1 俺は妹に嫌われていないと思いたい
「んっ…。」
振り向きざま、不意に唇に感触が伝わってきた。
温かく、どこか柔らかい感触。
鼻腔をくすぐるその香りはどこか覚えのあるもので、懐かしい。
昔はひどく近くにあった。
そんな気がした。
視線を落とすと、夕日に照らされた綺麗な長い黒髪が目に入る。
いつか触れていたそれ。
ぎゅっと閉じられた瞳の色まで、美しさを感じるほどの漆黒だと知っている。
華奢な肩はどこか震えていて、思わずそっと手を添えようとしたその時…。
「…ぷはっ……。」
唇が離れ、息が漏れた。
俺の口から自然と言葉がでた。
「…美波…なんで…。」
…こんなことを?
その言葉は口から出なかった。
「…ごめん、兄さん。」
そう口にして、逃げ去る春香辰巳の義妹である春香美波の手を掴んだ。
―
春香辰巳は幼くして片親を亡くしていた。
死んだのは母親で、記憶にすらない。
写真に写る姿。
それだけが思い出で、腕の中で抱かれている赤ん坊が辰巳だと言われてもなんとも実感がなかった。
父親が俺が小学校に入るころには再婚したことが理由としては大きいのだろう。
別段、辰巳の情が薄い訳では無い。
辰巳にとって、母親は父親の再婚相手の美春さんである。
どこか後ろめたさを感じた辰巳は写真立てを倒すと、食卓へとついた。
「美春さん、父さんは?」
辰巳の向かいへと座る優しい微笑みを浮かべた美春にそれを尋ねると、美春は軽く頬を膨らませた。
「もう!たっちゃん、お母さんでしょ!」
「あっ…ごめん、母さん。」
美春を母親と呼ぶと、辰巳の父親である虎次郎の方がどこか悲しそうな顔をするので、その前では遠慮しているのだ。
辰巳がちゃんと母親として扱うと、よし!といった様子で胸を張った後、微笑んで言う。
「今日から出張よ♪一年間は帰ってこないわ♪」
しかし、返ってきたのは微笑んで言う事柄ではなかった。
「…。」
また父親がなにかしたのだろうか?
この夫婦は仲が良くない…こともなかったのだが、毎度のこと虎次郎が女性関係やれで問題を起こすためか、もう冷え切っている。
正直子供の前ではそんなことを表に出してほしくはないのだが、美春に下手に男でも作られた方がより面倒なことになることは明白なので、少しばかりの愚痴は致し方ないことだと辰巳はもう受け入れた。
「…そういえばそうだった。今回は長いから、できれば顔くらい合わせて…「別にいいんじゃない?たぶんだけど、たっちゃんのことなんかよりも他の女のことで頭が一杯みたいだから。」…はあ…。」
辰巳は人知れず溜息を吐く。
なんとも消化に悪い会話のせいか、箸がまったくといって進まない。
というか、一口二口くらいしか口にできていなかった。
この話を終わらせようと、いつかぶりに妹の美波に話を振ろうとしたところ、一言も話さずに黙々と食事をしていたらしい彼女はパンッと手を合わせた。
「ごちそうさま。」
「えっ、もう食べたのか?」
思わず声が出ただけなのだが、軽く睨まれてしまった。
「…悪い?」
「いや、悪くはないんだが、もう少し話なんか…。」
辰巳がそんな言葉を言うも、ピシャリとシャットアウトされた。
「別に…話す暇なんてないから。」
カバンを持って、さっさとリビングを後にする美波が玄関の扉を開けた辺りで声が聞こえた。
「いってきます。」
言葉少なに聞こえたそれに返事をする美春。
「いってらっしゃい。」
扉が閉まると、辰巳の口からようやく言葉が出た。
「…美春さん…いや、母さん…もしかして美波に嫌われてるのかな…。」
「さあね?どうだと思う?」
どこか意味深に笑う美春に辰巳はなにも言うことはできなかった。
「あっ、でもでもね、私はたっちゃんのこと大好き!だからね、今度買い物行こ♪」
その返答がある種の答えのような気がして、思わず苦笑いが浮かぶが、美春の楽しそうな笑みを見て、美波も年頃だから仕方がないかと納得することにする。
「はいはい、荷物持ちね。」
「もう!そんなんじゃないわよ!デートよ!デート!」
「はいはい、デートデート。」
「もう!」
端から見ると…いや、実際に馬鹿馬鹿しい会話だった。
すると、自然に二人の口には微笑みが浮かんでいた。
それから、のほほんとした会話をしながら、食事を終えると出発する時間帯になっていた。
「いってきます。」
「あっ!ちょっと、たっちゃん!お弁当!」
辰巳は疑問符を浮かべ、カバンの中を確認するも、やはりその中には弁当箱らしきものが存在した。
「えっ?でも俺のは…。」
「…美波が忘れちゃったみたい。ごめんね♪」
「…要するに届けて来てってこと?」
「うん♪今度こそいってらっしゃい。」
「…いってきます。」