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違い、埋まらなくとも。

違い、埋まらなくとも。~僕がトモと名乗った日~

作者: 佐藤朝槻

 

摺木(するき)先輩のパフォーマンス、楽しみだよね」

「今年が最後なんて信じられないよね」


 廊下で前からやってきた女子らが、会話で弾みながら通り過ぎていった。僕も踵を返し、体育館へ向かう。


 摺木先輩とは、この高校で有名な男子生徒だ。

 僕が知っているのは、彼の苗字が「摺木」であること、「先輩」なので高校三年生であることだけだ。

 下の名前は知らないが、他のことはもう少し風の噂で耳にしている。


 まず成績はつねに学年トップであり、この学校の模範的生徒だと言われていること。それだけなら勤勉野郎とバカにされて終わっただろう。


 摺木先輩は文化祭をきっかけに有名になった。

 ダンス部に所属する彼は、一年生のとき選抜メンバーでないため端で踊るだけの、地味な生徒の一人に過ぎなかったようだ。


 にもかかわらず髪を染め、衣装をアレンジして踊ったのだという。それは普段模範的生徒と噂される彼がはじめてみせた一面だった。女子の間でかっこいいと話題になったらしい。


 僕が初めて見たときも、先輩は輝いていた。すでに選抜メンバーとなっていた頃で、センターではなかったものの目立っていた。その年は金に染めていた。


 しかし今年の文化祭は違った。

 体育館内に入ると、先輩はたった一人で舞台上に立ち、全身真っ白な衣装が青い髪を際立たせ、海のようにきらめいていた。


「今年は選抜メンバーじゃないの?」という声が、客席をざわつかせる。


 例年、体育館のライブ会場はダンス部がトップバッターを務める。文化祭の盛り上がりを左右する大事な役目を負っているため、ダンスコンテストに出場経験がある選抜メンバーでパフォーマンスを魅せてきた。


 それが、今年は先輩たった一人のパフォーマンスから始まる。

 ダンス部もずいぶんと彼に信頼を置いているようだ。


 音楽が、始まる。


 客席から動物みたいな奇声があがった。

 何言ってるかさっぱりわからない外国語の歌と、見たことのないダンスを呆然と眺める。


 空気を切るかのごとく乱れる髪、華麗な脚捌きからの蹴り上げられる足。重力すら感じさせない身のこなし。

 彼が動くたびに客席から悲鳴のような叫び声があがった。ステージ下の客席は徐々に蒸せるような熱気を帯びていく。暑さと騒々しさに目が眩んだ。


 最後だからって盛り上がりすぎだろう。

 騒々しい体育館から出ていこうかと考えたときだった。


 先輩は突如、膝から崩れ落ち、膝立ちの姿勢になった。その姿勢になると肩で息をしているのがよくみえた。

 音楽は止まらない。パフォーマンスは続いているようだ。

 オーラのある人間はどんな姿も絵になるんだなぁ。


「頑張れ!」


 のんきに感心していると、客席から声が飛ばされた。それに続き、めいめいに声援を送っている。


 状況が呑み込めない僕は一度首を傾げたあと、身を乗り出すように舞台のほうを見つめる。

 先輩はすぐに立ち上がり、踊りは再開された。そこから終わりまであっという間だった。会場は拍手と喝采に包まれ、彼は笑いながら他の部員と交代して退場していった。


 どうも腑に落ちない。

 なぜ誰も彼も先輩に笑顔を向けるんだろう? 立ち上がってから終わるまで、彼は鬼気迫る表情で踊っていた。僕なら気まずくて話しかけられない。






 文化祭の翌週、先輩のパフォーマンスが好評だったが、すぐに別の噂に上塗りされた。

 というのも、もうじき高校三年生の推薦枠に入る生徒が明らかになるからだ。達先輩が推薦枠を希望したのかどうか、まだ明らかになっていなかった。


 たかが一人の進路選択になぜここまで盛り上がるのか。けして有名人だからだけではない。

 つまりはこういうことだ。

「推薦は逃げ」「これだからできる人間は妬ましい」「全国模試順位四桁が推薦枠を横取りするな」などなど。彼をからかいたいやつらの仕業なのだ。自称進学校の空しい末路である。


 先輩の受験については、僕の所属する漫画研究部でも話題になる。


「摺木先輩と同学年じゃなくてよかったよね」

「なんで?」

「推薦枠を狙うだけでも大変なのに、他のことで悩みたくないじゃん」

「推薦枠とってダンスを本格的に始めるんじゃないかって噂もあるよな」

「え、怪我してるなんて噂なかった?」

「そうだっけ? 詳しくは知らないからなんとも。てか即売会の話始めたいんだけど……。あいつ今日もサボり?」


 扉の前で翻り、僕は逃げるように部室から離れた。こういう、先輩の話題が上がる日はいつも部室に顔を出す気が失せる。


 文武両道な摺木先輩。

 対して平均以下の成績とイラストが描けない漫画研究部部員の僕。

 なんてきれいな対比。哀れだ。

 こういう日は早く家に帰らないと気分が悪くなって嫌なのだ。


 でも、と立ち止まった。


 漫画にも完璧キャラは腐るほどいる。そういうキャラはたいてい苦労人が多い。

 苦労人は苦労しないために努力する。努力しているから秀才になる。秀才になるから周りから信頼と嫉妬を受ける。


 僕は何も長けていないが、深刻な悩みもない。それはそれで嫌じゃない。むしろ、日々苦悩しながら生きるほうがつらい。

 ……この生き方も悪くないか。


 そう自分を慰めると、冬に近づく秋空の下、自転車置き場に向かう。


 自転車置き場近くにあるプール施設に人影が見えた。

 この学校のプール施設は飾り同然の扱いで、水泳部も名前だけ存在するが部員はゼロ。ここに来るのは自転車で登下校している生徒くらいだ。


 まだ部活が終わってないので、普通、この時間に人影はない。僕はグランドの土から駐輪場のコンクリートを踏みいったとたんクラスの人たちが話していたことを思い出す。


 あるじゃないか、恋愛絡みでここを利用する生徒が!

 にやりと唇の端を上げる。


 歯が浮くような雰囲気を台無しにするのもおもしろそうだ。いっそ創作ネタにでもしてやろう。

 僕は堂々と自転車置き場に入り、プール施設のほうに目を向ける。


 男子が女子に詰め寄ったあと、壁に手をついて女子を完全に包囲していた。女子は屋外プールのコンクリート壁を背に見上げている。男子が女子を覆い隠すように距離を縮めた。


 あの距離感はキスしたに違いない。

 慌てて身を屈めて無数の自転車に隠れる。辺りを見回し、僕と彼ら以外には誰もいないことを確認する。


 安堵の溜息が出た。

 はじめは女子が男子の手を掴み拒む態度を示したが、女子も抵抗することをやめたせいか、二度目はより密接に触れ合っていた。


「これ以上はまずいかも」

「……だね。悪い」


 我に返った男子が女子の手を引いて歩きだす。

 その男子が摺木先輩だとわかると、僕は開いた口が塞がらなくなった。


 いつ噂が広まってしまうかわからないのに、有名人のやることはなんとも大胆だ。校則にも過度な男女交際は認められてない。吊り橋効果というやつだろうか。先輩が停学処分受けたら校内がどれくらい騒ぎになってしまうとか、そういうことは考えないんだろうか。


「……なんでそんなこと、僕が気にするんだよ!」


 自分の自転車を軽く蹴り飛ばすと、骨にじんじんと響いた。痛い痛いと言うたび先ほどの光景が脳裏にちらついてさらに苛立つ。


 最悪だ。惨めな気持ちを抱えたことさえも踏みにじられた気分がする。

 創作ネタに使ってやるもんか。人気に拍車がかかるだけだ。教員にばらして処分を受けても同じこと。


 翌週、瞬く間に先輩が推薦受験をしないことが校内に広まった。そのとき僕は、彼女と同じ大学を目指すことにしたんだと理解した。

 僕は摺木先輩を勝手に心の底から嫌っていたので、一年後驚くことになる。


 その日は二次試験前日。不安が頭から離れなかった。

 はじめて慣れない土地に一人でやってきていた。


 雪の関係で明日は早めに電車に乗らなければならないとか、試験会場である大学までの道順を何度も見直し、受験票は落としてないかと鞄の中をチェックし、とにかく気が気でない状況にあった。


 夕方、僕は予約していたホテルに到着した。

 そのとき、同じタイミングでチェックインしに来た人物にあっと声をあげた。


「あの、もしかして摺木するき先輩じゃないですか?」


 自分と同じくらいの年齢の人を探していたら、都合よく見覚えのある人がいるじゃないか。それだけの、軽い気持ち、すがりつきたい気持ちで声をかけた。


 けれど彼はマフラーとマスクの奥から鋭敏な視線で僕を睨んできた。


「どちら様ですか」

「えっと、同じ高校、の……」

「高三?」

「はい」

「後輩か」


 ポツリと漏らしたあと、彼はチェックインを始めた。僕も慌ててチェックインを済ませる。


 僕のチェックインが終わると先輩は僕の手を引っ張ってエレベーターに急いで乗り込んだ。エレベーターで二人きりになると、彼がふぅっと溜息を吐いた。


 今目の前にいるこの人は、首が見えなくなるほど黒髪を無造作に放置し、虚ろな目の下には隈が深く刻まれている。

 一人で舞台に立っていた去年とはすごい変わりようだ。本当にあの人なのか?


「僕、人違いしてしまったんでしょうか」

「だったら?」

「謝ります」


 エレベーターの扉が開き、先輩がキャリーバッグを引きながら外に出る。

 こちらに振り返ると、マスクをはずして微笑した。


「謝らなくていいよ。人違いじゃないし。荷物を置いてロビーで待ち合わせでいいかな」

「はっ、……あっ」


 返事しようとしたが、エレベーターが閉まってしまった。

 しまった! ボタンを押しておけば!

 その後、急いで部屋に荷物を置いてロビーへと向かった。


 ホテルのロビーは丸い机と椅子が置かれていて、各々がくつろいですごしていた。


 壁はガラス張りで、外の景色を楽しむこともできるが生憎の曇り空だった。やっぱり明日は雪か、と考えつつ、外の景色からロビー内へと視線を移す。


 先輩の姿があったが、先程睨まれたこともあり、少し距離をおいたところからじっと観察してみた。

 椅子に座り、先輩は英単語帳を眺めていた。他の受験生と何ら変わらない態度だが、妙に風格を感じる。先ほどまでマフラーやマスクで隠れていた顔全体を見て腑に落ちた。風格を感じるのは、歳不相応な目つきのせいだ。


 先輩と目があった。バレバレだったらしい。

 僕は駆け足で近寄り、「失礼します」と彼の向かいの席に着席する。


「どうぞ。何か飲むならあっちに自販機あったけど」

「いえ、大丈夫です」

「そう」


 暫しの沈黙。彼は手元の英単語帳を眺め、僕は視線を泳がせていた。

 何も話題が思いつかないのである。


 前にもこんなことがあった。

 恋愛に浮かれてる奴をバカにしてやろうと踏み込んだが、先輩だとわかった瞬間、何もできなかった。


 今日も、先輩とわかった途端何も言えなくなってしまった。

 情けなくて落ち込んでいる僕に、先輩が助け船を出してくれた。


「で、何の用?」

「あ、その、……先輩はどうしてここにいるんですか?」

「受験」


 と手に持っている英単語帳を軽く上げてみせた。


「同じなんですね」

「ああ。今日ここに泊まってる受験生全員そうじゃないか?」

「なるほど……。一人だと明日のことばかり考えてしまって不安で」

「だろうな」

「先輩は落ち着いてますね」

「慣れてるから」


 ダンス部としていつも人前に出ていた彼のことだ。慣れていて当然だろう。

 それに僕の受験する大学は、彼からすれば余裕で合格圏内だ。そのぶん僕の合格がますます遠のいていくとしたら……。嫌だな。困るな。


「先輩って、昨年は難関大受験でしたよね?」

「よく知ってるな……。そうだよ。今年はここ。余裕で合格できるなんて思ってないけど」


 自分の気持ちが見透かされた気分だ。思わず乾いた笑いがこぼれて背筋を伸ばす。

 先輩が小さく溜息を吐いた。


「俺のこと知ってる奴がいるから驚いた」

「そうですか」

「ていうか会ったことある?」

「ない、と思います。僕が一方的に知ってるだけです」

「ふぅん」


 興味なさそうに相槌を打たれた。

 今になって僕がこの人に話しかけてしまった意味が分からない。


 この人はめちゃくちゃできる人じゃないか。自尊心を粉々にするために話しかけたんなら、僕もいよいよ受験勉強で頭がおかしくなってしまったか。

 恥ずかしくなってきて、僕は平身低頭した。


「すみません」

「何のこと?」

「僕、知ってる人がいない県外を受けたくてここ選んだんですけど、いざひとりで受験すると思ったら不安になって、知ってる顔が見えたから話しかけちゃったんですけど先輩の邪魔しちゃってますよね。すみません」


「……え?」

「えっ?」

「そのためじゃないの?」

「へ?」

「それ目当てで話しかけてきてるのかと」

「は?」

「え?」


 僕は目を見張り、先輩は目を瞬いた。

 去年、先輩にイライラした覚えはあるが、受験勉強をしていたら気にならなくなった。いなくなれば赤の他人だからだ。顔と名前すら思い出さなくなることだってある。


 先輩は人気者だったから思い出せたが、あと一年遅ければ忘れていたかもしれない程度だ。

 でも、わざわざ彼がそう漏らすということは、考えられることはひとつ。


「もしかしてですけど、そういうことされたことあります?」

「だったら?」


 答えることができなかった。目の前の先輩が当たり前だとでも言いたげに返したことに不快感を覚えた。


 蘇るのは昨年の文化祭。

 先輩が一人で立っていた姿。

 あの文化祭がどうか思い出作りと称して彼の受験を邪魔する建前でなかったことを願わずにはいられない。

 言葉に詰まっていると、先輩は英単語帳を閉じてこちらに目を向けた。


「ま、たいしたことじゃない」


 固まっている僕と違い、彼は気怠そうに頬杖をついた。


「人間、分相応な生き方しないと痛い目に遭うってことだな」

「だから先輩はここを受験するんですか」

「ああ」

「分相応に生きるために受験先を変えたと?」

「そう思う?」


 凡人の僕には有名税の実体験がないので、何とも言えない。


 漫画キャラならと仮定してみれば、数作品の登場人物が脳内に浮かぶ。

 完璧主義のキャラはいつだって完璧を求めるし、プライドを持っているので諦めない印象が強い。


 とするならば、先輩は分相応な生き方を理由に受験先を変更しないと考えられる、か?

 僕が口を開く前に「まさか」と彼は冷笑した。


「うんざりした。それだけだよ」


 その冷たい笑みに一瞬、心が押しつぶされそうになった。

 僕は視線を落として彼の言葉を心のなかで反芻し、何に対してうんざりしたのかが抜け落ちていることに気がついた。


 自分自身に対して嫌気が差したのか。それとも周囲の、社会に対しての幻滅か。

 どちらにせよ、この人は嘲てみせたのだ。


 僕は意をけして面を上げた。先ほど抱いた去年の文化祭の真相を確かめたくなった。

 が、やめた。彼の手持ち無沙汰になった手がかすかに震えているのが気になる。さっきから顔色もよくない。


「ちょっとすみません」


 立ち上がり、有無を聴かずに先輩の手に触れる。


「熱くないですか?」

「さあ。自分ではあまり感じないけど」

「本当ですか? じつは風邪引いてたりしません?」

「……連日寝不足かな」

「ちょっと来てください」

「大丈夫だよ。電車で仮眠とったし」

「カードキー貸してください、ほらはやく」


 僕は先輩を強引に引きつれ、彼の部屋に押し入る。先輩が追い出さないようにこれまた強引にカードキーを取り上げ、僕の部屋から体温計を持ってくると熱があることが判明した。

「風邪薬は持ってますか? 水は?」

「持ってる。ミネラルウォーターもあるから大丈夫だ」

「そうですか」

「風邪が移ると大変だろ。戻ったら?」


 その言葉を聞いた僕は、どかと荒々しく椅子に座って腕を組んだ。


「先輩が寝てから出ていきます」

「他人がいると寝づらい」

「そう言って勉強する気でしょう?」

「この体調じゃ勉強したくてもできない」

「そこまで体調を無視して勉強してたんですか、へぇ?」

「勉強したくてもできないから休むという意味で言っただけで怒らせようと思ったわけじゃ……」

「どうせ明日乗りきれればいいからとコーヒーでも飲んで体調不良を誤魔化そうとしたんでしょう?」

「……」

「ほらやっぱり」


 試験前の風邪ひいた秀才ヒロインは無茶しがち。これオタクの常識。

 しかし現実は漫画みたいに嬉しいイベントはない。何せ先輩は男であり、僕が先輩の可愛いところなんか目の当たりにしたところで心躍らないのである。


 とりあえず観察力に長けた自分を自慢するかのごとくふんぞり返ってみると、先輩は靴を脱ぎながら吐露した。


「初対面が嘘みたいだ。それとも俺、騙されてる?」

「違いますよ! 漫画でそういうキャラいるんでわかるんです!」


 しまった。思わず食い気味に言ってしまった。早口と食い気味のオタクは嫌われる。これまたオタク界隈の常識である。


「そうか」


 焦った僕とは対照的に素っ気なく返された。

 後日、このときの先輩は頭が痛くて聞き流したと気づくまで、僕は複雑な気持ちになっていた。


 オタクと非オタクの温度差に注意しないといけないと重々理解していながら、それでも興味を持ってほしい。そんなジレンマが僕のコミュニケーションを邪魔する。

 深く考えてしまわないよう、その場では嫌われないだけよかったと思うことにした。「オタクはそういうものなんです」と返して強制的に会話を終了させた。


 先輩は風邪薬を飲んで横になった。僕はというと、先輩が気になって自分の部屋から教材を持ってきて静かに読んでいた。

 ……マーカー引きまくったせいで読みづらい。


 文句を飛ばしつつ、ときおり天井を見上げて首を左右に傾けるとゴリゴリと音が鳴った。その音を聞いた途端すべての集中力が切れる。


「受験が人生のすべてじゃないなんて、大人はすぐ嫌なこと言う」


 受験が人生の一部だとしても、大事だから応援するんでしょ? 願掛けがあるのも、そのためでしょ?


 無事合格して下宿生活を始めるか、別の大学を受けるか。

 それとも、浪人。

 いや駄目だ、そんな先が不透明すぎる未来は怖い。そんなこと考えてないで目の前の受験に集中しないと。


 去年の先輩は何を思って浪人を選択したのか、訊いてみたらよかったな。

 僕は手元の古典単語帳から、ベッドのほうへと視線を移す。


「……先輩?」


 彼の瞼の縫い目から涙がこぼれ落ちていた。

 うんざり、か。

 僕は詳しい事情をいっさい知らない。何があったのか。何を思っているのか。

 いつか知る日が来るのだろうか。でも、知ってどうするんだ?


「これだから完璧キャラは駄目だー」


 僕は空を仰いだ。

 絶対ドジっ子のほうが優しくて可愛くて守ってあげたくなるはずなのに、完璧キャラは幸せを逃してばかりいるっていうのに。負けヒロインだと確定するっていうのに。


 裏側を覗いた瞬間、虜にされてしまいそうになる。深淵に引きずり込まれる。

 と考えたところで舌打ちした。


「だから先輩はヒロインじゃない!」


 僕はこの部屋のカードキーを置いて退散した。携帯画面を見ると、明日の天気予報に雪マークがついていた。



 ○



 結局、いろいろなことを考えていたら三時間しか眠ることができなかった。それもこれも僕が急に変なことを考えたせいだ。自業自得なので自分に八つ当たりするほかなかった。


 コンビニで買っておいたパンを食べてホテルを出る。ロビーには先輩がいた。僕の姿が見えると、彼もチェックアウトを始める。


「おはようございます」

「ああ。……おはよう」

「体調はどうですか?」

「まぁまぁ」


 ぶっきらぼうに答えるその顔に近寄って覗く。マフラーとマスクに覆われ、相変わらずよく見えない。


「本当ですか?」

「何。疑うの?」

「疑うでしょ」


 しびれを切らした先輩は鬱陶しいとぼやき、僕を手で押しのけた。「人が心配してるのに!」といっても押しのける力は強かった。

 これが運動部と文化部の差!

 先輩は僕に背を向けると、マスクを取って呼吸を整えていた。


「正直言うと本調子じゃない」


 振り返った彼の目と目元は禍々しいと感じさせるほど黒かった。


「一次は終わってるんだし気楽に行けばどうです」

「そうだが、正念場でもあるからな」

「追い詰められてませんか」

「だなぁ」


 あっさり肯定されてしまい、僕は首を捻るも、彼は話を続ける。


「でも逆境のときほど燃えるよ。これ試験当日のモチベ維持のポイントな。……何?」

「あ、いや、先輩の雰囲気が昨日と違うなぁって」

「正直に話さないと顔近づけてくるだろ。俺のせいで風邪を引かれても困る」

「なるほど、すみません。もうしません」

「そうしてくれ。で、合格をもぎとれば結果オーライだろ」

「完璧キャラがフラグを立てるのは危険ですよ。負けます」

「負けない」

「おぉ、主人公みたいなセリフですね」


「それ……」と先輩は口を引き結んでしまった。

 僕は同じ言葉で疑問を投げた。「それ?」


「なんでもない。それより次会ったときは敬語使わないでくれよ」

「どうしてですか」

「大学で同学年になるんだから片方だけ敬語使うの変だろ」

「……」

「何?」

「え、いや、そうなんですけどそうじゃないというか」

「歯切れの悪い返事だな」


 先輩はそう言って、濁りに光が差したように目を細めた。


「合格しよう」


 と彼は僕に笑いかけ、軽く僕の肩を叩いた。

 

 昨日話したばかりの僕に対する馴れ馴れしさに気味悪さを覚えた。

 新入生、新しい環境で、先に仲良くなっておけば後々楽だと都合よく利用されてるとしか思えないんだけど。


 昨日の再会から、昨日の涙、先輩のキスまで思い返される。

 このまま受け入れるのは癪だ。

 人はこれを八つ当たりというかもしれない。ならば、僕は今から八つ当たり大賛成と高らかに宣言しよう。


「落ちたときは先輩のせいにしてもいいですか?」

「急になんだよ」

「別に。同学年扱いされたいなら先輩面するなってだけですよ。都合のいい友達がほしいならよそを当たってください。四年間も先輩の世話係なんてごめんです」

「へぇ?」


 僕が値踏みするように睨んでも、先輩は目を逸らさなかった。


「わかった。落ちたら俺のせいにしていい。俺としては先輩面をしたと受け取られたなら、それは誤解だと説明したいし、謝りたい。けど、このまま断りを入れずに謝るのは嫌だ。だからその話に乗るだけだ」

「どうして嫌なんです?」

「対等でいたいから」

「対等? 難しいと思いますが」

「そうかな?」


 年齢もそうだけど、そもそも住む世界が違う二人が対等に生きるなんて不可能だろう。

 そこまで深く考えないにしても、どうしてそんな重い言葉を選ぶのか。


「簡単じゃないですよ。文化系の僕ならともかく体育会系の先輩が言うなんて変な感じですね。縦社会、シビアじゃなかったんですか?」

「どうだったかな。忘れた」

「ええ……。じゃあ何を意図して対等がいいんです?」

「わからん」

「言ったのは先輩ですよ!?」

「そこまで考えてないんだよ。お前と仲良くしたいと思っただけ」


 呆れて言葉も出ない。

 僕は一歩、飛んでみた。つられてキャリーバッグがガラガラと音をならした。


 目の前には白い雪景色。

 振り返ると、高校で校内一有名だった先輩がいる。

 なぜか浪人してからめちゃくちゃ態度が変わった先輩。

 もしかしたら同学年になるかもしれない先輩。


 高校にいるときは惨めな気持ちになるから嫌いだった。けど今は呆れのほうが強い。


「とりあえず試験会場に向かいましょう。合格すれば僕が先輩を責めることも、先輩が謝罪に悩む必要もなくなります」

「あ、ああ……。それって俺が最初に言ったことでよかったよな?」

「そうとも言います」

「認めるんかい」

「変にフラグ立たなくていいじゃないですか」

「そうなのか?」

「そういうものです」


 僕は歩きだした。わずかに雪を踏む音がする。転倒しないようにゆっくり歩く。


「名前なんていうの?」

「……トモとでも呼んでください」

「トモ。トモね……。うん、覚えた」


 先輩は大事そうに繰り返していた。

 純粋な反応しているところ悪いけど、それ、本名じゃないです。ペンネームです。


 だって、今、余裕ないんです。先輩ほど落ち着いていられないんです。受からなければ赤の他人に戻るし気にしていられないです。


 おそるおそる足の速度を早める。

 見慣れぬ土地。昨日覚えた目印は白に移り変わり、覆われ、記憶と合致しない。前方には人影一つなく、向かい風に熱を奪われる。

 このまま目的地にたどり着けずさまよってしまうだろうか。


 それでも雪を踏みしめ、蹴る音が、僕の歩みを止めさせない。

 背後から聞こえるそれだけが、孤独ではないことを教えてくれていた。




(了)

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