。まぁいいよ、分かった。やりゃあいいんだろ」

 そう言って渋々ではあるけれど大貫くんは了解する。まぁ、熱いし焼いてる間は食べられないけれど、アピール出来る持ち場でもあるから存外、満更でもないかもしれない。

 僕は焼き方をレクチャーすると「まぁ、なんとかなるだろ」と、適当な返し。本当に大丈夫だろうか。

 まぁ、焼くだけだからそう難しい事もない。

 さて、じゃあ食材を焼いていこう。僕はトングを持ち、いざ食材を網の上に乗せていく。すると煙が立ちこめ、匂いが辺りに広がる。すると周囲がざわつき始める。

 美味しい匂いに釣られてクラスメイトたちが紙皿を持ってこっちへやって来た。

「大貫ぃ、肉くれ肉~」

 大貫くんと仲のいい男子たちが皿を持って集まってくる。僕の方が近くにいたけど、そこは気にしない。

 大貫くんの周りに人が集まると、僕の方にも人が流れてくる。

「朝日くん、どの肉焼けてるー?」

 と学校にいる時はさほど話さないクラスメイトも気さくに話しかけてくれる。

 そしてある種、生殺与奪の権利を握っている僕は彼らに対して臆せず振る舞えた。

「もう少しで焼けるよ。野菜はもう焼けてるけど」

「俺肉と女しか食べないから」

「・・・・・・・・・・・・」

「冗談だよ?」

「ニク、ヤケタヨ」

「しゃー、喰うかー」

 こういうやりとりは苦手だ。いや、僕だって本当はそういう話したいけれども、でも大人しいクラスメイトAで通っているから、そういう事を言うハードルが高いのだ。自由に振る舞えるというのは、それだけ地位のある人間だから出来るのだ。そんな人が僕は羨ましい。

 それにしても、網に食材を敷き詰めていくも、空腹に飢えたクラスメイトの勢いは凄まじい。最初は肉を多めに焼いておいた方がよさそうだ。さっきから野菜が焼き上がっているにも関わらず全然手が付けられていない。一旦、野菜を焼くのはストップして肉を敷き詰める事にした。

 そして、少しでもお客様の元に美味しいお肉を提供出来るように網の上に肉をより多く敷き詰められるようにパズルを完成させていく。

 段々とハイな気持ちにさせられて、食べる人たちに待ち時間を作らせない為にはどうすればいいのか、手際よく段取りよく食材を焼き、すぐに手に取ってもらえるサイクルを回す。 この網はつまり地球であり、網の上にある食材は生命体だ。焼き上げた食材を食べる事で、次に生まれる命の空席が出来る。そこへ新たな食材を並べ、食物連鎖のサイクルを回す。僕は今、網の上の生態系を維持する、守護神を担っているのだ。

 そう思うと、一瞬たりとも気が抜けない。

 回せ――サイクルを回せ。一瞬だって絶やしちゃいけない、このサイクルを!

 そう思うと、僕の心に火が付く。コンロの火が、僕の心に飛び火して、燃え上がる。

 こうなった僕はもう、止められない。

 手際よく焼くだけじゃなく、焼き過ぎで食材が焦げて見映えを損ねる事にも注意を払うなど、芸術的観点からも、細心の注意を払うようになる。

 ただ焼くだけなら誰でも出来るのだ。美味しい料理を、食べたい時に提供出来てこそ価値がある――僕の職人魂を、舐めないでくれるかな?

 肉だけ焼くのでは野菜などが余ってしまう他、野菜の方が焼き上がるのは早いので、回転率を考えて僕は肉を焼く傍ら、試験的に各種サイドメニューを焼いていき、どれだけ手に取ってもらえるかデータを収集する。

 すると意外な事実が判明する。

 焼いていて比較的、サイドメニューでも人気があったのがウインナーとトウモロコシだった。これは食べ応えがあるしサイドメニューの中では王道に分類される。

 けれど思わぬ伏兵だったのがエリンギだ。焼くと意外と皆、手に取ってくれる。

 実際、歯ごたえがあって塩を振ってさっぱり食べたりしょうゆを掛けたりしても美味しい。強火でサッと焼くだけなので手間も掛からないので、これがいい嵩増しになった。

 このように現有戦力を最大限活用して回転率を上げていく。

 バーベキューとは、ただの調理のようでその実、高度な戦略ゲームなのだ。監督の采配が大きな結果を生み出す。それは悪い方にもいい方にも。そしてその差は大貫くんとの比較で明確だった。

「大貫ー、肉まだ焼けないのかよー」

「野菜焦げてるぞー」

「焦げたやつ渡すなよー」

 さっきまで仲間内で集まっていた大貫くんのコンロは待ち時間が多く、滞りが目立ち、お客様の苦言が聞こえてきた。かたや僕のコンロにはスムーズに人が行き来していた。それを見た大貫くんに集まるお客様が僕のところに流れていき、僕のお店は盛況となる。

 これが弱肉強食。厳しい勝負の世界だ。同じ店が並ぶ時、実力勝負が勝敗を分かつ。

 悪いね大貫くん、僕のキャンパー経験は伊達じゃないのだ。

 やがて大貫くんは不評を買って持ち場を離れ、他の男子たちが自分たちで好きなものを焼いて食べていく。 僕は得意気になっていると、ふと隣から安田さんの声が聞こえる。

「うわ~、鋼矢くんなにこれ。めっちゃ焦げてんじゃん」

「おう、寧々。丁度いいところに来た。食べるの手伝え」

「えっ? 残飯処理させるつもりっ?」

「残飯じゃねぇよ。立派な肉だ」

「もう~、しょうがないなぁ」

 そう言って安田さんは満更でもなさそうに返事をする。

「あ、てゆうか私が食べさせてあげるよっ」

「え、いいって」

「いいから! ほら、あ~ん」

「えー・・・・・・じゃあ、あ~ん」

 僕は横目で二人が楽しげにしているのを、つい見てしまう。それで胸が痛むのは分かり切っていたのに。

 二人が仲睦まじくしているのを見ると、心にモヤがかかる。

 火を起こしたり肉を焼いたり、自分なりにアピールしたつもりだったけれど、それでも安田さんが見ているのは大貫くんなのだ。

 その事に少なからず徒労感があって、僕はふと肩の力が抜けてしまった。

 するとその時だった――。

「朝日」

 不意に声が掛かって、僕は振り返る。

「あ、氷室さん」

「氷室さん、お肉食べに来たの?」

 僕は訊ねると、氷室さんは首を横に振る。

「いや、そうじゃなくて。あんたの分の紙皿が一向に手が付けられてないからまだ焼いてるのかと思って」

「うん、皆まだ食べてるからね」

「そろそろ休憩したら? あんただってお腹空いてるでしょ?」

「でも皆まだ食べてるし」

「そうやって自分の事後回しにするんだから。いいから休みなって――あ、田中ちょっと来て」

「え、氷室? なに?」

 たまたま通りすがりの田中くんを呼び止め、氷室さんは手招きする。

「ちょっと朝日と交代してあげて欲しいんだよね。ずっと焼いてばっかだから」

「え、俺が?」

「いいでしょ?」

 そう言って氷室さんは笑顔を差し向けると、田中くんは満更でもなさそうに「しゃあねぇな」と言って僕と代わってくれた。

 流石はクラスで一、二を争う美女である。この笑顔に男子は逆らえまい。

「ほら、朝日。おいで」

 と氷室さんは手招きして僕を誘うと、テントへ連れられる。すると空席が一つあったので、そこに座るよう促される。その間に氷室さんは紙コップを用意し、氷を敷き詰める。

「朝日、飲み物はなにがいい? お茶とコーラとサイダーがあるけど」

 氷室さんはクーラーボックスを開けて中身を確認するので、「じゃあコーラで」と頼むと氷室さんはコーラを手に取り注いでくれる。

 すると氷室さんは並々継ぐので、炭酸の泡が今に溢れそうになる。僕は即座に一口飲んだ。すると乾いた喉に炭酸が弾ける。ずっとコンロの前にいたから汗を掻いて随分と疲労感があったので、疲れた体にコーラが染みる。

「私お肉取りに行ってくるよ。朝日はそこで休憩してて」

「え、いいって。そんなに気遣わなくて」

「いいから」

 そう言って一言制すと、氷室さんはそそくさとその場を後にしてしまった。

 氷室さん、世話焼きだなぁ。そこまで気遣われるとかえって申し訳なくなるんだけど。まぁ、厚意は有難く受け取っておこう。

 しばしベンチで休憩してると、ほどなくして氷室さんが戻ってくる。野菜や肉が山のように並んだ紙皿を持ってきて、僕は呆気に取られる。

「そんないっぺんに持ってきてくれなくても・・・・・・」

「これ私の分もあるから気にしないで」

「あ、なるほど」

 氷室さんは僕の向かい側に座ると、真ん中に紙皿を置いた。

 氷室さんは箸で肉を掴み、タレに付けて口に運ぶと、口元に付いたタレを舌で掬う。その仕草に一瞬ドキッとする。

「朝日もぼうっとしてないで食べなよ」

 氷室さんに指摘を受けて僕はハッとする。

 僕も肉を頬張ると、食欲が掻き立てられ、さらにもう一つ肉を食べる。「野菜も食べてね」

「わ、分かってるよ」

 釘を刺された。まぁ、野菜も好きだからいいけど。

 しばし食べていると、不意に、

「ほっぺにタレ付いてるよ?」

「え?」

 氷室さんが自分の頬を差しながら指摘するので僕は手の甲で拭うも、「違うちがう」と氷室さんは言って、おもむろにティッシュで僕の頬を拭う。

「子供みたい」

 そう言って氷室さんはクスリと笑うので、僕は面映ゆい。

 ふと、今のやりとりで僕の心が軽くなるのを感じる。さっきまで胸にのしかかる感情があったのに、今はない。氷室さんの優しさに、ほんのり心が救われたのだ。

「そういえば、食事の後で皆で川遊びするけど、朝日は水着持ってきた?」

 と、氷室さんは今後の予定について話を振るので僕はかぶりを振る。

「ううん、ないよ。氷室さんは持ってきたの?」

「うん。それと寧々も水着持ってきてるよ」

「へぇ」

「今、想像したでしょ?」

「そりゃするでしょ」

「開き直りか」

 なんとでも言って下さい。

「朝日も持ってくればよかったのに」

「僕泳げないから」

「ふーん。でも浅瀬で水浴びするくらいはできるでしょ。後で一緒に行こうよ」

「まぁ、涼みに行くくらいなら」

 僕は言うと、氷室さんは嬉しそうにはにかんだ。



§



 食事を終えると、クラスメイトたちは水着に着替える為、更衣室へと向かった。水着を持参していない僕はその間、川で石切りをして遊ぶ事にする。

 石切り。懐かしい響きだ。小学生の頃、よくやったなぁ。

 試しに近くにあった平らな石を投げてみると、五回跳ねてポチャンと着水。どうやら腕は鈍っていないようだ。

 本格的に記録更新に向けて僕はよりよい石を探す旅に出る。石切りをする際、なるべく平らな石が好ましい。そして握り心地。どれだけ薄くても持ちづらい石はフォームに影響する。薄さと、フォルム。この二種類のバランスが勝敗を左右すると言っていい。

 勝敗とは言ったけれど、競える相手なんていないんですけどね。あ、今のは笑うところですよ!

 そんなくだらない事を考えつつ石を探していると、おもむろに背後から声がする。

「なにしてんの朝日」

「あ、暖木くん。石切り用の石を探してるところだよ」

「へぇ、懐かしいな。子供の頃やったなー」

「やってみると楽しいよ。どう、一緒に?」

「いいよ。どうせ暇だしな」

 冗談のつもりだったけれど、暖木くんは一緒に石を集め始める。暖気くんは優しいなぁ。

「暖木くんは水着持ってきてないの?」

「あぁ、俺泳げないし」

「僕も一緒。それに川は海より危険だからね。浅瀬に見えても急に深くなったりするし。陸にいるのが安全だよ」

「朝日は心配性だなぁ」

「自然相手ならこれくらいが丁度いいんだよ」

「朝日が言うと説得力が違うな」

「からかわないで」

 言いながら二人で笑い合う。

 なんでもない会話だけど、暖木くんとの会話は力が抜けて楽しく話せる。

「あ、朝日見てこの石。なんか顔に見えない?」

 そう言って暖木くんは拾った石を僕に見せるので、僕は頷く。

「確かに、なんか笑ってる人みたいだね」

「あと、これとかどう? ちょっとカブトムシっぽい」

「本当だ。暖木くん、面白い石見つけるねぇ」

「俺、将来は石拾ってそれ売る仕事しようかな」

「なにそれ、そんな仕事あるの?」

「分からないけど、でも流木を売る仕事もあるみたいだし。インテリアとして価値認められたら石もいけんじゃね?」

「石を売って生計を立ててる暖木くん、なんかおかしい」

「もし仕事に困ったら俺の店来いよ」

「うん。絶対、就職頑張る」

「はは、つれねぇ」

 僕らは他愛ない会話をする――なにこれ楽しい!

 なんて事ない会話なのに、暖木くんと話してるとめっちゃ楽しい! やばい、暖木くんとめっちゃ仲良くなりたい!

 僕の中で欲求が迸る。

「暖木くんと、は、話してるとさ」

「ん?」

 僕は思い切って暖木くんに語りかけると、つい声が上擦る。そんな僕とは対照的に暖木くんは気の抜けた返事を返す。

「なんか、緊張しない不思議・・・・・・」

 僕は言うと、暖木くんは一瞬呆気に取られたようにきょとんとした顔をする。やがてぷっと吹き出す。

「や、めっちゃ緊張してんじゃん。さっきから声上擦ってるけど?」

「ち、ちがっ、これはまた別で! や、暖木くんはこんな僕でも優しいから、他の人とは違うよねって」

 捲し立てるように喋ると、暖木くんはかぶりを振る。

「そんな事ないよ。別に普通だよ」

 その普通が、僕にとっては特別なのだ。

 僕は君と仲良くなりたい。と、友達になりたい・・・・・・。

 そう言いたいのに、僕は後一歩のところで勇気が出ない。

 結局。

 ややあって、着替えを終えたクラスメイトたちが戻ってくる。僕は暖木くんにフレンド申請をする事は叶わなかった。

 で、戻ってきたクラスメイトの中から、すぐに僕は氷室さんと安田さんの姿を見つける事が出来た。

 氷室さんはタンキニ水着で、安田さんはオフショルダー水着。二人とも露出は控えめだけれどとても可愛い。僕は心のシャッターを何度も切る。

 ふと、氷室さんが集団を抜け出して、僕らの元へやって来る。

「朝日」

「氷室さん、水着似合ってるね」

 僕は早速、水着に触れると氷室さんは控えめに「ありがと」と言った。「それより、朝日も行こうよ」

 照れ隠しなのか、すぐに話題を変える。

「うん――」

 僕は頷きながら、暖木くんを見やる。すると彼は、ニカリと笑う。

「いいよ、行ってこいよ」

 彼を置いて行くのは忍びなかったけれど、氷室さんが側にいる以上、一緒に行こうと言うのも違うし。

 僕は申し訳なく思いつつ、氷室さんと一緒に浅瀬へと向かった。

 氷室さんに連れられ、浅瀬へ辿り着くと、一足先に川に入っていたクラスメイトたちと合流する。その集団の中から安田さんが姿を現した。

「上里くん、来たね。一緒に入ろ~」

 安田さんの無邪気な声に釣られて、僕は靴と靴下を脱ぎ浅瀬へと踏み入れる。本当はウォーターシューズを履いて入りたいところだけど、そもそも川に入る予定じゃなかったので持ってきてないし、ここはやむなしだ。

 僕は裸足で浅瀬に踏み入れる。瞬間「つめたっ」足先にひんやりした感覚があって、つい声を上げた。

「でも気持ちいいでしょ?」

 すぐ隣で氷室さんも足を浸け、僕の横顔を覗き込んでそう訊ねる。

 僕は頷きながら、さらに進んで、ふくらはぎの半分くらいまで足を浸ける。

 そんな僕を横目に、水着を着たクラスメイトたちは濡れる事などお構いなしに川の中を飛び込んだり、泳いだり、大きな水飛沫を立てて遊んでいた。

 日が照って暑いから、思い切り飛び込めるのが羨ましい。

 彼らが上げる飛沫は日の光が反射してキラキラと輝く。遠巻きから見ても青春っぽい、絵になるシーンだった。

 やはり青春を謳歌する者は絵の映え方が違う。

 すると突然、安田さんが僕目掛けて水を掛けてくる。

「うわっ」と声を上げると安田さんはご満悦の様子で、「油断したな」と、決め顔で言った。何気に腹立つ顔だった。

 僕もお返しで水を掛ける。ただ水を掛け返すだけなら芸がないので、手手遊びの水鉄砲で安田さんの顔にクリーンヒットさせる。

「ちょっ、ピンポイントで顔に掛けるのやめてっ」

「ははは、お返しだよ」

「上里くん、それどうやったの? こう?」

 安田さんは見よう見まねで水鉄砲を実践してみるも、絡めた両手に隙間が出来て水は不格好に漏れただけだった。

「違うちがう。こうやるんだよ」

「わきゃっ! だからピンポイントで顔に掛けるのやめてっ」

 安田さんは手のひらでガードしながら水鉄砲を受けて顔を仰け反らせる。武器を持たざる者と持つ者との格差で優越感がハンパない。

「もういい! 掬って掛けた方が早いもん!」

 そう言って安田さんは両手で水を掬い上げて僕に掛けてきた。

「ちょっ、僕水着じゃないのに!」

 全身に思い切り水を浴びて、衣服が思い切り濡れる。

「服なんてすぐ乾くでしょ? でも私のメイクは落ちたら元に戻らないんだよ!」

「それでこんな仕打ちをっ? てゆうかメイク落としてごめん!」

「それはいいよ。その事は水に流そう」

 なに上手い事を。

「それより上里くん、私と手を組んで零を倒さない? さっきから傍観しててズルいよね」

「え、急になにこの展開」

 戸惑う氷室さんに、僕と安田さんはアイコンタクトを取り、頷き合う。「よし、昨日の敵は今日の友だ」

 別に昨日ではないけれど、まぁいいだろう。

 僕らは標的を氷室さんに変え、水を掛ける。すると氷室さんは水飛沫を手でガードするも、防ぎ切れずに体を仰け反らせた。

「朝日のその水鉄砲、何気に腹立つんだけど!」

「これの事?」

 僕はみたび水鉄砲を喰らわせると、氷室さんは怨めしそうな目で睨んでくる。

「こいつ、マジで」

 そして何度目か、僕が水を汲むのに身を屈めていると、その隙を突いて氷室さんは僕の顔に思い切り水を掛けてきた。

「隙あり!」

「ぶはぁっ!」

 水の塊が思い切り顔に掛かって、水滴が滴り落ちる。

「零、あったまいい! そうだ、水を汲んでる時がチャンスなんだ! 零、私と手を組もう!」

「安田さん、裏切るのか!」

「今日の友は明日の敵だよ」

 いや、明日でもないし。

 言うが早いか、安田さんは氷室さんと結託して僕に狙いを済ませてくる。僕がどちらか一方を水を掛けると、もう片方が僕が水を汲んでいる瞬間を狙って水を掛けてくる。

 二対一の構図を利用して確実に僕の隙を突いて水を掛けるので、気付

けば僕の衣服はビショビショだった。 ポケットに忍ばせていたハンカチを手に取るも、それすら濡れていて水滴を拭うくらいしか出来ない。

 僕は戦線離脱を余儀なくされる。

「ちょっとやり過ぎた? ごめんね朝日」

「でも気持ちよかったでしょ?」

 二人とも、ずぶ濡れの僕を笑って誤魔化すので、僕は「テントに帰らせてもらいます!」と恨み節を放ってその場を後にする。

「上里くんが喧嘩別れした嫁みたいな事言ってる!」

 と、茶化すのを聞きながら僕は靴と靴下を拾ってテントに戻ると、背後からクラスメイトの女子の声がする。

「零ちゃん、寧々ちゃん。一緒にビーチボールやろ~」

「いいよ~、今行く~」

 安田さんの軽快な声が聞こえてくる。その変わり身の早さに少しだけ寂しさを覚えつつ、テントへと戻る。帰りながらポケットに忍ばせたハンカチで濡れた箇所を拭った。日差しを受けて、濡れた箇所がぬるりとした温度で体に纏わり付いてくるのを、一陣の風が気持ち悪さを打ち消してくれる。

 戦線から離脱すると、一旦ベンチに戻って着替える。一応、シャツくらいは持ってきている。有事に備えてだが、まさかこんな事の為に使う事になるとは思わなんだ。僕もまだまだシミュレーションが足りない。

 着替えを取りに行くと、テントで休んでいた暖木くんと目が合う。

「朝日、すごいびしょ濡れじゃん」

「暖木くん・・・・・・。もうめちゃくちゃだよ」

 僕は濡れた衣服を摘まんで示すと、暖木くんはおかしそうに笑った。

「遠巻きから見てたけど、楽しそうにしてたぞ朝日」

「いやいや、流石にこれはやり過ぎだって」

 からかう暖木くんに僕は肩を竦める。

 着替えを済ませながら、暖木くんの隣に腰掛け、川遊びするクラスメイトをぼんやりと眺めた。氷室さんと安田さんは男女混合でビーチバレーをして楽しんでる。輪の中には大貫くんの姿もあった。

 安田さんがアンダートスで上げたボールを大貫くんが安田さん目掛けてスマッシュを決め、ここからも聞こえるくらいの悲鳴を上げた。

 怒りの拳を振り上げる安田さんに、大貫くんは笑いながらごめんごめんとポーズを取っていた。

「あいつら楽しそうだなぁ。俺も水着持ってくればよかったかな」

「浅瀬でぱしゃぱしゃするだけでも気持ちいいよ」

「でも朝日みたいになるのはいやだ」

「ほんとそれな」

 軽快なやりとりをしつつ、ぼんやりと川の向こうにいるクラスメイトたちを見つめる。疲労からか、焦点の合わないぼんやりとした視界で、次第にうつらうつらとしてくる。

 意識と無意識を行き来する。まるでそれはゆりかごに乗っているようで心地よかった。

 ふと、遠巻きから声がする。

「ごめーん寧々ちゃん! ボール飛んでった!」

 女子の呼びかけが聞こえ、そしてすぐに「いいよ~、大丈夫だよ~」

 という安田さんの声が聞こえた。

 おっとりとした声。安田さんの声はいつだって僕を穏やかな気持ちにさせてくれる。

「寧々ちゃんっ・・・・・・!」

 ――刹那。

 男女共に、断末魔のような悲鳴が聞こえた。

 僕はがばりと上体を起こすと、暖木くんが「おい、あれ!」と声を荒らげる。

 すると視界の先で川面が見える。水飛沫を上げ、誰か人のシルエットが見える。その光景をクラスメイトたちが一点に視線を向ける。

「た、大変だ! 安田が溺れてる!」

「だ、誰かっ・・・・・・!」

 ――安田さんッ!

 口々に聞こえる危機を知らせる悲鳴。けれど皆、退っ引きならない状況に立ち竦んでいた。

 一瞬にして様々な情報が飛び交い、僕はそれを処理するので一瞬、体が硬直する。

 その時――、

「大貫っ、お前なにしてんだ!」

 男子の叫び声が聞こえた時には既に大貫くんは安田さんのところへ泳いで向かっていた。周りの声など無視して一目散に安田さんの元へ泳いで向かう大貫くんの姿を見て、僕はハッとする。

「暖木くん、手伝って!」

 僕はそう呼びかけると、暖木くんは困惑する。

「な、なにするんだ?」

「空のペットボトルを用意して! それから中身に少し水を入れて浮き輪代わりにするんだっ」

 さっき後片付けで溜めていた空のペットボトルの入ったゴミ袋がある。僕はそれを指さすと暖木くんは頷いた。

 次いで僕は周囲を見渡し、そして子連れの親子の姿を見つけ、彼らの元へ駆けつけた。走りながら両手のパラコードのヒモを解く。

 そして子連れ親子の元へ辿り着くや否や僕は川で溺れている旨、そして110番に連絡するようお願いし、そして浮き輪を拝借し、浮き輪のヒモとパラコードを繋ぐ。

 浮き輪を持ってから河原へと向かい、そして安田さんと大貫くんを探す。すると大貫くんは安田さんを抱きかかえていた。さっきクラスメイトに渡したペットボトルを持っていたので、どうやら上手く渡せたようだ。

 二人は浅瀬からは四メートルほど離れた位置にいたので、命綱の長さは十分足りる。

 僕は河原へと向かうと、浅瀬まで近付いてさらに距離を詰めてから大貫くんに浮き輪を投げた。

「大貫くん、捕まって!」

 川の上流に向かって浮き輪を投げ入れ、流れに添って大貫くんのところへ届くようにした。すると大貫くんは浮き輪を捕まえるので、僕は少しヒモを手繰り寄せて、その場で踏ん張る。すると川の流れに添って半円状に大貫くんは流れていき、浅瀬に近付いていく。そして足の付くところまで来ると大貫くんは安田さんを抱えて河原まで運ぶと、やがて膝を突いた。

「寧々、大丈夫か?」

 大貫くんも声を掛けると、安田さんんは申し訳なさそうに「うん・・・・・・」と返事を返した。

「本当、お前なにしてんだよ」

 悪態を吐く大貫くんに、安田さんは申し訳なさそうに謝る。

「ごめんね、急に川底が深くなるところがあって、足場も柔らかくてビックリして、足挫いちゃった・・・・・・」

 一見して浅瀬に見えるような場所でも急に川底が深くなる場所がある。砂地で足を取られ、そのまま流される話もよく聞くし、今回はその典型と言えるだろう。

「寧々ちゃん、ごめんね・・・・・・私のせいで」

 気付けば周囲にクラスメイトが集まっていた。

 帽子を流された子が涙声で言うので、安田さんはすぐにかぶりを振った。

「ううん、私が鈍臭かっただけだよ。私は大丈夫だから。鋼矢くんがすぐに助けてくれたからさ」

「てか大貫、無茶するなぁ。お前まで流されたら・・・・・・」

 クラスメイトの一人が言いながら、すぐに口を噤んだ。大貫くんの行動を戒める事は安田さんを放っておくと同義だから、それは不謹慎というものだ。でも大貫くんまで巻き添えになったら被害は拡大していた訳だし、クラスメイトの発言は決して間違ってはいないのだけど。

 クラスメイトの一言で少し気が重くなるも、大貫くんはあっけらかんと、「まぁ両方助かったしいいだろ」と言うので、その楽観的な発言に大貫くんらしさを感じてか一瞬笑いが漏れるけれど、すぐにまた沈黙が下る。

 口々に心配と安堵が入り交じる声が聞こえてくる。弛緩する空気の中、大貫くんはすぐに気を新たにして、

「それより寧々、足見てもらうぞ。その前に体拭かないとな」

 大貫くんは言うと、一旦テントに戻り、タオルで体を拭いてから安田さんを医務室へと連れて行く事に。

「や、大丈夫だよ。歩けるし・・・・・・」

 安田さんは恥ずかしそうにおんぶを拒否すると、大貫くんが声を上げた。

「ばかお前、いいから早く乗れ。足場悪いし悪化したらどうすんだよ」

「でも、私重いし・・・・・・」

「くだらねぇ。これ以上、お前に怪我されて面倒掛けられたくないの。いいから乗れや。安心しろ、お前乗せたくらいで悲鳴上げるほど柔な身体じゃねぇから」

 確かに大貫くんの身体付きを見ると、筋トレしてるのか、ガッチリしてる。頼もしい発言は筋肉に自身がある裏返しか。

 すると安田さんはようやく頷いて、「じゃあ・・・・・・」と背中に乗っかる。途端、「おっも」と大貫くんが茶化しを入れるので一同、呆れ笑いを浮かべる。

 きっとこれは大貫くんなりの気の使い方なのだろう。これ以上事態を大事にしまいという。

 大貫くんと安田さんが立ち去った後、取り残された僕らの元に他のレジャー客も集まってきていて、その中にはさっき浮き輪を拝借した家族もいた。そしてその一人であるお母さんがおずおずと話しかける。

「溺れた子は大丈夫だったの? 警察には連絡を入れたんだけど、もう一度電話した方がいいのかしら?」

「はい。問題は解決したので対応は不要ですと、お伝えしていただければ。いいですか?」

「えぇ、それはいいけど・・・・・・」

「後、浮き輪返しますね? ちょっとヒモ解くので待っていただけますか?」

「あぁ、うん」

 なんだかお母さんの方が動揺してるようだ。僕が普通に喋っているのを不思議そうに見てる。

 僕も不思議だった。こんな事態が起きているというのに、全然気が動転していない。ちゃんと頭が冴えてる。でもそのお陰で適切な対応を取る事が出来たのだし、冷静でいられた自分を褒めてあげたい。

 浮き輪を返した後、改めてお礼を言い、クラスメイトの元へと戻ると、皆は一度着替えを済ませるという話になって更衣室へと向かっていった。 そして残ったメンバーは帰りの支度と後片付けをする。



 ややあって、大貫くんが戻ってきた。既に水着から着替えて私服姿だった。安田さんの姿がなかったのでクラスメイトが訊ねると大貫くんは「今着替えて、施設の方で待機してる。ただの捻挫だから様子見で大丈夫って言ってたから心配ないけど、先帰る事にしたから。俺も付き添うから上がるな?」

 口を挟ませず大貫くんは言うので、引き留める間もない。クラスメイトは「分かった」と相槌を打つに留めた。

「それと」と言って大貫くんは僕に向き直る。

「さっきはありがとな」

「え?」

 突然お礼を言われて僕はきょとんとしてると、大貫くんは続けた。

「さっき浮き輪投げてくれたのお前なんだろ? 氷室から聞いた」

「あぁ、いいよ別に。それより大貫くんと安田さんが無事でよかったよ」

「俺まで溺れたら意味ねぇからな」

 と言って笑う。

 僕はふと、訊ねていた。

「大貫くん、あの時怖くなかったの? 助けに行く時」

 咄嗟に安田さんを助けに泳いでいった大貫くんを思い出して僕は訊ねる。すると大貫くんは言った。

「なにも考えてなかっただけだから俺は。咄嗟の判断っていうか、体が勝手に動いた」

 咄嗟の判断。

「むしろお前の方が正しい判断だったよ」

 確かに、助けた大貫くんまで溺れてしまったら意味がない。

 けれど、あの時の大貫くんは考えるまでもなく動き出していた。安田さんを助けたいと思う一心で。そこに理屈はなく、ただ気持ちだけがあった。

 それを見て、僕は思った。――僕はどうだろう。



§



 バーベキューは予定よりも早く切り上げる事となり、片付けを終えると早々に帰宅する事となった。

 帰り道、最後まで一緒にいた氷室さんと二人で電車に揺られていると、スマホで安田さんと連絡を取っていたらしく、

「病院で手当てもしてもらって、家でゴロゴロしてるってさ。あんな事があったのに、普段通りにしてんの、なんか拍子抜けだよね」

「そっか。でも大事なくてよかったよ」

「そうだね」

 改めて、僕らは安堵する。

 一つ間違えば命を落としていた可能性もあったと思うと、ゾッとする思いだ。

「でも本当によかった。寧々が無事で」

 シリアスにそう言う氷室さんは、下手すれば今にも泣き出しそうな表情にも見えた。それくらい安田さんの事、大切なのだ。

「大貫くんのお陰でね。あの時は本当にすごかった」

「うん・・・・・・」

 今まで恋敵として見ていた相手だけど、今は大貫くんの偉大さに感服する他ない。彼の行動が安田さんを救ったのだ。あの場にいた誰もが立ち竦んでいた中、彼だけは咄嗟に動いていた。それは誰にでも出来る事じゃない。ああいうところにこそ人の本性が隠れていると思う。大貫くんはチャラチャラしているけれど、ああいう時、助けに行ってくれる男気を持っている人だったのだ。人は見かけによらない。口先だけ達者な人とは一線を画す。

 僕の言葉に返事だけして以降、氷室さんは口を噤んだので僕もそれ以上話すのはやめた。そのまま気付けば最寄り駅に着いて僕らは別れを告げた。

「それじゃあ氷室さん、今度は学校でかな? またね」

「うん、じゃあね」

 こうして今日が終わる。色々あって、あっと言う間の一日だった。楽しい思い出もあったけれど、あんな事があった後では、無事に終わってよかった。と纏めずにはいられない。本当に安田さんが無事でよかった。



§



 数日後。氷室さんからメッセージが届いた。

 文面は氷室さんらしい、要点のみを抽出したような端的な物言いで書かれていた。

『さっき寧々から電話があって、大貫と付き合う事にしたって』

「・・・・・・・・・・・・」

 それを見て僕は固まる。

 でも動揺したのも束の間、どんな返事を書こうかと僕は思いを巡らせる。返信した後、再び氷室さんからメッセージが届く。

『どこかで会えないかな? 会って話がしたいんだけど』



§



 氷室さんからのお誘いを受けた翌日、僕は氷室さんとチェーン店のカフェで待ち合わせをした。場所は妥協案としてお互いの家の中間地点のお店となった。

 待ち合わせより少し早めに来て席を確保する。店員さんに頼んで隅っこの席にしてもらい、四人掛けのテーブル席に案内される。ウエイトレスから水とおしぼりを受け取ると、追加でもう一人来る事を告げ、注文はその時にする事に。

 で、五分遅れで氷室さんがやって来る。僕は手を振ると側まで歩み寄ってきた氷室さんが軽快に挨拶する。「よっ、数日ぶりだね」

 相変わらず氷室さんは脚線美を見せびらかすようなショートパンツスタイルだった。

 氷室さんが席に着くと、ウエイトレスが来て氷室さんに水とおしぼりを出して、再び奥に消えていく。

 僕はメニューを差し出すと氷室さんはテーブルを一瞥してから言う。

「まだ注文してないの?」

「氷室さんが来てから頼もうと思って」

「そっか。悪いね」

 と言って氷室さんは言いながらメニューを見ると、すぐに顔を上げた。「私カフェオレにするよ」

「じゃあ僕はアイスコーヒーにしよう」

 ベルを鳴らしてウエイトレスを呼ぶと注文を済ませる。

 それから氷室さんは一息吐くようにして水を軽く煽った。

「ふぅ。今年も暑いね。ここ来るまでずっとエアコンの利いた部屋にいたからちょっと出ただけで汗掻いちゃった」

 そう言ってシャツの首元を摘まんでパタパタと風を送る。シャツは襟首が詰まっているから胸元が覗くという事はないけれど、その仕草自体に色気のようなものを感じてしまう。 しかし雑談から入る辺り、本題に入るのは多分、注文が届いてからなのかもしれない。それまでの間、僕も当たり障りない返事を返しておく。 そして、少しして注文が届く。ドリンクとおまけの豆菓子。

 僕らは互いに一口飲み、ゆっくりとグラスを置いて会話のタイミングを待つ。

 すると、おもむろに氷室さんは真剣な口調で言った。

「今日呼び出した理由なんだけどさ」

 と言って、いよいよ本題に入るのだと思って、僕は自然と背筋が伸びる。

「改めて言うけど、寧々。大貫と付き合う事にしたって」

「・・・・・・そう」

 僕は短くそう返した。返す言葉がすぐには思い付かない。

「寧々の中で、バーベキューの時に大貫に助けてもらったのが決め手になった。って訳じゃないって本人は言ってたけど、一因ではあったと思う」

「身を挺して助けてくれたらそりゃそうだよね。二人が付き合うのは遅かれ早かれだったと思うし、覚悟はしてたよ」

「そうだろうけどさ」

 言いながら氷室さんは口を噤む。

 なにか物言いたげな表情を浮かべるので、僕は怪訝に思っていると、氷室さんは二の句を継いだ。

「いやさ、なんか普通だなと思って。ショックじゃないの?」

 と言うので、僕は言う。

「そりゃショックはショックだよ。間接的にフラれたんだから。ただ」

「ただ?」

「二人が付き合うのは想定できてたし、だから言うほ傷付いてない。まぁ、そうなるよねそりゃあって感じ」

「そう」

 物憂げな表情の氷室さん。そんな顔する必要はない。これは予定調和だったのだ。

「元はと言えば私があんたの片想いを手伝うってところから始まったから、こんな事言うのは無責任なんだけどさ。朝日は、私の提案を受け入れた事、後悔してない?」

「あるって言ったらどうするの?」

「謝るよ・・・・・・してるの?」

 顔色を窺うように上目遣いで見るので、僕はすかさずかぶりを振った。「まさか。な訳ない」

 氷室さんのお陰で安田さんと接点を持つ事が出来たんだし、感謝こそすれど謝られる筋合いなんてない。

「それに、氷室さんがしたのは提案であって、それを受け入れたのは僕の意思なんだから、氷室さんが謝る事はなにもないよ」

 逆にそれで謝られると、僕の判断が間違いになってしまうじゃないか。間違いなんてものはない。どちらの選択にも後悔や悲しみはあったと思うし、どちらにも選択するだけの妥当な理由もあった。だから好きな方を選び、氷室さんと共に努力する方向を選んだ。それだけだ。

「僕としては安田さんが大貫くんと付き合った事は納得だし、別に二人が付き合ったからと言って、やっぱり氷室さんの提案に乗らなきゃよかったなんて後悔は全くないから心配しないでよ」

「そう・・・・・・」

「それとさ、ここ数日考えてたんだ。安田さんの事」

 僕の言葉に氷室さんは反応を示すも、返事はない。沈黙は次の言葉を促すサインだと判断して僕はつづける。

「安田さんの事、本当に好きなのかどうか」

 するとそこで氷室さんは反応する。「どういう事? 寧々の事好きじゃなかったって事?」

 話を急いて氷室さんは問い掛ける。けど、自分のペースを保って僕は言葉を探す。

「僕は安田さんの事、好きだと思ってた。けど、もしかしたらそれは僕の勘違いだったのかもしれない」

「なんで? 寧々の事想ってるから、今まで行動できてたんじゃないの?」

「うん。それはそう。安田さんの事、想ってるのは確かだ」

「じゃあ好きなんじゃん」

「好きだけど、でも多分、ちょっと違う」

 僕の煮え切らない言い方に、氷室さんは焦れったい様子を見せる。

 別に、勿体ぶってる訳じゃない。ただ、僕自身、この気持ちに間違った解釈をしたくなくて慎重になっているのだ。

 僕はゆっくりと続ける。

「僕もそうだと思ってた、けど。もしかしたら僕の好きは――、好きじゃなくて憧れなのかもしれない」

「・・・・・・?」

 氷室さんは意味を図りかねて沈黙する。僕は続ける。

「安田さんの事、好き。だけどそれと同時にずっと、敵わなさみたいなのも感じてた。話していてずっと高嶺の花みたいな感覚だったし、大貫くんと仲良くしてる安田さんとの違いもギャップを感じてた」

「・・・・・・・・・・・・」

「だからか、安田さんが大貫くんと付き合ったと聞いても、僕はそこまで動揺しなかった。全然、気持ちが割り切れた。これってたぶん、最初から諦めてたからこんな風に割り切れると思うんだ。だって――、憧れって諦めだから。最初から諦めてるから、好きでいられるんだよ」

「そんな事・・・・・・」

「氷室さんは僕が安田さんの事、ずっと想っていられるのは一途だって、純粋だって言ってくれたけど、でも違う。僕は最初から諦めてた。だから安心して好きでいられたんだよ。好きな気持ちだけ享受して」

 だから氷室さんのあの言葉は滅相もない。僕は不純だ。不純な片想いだ。

「じゃあ――」

 と、氷室さんは続ける。

「なんで私の提案に乗ったの? 諦めてたって言うなら、あんたは私の提案には乗らなかったでしょ。乗ったって事は、あんたが寧々の事好きだったって事じゃないの?」

 確かに、僕は氷室さんに説得されて片想いを実らせる努力をする決意をした。

 けれどそれは『説得』されたからだ。僕が頑張るに足る『理屈』を与えられたからだ。理屈があれば僕は動ける。その逆に、感情に突き動かされる事がない。そう、ないのだ。僕はいつだって理屈の上で成り立ってる。

「バーベキューの日に、溺れてる安田さんを咄嗟に助けに行った大貫くんを見て、僕思ったんだよね。僕は自分の気持ちに突き動かされて動けないって」

「あんたも助けに来てくれたじゃない。それも冷静に機転を利かせて」

 そうだね。でも、

「それは僕に知識があったからだよ。あの時にどう動くべきかの知識が僕にはあったから動けたんだよ」

 あの時、少しでも気が動転して、動揺していたら、自分の気持ちを信じられたかもしれない。でも僕はあくまで冷静だった。

 湧き上がった感情を、僕はフィルターに掛けて見ているから、その熱を感じ取る事が出来ない。自分の気持ちを感覚として理解出来ない以上、僕は考えるしかない。

「だから憧れだって言うの?」

「そうだよ」

 僕は安田さんの気持ちを、憧れと解釈した。するとすんなり腑に落ちた。今までの行動に辻褄が合う気がした。

「でもじゃああの日、あんたが寧々の席に座ったのはなんだったのよ。あれこそ好きじゃないと出来ない事でしょ」

「・・・・・・・・・・・・」

 確かに、あの時の僕は冷静ではなかった。安田さんの景色を共有したくて、僕は誰もいない教室で彼女の席に座った。あれは好きだからこその行動だったんじゃないのか――。

「確かに、気持ちなんて絶対に分かるものじゃないけどさ。それでもあんたは寧々の事好きだったと思うよ。憧れとか諦めじゃなく、ちゃんと好きだったと思うよ。だってあんたが寧々を見る目は、他の誰とも違ってたもん」

「そうかな」

「そうだよ」

 氷室さんは断言する。確信しているかのような。否、確証を持っての頷きのようだ。

 でも確かに、安田さんは他の誰よりも輝いて見えたのは事実だ。人混みに紛れていてもすぐに見つけ出す事が出来た。

 好きか憧れか。

 なんにせよ、僕にとって安田さんは特別な存在だった事は確かだ――それでも、もう終わった事だ。諦めはついてる。安田さんの事、自分の気持ち。そこに未練はない。

「そう」

 氷室さんが神妙に相槌を打つので、僕は小さく頷き返す。すると僅かな沈黙。薄い膜が僕らの周りを覆い、周囲の音が遠ざかる。

 けれどやがて、氷室さんは沈黙を破る。

「あのさ」

「ん?」

 短い問い掛けに僕は応じると、氷室さんは僅かな間の後、

「私じゃダメかな?」

 と言った。

「――え?」

 脈絡のなさに、僕は戸惑う。

 なにを言ってるのか分かりかねて、僕は氷室さんを見つめると、真剣な眼差しがそこにはあった。自然と、目が離せなかった。

 そして氷室さんは言葉を続ける。

「好きな人。私じゃダメかな」

 今度は言葉を補足して、さっきよりも明確に思いを伝えてくる。

 そこで僕は、氷室さんの言ってる事を理解する・・・・・・するけれど、以前として分からない。言ってる事は分かるのに、言ってる意味が分からない。なんだこれは。どういう事だ。好きな人が、私じゃダメかな?

 氷室さん、なにを言ってるの?

「えーと、それはどういう・・・・・・?」

 なにかの聞き間違いか、聞き逃しかと思って、そう返すと、氷室さんは僕の質問には答えてくれるというよりは、続きを話すような口ぶりで続けた。

「私、朝日の事が好きなの。だから、私じゃダメ?」

「・・・・・・・・・・・・」

 今度こそ逃れられない。

 氷室さんの言ってる意味を、気持ちを僕は理解する。

 でも、理解は出来ても信じるかどうかは別だ。

「嘘だ」と僕は言っていた。

 そんな訳はない。氷室さんが僕の事を好きなんて。そんな節、今まで一度だって見せてこなかったし、そもそも好きになるキッカケなんてなかったじゃないか。

 確かにあの日以来、僕と氷室さんは関係を築いているけれど、それはいわば師弟関係のようなもので、男女の恋仲に発展するような間柄じゃない。それともなにか? プロデュースをしている内に僕に想いを寄せる様になったとでも言うのか? でも好きになるような動機を与えた覚えはこれっぽっちもない。むしろ僕の魅力のなさをこれでもかというくらい見てきた筈だ。

 なのに、なぜ――。

「あんたが疑うのも無理ないけど、でも本当だよ」

 そう言う氷室さんの語り口は冷静だ。告白してるのに・・・・・・。なんでこんな冷静にいられるんだろう。なんで僕の方が冷静じゃないんだろう。「別に、あんたがなにをしたって訳じゃない。ただ、私が一方的に好きになっただけ」

「そんな素振り、一切なかったけど」

「隠してたんだから当然でしょ?」

「・・・・・・・・・・・・」

 さもありなんと言う。

 だとしたら役者過ぎるよ氷室さん。でも確かに、これまでにもいくつか氷室さんの役者としての才能を垣間見てきたし、そう易々とボロが出ないのも納得だ。

「でも、いつから?」

「一年の時から」

「え」

 思いがけない言葉が飛び込む。

 てっきり、最近の話かと思ったら随分と時を遡る。するとますます分からなくなる。去年なんて、それこそ僕らに接点なんてなかった。クラスが同じという一点のみだ。話した事もほとんどない。

「最初は、寧々の事をチラチラ見てる奴がいるなぁ、くらいにしか思ってなかったんだけど」

「なにその第一印象・・・・・・」

「だってそうなんだもん」

 フォローしてくれなかった事に、僕は軽く傷付く。

「でもあんたが、あまりに寧々への好意を隠すのが下手だから、それがいじらしく思えてさ。気付いたら私もあんたから目が離せなくなってた」

「・・・・・・全然気付かなかった」

 当時、氷室さんの事は全く意識した事がなかった。記憶にも残ってない。という事はそれだけ氷室さんの視線はさり気なかったという事だ。

「てゆうか、隠すのが下手って事は、僕の想いが安田さんにも筒抜けだったって事?」

 僕はハッとして真偽を確かめると、氷室さんはクスリと笑った。

「それは大丈夫。寧々にはバレてないから。あの子鈍感だからね」

「そっか・・・・・・」

 それはよかった。僕は安堵の溜め息を溢す。

 いやでも、氷室さんにはバレてるんだから、完全に好意を隠せてはいなかったのだ。氷室さんが聡い可能性もあるけれど、他の人たちにもバレていた可能性はあるし全然よくない・・・・・・。

「それにしたって、氷室さんも人が悪いよね。僕の好意に気付きながらなにも言わずに黙って見てたなんて」

「そっちの方が幸せだったでしょ?」

「・・・・・・まあ、否定はしないけど」

 もしバレていたと分かったら羞恥心で悶絶しているところだ。

 改めて氷室さんは話を続ける。

「だから最初は、声を掛けるほどじゃなかったんだよ。ただ眺めてるだけで十分だった。――でも“片想いする朝日”を見ていて、次第に気が変わっていった」

「・・・・・・・・・・・・」

「気付いたら、あんたの事好きになってたんだよね」

 そう言って過去を語る。平然と語る氷室さん。むしろ僕の方が恥ずかしくなる。なんで氷室さんはそんな風に語れるんだろうか。いつだって氷室さんは、自分の表情を隠すのが上手い。

 一度、氷室さんは言葉を区切り、目を伏せる。そして改めて顔を上げると、目が合った。ドキリとした。僕の事を好きだという女の子の眼差しは、不覚にも僕の心を刺激する。意を決した氷室さんの気持ちが、視線越しに伝わってきて、緊張が走る。 やがて、氷室さんは言う。

「私は――朝日の見つめるその瞳が好き」

 そう言って、僕の瞳に一心に視線を注ぐ。今に溢れそうになるくらい注がれるのに、僕は目を逸らせない。こんな風に誰かから熱心に視線を向けられた事がないのだ。氷室さんの気持ちを取り溢したくないと思った。だから僕は、目を逸らさない。

「正直、寧々が羨ましかった。あんな風に誰かから一心に視線を向けられる事が。あんたみたいに見てくれる人ってそうはいないんだよ」

「そ、っか」

 氷室さんがそんな風に思ってくれる事は、僕は嬉しいけれど、それと同時に恐縮だった。

 僕からしたら影でコソコソ好きな人を覗き見ていただけなのだ。それには後ろめたい気持ちがあったから、だからそんな風に肯定してくれる氷室さんの言葉には恐縮だった。

「あんたが自分の気持ちを憧れって言ったけど、そんな事ないよ。あんたは確かに、寧々の事が好きだった。寧々に向ける眼差しは、好きな人を見る瞳だったから。それは私が保証するよ」

 さっき僕の片想いを肯定したのは、氷室さんが僕の事を見ていたからだったのか。

 確信を持って言われると、自分の好きに自信を持っていいのかもしれないと思える。

 ひとしきり氷室さんの気持ちを聞くと、僕は「あれ」ふと気付く。

「じゃあなんで、僕の片想いを応援してくれたの? 僕の事が好きなら、そんな事しなくない?」

 氷室さんは僕の一途な想いに惹かれて、協力関係を結んでくれた訳だけど、でも僕の事が好きなら、他の女の子とくっつけようとはしない筈だ。

 僕は言うと、氷室さんは少しだけ目を伏せた。どこかバツが悪そうな表情をしていた。

 僕は首を傾げていると、おもむろに氷室さんは言う。

「ごめん、それについてはあんたに誤らないといけない」

「え?」

 なにが? 僕は首を捻る。

 またなにかあるのか。

 僕は沈黙でもって言葉を催促すると、氷室さんは二の句を継いだ。

「あんたの片想いを応援するっていうのは、本当は嘘なの」

「はい?」

 どういう事?

 嘘?

「そんな事はないでしょ? だってあれだけ色々と教えてくれて、それで安田さんとも仲良くなれたし。それのなにが嘘なの?」

「確かにあんたには身だしなみやコミュニケーションについて色々教えたけど、でも違うの。――ねぇ、私最初に言ったでしょ? 寧々は手の掛かる男が好きなの」

「言ってたね」

 根が世話焼きだから、そういう人に惹かれるのだろう。

「でも私があんたに教えたのは逆で、女子ウケのいい男性像を磨く事だった」

「・・・・・・・・・・・・」

 あ。

「だから寧々に好きになってもらうアプローチとしては間違ってたの。あんたには、寧々の好みとは逆の事を教えてたんだよ」

 なるほど、そういう事か。

 それが氷室さんの嘘、なのか。

「あんたに教えた事は全部、私の好みなの。清潔感があって、話を聞いてくれる人。私はただ、あんたに近付きたくて、それで片想いを手伝うって提案したの。そしてなにも知らないのをいい事に、あんたを自分好みの色に染めてた。だからずっと、あんたの事を騙してたの」

「・・・・・・そう」

 話を聞いて僕はショックを受けた――という事はその実なくて。

 結果はどうあれ、氷室さんのアドバイスのお陰で僕は安田さんと仲良くなれたのだ。そしてそれと同時に、自分に少しだけ自信が持てるようになった。そのお陰でクラスメイトとバーベキューに行く勇気も湧いた。

 以前の僕ならなかった有り得ない事だ。

 氷室さんは僕の事を騙したと言うけれど、だとしても僕は氷室さんを責める気にはなれない。話を聞いて尚、僕は感謝しかない。

 氷室さんが僕を生まれ変わらせてくれた事実になんら変わりはないのだ。

 それに、安田さんが手の掛かる男子が好きだとして、僕が好みに寄せるのには無理がある。僕が世話の焼ける男子を演じても、それで安田さんが関心を持ってくれるとは思えない。

 だからどちらにせよ、氷室さんのアドバイスは適切だった筈だ。

「でもそしたら、安田さんに大貫くんをくっつけたくないっていうのは、あれも嘘だったの?」

 親友として大貫くんのような手の掛かる男子とは付き合わせたくないと言ったけれど、あの言葉も嘘なんだろうか。

 すると氷室さんはかぶりを振った。「あれは本当だよ。寧々には苦労して欲しくないからね。でも同時に、大貫と付き合うのは避けられないんだろうなとも思ってた。私がどうしようと、寧々の好みが変わる訳じゃないからね。だからあんたに近付いたのは、ただ私があんたと仲良くなりたかったから」

「そうだったんだ」

 聞けば聞くほど、僕は氷室さんの手のひらの上で転がされていたんだなぁ。そうとは知らず、僕は氷室さんの思い通りに行動していたのだ。

 もしかしたら本当は、怒るべきなのかもしれない。けれど、むしろおかしみが込み上げてくる。

「氷室さん、随分と回りくどい事してたんだね」

 策を弄してまで僕に近付こうとしてくれた氷室さんに、僕は不思議な気持ちになる。なんで僕の為にそこまでするのだろう。氷室さんならもっとストレートに攻めてもいいと思うけれど。

 自分に自信がないという訳ではないだろうに。

「それでさ」

 と。

 氷室さんは僕の顔色を窺いながら、呼びかける。

「朝日の返事、聞かせてくれない?」

 そう言って、僕を見やる氷室さんの目は不安げだった。

 氷室さんのカミングアウトの印象が強過ぎたけれど、そうだ。これは告白なのだ。

 僕はまだ返事を返していない。

 それを受けて、僕は少しだけ沈黙を挟む。別に、焦らそうという訳ではない。ただ、自分の心の声を聞いていた。氷室さんの想いを受けて、自分がどんな風な反応を見せるのか。 そして、僕は再び口を開く。

 氷室さんが緊張して、息を吞むのが見えた。

 僕は伝える。意を決して。

「――ごめん。僕、氷室さんの事、好きじゃない」

「・・・・・・・・・・・・」

 瞬間、その場の空気が鉛を含んだみたいに重たくなるのを感じた。

 けれど僕は怯まない。

「氷室さんが意を決して言ってくれたから、僕も半端な気持ちは口にしたくない、から。正直に言うと、氷室さんの事は友達としてしか見てなかった。それは今もそうだし、だからごめん」

 中途な気持ちじゃむしろ傷付けるだけだから、だから僕は言い切った。それが誠意だと思うから。

 すると氷室さんは――、

「そっかぁ」

 溜め息交じりにそう言った。

 その中には、どこか安堵のような気持ちが含まれているような気がした。

 やがて氷室さんは切り出す。

「ちゃんと答えてくれてありがとう。真剣に考えてくれただけでも嬉しいよ」

「氷室さん・・・・・・」

 フラれた筈なのに、氷室さんはそう言って謝意を述べてくれる。きっと傷付いている筈なのに、そんな姿はおくびにも出さない。弱みを見せない事が逆に、傷付いている証拠のような気がするけれど、氷室さんはそれすらも覆い隠してしまう。本心を隠すのがどこまでも得意なのだ、氷室さんは。

「あー、でもそっかあ。フラれたか私」

 と、どこか吹っ切れた様子で氷室さんは言う。

「私の事をフるなんて大層魅力的な人なんだろうなぁ」

「え、やっぱり怒ってる?」

 これみよがしに皮肉を口にするので、僕は慌てる。すると氷室さんはカラリと笑った。

「はは、冗談だって。でも魅力的な人っていうのは本当」

「・・・・・・・・・・・・」

「あんたは、自分が思ってるよりずっといい男だよ」

 そう言って氷室さんははにかむ。それが冗談でない事は分かった。

「それは贔屓目じゃなくて?」

 惚れた弱みでそう見えるだけじゃないかと思うけど、氷室さんはかぶりを振る。

「じゃなくて、本当に」

 氷室さんは真剣な口調でそう言ってくれるので、僕は励みになる。氷室さんの言葉は僕に自信をくれる。

「私たち、フラれた者同士だねぇ」

 氷室さんは茶化すように言う。

 確かにそうだ。フラれた者同士が一緒にいる。

「ねぇ朝日」

「な、なに?」

 氷室さんは呼びかけるので、僕の返事は緊張で強張る。またなにかあるのだろうか。

 すると氷室さんは「そんな身構えないで」とはにかんだ。

「今日の事はそれはそれとして、また友達同士仲良くやっていこうよ。遠慮とかなしにさ」

 そう言って氷室さんは関係の再構築を提案するのだった。

 それは有難い提案だけれど、それが気遣いで言ってる可能性もあって、僕は返事がぎこちなくなる。

「うん、氷室さんがいいなら・・・・・・」

「ならそんな風に余所余所しくしないで。本当に、普通に言ってるだけだから」

 改めて氷室さんは言うので、僕は今度こそ信じて頷く。

「分かった」

 すると氷室さんはクスリと笑い、白い歯を溢した。

「なんかもう既に余所余所しい気がする」

 そんな風に茶化す氷室さんが、いつもの氷室さんらしくて、僕はそれで緊張がゆるゆるとほどけ、自然と口角が緩む。

 それで僕は安心する。

 大丈夫、僕らはまたこれまで通りにやっていける。

 僕らの関係は、そんなに柔じゃない。むしろお互いに本音を曝け出した仲として、前よりももっと親密な関係になれるかもしれない。

 僕は今のやりとりから、そんな風に思った。思えた。思わせてくれた。


§ 



 話が終わると、注文したドリンクをゆっくりと飲み干し、やがて帰る事にした。

 そして駅へと向かうその道中、氷室さんはおもむろに切り出す。

「あのさ、さっきの話なんだけど」

「なに?」

 まだなにか言い残した事でも?

 僕は聞き返すと、氷室さんは次に意表を突くような事を言った。

「やっぱり私、あんたの事諦められないから、このまま好きでいていい?」

「えっ?」

 なにその宣言、聞いた事ないんだけど。

「よくよく考えたらさ。別に朝日、付き合ってる人とかいないんだし、告白を断られたからって諦める必要ないよね?」

「え、それはそうかもしれないけど・・・・・・」

 え、告白ってダメだったらそれで終わりじゃないの?

 いや、そんなルール端からないか。ただなんとなく、相手を慮ったり自分がこれ以上傷付かない為に線引きをしてるだけで、二度も告白しちゃいけないなんてルールはない。

 そもそもフラれたからって好きな気持ちまでそこで終わる訳ではないのだ。

「それにあんたが心変わりする可能性は全然あるもんね。これまで一緒にいて、あんたの傾向もそれなりに分かってきた事だし」

「なんか僕の事、ギャルゲーのヒロインみたいな感覚で見てない?」

 見くびらないで? ゲームみたいにリアルな人間は単純な構造で出来ていないのだ。そんな攻略法とか明快な方程式など存在しないのだ。

 心とは複雑怪奇で、自分の気持ちにさえよく分からない事だらけだ。

「そうだね。だからこそ、なにかの拍子に急に心変わりする事だってある筈だよ」

「氷室さんは前向きだね」

「恋は盲目だからね。都合の悪い事は見えないの」

「なんてこった」

 軽快なやりとりに僕らは自然と笑みが溢れる。それがほどよく心地良い。

「それに朝日は好きがなんなのか分かってないんでしょ? だったら教えてあげるよ。好きって気持ちがどんな気持ちなのか。勿論、好きになるのは私でね」

「言うね、氷室さん」

 潔いくらいの開き直り方に、僕はつい感心してしまう。

 すると氷室さんは高らかと宣言した。

「恋愛指南、第二幕といこうじゃん。ね、上里?」

「っ!」

 不意打ちで氷室さんは僕を名前で呼ぶ。

 それには不覚にもドキッとしてしまった。

「あれ、今照れた?」

 目聡い氷室さんは僕の変化に気付いて指摘してくる。

「し、してないよ? する訳ないじゃん名前呼ばれたくらいで」

「あんたひょっとしてチョロインじゃないの?」

「だから違うって!」

 声を荒らげてまで必死に否定したくなるって事は、つまり図星って事で、あれ、僕って本当にチョロインなのか? いやいやいやいやいや! 一丁前な事言って氷室さんの告白を否定しておいてそれはないって!

 これは単なる気の迷いだ。てゆうか、単純にビックリしただけだから! そういう浮ついた気持ちでは断じてない! きっとそう!

 僕は内心でそう言い聞かせ、横でイジワルそうに笑う氷室さんを無視しようとするけれど、むしろ意識してしまう。

 なんだって心は裏腹なんだろう。

 ――本当に、心というやつは分からない。分からないから翻弄されっぱなしで全く自分の思い通りにいかない。だからこそ理解したいと思う。自分の気持ちを。

 そしていつか分かるといい、好きって気持ちがどんなものなのか。  まず手始めに、胸を温めるこの感情を知るところから始めよう。

 君の隣にいる時に感じるこの気持ちは、一体なんて言うんだろう。



§



 夏休みが明けて二学期が始まる。

 教室で席に着くと、いつもと変わらない風景と日常がそこにはあった。 僕は相変わらず一人で、読書をして時間を過ごす。

 でも、すぐに声が掛かる。

「上里」

 と僕を呼ぶ声がする。

 それは凜として、そしてドキッとする声音。

 僕は顔を上げると、そこには氷室さんの姿があった。

「おはよ、上里。久しぶりだね」

 そう言って笑いかける氷室さんは、夏休み前とは違う印象を纏っていた。端的にフィルターが掛かっていた。意識していた。

「お、おはよ。氷室さん・・・・・・」

 僕はつい緊張してしまう。

 あの日の告白から、氷室さんといると、平静ではいられない。

 それを見透かし、彼女は小悪魔フェイスで笑う。

「余所余所しいなぁ。なんで? いつもみたいに笑ってよ」

 分かって言ってるからタチが悪い。 いつもみたい、って。それが出来たら苦労しない。

 僕は狼狽えていると、氷室さんはおかしそうに笑った。君はいつも僕をからかう。そのスタンスは相変わらずだ。

 と、そこへ――。

「零~、おはよ~。それに上里くんも!」

「朝日、久しぶりー」

 安田さんと暖木くんがやって来る。「安田さん、暖木くん。おはよ」

 僕の元に人が集まる。それはなんだか奇跡のようだった。そして暖木くんが夏休み明けも僕と接点を持ってくれる事をホッとする。そして嬉しい。

 ――でも、同時に彼の顔を見ると氷室さんがよぎる。

「寧々、聞いてよ。上里夏休み明けですごく余所余所しい」

 氷室さんが茶化すように言うから、僕はたじたじになる。

 するとその話題とは別のところで暖木くんが引っ掛かる。

「あれ、氷室って朝日の事名前で呼んでたっけ?」

 すると僕はチクリ、と胸が痛む。

 暖木くんは氷室さんにフラれている立場。対して僕は――。

 なんだか、僕は急に居たたまれない気持ちになる。

 暖木くんと友達になりたい気持ちは今でもあるのに、氷室さんに告白されて、僕ら微妙な関係性じゃないっ?

 僕の思いとは裏腹に、氷室さんはあっけらかんとしていた。

「まぁね。名前で呼んだ方が上里の反応いいし。ね、上里?」

「・・・・・・氷室さん、あまりからかわないで」

「別にー、ただ名前呼んでるだけじゃん」

 平然とした調子で言うけれど、間違いなくからかってる。いや、名前を呼ばれただけでたじたじになる僕も僕なんだけれど。

 しかし僕らのやりとりを受けて、暖木くんの眼差しが勘ぐりを入れてる感じがして僕は気まずい。

 交友関係が広がりそうな予感はありつつ、妙に複雑な相関図で、先行きの読めなさに僕の心はぐるぐると渦を巻く。

 僕の青春は、恋も友情もすんなりとはいかせてもらえない。一筋縄じゃいかない。

 それでも、僕は氷室さんに教えてもらった教養で、この青春をモノにしたいと思う。

 もう、あの時には戻らない。

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