1話
§
魔が差したんだ。
早朝、誰もいない教室で僕は、好きな女の子の席に座っていた。
安田寧々――彼女の笑顔が、僕をダメにした。
彼女はクラスの人気者で、冴えない僕では容易に近づけない存在。
だからこうして人目を盗んで彼女の席に座っているのだ。
ただ、僕は知りたかった。
彼女から見た、僕の姿を。
彼女の席からは、僕はどんな風に映るのか。
彼女の視界には、僕が映っているのか――それがたとえ、偶然目に映る景色の一部でしかなくとも、彼女の世界を構築する一欠片としてでも存在出来ていたら、僕は嬉しい。
そんな動機でリスクを犯す僕はバカだけれど、だから魔が差したという事なのだ。
そして、この行動が事態を起こすキッカケになるのだから救いがない。「見~ちゃった」
「うわっっっ?」
突然の声に僕の心臓は跳ね上がり、即座に振り返ると、するとそこには――氷室零さんがいた。
扉に寄りかかり、切れ長の瞳が、まるで獲物を捉えた肉食獣のみたく僕を射抜く。
彼女とは一年の時から同じクラスメイトだったけれど、話した事はあまりない。
ただ、端から見ていた印象として、黒髪ショートや切れ長の瞳といった外見的な要素含め、落ち着いた佇まいから大人びた印象を感じる女の子だ。
「氷室さんっ?」
彼女は教室に足を踏み入れると、ゆっくりと僕の元に歩み寄る。
悠然とした歩き方が実に様になっていて、僕は深刻な状況に置かれているにも関わらず一瞬見惚れてしまっていた。
そして僕の側まで来ると、彼女は言った。
「そうなんだ朝日、寧々の事。ふ~ん」
唇の端を上げ、ニヤリと笑う様はまるで僕の反応を楽しむかのような嗜虐心のある笑い方だった。まるで狩りに楽しみを見出しているかのような、そんな心情が垣間見えた。草食獣の僕は、それをただひたすら怯えた目で見る。
「氷室さん、聞いて? 違うんだ」
僕は動揺から、まるで犯行の最中を見られた犯人のような話し方になる。
すると氷室さんは、
「なにが?」
クスクス笑いながら短い問い掛け。泳がせるつもりか!
けれど、僅かな望みに賭けて僕は弁解する。
「これは、氷室さんが思ってるような事じゃない」
慎重に僕は言葉を紡ぐ。すると、氷室さんは「ほう。それで?」と続きを促す。
「えーと。つまりその、あれだよ。次の席替えで前の席に座るシミュレーションだよ。最近、視力が落ちてきたから」
「へぇぇ」
く、苦しい・・・・・・。
言い訳も。呼吸も。
「いや、本当の話・・・・・・最近、メガネかコンタクトどっちにしようか纏ってるんだよ。はは」
「メガネかコンタクトにしようとしてるのに前の席のシミュレーションしてるんだ」
「っ!」
口からでまかせを言った僕に、氷室さんの的を射た指摘がクリティカルヒットする。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
もう、ダメだ・・・・・・。
自ら墓穴を掘り、死期を早めてしまった。いっその事、僕を殺してその墓穴で埋葬してくれ・・・・・・。
僕は観念して降伏宣言する。
「どうか、この事はクラスメイトには内密にしていただけないでしょうか・・・・・・?」
僕は極力、下手に出ながら恭しく頼み込むと、氷室さんは小悪魔な笑みを浮かべて、
「え~、どうしよっかな~」
と、勿体ぶった言い方をする。
弱みにつけ込んでくる!
僕は狼狽すると、氷室さんはクスリと笑って、「冗談だよ」と補足した。
「え?」
「私も鬼じゃないからさ、人の嫌がる事はしないし、それで喜ぶほど子供じゃないよ」
そう言って氷室さんは肩を竦める。 それを聞いて僕は肩を落とす。
なんだ、随分と物分かりのいい・・・・・・。
事が穏便に済みそうだと分かった途端、安堵の溜め息が漏れた。
「てゆうか朝日、意外と大胆な事するんだね」
「それはっ」
みたび、言い訳をしそうになって止める。これ以上余計な事を言って弱みを握られたくない。
防戦一方の会話は身が持たない・・・・・・。
「好きな子の席に座るとか、ベタな事するよねぇ」
「うぅ」
「まぁ、これ以上は言わないでおいてあげよう」
言い訳が出ないでいると、氷室さんは温情で追及するのを止めてくれた。
「でもよかったね、見つかったのが私で。別のクラスメイトだったらどうなってたか」
「・・・・・・そうだね」
危うく僕の学校生活が試合終了するところだった。
陰キャで根暗でぼっちな僕が好きな人相手にこんなストーカーみたいな事をしている事がバレたらただじゃ済まないだろう。
クラスで噂が広まり、安田さんにも話が伝わってドン引かれる可能性は十分にあっただろうし。
バレた事自体は不幸でも、バレた相手が氷室さんだったのは不幸中の幸いと言える・・・・・・いやでも、女の子はお喋りな生き物だし氷室さんと安田さんは中学からの付き合いらしいから危うく口を滑らせてしまう可能性はなきにしもあらずでまだ安心は出来ない・・・・・・。
「ちなみに。寧々の事、どういうところが好きなの?」
「え・・・・・・」
急な恋バナに僕は固まる。好意がバレてしまったとはいえ、赤裸々に語るのは憚られるのだけど、弱みを握られている意識から僕は素直に答える。
「や、優しいところです」
「なにいい子ぶってんの?」
急に毒を吐かれた!
「ぶってないよ!」
「顔とか身体が好みだからって言えば?」
「なんでそれ確定なの・・・・・・?」
「男なんて皆、外見で選んでんでしょ? 寧々、可愛いしおっぱいも大きいもんね」
途端、男への偏見を語る氷室さん。いや別に皆がみんな卑しい理由で好きになる訳じゃないよ?
「その割に寧々のおっぱいチラチラ見てたじゃん」
「ファッ?」
急になにおうっ?
「気付かれてないと思ってた? 私知ってるよ、あんたがチラチラ寧々の事見てるの。いつも隣にいるからね」
「それは誤解だよっ」
「なにが誤解なの? 事実でしょ」
「僕はただ、人と目を合わせるのが苦手だから、結果として胸に視線が向いただけで、別に見たくて見た訳ではないのです」
「ないのですて」
動揺し過ぎて変な口調になると、氷室さんは苦笑した。
「まぁいいわ。見てた事実は変わらないし。それより」
「や、結果より過程に焦点を当てて欲しいんですけど・・・・・・」
「それより、あんたこれからどうすんの?」
と。氷室さんは僕の弁解を無視して問い掛ける。
けれど言葉が足りなさ過ぎて僕は「と、言いますと」そんな風に問い返す。すると氷室さんは続ける。
「だから、寧々の事。告白とか考えてないの?」
と言うから僕は戸惑いを隠せない。「考えてない、けど・・・・・・」
「ふうん」
「・・・・・・・・・・・・」
なんだろう、その意味ありげな相槌は。なにか? 好意はあるのに直接本人にアプローチせず影でこそこそしてる陰湿さを非難したいのだろうか。ならばぐうの音も言えない。
それから氷室さんはしばし考え込んだ様子を見せると、室内は沈黙に包まれ、居たたまれない空気になる。僕がそわそわしていると、やがて氷室さんは口を突いて言った。
「ねぇ――」
一瞬の問い掛け。そして直後、
「――あんたの片想い、私が手伝ってあげようか?」
氷室さんは思いがけない言葉を口にした。どこか企むような笑みを浮かべながら。
§
八時を過ぎると、徐々にクラスメイトが登校してきて教室は賑やかになる。
僕はいつものように読書に興じるべく本を開く――けれど、さっきからページが行ったり来たりを繰り返し、遅々として物語が進まない。
さっきから脳内では氷室さんの声が繰り返される。
『――あんたの片想い、私が手伝ってあげようか?』
あの後、クラスメイトが登校してきて話が打ち切られたので、彼女の真意を問うまでには至らず、意味深な言葉だけが取り残されたままだった。
僕は軽く溜め息を吐きながら、本を閉じる――その瞬間。
「皆おはよ~」
鈴の音を鳴らしたような声が教室に響く。振り返らずとも分かる、――安田さんだ。
彼女は教室に入ると、クラスメイトに手を振りながら、ふっくらと花が開くような笑みを浮かべて挨拶を交わす。そして温かな陽気を漂わせながら自分の席に着くと、まるで花の匂いに誘われるように、自然と人が集まってくる。その中には氷室さんもいた。
安田さんには人を惹き付けるオーラがある。ふくよかな体型から放つ温厚なオーラが、自然と距離感を近づけさせるのかもしれない。
「ねぇ、昨日の『隠れ身の恋』見た? まさか優くんが瑞樹ちゃんの事が好きだったなんて」
「瑞樹ちゃんの恋をアシストするフリをして近付いてきたなんてしたたか過ぎるよねぇ」
クラスメイトがドラマの話題をキッカケに安田さんに話しかける。
そこから次々、女子たちが感想を口にするけれど、僕には安田さんの声しか聞こえなかった。
僕の耳は音に濃淡を付けられるイコライザー機能が搭載されており、周囲の音量は落とし気味に、安田さんの声は一際、強調されて聞こえるよう設定されていた。
けれど、いつもとは違い、もう一人の声も鮮明に聞こえた。
「すぐ感情が表に出る寧々には出来ない芸当だよね」
からかうように氷室さんが言う。
すると周りの女子が一斉に笑い声を上げて同調する。
一見して、てゆうか一聴して? 普通の日常会話だ。
けれど僕は氷室さんが喋り出す度、冷や汗を掻く。
今朝の事、氷室さんは口外しない約束をしてくれたけれど、ゴシップ好きのお喋りな女子の発言である。その言葉を鵜呑みには出来なかった。 僕はしばらくの間、彼女たちの会話を盗み聞きするも、結局氷室さんが最後まで今朝の一件を口にする事はなかった。
「? どうしたの零? さっきからクスクス笑って」
不意に、安田さんが不思議そうな声で訊ねるのが聞こえた。
「ううん、なんでもないよ」
すると氷室さんの声が返る。
端から聞いていると、不自然な会話だった。なんで急に氷室さんは笑い出したのか。
僕は気になって、おもむろに席を立つ。そして教室を離れながら安田さんたちのグループにそれとなく視線を向けると、
「っ!」
氷室さんと目が合った。彼女は、僕を見て――笑っていた。
三日月のように口角を上げる彼女を見た瞬間、僕の背筋にゾクリとした感覚が走った。
刹那、僕は悟った。
――見られていたのだ。
僕が会話に耳をそばだてて聞いてる事に気付いていたのだ。
でも端から見てそんなに不自然に見えただろうか? 平静を装っていたつもりだったけれど、僕の演技に落ち度はなかったと思うけれど、その実、全然隠し切れていなかった?
氷室さんの射抜くような視線から逃れるように、僕は足早に教室を後にする。
§
いつもなら放課後のチャイムが鳴れば一目散に教室を後にし、帰路に就く僕だが――今日は違った。
「朝日ー」
一人、教室に残る僕の目の前に氷室さんが姿を表す。
「ごめんねー、掃除思ったより時間掛かって遅くなっちゃった」
と言って詫びを入れるので僕は問題ないとかぶりを振る。
それより。
「用事ってなに??」
僕は単刀直入に切り出すと、氷室さんは一瞬、キョトンとした顔をしてからすぐに、おどけた。
「少しはアイドリングトークを楽しもうよ。放課後の教室に二人きり。ほら、なんだか青春の一コマっぽくない?」
確かにそれっぽいシチュエーションではあるけれど、僕と氷室さんとの間にそんな甘酸っぱい関係は皆無だし、なんだったら弱みを握られてそれを脅しの材料にこの後、お金でも巻き上げられそうですらある。
いや、嘘だけど。氷室さんにそんな極悪なイメージはない。
「あぁでも、二人きりになるなら寧々とがよかったよね? ごめんね、あんたの隣にいるのが私で」
「っ!」
そういう事言う!
やっぱり氷室さん、極悪人だ。僕の弱みを突いて狼狽える様を見て愉しんでいる! 人が悪い。人が悪いよ氷室さん!
「あはは、冗談だってぇ。寧々の事になるとすぐ態度に出るよね朝日は。今朝も私たちの会話に聞き耳立ててたよね?」
「うっ」
やっぱりバレていたのか・・・・・・。
「寧々が喋る度、肩がピクって動いてるの見えてたよ」
そう言う氷室さんもよく見てるじゃないか・・・・・・。
「もう少し取り繕うの上手くなった方がいいよ?」
氷室さんはからかうような笑みを浮かべた後、カバンを机に置き、椅子に座る。その際、足を組むと、押しつけられた太ももが艶めかしく形を変えるので、僕はついその肉感に色気を感じる。
氷室さんって美人だけど、それ以上にスタイルがいいんだよなぁ。
スタイルを決めるのは足の長さで、その逆に胴が長くてスタイルがいい人はいない。つまり、人の美しさの根幹を担っているのは足なのだ。足が綺麗な人は美しい。
そして美は権威だ。人は権威に逆らえない。学歴や肩書き、地位や名誉を見せられると、その人に従う事を余儀なくされる。そして足が綺麗な人もまた然り。
足を組み、艶めかしい魅力を放つ氷室さんに、僕の心は既に自分が下位である事を弁えていた。
・・・・・・なるほど、精神的優位に立つ為に氷室さんは僕にそんな綺麗な御御足を見せつけてきたって訳か。侮れない、氷室さん。いや、絶対違うけど。
内心で邪な事を考える僕だったけれど、氷室さんは僕の視線には気付いていないのか「朝日も座りなよ」と何気なく言うので僕は頷き、近くの座席に腰掛ける。
すると氷室さんは「寧々の席じゃなくてよかったの?」と、またからかう! 油断したらすぐこれだ!
「あはは、朝日は面白いなー」
僕は全然面白くないです。
今度こそ真面目に話が始まると信じて、僕は居住まいを正した。
そして、氷室さんは話を始める。「今朝の話の続きなんだけどね――。もしあんたに告白するつもりがあるなら、あんたの片想い、私が手伝ってあげようか」
と言うので、僕は咄嗟に「あれ、本気で言ってたの?」と溢した。
すると氷室さんはあっけらかんと返す。
「もちろん、告白する気がサラサラないなら余計なお世話なんだけどさ、もし勇気がないだけなら、私が背中押してあげようかって。いや、背中を押すだけじゃなくて、あんたを寧々の候補に入れる魅力的な男にプロデュースしてあげようって」
「プロデュース?」
「寧々とは小学校からの付き合いで、趣味とか好みとかよく理解してるし、あの子の関心を惹くアドバイスはしてあげられると思うんだ。あんたにとって悪い話じゃないと思うんだよね」
「まぁ、」そうだね、聞く限りではいい話のように思える。
でも、
「分からない事がある」
「なに」
僕の問いに氷室さんは淡泊な返事をする。
僕は二の句を継いで、
「なんで氷室さんは、僕の片想いに協力したいの?」
そこが腑に落ちない。
氷室さんとはあまり接点がなく、ただのクラスメイトという間柄。僕に大した思い入れはない筈なのに、なぜ片想いを手助けしたいなどと言うのか合点がいかなかった。言えば、なにか裏があるのではと勘ぐってしまう。
「まぁ、だよね」
別段、僕の疑いにショックを受けるでもなく、むしろ平然とした表情で聞き入れていた。
この問い掛けは想定内だったのだろう。氷室さんは落ち着いた様子で言葉を繋ぐ。
「まぁ、一つは――純粋にあんたを応援したいって気持ちがあるから」
一つは、って事は、まだあるのか。 てゆうか、なに? 僕を応援したい?
「あんたさ、一年の時から寧々の事好きだったよね?」
「え・・・・・・知ってたの?」
「だから、あんた分かりやすいのよ。寧々の隣にいていつも視線を感じてたわ。まぁ、寧々は全然気付いてなかったけど」
「そ、そっか」
それは幸いだ。
「話しかけられず、遠巻きからずっと寧々の事を追いかけてるあんたを見てて、健気だと思ったのよ。それから今に至るまでずっと、叶いそうもない片想いを大切にしてるあんたを見ると、情が移ったのよね」
「そ、そうなんだ」
そんな風に思われてたんだ・・・・・・なんかちょっと恥ずかしい。
「でもあんたは一向に寧々に近付く気配はないし、とんだヘタレ野郎だとも思ってたけどね」
「・・・・・・・・・・・・」
なんで氷室さんはいちいちそんな言い方をするのだろう。だってしょうがないじゃないか。陰キャの僕が安田さんに近付くなんて、接点がなさ過ぎてできっこないのだ。
「でも同じ片想いなら、あんたみたいな奴が報われて欲しいなって思ってる。だから個人的に私はあんたを推してる」
「・・・・・・なるほど」
そんな事を言われてもどう反応したらいいものか。
でもまぁ。氷室さんが僕個人を指名した理由については分かった。
でもまだ僕の片想いを応援する理由はあるのだろう。さっき一つ目と言っていたし。
僕は話の続きを窺うと、氷室さんは応えた。
「もう一つの理由が」
と、言い、それから、
「寧々を渡したくない相手がいるの」
と、端的にそう言った。
「渡したくない?」
って、どゆ事?
僕は頭上に疑問符を浮かべると、氷室さんは言葉を噛み砕く。
「うちのクラスにさ、大貫鋼矢っているでしょ?」
「え? あぁ、うん。いるね」
大貫鋼矢くんとは、うちのクラスメイトの男子で、クラスの中心人物だ。イケメンで女子たちの人気が厚い。
その大貫くんがどうしたのだろう。「実はさ、寧々が大貫の事気になってるっぽいんだよね」
「え・・・・・・」
なんですと? それはもしや、試合終了のお知らせですかな?
「まだ好きって本人が言ってる訳じゃない。でも気になってる様子なんだよね」
「そうなんだ・・・・・・」
「でさ、私としては寧々と大貫がくっつくのはヤなんだよねぇ」
「と言うと?」
「同中の女子から聞いたんだけど、大貫って三股掛けてた事あったらしいの」
「え」
三股? 僕は一人とすら付き合えた事ないのに。
「塾で仲の良かった他校の生徒と、同中の下級生相手と陰でこっそり付き合ってたの。信じられないよね」
本当、信じられない。
どうやったらそんなに女の子と付き合えるんだろう。
「高校に入ってからも一年の時でもう既に四人と付き合ってるし、異性との付き合い方に節操がないのよ、あいつ」
一年の時だけで四人の女の子と付き合ってたって事は、ワンクール毎に恋人が変わっているという計算になる。
衣替えかな?
モテモテの大貫くんを羨む僕とは裏腹に、氷室さんの口調には棘があった。
「クラスメイトなら大貫の性格はそれなりに分かるでしょ? あいつ、いい加減でルーズな性格なの。付き合ったら絶対苦労するのは目に見えてる」
確かに大貫くんはクラスメイトから見てもルーズな性格だと分かる。遅刻は多いし、宿題もよく忘れ、友達に答えを写してもらってるし教師にタメ口とか制服の着こなしとか、なんか色々いい加減でチャラい。僕の苦手なタイプだ。
なるほど確かに。氷室さんが安田さんの付き合う相手に口出ししたくなる気持ちも分かる。
友達として心配になるのは最もだ。「あの子昔から男見る目がなくてさ、大貫みたいないい加減な奴を好きになりがちで。ほら、根が世話焼きだから手の掛かる男が好きなんだよ」
なんか、ホストに貢ぐ女性みたいだな安田さん。
「だからさ、親友として大貫と付き合わせる事だけは阻止したいのよ」
氷室さんはなんの迷いなく“親友”と言い切った。言い切れるだけの強固な信頼と絆が、二人にはあるという事だろう。
さて。
理由を聞かされ、僕はある程度納得はした。でも完全じゃない。
「でも、大貫くんに勝つ為の対抗馬が僕じゃあ、完全に実力不足だよね?」
腑に落ちないのは、なぜ僕に白羽の矢を立てたのかという事だ。
たとえ氷室さんが個人的に僕を推してくれていたとしても、大貫くんに勝る対抗馬を作るとなったら、現実的に考えて僕じゃあまりに勝ち目がない。
対抗馬っていうか、ただの当て馬にしかならないだろう。
僕と安田さんとの接点はあまりない。たまに彼女の方から声を掛けてくれる事があるくらいだ。
まず好きになってもらうより先に友達にならなきゃいけない。
それなら僕よりもっと安田さんと接点があって仲の良い男子を選んだ方が賢明じゃなかろうか?
安田さんを好きだと言う男子は少なくない、てゆうかむしろ多い。
安田さんはクラスでも一、二を争う美人と評されており、男子たちは公には出さないけれど狙ってる人は多くいる。
ちなみに一、二を争っているもう一人は、目の前にいる氷室さんだ。
二人はクラスの二大巨頭として男子たちから厚い支持を受けている。
安田さんは可愛い系で包容力が魅力的で、氷室さんは美人系で竹を割ったような性格が人気を呼んでいる。 二人はジャンルが違うだけで一、二を争ってるとは言ったものの好みが分かれているだけの話だ。
そして僕は安田さんの方が好みだった。
ともあれ、安田さんを推す人は決して少なくない筈で、僕なんかよりもよっぽど望みのある人がいる筈なのに、なんでよりにもよって僕を対抗馬として選んだのか。
「望みのありそうな男子はそもそも自分から寧々にアプローチしてるよ。望みを感じてる奴らは大抵、自分に自信がある奴だからね、私が出張らなくても勝手にやってる」
「な、なるほど」
「だから私は好みであんたを推してるの」
「僕を、ねぇ」
こんな僕を。
言っちゃなんだけど、僕は他人に誇れるような事なんてない。
僕の悲観的な考えに、氷室さんは言う。
「私思うんだけどさ、諦めるって必ずしも賢明な判断じゃないと思うんだよね」
「え」
「だってさ、可能性って無限にあるのに諦めるって一つの未来しかないじゃない? あらゆる可能性を捨ててまで諦めるって、賢明な判断なのかなって」
「うーむ」
どうだろう。
「それに、あんたの一人の女子を想い続ける気持ちは、私なら嬉しいと思う」
「そうかな? ストーカーみたいじゃない?」
「そんな事ないよ」
そう言って氷室さんは僕の目をやる。その眼差しはまるで瞳を透過して心に直接訴えかけてくるようだった。
「・・・・・・そっか。でも僕、顔がいい訳でもないし、特技がある訳でもない。普通に考えて安田さんと釣り合う要素なんてない」
「魅力は後から身に付けられるものだよ。確かに寧々はあんたの事、ただのクラスメイトとしか思ってないかもしれないけど、それでもあんたの頑張り次第で気を惹く事は出来るよ。それを、最初から無理だって決めつけて諦めるのは勿体ないよ」
氷室さんの断固とした口調に、僕の心は揺らぐ。
「あんたが寧々に想いを伝えられるようになったら、絶対なにかが変わるよ。だからまずは寧々と仲良くなるところから始めてみない? その為のメソッドも用意する」
「メソッド?」
「別に、そんな難しい事じゃない。誰でも出来る事だよ」
氷室さんは力強く言うので、僕はさらに心が揺さぶられる。
「もしあんたに少しでも寧々を射止めたいって気持ちがあるなら、この機会は逃さない方がいいよ? 私以上に寧々と繋がりある子なんていないんだから」
ダメ押しとばかりに氷室さんはそう言った。
確かに氷室さんの言う通り、安田さんの想いを結実させるなら、このチャンスは逃すべきではない。
でも急な話に、僕は心の準備が出来ていなかった。つい尻込みして、考えてしまう。
でも運をモノにした人って、こういう突然のチャンスを躊躇いもなく飛びつける人の事を言うのかもしれないな。
思いがけないチャンスって、考えている間に消えてしまうのかも。
だとしたら僕は、みすみすチャンスを逃そうとしてるって事だ。
僕は考える――のをやめる。
これもきっと、なにかの縁だ。と思う事にした。
「氷室さん」
僕は意を決する。
「分かった。氷室さんの提案に乗るよ」
すると一瞬の沈黙。
で、最終確認とばかりに氷室さんは訊ねる。
「本当に?」
「うん。氷室さんがそこまで言ってくれてるし、頑張る事は無駄じゃないかなって」
「そっか」
そう言って氷室さんは穏やかな笑みを浮かべる。僕の決断を讃えるような優しい笑みだった。今まで僕をからかってきた小悪魔な微笑とは全く違う表情に大きなギャップを感じた。
「よし、決まりね。朝日、これからあんたの青春、私がプロデュースしてあげる」
氷室さんは力強く言って、僕を鼓舞した。
その声に、僕はなにかが変わりそうな予感がして、胸の昂ぶりを感じた。
§
翌朝、僕は教室に着くと、いつもなら有り得ない事が起きた。
「朝日、おはよう」
教室に入った瞬間、氷室さんと目が合った。そして挨拶をくれたのだ。 彼女の方から言ってくれたから、僕は少しだけ返事がしやすかった。
「おはよう、氷室さん」
それでも僅かによそよそしさのある声音だったのは、氷室さんは友達の輪の中にいて、昨日の放課後とは別人のように思えたからだ。
人見知りする僕を見かねて氷室さんは肩を竦める一方で、僕らの挨拶を見て不思議そうな顔で安田さんが話しかけてくる。
「あれ、零と上里くんって仲良かったっけ? なんか意外~」
今まで氷室さんが僕に挨拶をする事がなかったから、突然のムーブに驚いているようだった。
「そ、そうだね」
「でも、ようやく零も上里くんの魅力が分かったって事かな」
「えっ? それってどういう?」
なになに、僕の魅力って。
「上里くんっていつも名前呼ぶと、パッと振り返るでしょ? その仕草がうちのワンちゃんそっくりなの!」
「わん・・・・・・、ちゃん?」
キラキラと目を輝かせながら言う安田さんに、僕は呆気に取られる。
「そう。上里くん、犬飼った事ない? 名前呼ぶと、すぐに振り返ってこっちに来てくれるの。上里くんを見てるとワンちゃんみたいで可愛いんだよね~」
「それ、褒めてるの・・・・・・?」
「もちろん!」
力強く言われたけれど、なんかそれって男としてどうなんだろう。すごい下に見られてる気がする・・・・・・。いや絶対に下に見られてる。
「ぷっ、ワンちゃんて」
すると氷室さんが堪え切れずに笑う。
「確かに朝日、犬っぽいかも。いい意味でね?」
「いい意味で、って付けたらなんでもオッケーになる訳じゃないよ?」
「いやこれはいい意味だよ上里くん。それに上里くんの髪の毛、フワフワしててワンちゃんの毛並みそっくり」
そう言うと、おもむろに安田さんは僕の頭に手を置く。
「や、安田さんっ?」
そして優しい手付きで僕の頭をゆっくり撫でた。
その手のひらの感触はさながら天にも昇る心地よさで、気を抜けば今にも天に召されそうな勢いだった。
と、その時だった。
「お前らなにしてんの?」
と、声がして振り返ると、そこにいたのは、
「あ、鋼矢くん! おはよ!」
現れたのは大貫くんだった。
彼が現れた途端、安田さんは手を離し、撫でるのをやめた。そして弾むような声で彼の名前を呼ぶ。
安田さんの分かりやすい変わり身に僕は複雑な心境。
「珍しい組み合わせだな。お前らと朝日って」
と、僕を一瞥して大貫くんが言うので、僕は曖昧に頷く。すると安田さんが代わりに言った。
「そうそう、零が上里くんと仲よさそうにしてたから気になって話しかけてたの」
「氷室が?」
大貫くんは氷室さんを一瞥する。
「別に大した事じゃないわよ。たまたま喋る機会があったからそれでちょこっと話しただけ」
「零も上里くんの魅力に気付いたんでしょ?」
「魅力?」
大貫くんが聞き返すから、安田さんが言葉を続けるので、僕はイヤな予感がする。まさかさっきの話を大貫くんにもするつもりじゃ!
すると案の定、安田さんは言った。「上里くんの愛くるしい感じがさ、てワンちゃんっぽくない?」
そう言うと、大貫くんは一瞬ポカンとした顔をした。そして一拍の間の後、フッと鼻で笑う。
「犬て。朝日、お前犬だってよ」
「・・・・・・ッ!」
ぬぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁあぁっぁぁぁぁぁぁぁ!
侮辱するような笑い方に僕は内心で悶絶する。
「寧々、男相手に犬みたいとか、全然褒めてないからな」
「え~なんで? 可愛いじゃん」
「男が可愛いって言われて喜ぶとでも思ってんの? 可愛いなんて、下に見られてんのと一緒だから。な?」
と、大貫くんは僕に同意を求めるので「えーと、まぁ」と曖昧に頷く。 安田さんがいい意味で言ってくれているのは分かるので、そこにネガティブな感想を持ち込みたくない反面、大貫くんの返しに「そんな事ないよ」って返す事で大貫くんとの間に男としての差が開くのを感じて、僕は曖昧な返事に留めた。
すると安田さんは少し残念そうなトーンで「そっかぁ~」と返す。
その声を聞いて僕は申し訳なくなる。いや決して、安田さんにワンちゃんみたいと言われた事は嬉しくない訳じゃない。どんな気持ちであれ安田さんが僕に好意的な気持ちを示してくれているのは喜ばしい事だ。そんな事を言う僕はまさしく従順なワンちゃんだ。
いや、実際片想いしてる人間は従順な犬だ。好きな人の前では絶対服従を誓い、その人の口から自分の名前が聞こえたら過剰に反応してしまう。少しでも気がある仕草を見せられたら期待に胸を膨らませてしまう。 だから安田さんの表現は決して間違いではないのだ。
僕は犬だ。
従順な片想い犬だワン。
「てゆうか寧々、すっごい匂うんだけど」
「え、臭いって事っ?」
不意に大貫くんが言うので、安田さんは動揺する。
「や、臭いんじゃなくて、匂うんだよ。お前、シャンプー変えた?」
「え、当たり! よく分かったね、昨日から違うシャンプーにしたんだ~」
「お前、髪長いからすぐ分かるんだよ」
驚く安田さんに大貫くんは長い黒髪を差して、さらりと言った。
僕全然気付かなかったんだけど・・・・・・。
「なるほどねぇ。で、前のと今、どっちが好き?」
「前の方が好きだったな。匂いキツくなくて」
「え、ウソ」
「あんまり甘い匂い好きじゃないから」
「前は石鹸シャンプーだったからね。でもちょっと髪に合わないから変えたんだけど、そっかぁ。匂いキツいか~」
「別にイヤって訳じゃないけどさ。それに前より艶っぽいからそれはそれでいいんじゃね?」
「本当? じゃあ変えて正解だったかも!」
大貫くんの言葉に逐一表情を変える安田さんに、僕は胸が軋む。
二人の間には、僕にはない親密な関係が漂い、僕にはその匂いこそキツかった。居心地の悪さに僕は適当な嘘を吐いて教室を離れた。
するとすぐに呼び止められる。
振り返ると、「氷室さん、」がいた。
「朝日、大丈夫?」
僕の顔色を見て氷室さんは心配してくれるので、僕は力なく頷く。
「うん」
「さっきはツラかったよね」
「大丈夫、二人が仲良いのは知ってるから」
「朝日」
みたび、氷室さんは呼びかける。
僕は顔を上げると、氷室さんは言った。
「今日の放課後、作戦会議しよ」
「作戦会議?」
急な発言に僕は呆気に取られていると、氷室さんは続けた。
「あんまりうかうかしてられないからね。打倒大貫を目指してうちで作戦会議するよ」
氷室さんは大貫くんの対抗心を煽るようにそう言った。
§
作戦会議は氷室さんの家で行われる事に。
まず、その事に僕はは恐縮する。
僕なんかが氷室さんの家にお呼ばれしていいのかと思ったけれど、氷室さんの家の方が都合がいいとの事だった。なんだろう、都合って。
ともあれ、放課後僕らは氷室宅へ向かう。電車で最寄り駅まで移動。幸い、定期圏内で済んだ。駅から徒歩十分ほど。閑静な住宅街を抜けると、氷室さんのお家があった。
三角屋根に白とグレーの外壁で、モダンな一軒家だ。
門をくぐって敷地を跨ぐと、グッと緊張感が高まる。氷室さんは扉を開けて中へ招く。
「どうぞー」
「お、お邪魔します・・・・・・」
恐るおそる玄関へと足を踏み入れると僕は緊張と高揚感が同時にやって来て、心臓がドリブルしたみたいに飛び跳ねる。
玄関は吹き抜けになっていて、見上げれば高窓がある。すぐ手前には階段と、その隣には渡り廊下が伸びていた。
「私の部屋二階だから」
と言って氷室さんが先に階段を上がる。その際、スカートを覗き込まないように視線を下げると、代わりにスタイルのいい御御足と相まみえた。
氷室さんの足、改めて綺麗だなぁ。 って、なんか氷室さんの足にばかり注目してる気がする。でもそれくらいスタイルがいいのだ。
階段を上る度、力が入るふくらはぎの弾力性に、僕はつい見入ってしまう。
階段を登り切ると、扉が二つあって、手前の部屋が氷室さんの部屋らしい。室内へ招かれると、高鳴る鼓動を押さえつけ、平静を装い足を踏み入れる。――生まれて初めて、女の子の部屋に入る。
室内に踏み入ると、僕はついキョロキョロと辺りを見渡してしまう。
「そんなガツガツ見ないでくれる?」
と、氷室さんから注意を受けて僕は羞恥心を煽られる。
「イスとかないから、クッション敷いて座ってくれる?」
と言われて足元を見ると、淡い水色のクッションが床に敷かれていた。「私飲み物取りに降りるからちょっと待ってて」
そう言って氷室さんはカバンだけ下ろして部屋から出て行った。
「・・・・・・・・・・・・」
一人、取り残される。
「ゴクリ・・・・・・」
いや、落ち着け。冷静になるんだ。こんな事で信用を落とすような事があってはならない。いや別に、なにをしようって訳じゃないけれど。
ひとまず腰を下ろす事にした。
氷室さんに言われた通りクッションに腰掛け正座する。と、つい畏まって正座してしまった。
まぁいい。失礼のないよう、正座を保ったまま僕はジッとその場に留まる――代わりと言ってはなんだけど、視線だけは好奇心を働かせ、走り回る子供のようにあちこち走らせる。
室内を見渡せば、シンプルな枠組みのワーキングデスク、本棚、ベッド、ミニテーブルがあるのみで、色味はシックにまとめられており、随分と落ち着いた内装だった。女の子の部屋としてイメージする淡いパステル調の家具とかぬいぐるみとか、そういった類いのものは全くなかった。趣味嗜好の落ち着いてきた大学生のような佇まいで、クールな氷室さんらしい部屋だ。
すると僕は本棚の上に写真立てが飾ってあるのに気付く。見れば、氷室さんと安田さんのツーショット写真だった。顔を寄せ合い、笑顔で写真を撮る仲睦まじい光景が切り取られていた。
改めて二人は親しい間柄である事を感じる。
「お待たせー」
ややあって、氷室さんがトレイを持って部屋に戻ってきた。トレイの上には大皿にお菓子の小袋が何種類か、そして二人分のグラスが乗せてあった。
「はい、どうぞ。それと、足崩したら?」
「あ、うん・・・・・・」
指摘されて、僕は正座を崩しあぐらを掻く。
氷室さんはトレイをミニテーブルに乗せてから、グラスを僕の側に置いた。
氷が一杯敷かれたコーラがシュワシュワと音を立てて弾けている。
緊張で乾いた喉を潤す為、僕は一口いただく事にした。
「お菓子も好きに食べてね?」
とすかさず氷室さんからの気遣いを受ける。大皿に乗ったお菓子はどれも個包装されたもので、チョコレート、クッキー、マシュマロなどがあった。
氷室さんも床にクッションを敷いて腰掛けると、チョコレートを一つ手に取って口の中に放り込む。
氷室さんが食べている間はなにも喋ってこないから、僕が代わりに沈黙を埋める。
「本棚の上にある写真立て、安田さんとのツーショットだよね?」
「あぁ、あれ? そうそう。二人で遊園地行った時の写真」
「改めて二人とも仲良いんだね」
「中学からの付き合いだけど、しょっちゅう一緒にいたからね」
「へぇ」
「そうだ。中学の卒アルあるけど見てみる? 寧々の中学時代」
「え、いいの?」
「いいよー。でも写真撮るのは禁止ね?」
「や、そこまでしないよ」
心のシャッターを切るだけだ。そして思い出補正してめちゃくちゃいい写真に仕上げてみせる!
氷室さんは本棚からアルバムを取り出すと、テーブルに乗せたお菓子の皿を避けて代わりに置いた。
氷室さんはパラパラとページをめくり、「あった。これこれ」と言う。そこには三年E組のクラスの写真だった。
すると氷室さんより先に僕の方が写真を見つける。
「あ、これ。氷室さんだ」
中学時代の氷室さんを見つけた。
当然だけど、当時より幼い顔立ち。今の氷室さんが大人びたルックスなだけに、コントラストが際立つ。
「氷室さん写真写りいいね」
卒アルの写真って、誰を撮っても野暮ったく見えるけれど、美人はやはり映える。
「私の写真はいいのよ。それよりほら」
照れ隠しなのか、氷室さんは話を逸らして別の写真を指差す。そしてそれが本命、安田さんの写真である。 僕はそれを見た瞬間、
「か、」かわいい~・・・・・・。
つい、本音が溢れそうになった。
当時十五歳の安田さん。まだあかぬけない、あどけない顔立ちがそこにはあった。
「我ながら可愛い友達を持ったものだわ」
と、自画自賛の氷室さん。誇らしげといった感じで言う。
「この時から寧々はモテモテだったからね。クラスの男子から告白を受けた事なんてしょっちゅうあるから」
「へぇ。じゃあ誰かと付き合った事も?」
「や、それはない。ただ、サッカー部に好きな先輩がいておっかけはしてた」
「あ、そうなんだ」
「でもそのサッカー部の先輩がチャラくて。当時から見る目なかったね、寧々は」
「そ、そうなんだ」
「ちなみに朝日は、寧々のどこに惚れたの?」
「え?」
「あんたが寧々の事好きなのは知ってたけど、理由は知らないなと思って」
「べ、別に大した事じゃないよ」
「じゃあ教えてよ」
大した事ないとは言ったけれど、言うのは恥ずかしい。けれど氷室さんにはこれより恥ずかしいものを見せてしまっているので今更隠すのもな。
僕は躊躇いつつも、話す事にした。「去年、グループワークで意見交換する時に、僕が上手く話せなくてグループの人たちをイラつかせてしまった事があったんだけど、その時に安田さんが言ってくれた一言に救われたんだ」
あの時、グループ内に突き刺さる視線や溜め息、腕組みをするクラスメイトの剣呑な雰囲気は居たたまれなかった。
「へぇ。寧々はなんて言ったの?」
「うん――」
しどろもどろになる僕に、安田さんはこう言ったのだ。
『朝日くん、大丈夫だよ。自分のペースで話せばいいんだよ? ほら、落ち着いて』
その時の安田さんの優しい声音と、柔和な微笑は今でも鮮明に覚えている。
安田さんの言葉がその場の剣呑な雰囲気を振り払い、僕に安心感を与えてくれた。
以来、僕は安田さんを意識するようになり、気付けば好きになっていた。
「はは、寧々らしいわ。その言葉」
そう言って氷室さんは笑みを浮かべる。
「僕、つい考える癖があって。それで他の人たちと会話のペースが合わなくて上手くいかない事がよくあったんだけど、安田さんはそんな僕を受け入れてくれたんだ」
「そうなんだ」
すると氷室さんは神妙な顔つきで相槌を打った。かと思えば、
「結構ちゃんとした理由なんだね。てっきり顔が好みとか、おっぱいが大きいからと思ってたよ」
「全然違います」
いや、確かに可愛いしおっぱい大きいのは魅力だけど。
「でもあんたにそれだけ真剣な理由があるなら、寧々も気持ちを伝えられた時、きっと喜ぶよ」
「そうかな」
「そうだよ。だから頑張ろう。その為に今日はここへ呼んだんだから」
「あ、そうだ。そう言えばなんで僕を家に呼んだの」
遅蒔きながら僕は訊ねる。
すると氷室さんは切り替えて言う。「打倒大貫に向けて、あんたを魅力的にするアドバイスを教える為よ」
氷室さんは高らかと宣言した。
開始のゴングが今、鳴り響いた。
§
――打倒大貫くん。
言葉にすると無理難題感がすごい。 そして僕を魅力的にするアドバイスとはなんだ。
「そんなに身構える事ないわよ? これから私が教えるアドバイスはそんなに難しい事じゃないから」
僕の内心を気遣ってか、氷室さんはハードルを落とすように言った。
「私が伝えるアドバイスは、女子目線から見た理想の男性像に近付く為のものよ」
「女子目線、ですか」
「男子の思う女ウケと、女子の思う女ウケは当然、違うからね。無駄な努力を避けて、最短ルートで寧々に振り向いてもらえるようにする」
「な、なるほど」
「で、さっき言ったけど、これからあんたに伝えるアドバイスは二つ。まず一つ目だけど」
そう言って氷室さんは右手を出して人差し指を立てた。
「まず一つ目は――身だしなみを整える事」
と言った。
「身だしなみ、ですか」
聞いた途端、拍子抜けというか、それがアドバイス?
「侮るなかれ。女子は男子の身だしなみには注意を払ってるのよ? 髪がボサボサだったり、肌が荒れてたり、手が汚かったり、靴が汚れてたり、服がヨレヨレだったりしてたら、そりゃ最悪ね。減点、どころじゃないわ。幻滅ね」
「そ、そんなに・・・・・・?」
そんなの、意識した事なかったよ・・・・・・。という事はつまり僕は、知らぬ間に幻滅されていた可能性があったって事か?
「男子って、モテる為に髪型を気にしたり服装を気にしたり、筋トレしたりするけど、同じ見た目に気を配るにしても、そういう身だしなみに対する意識って希薄なのよねぇ。男らしさを主張するのはいいんだけど、清潔感がなかったら意味ないから」
氷室さんは手厳しい指摘を入れる。 確かにそれは、女子目線というか、僕もどちらかと言えば、女の子にモテる為には格好良く見せる必要があるとばかり思っていたから、身だしなみについての意識は希薄だった。
「髪型とか服装とか、身体付きって、目がいくし分かりやすいから皆飛びつきやすいのよね。身だしなみって、言っても皆、大差ないし分かりづらい指標ではあるから」
皆同じ制服姿だし、上靴だって同じくらい履き潰すし、十代の髪質や肌質に大きな違いは現れない。
「でもだからって蔑ろにしていい訳じゃない。だからあんたには、身だしなみをキッチリ整えてもらうわ」
「僕、そんなにだらしないかな・・・・・・?」
その言い方だと、悪いみたいな感じに聞こえるんだけど。
「徹底するって事よ」
僕の不安を取り除くように、そう補足する。
「で二つ目なんだけど、それはコミュ力」
「それは・・・・・・」
コミュ力――コミュニケーション能力。
人と交わる上で、もっとも重要な能力――そして、僕にもっとも欠如してる能力・・・・・・。
「女子はね、話を聞いてくれる人が好きなのよ。お喋り好きだから。だからコミュ力とは言ったけど、厳密には『聞き上手』になる事」
「聞き上手・・・・・・」
「聞き上手はコミュ力の中でも、相当技術のいる事だからね。でも聞き上手になれたら、かなりアピールになるよ。人は話を聞くより、話す方がコミュニケーションの満足度は高いから」
「なるほど」
難しい課題だけど、でも説得力のある話に、僕は神妙に頷く。
「てな訳で、あんたには主にこの二つの取り組みを実践してもらうわ」
「頑張ります・・・・・・」
当然不安はあるけれど、とくにコミュ力を鍛える、聞き上手になるのなんかはすごく難しそうだ。
でも、容姿で劣る以上、別の所で魅力を作るしかない。
氷室さんは、身だしなみとコミュ力に活路を見出したという事は、そこには少なくとも勝機がある筈なのだ。
だから僕は信じる。氷室さんの示す道が、勝ち筋であると。
「で、今日は一つ目の身だしなみを整える具体的な方法について教えるわね?」
「よろしくお願いします」
これからマンツーマン指導が始まるのかと思うと緊張だ。
「あんたにやってもらいたいのは主に四つ」
「四つも・・・・・・?」
「異論は認めない」
「はい・・・・・・」そりゃそうだ。
で。
その四項目というのが、これだった。
一つ目――アイロン掛けする事。 二つ目――靴を手入れする事。
三つ目――スキンケアをする事。
四つ目――ネイルケアをする事。
「計四点を行うのが、あんたの課題よ」
滔々とした語り口で氷室さんは言う。しかし、最後の課題に、僕は疑問符が浮かぶ。
「え、ネイルケア?」
なんか色々あるけど、最後のネイルケアっていうのがよく分からないんだけど・・・・・・。
「ネイルって、女の人がするものじゃないの?」
「それ、マニキュアと勘違いしてるんじゃない? 私が言ってるのはネイルケア――爪。指先のケアをちゃんとしないさいって事。ちょっと見せてみ?」
「え?」
僕が答えるより先に、断りもなく僕の手を掴んでグイッと引っ張る。そしてマジマジと僕の指先に視線を巡らす。
「あら、意外と綺麗な指してるじゃない」
「ど、どうも・・・・・・」
指が綺麗だなんて褒められた事がないから、どう反応していいものか。それに、そんな末端を褒められても、さして僕の魅力が増す訳でもなかろう。
「意外と女子は、指先見てるよ。ワックスなんかで爪の間が黒くなってたらもう最悪ね。減点、どころじゃないわ。幻滅ね」
そんなに・・・・・・。
僕はワックスをしないのでそんな事はないけれど女の子って細かいところまで見てるなぁ。
「だからネイルケアはちゃんとした方がいいよ。大丈夫、そんな難しい事じゃないから。爪切りの代わりにすればいいだけだし」
「でもなんか、ネイルって言われると、どうにも男子がするイメージがないっていうか。変に男が爪が綺麗だったらかえって気持ち悪がられないかな?」
「昔はスキンケアだって男はしてなかったけど、今では当たり前にするでしょ?」
「そうだね」
「今はそういうの当たり前の時代になってるの。それに寧々も指先綺麗な男子の方が清潔感あっていいって言ってたよ」
「本当にっ? じゃあやろうかな」
「あんた、現金にもほどがあるでしょ・・・・・・。まぁいいわ。という訳でまず始めにネイルケアから始めよう。――ちょっと待ってて?」
「?」
言うが早いか、氷室さんは立ち上がると、クローゼットを開け、なにやらケースを取り出して、再び座り直した。そしてケースの中から、色々取り出すではないか。
「ネイルケアに必要な物として――爪やすり、プッシャー、キューティクルニッパー、バッファー、ネイルオイル、ハンドクリーム――っと。ザッとこんなものね」
ミニテーブルにザッと並べられたアイテムは、僕にはほとんど面識のないものだった。
一体なにに使うか想像もつかないようなものまである。
「ま、今回使うのは爪やすりとバッファー、ネイルオイル、ハンドクリームだけ。このプッシャーとキューティクルニッパーは甘皮を取るのに使うんだけど男子でそこまでする必要ないから」
「てゆうか、その・・・・・・プッシャー? 耳かきみたいなの・・・・・・一体なにに使うの?」
僕が拷問器具のようだと思ったそれ・・・・・・どんな使い方をするのか皆目見当も付かない。
「あぁ、これ? ちょっと手、出してみ?」
「え?」
「いいから。ほら、早く」
「う、ぅん」
乗り気がしないけれど、ちゃんとした用途があるに違いないので、そう怖がり過ぎる事はないだろう。
僕は手の甲を上にして、彼女の前に差し出した。そしたら氷室さんは僕の人差し指を掴んで、右手で持ったプッシャーと呼ばれるアイテムを、爪の根元と皮の間に差し挟んだ。そしてグイグイとプッシャーの先端を隙間に押しつけてくる・・・・・・ってゆうかぁっ、
「痛いたいたいたいたいたい!」
な、なにするのっっっ?
突然の痛みに、僕は思わず手を引っ込めた。すると、
「ははは、ごめんごめん。そんなに痛かった?」
とか、全然真に受けてない様子で、ケラケラ笑ってる。ケラケラ笑ってる!
「いや、ははは! じゃないよ! なにそれ、やっぱり拷問器具っ? 超痛い!」
「やっぱりってなによ。そんな訳ないでしょ」
言いながら、尚も笑ってる。いや、本当笑い事じゃないんですけど! 滅茶苦茶痛かったんですけど!
「ごめんごめん。本当はこれ、ちゃんと指をふやかしてからやるんだ。皮が固いままやったら、そりゃ痛いよね」
分かっててやったのか? 確信的犯行じゃないか・・・・・・悪魔かよ。
「プッシャーっていうのはね、甘皮を取り除くのに使うアイテムの一つなの。爪の根元に貼り付いてる薄い皮が、甘皮って言うんだけど・・・・・・」
おもむろに、氷室さんが僕の手を掴もうとする。
「っ! させないよっっ?」
咄嗟に半身になって、魔の手から逃れ、僕は声を上げると、氷室さんは呆気に取られた。
「いや、じゃなくて説明しようとしただけなんだけど」
その手には乗らない。二の舞は御免だ。
「そんなに痛かった? ごめんて。もうしないから」
僕の本気の警戒を見て氷室さんは申し訳なさそうに、少し声を落とすので、僕はそこでようやく警戒を解く。
全く。僕をからかうのもほどほどにして欲しい。いや、そもそもからかうのやめてよ。
まぁともあれ、気を取り直して、「じゃあ、今からやってくね? ――今回私が教えるのは、爪やすりの使い方と、バッファーの使い方。で、保湿」
言って、氷室さんはミニテーブルに並べたアイテムのうち、使わないものをケースに仕舞って必要なものだけを残した。
残ったアイテムは四つ。
爪やすりとバッファー、ネイルオイルにハンドクリーム。
まるでユーチューブ撮影でもしてるかのように、一つひとつアイテムの名前を紹介していく。
それぞれのアイテムは、おおよそ使い方は想像に難くない。本当にあれだけだ、プッシャーとかいう拷問器具だけがまるで意味が分からない。あんなものの必要性が一体どこにあるというんだ。
「でもその、爪やすりとバッファー? ってなんか同じに見えるけど、どう違うの?」
パッと見、同じアイテムにしか見えない。
「やすりの粗さが違って、それぞれに用途があるの。爪やすりは、爪の長さと形を整える為、バッファーは爪の表面のでこぼこを平らに均す為のものだよ」
「へー」
確かに、爪やすりの方は、目が粗く、ザラザラしてる。バッファーの方が少し目が細かい。
「じゃあ、始めるから手出して」
「さっきみたいな事しないでね?」
念の為、先に言質を取ると、氷室さんは「分かってるって」と軽い返事。本当、分かってるんだろうな?
僕はおずおずと手を差し出すと、まずは親指からやすりに掛けるようで、彼女の白くほっそりした指が、僕の親指を掴んで、持ちやすい位置を探る。
他人に指を弄ばれるのは、なんだかこそばゆく、ついモゾモゾと手を動かしてしまう。
すると氷室さんは「動かないで」と言って掴む力を上げてがっしりホールドしてくる。「すみません・・・・・・」僕はモゾモゾする感覚を我慢しながら、無抵抗に努める。
持ちやすい位置を見つけると、氷室さんはもう片方の手で爪やすりを持って、親指の爪にやすりを当てていく。
「やすりに掛ける時は、爪との角度を四十五度にして、力加減はほどほどにね」
やり方を説明しながら、手慣れた様子で爪を整えていく氷室さん。
つい先日に爪を切ったばかりなので、そこまで時間を掛ける事なく、今度は人差し指に移る。
ザラザラザラ、と一定のリズムでやすりが掛けられる。手慣れた様子で、またすぐに人差し指を終えると、また次、とテンポよくやすりを掛けていき、その様子を見るに、随分と手慣れているのが見て取れる。
けれど、決して雑な訳でなく、ちゃんと一本いっぽん丁寧にやすりを掛けているので、仕上がりはいいように思う。
氷室さんは手元に集中し、喋る気配がなさそうなので、自然僕も、手元に意識が向く――彼女の指先に意識が向く。透明感のある肌感に、細く長い指には、自然と目を惹いた。
男にはない、色気のようなものが、氷室さんの指からは感じられて、艶めかしい印象を与える。
しばし沈黙が続く。
あまりにも集中してるものだから、音を立てないよう息を潜めてしまう。少し呼吸が苦しい。
それを見かねて氷室さんは、「無音だとやりづらいね。音楽掛けようか」と、僕の気持ちを察してくれる。
そして、自分のスマホを取り出し、音楽アプリから選曲し始めた。
「私の好きなのでもいい?」と聞かれたので「いいよ」と答えると、「ちなみに朝日は、普段どんな音楽聴いてるの?」と、話題を広げる。
「アニソンとかボカロとか」
「アニソンか。て事は朝日、アニメ観るの?」
「うん、中学の時にハマって以来、結構観るようになったね」
「そうなんだ。寧々もアニメ好きだよ。私は観ないからそんなに話付き合えないんだけど。今度それとなく話題振るから寧々と話してみなよ」
「え、本当に? でも出来るかな・・・・・・」
「大丈夫、寧々結構オタクだから。アニメの話題振ったらすぐ飛びつくよ」
「そうなんだ」
でも意外だ。安田さんもアニメとか観るんだなぁ。
氷室さんはアニメを話題にしたからか、最近流行りのアニソンを流した。
「ふん、ふふん~」
氷室さんは機嫌よさそうに鼻歌を奏でる。なんだか気を許されているみたいで少し嬉しい。
音楽に間を埋めてもらい、ネイルケアを受けていると、あれよあれよと言う間に小指まで到達していて、五指全てを磨き終えると、
「ふぅ」
と一息吐く氷室さん。
僕は左右の手を見比べて、ビフォーアフターを確認すると、一目瞭然、という四字熟語がピタリとハマる。
やすりで整えてもらった爪は角が取れ、滑らかなカーブを描いていた。「いつも爪切りで切る時は角が立つんだけど、やすりでやると見た目が全然違うね」
「爪を切る時、爪切り使ってるならやすりに変えた方がいいよ。爪切りだと衝撃が強くて負荷が掛かるから」
「へぇ、気にした事なかったや」
「さ、もう片方もやるから、手貸して」
一休みするとすぐに作業に移ると、もう片方の指もさっきと同じ要領でテキパキとやすりを掛け、見事な仕事ぶりを見せる。
瞬く間に、全ての指をやすりに掛け終えると、一息吐く間もなく氷室さんは道具を取り替える。今度は爪の表面を、バッファーと呼ばれるアイテムで均していく。
バッファーと呼ばれるアイテムは、やすりと違って弾力があって、さっきみたくザラザラした感触はない。ザラザラというか、ゴシゴシみたいな感じだ。
爪の表面のでこぼこを平らにするアイテム、とさっき氷室さんが言ってたけど、そもそも爪がでこぼこしてる事すら知らなかったので、いざバッファーを体験してみると、ビフォーとアフターの違いに驚きを禁じ得ない。
「綺麗・・・・・・これ本当に私?」
「初めて化粧したみたいなリアクションしてんじゃないよ」
ノリのいい事。
それはさておき、
「すごいね、ちょっとの違いなのにちゃんと綺麗になってるのが分かるよ」
「これがネイルケアですよ」
なぜか誇らしげな氷室さん。でも確かに、結果に現れると凄さが分かる。
「それに、思ってるよりもさり気ない感じだし、これなら全然平気かも」
男のくせに指がピカピカしてたら気持ち悪がられるかなとかって思っていたけど、さり気ないし、それでいて綺麗に見えるからこれであれば続けてもよさそうだ。
「後は保湿ね? 爪にはネイルオイル。手全体にはハンドクリームを塗るまでが一連の流れだから」
そう言って、氷室さんはネイルオイルを取り出し、キャップを捻る。キャップ自体がブラシになっていて、オイルの浸ったブラシを爪の表面に塗り始める。それを十本全て塗り終えると、今度は氷室さんが直に、指の腹で僕の爪に付いたオイルを広げ、馴染ませていく。
・・・・・・なんか、別にそんなんじゃないのに、いかがわしい事をされているような気持ちになるのはなぜかしらん?
直に触れられていると、指の感触や動きが生々しく伝わってくる。ネイルオイルで滑りがよくなっている事から、氷室さんの指使いは、さながら口内で飴玉を転がす舌のようなうねりがあって、その巧みな指使いに僕は、どうにもこうにも居たたまれない気持ちになってしまう。
僕の心拍は、トクトクトク、とまるでとっくりで酒を注ぐみたいに小気味よく鳴り響いて拍動を早める。
氷室さんの指遣い、これはR指定だ。
僕は翻弄されながらも、なんとか平静を取り繕い、石仏と化する。
するとやがて、氷室さんは作業を終えていたので、僕は石化を解く。
「ハンドクリームは自分で出来るでしょ」
そう言って氷室さんは、ハンドクリームのフタを開けて、差し出すので、人差し指で適量を掬い取った。それを手のひらで馴染ませ、全体に塗りたくる。
これでようやく、全ての工程が終わった訳だ。
「これを、出来れば週に一回。お風呂の後にするのが一番いいわね。あ、保湿に関しては毎日しても大丈夫だけどね。あくまで爪を整えるのは、週に一回程度。あまりやり過ぎるとかえってよくないから」
「なるほど」
「って言っても、道具がないと出来ないよね。爪やすりとバッファーは予備で新しいのあるからあげるとして、ネイルオイルとハンドクリームね。流石にハンドクリームは家にある?」
「あると思う。多分。使った事ないから分からないけど」
「じゃあ。後はネイルオイルも渡しとく。ストック分あるし」
「こんなにもらっていいの?」
「うん、全部で一万円」
「お金取るのっ?」
「嘘だって。全部あげる」
「え、でも本当に?」
「うん。そんな高いものじゃないし。それに、ネイル用品とか買うの恥ずかしいでしょ?」
「それは、まぁ」
「それ全部あげるから、その代わりちゃんとやってね?」
「分かった、ありがとう」
――その後も、氷室さんのレクチャーは続き、アイロン掛けや靴磨き、スキンケアについても、細かに教えてもらう。
それが終わる頃には、帰宅するにはもうすっかりいい時間になっていた。
そろそろお暇させてもらおうと声を掛けると、氷室さんは「もうこんな時間」と呟く。
「という訳だから、僕はそろそろ帰るよ」
「あ、そうだ朝日」
荷物を取りに戻ろうとしたところで氷室さんから呼び止められるので、振り返ると、
「あのさ、今週の土日休みって暇?」
「え、なんで?」
思いがけない質問に呆気に取られると、氷室さんは苦笑した。
「なんで、って事はないでしょ。用事がないなら買い物に行かない? あんた、洗顔セットとか靴磨きの道具とか持ってないって言ってたでしょ?」
「あー、でもそれなら自分で買いに行けるから大丈夫だよ」
「いや、買い物と一緒に二つ目の課題もあんたに教えておきたいからさ」
「あぁ、そう言えばあったね」
コミュ力を鍛えるっていう。今日色々教えてもらってやった気になって忘れてた。
「という訳で休みの日、空いてる?」
「うん、それは・・・・・・」愚問というものだ。友達のいない僕に土日が空いてないという事はほとんどない。たまに親と買い物やら食事に行くくらいだ。
「空いてるのね?」
「空いてますけど。たまたまね」
「じゃあ決まり。そしたら連絡先も交換しとこう」
流れるように次々と展開が繰り広げられる。氷室さんはポケットからスマホを取り出すので、僕もそれに倣う。
「あ」
しかしすぐにハッとする。
僕のラインのアイコン、アニメキャラにしてるんだ・・・・・・。
アイコンをアニメキャラにしてるとか、モテない男子の典型だ。氷室さんに見られたら十中八九、九分九厘、からかわれるに違いない。これまでの経験則から僕は予測する。
僕は慌ててアイコンを変えようとすると、ここでまたしても、氷室さんからちょっかいが入る。
「なに、どうしたの? もしかして、人に見せられないアイコンにでも設定してるの?」
と言って冷やかしてくる。
「し、してないよ・・・・・・」
「別にいいんだよ? アイコンがアニメキャラとかでも、私は気にしないよ」
なんで分かるのっ? 氷室さん、心の中覗けるのか・・・・・・?
「それより早く交換しよ。はい、QRコード読み込んで?」
氷室さんは素早い操作で準備を済ませてしまう。アイコンを変える時間がない!
やむなく僕はアイコンを変えるのを諦め、QRコードを読み込んだ。
すると『Rei』とアルファベット表記された氷室さんの名前と氷室さんの自撮りアイコンが表示されていた。
アイコンをタップしてトーク画面に移ると、適当にスタンプを押して送信。これで僕のアカウントが氷室さんに送られた。
すぐさまスマホに通知音が鳴り、氷室さんは画面を覗き込むと、途端、ニヤリと笑みを浮かべる。
「やっぱりアニメのアイコン気にしてたんじゃん」
「そんな風にイジってくるからイヤだったんだよ・・・・・・」
「別にアニメアイコンな事はイジってないよ。それを隠そうとするあんたをイジってるだけで」
「どっちでも同じだよ!」
「てゆうか、このキャラクター寧々そっくりだね? 黒髪ロングで清楚っぽい感じ。それと胸大っきいし」
僕がアイコンにしているのは、今季一番アツいと言われているラブコメ『僕をキケンに晒す奴』のヒロインだ。
この作品の主人公はヒロインの事が好きなのだけど、好きという概念を理解してないばかりに恋のドキドキを心臓発作と誤解して、自分を苦しめるヒロインに敵意を抱き、そして命を脅かす存在として暗殺を目論む。けれどそれはことごとく失敗に終わり、そしてある時、自分のドキドキが恋によるものだと自覚した時、物語は一気に動き出す。
この作品のヒロインは美人で気立てがよく、誰にでも優しいクラスの人気者。確かに安田さんに通ずるところはある。けれど、そういう属性はアニメや漫画ではありがちだ。
「そういう絵に描いたキャラはアニメによくいるから」
「ふうん。でもこういう女の子は好きなんだね? 清楚で髪の長い女の子」
「まぁ、短いより長い方がいいかな。や、別に氷室さんがイヤだって訳じゃなくて」
「分かってるし。てか別にあんたにどう思われても気にしないし」
「ですよね」
僕の評価なんて吹けば飛ぶような軽くて薄っぺらいものだろう。そうさ、所詮僕は底辺中の底辺、陰キャオブ陰キャなのさ。自分で言って悲しくなるよ。
さて。
連絡先も交換したし、今度こそ帰ろう。
僕は言うと、氷室さんは「玄関まで送るよ」と言って付いてきてくれる。
玄関に着くと、ローファーに履き替える。すると不意に横から「靴べら」と呼ばれる。
いや確かに僕は痩せてるけど、靴べらほどではないよ?
僕は振り返り、氷室さんに視線を向けると、すぐ側に靴べらがあった。「使いなよ」そう言って氷室さんが差し出してくる。
あぁ、そういう・・・・・・。
てゆうか普通、そういう意味だよ。弄られ過ぎて、センサーがバカになってしまったか、てっきり氷室さんが雑なボケをかましてきたのかと思った。
「そんな風に指を入れて履いたらかかとが変形するから。それに履き方が格好悪い」
「あ、はい・・・・・・」
細かい所作まで見てるなぁ・・・・・・。
「身だしなみも大事だけど、所作も大事だからね?」
「でも、学校では靴べら持っていけないよね?」
「携帯用の靴べらあるから。百均でも売ってるでしょ」
「そうなの?」
それは知らなんだ。
「そういうところには気を配った方がいいよ。目を養う意味でもね」
「はぁ」
なんかよく分からないけど、とりあえず気をつける事にする。
帰り際にまで指導を受ける事になるとは思わなかったけれど、今度こそ僕はお暇する。
「気をつけてね?」
区切りを付けて、氷室さんがそう一声掛けるので、僕は軽く会釈して、「お邪魔しました」加えて、「また明日」そしたら氷室さんははにかみながら「明日」とだけ呟く。
その言葉の響きに、妙な感慨を抱きつつ、僕は氷室さん宅を後にする。
§
土曜日に氷室さんと買い物に出掛けるので、その際に着ていく服を見繕う事にした僕はしかし、慣れない作業に悪戦苦闘を強いられた。
『明日の私服は、ちゃんと選ぶように』
というお達しを受けての事だったが、別にデートをする訳でもあるまいに服装に気を遣う必要が果たしてあるのかと思ったけど、もしかしたらあるかもしれない未来のデートに備えて僕のファッション能力を見極めたいのかもしれない。
そう思うと身が引き締まるけれど、あいにく僕はファッションには疎く、ハッキリ言って服に興味なんてなかった。
親に任せて買ってもらっているので、基本ユニクロとかしまむらとかだ。異性ウケのいい洋服とか全然分からない。そもそも、親に買ってきてもらった服の中に、果たして異性ウケのする服があるのかも定かではない。
結局悩んだ末に、僕が一番気に入っている組み合わせにする事にした。 半袖のパーカーに黒のスキニーパンツ、スニーカー。
そしてバッグは、買い物するから、少し大きめのショルダーバッグにしよう。
これで準備万端。
最後に持ち物チェックをして、忘れ物がないのを確認してから、明日に備えて、今日は早い目に就寝する。 この後、緊張して寝付けなかった事は氷室さんに内緒で。




