2 聖女疑惑と嘴《くちばし》の攻撃性について
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執務室にはエミリアーナと姉のアンネローゼ、父親のレンブラントが揃っていた。
タタタタタッ
誰かが廊下を走る音が段々と大きくなる。忙しなく執務室の扉をノックする音が、部屋の中に響いた。
「坊ちゃま、お待ちください!」
「し、失礼します!」
護衛の慌てた声が聞こえてくる。ノックの返事を待たずに扉が開き、藍色の可愛らしい瞳がそっと中を覗いた。
「……相手の返事を聞いてから扉を開きなさい、アッシュ」
レンブラントは苦笑しながら、やんわりと息子を窘める。
「ご、ごめんなさい。あの……エミィ姉様にお話があるの」
父親の言葉に彼はおどおどしながら、縋り付くような目でエミリアーナの方を見る。
その瞳は今にも涙がこぼれ落ちてしまいそうなほど潤み、周りは赤く腫れていた。
「旦那様、お仕事中申し訳ございません」
「ああ、もうよい、よい」
ぜぇぜぇと息を切らしながら慌てて頭を下げる従者に、レンブラントは軽く手を上げ頷いた。
「アッシュ、何があったの?」
「アイビスがっ、急に元気がなくなってグッタリしてしまったの!」
エミリアーナが悲しそうな顔をしている弟に優しく問いかけると、彼は焦ったように早口で話す。
アイビスとは先日庭で助けた鳥の名前で、名付け親はアッシュだ。
「お父様、どうしましょう?」
仕事を中断するのにレンブラントの了解を得るため、彼女は父親の方をそっと見上げた。
彼は一息つきながら、手をヒラヒラと彼女の方に振る。
「少し休憩するか。エミィ、行ってやりなさい」
「分かりました、では行ってきます。アッシュ、案内して?」
エミリアーナはサッと椅子から立ち上がると、前を走る弟の後を追いかけてアイビスのいる部屋へ向かった。
◇◆◇◇◆◇
「アイビス、目を開けて!」
アッシュが必死に呼びかけてみるが、全く反応がない。座り込んで目を閉じた姿は、まるで精巧な彫刻のようだ。
艶の無くなった羽が妙に生々しく、その冷たさを感じとってしまうのが恐ろしくて、エミリアーナは触れるのをためらった。
「どうしよう、どうしたらいい? 姉様……」
彼は彼女のドレスの裾を強く掴みながら、不安そうな顔で彼女をじっと見つめている。
エミリアーナは弟を落ち着かせようと、小さな頭を優しく撫でた。
「朝はぼくがあげたご飯を食べていたのに、急に元気がなくなっちゃったんだ」
「そう……。獣医の先生は? 誰か連絡してくれたかしら?」
悲しそうに藍色の瞳を伏せながら呟くアッシュを、彼女はぎゅっと抱きしめる。
使用人のひとりが申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご連絡致しましたが、丁度出払っていらっしゃるようでして……」
「そう、それでは仕方ないわね」
頼みの綱が切れてしまっては、素人の彼女達にはどうすることもできない。
エミリアーナはためらいながらも、そっとアイビスの身体に触れた。
「ぼくがいい子にしてなかったから。女神様がぼくの代わりに、アイビスに罰を……」
「アッシュ。そんな事は決してないわ」
小さな友達のために何にもできない自分を、彼はもどかしく感じているようだ。ついに声を上げて泣き出してしまった。
「毎日、アイビスを助けてくださいってお祈りする!
……嫌いな野菜を、内緒で少なくしてもらってたのも止める。だから女神様アイビスを助けてくださいっ」
エミリアーナは思いがけなく知ってしまった秘密に驚いたが、必死なアッシュと共に目を閉じて女神に祈る。
彼女は猛スピードで空を元気に飛び回る、アイビスの姿を思い浮かべた。
ふいに胸の辺りが熱くなったような気がして、片手で胸元を押さえる。それと同時にアイビスに触れている手が突然光を放った。
ピピピッー!という鳴き声と手の痛みに目を開くと、彼女の手の甲はアイビスの嘴による猛攻撃を受けていた。
「痛っ! 痛いわアイビス!」
「姉様、姉様っ! アイビスが元気になってるよっ!」
アッシュが光に驚いてまん丸な目をさらに見開き、大きな声を出した。
アイビスはその声に触発されたのか、エミリアーナの手の皮膚を器用に嘴で挟むと、頭をクルッと回転し捻りあげる。
「いっ! 痛っ!」
「姉様! 大丈夫!? こらっ、アイビス駄目だよっ!」
今にも死にそうな程大人しかったのが嘘のように、アイビスは立ち上がると部屋の高い場所へ慌てて飛び立った。
自分の手の平から放たれた光と初めての強烈な痛みに、呆然と立ち尽くしているエミリアーナ。
「嘴で摘ままれると、あんなに痛いのね……」
「エミィ姉様?」
アッシュは手を摩りながら、恨めしそうにアイビスを見る姉の手の平を見つめていた。
◇◆◇◇◆◇
その日の午後エミリアーナとアッシュは、両親と共に執務室のソファに座っていた。
リリーが入れてくれた香茶の良い香りが、部屋の中にふんわりと香る。
「エミィ、詳しく話してみてくれ」
レンブラントはエミリアーナに優しく声をかける。
未だに呆然としていたエミリアーナは、ハッと我に返り姿勢を正した。
「詳しくと言ってもアイビスの怪我が良くなるように、女神様に祈っただけです」
「その時に何か身体に変化があったりしたかい?」
「……胸元の辺りが少し熱くなった気がしました。身体の中を何かが流れるような感覚もです。
そのあとアイビスに触れていた手の平が光を放ちました。かなり攻撃されましたけど……」
彼女は思い出しながら、手の甲を摩っている。
「姉様の手の平がぱあって光って、アイビスが凄く元気になったんだよ」
隣から聞こえる可愛らしい声は、得意げなアッシュだ。モグモグと口を動かしながら、目の前のお菓子に夢中だった。
「そうか、ふむ……。手の方は大丈夫か?」
「はい、あんなに痛いとは思いませんでした。少し血が滲んでしまって」
すぐにリリーに手当してもらったので血は止まったが、くっきりと小さな三角の跡がついた手の甲が痛々しい。
目の前の菓子を頬張る息子を眺めながら、レンブラントは何やら考え込んでいる。
しばらくすると、彼は決意したように顔を上げた。
「明日、神殿の司教様に相談してみよう。念のため口外しないように、いいね?
セバスチャン、屋敷の者にも徹底してくれ」
何だか大変な事態になったような予感がして、エミリアーナとアッシュは無言でコクコクと頷く。
一抹の不安が彼女の胸をよぎった。
「畏まりました。では急ぎますので失礼致します」
「ああ、頼んだよ」
セバスチャンは恭しく頭を下げ、静かに部屋から出て行った。
両親は一大事に黙り込んでしまったふたりに気付き、表情を和らげるとソファから立ち上がる。
「今日はもう疲れただろう? 夕食までもう少し時間があるから、ふたり共部屋でゆっくりしなさい」
リリーと共に自室へ戻ったエミリアーナは、ソファにもたれかかる。
「お嬢様。何かご用意致しますか?」
「……ああ。いえ、いいわ。……少しひとりにしてもらえるかしら?」
聞いているようでそうでもなく、彼女はどこか上の空だった。
リリーが退室すると彼女は鏡の前に立ち、鎖骨の下のアザを確認するため胸元を覗き込んだ。
これは両親と共に馬車の事故にあった際、できてしまったらしい。
小さな頃の事なので記憶には無かったが。
「こうやって……。アイビスを助けてくださいって女神様にお願いしたのよね」
彼女は片手を目の前に差し出すと、うーんと唸るが何も起こらない。
攻撃された方の手も試してはみるが、特に何の成果も無かった。ふと気づけば窓の外は薄暗くなっている。
エミリアーナは、扉をノックする音で振り返った。
アッシュは今度は返事を確認してから、薄く扉を開けるとこちらを覗き込んだ。
「エミィ姉様。入ってもいい?」
「ええ、いいわよ。そこに座って。何か飲む?」
「ううん、いいの」
アッシュは従者に廊下で待っているように言うと、ちょこんとソファに腰掛け足をブラブラさせた。
「アイビスのこと?」
「うん。姉様ありがとう」
「まだ私が治したとは決まっていないわよ?」
「だって姉様の手の平が光ったらあんなに元気になったんだよ? きっと姉様は聖女様なんだ」
エミリアーナは、アッシュの隣に座ると彼の言葉に少し戸惑う。自身もその可能性に思い至らなかったわけではなかった。
「でも今までは何も無かったのよ? まだ聖女かどうか分からないわ」
「ぼく、姉様が聖女様だったら嬉しいな」
「そうなの? どうしてかしら?」
「だってティオナ様みたいに、病気の人を沢山治してあげられるでしょ。そしたら姉様は人気者になるよ。
ぼく、お友達の中でも小さい方だから、あんまり遊んでもらえないんだ。
だから、姉様が聖女様だったら自慢するの! きっとみんな羨ましがって、ぼくと仲良くしてくれるはずだよ」
「ふふふ。それは壮大な計画ね?」
エミリアーナは案外強かな弟の頭に顔を寄せる。
「アッシュは今からどんどん大きくなって、すぐに人気者になるわ。こんなに可愛いんですもの」
「ぼく、可愛いよりお父様やゼンみたいに強くなりたい! 聖女になった姉様と、この家のみんなを守ってあげる」
「それはとても楽しみね。期待してるわよ、アッシュ」
「うん、任せてよ!」
元気な返事が返ってきた。
「あら? そろそろ夕食ですって。それじゃあ行きましょうか」
彼女はリリーが知らせにきたので、アッシュと手を繋いで部屋を出る。
2日後エミリアーナは父親やリリーと一緒に、護衛に守られながら神殿へと向かっていた。
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