辺境伯令嬢はこんやく破棄を許さない
家紋武範様主催「知略企画」参加作品です。
「オシン・リヴォニア・ザ・ジャイアント・チュートンッ! 僕はこの場でおまえとの婚約を破棄するっ!」
ホーエンツォレルン王国の第四王子ヨーハンはあらんかぎりの声を張り上げた。
ざわっ
パーティーの場はざわめく。
名前を呼ばれたオシン・チュートン辺境伯令嬢はゆっくりとその巨体を揺らしながらヨーハンに向かって歩を進めた。そして、言った。
「今、何て言っただか?」
「だっ、だっ、だからっ!」
ヨーハンはオシンの強烈なプレッシャーに必死に耐え、声を絞り出す。
「僕はおまえと婚約破棄するんだよっ!」
「こんやく破棄……」
オシンはそれだけ呟くと立ち止まった。
しかし、鋭い視線はヨーハンに向けたままだ。
「だっ、だっ、だってさっ」
ヨーハンはどもりながら弁明する。
「おまえ、でかいし、怖いし、身長190cmって、一体何よ」
「……」
「おっ、王宮の大臣たちなんかなっ! おまえのことを『歩く人間アルプス山脈』とか『一人ゲルマン民族大移動』とか言ってるんだぞっ!」
「こんやく破棄……」
オシンはもう一度そう呟くとヨーハンに向けて突進した。
「わあっ」
身長が160cmしかないヨーハンは簡単にオシンの右腕に抱え込まれた。
「どうやら王子はものをご存知ないようだな。一つ教えてあげる必要があるようだな」
ざわめきの中、オシンはヨーハンを右腕に抱えたまま、つかつかとバルコニーに向かった。
◇◇◇
「黒王号ーっ!」
ブルルルルルッ!
オシンの呼びかけに応え、城の二階くらいの大きさがある巨大な黒い馬が階下に姿を現した。
但し、今いる広間は三階である。
「たあーっ」
オシンはヨーハンを右腕に抱え、そのまま黒王号の背中にダイブ!
ブルルルルルッ!
パカラッ パカラッ
そして、黒王号は二人を乗せたまま、何処へかと走り去って行ったのである。
城に残された者たちは、ただただ呆然とするばかりだった。
◇◇◇
パカラッ パカラッ
(くそっ、何だって僕ばかりこんな目に遭うんだよ)
ヨーハンは今までのことに思いを馳せていた。
ホーエンツォレルン国王には四人の王子がいた。ヨーハンはその第四王子。
但し、上の三人と決定的に違ったのは、上の三人が正室たる王妃の子だったのに対し、ヨーハンは国王が侍女に手を付けて生まれた子。
すなわち側室の子であった。
扱いは露骨に違った。第一王子の婚約者は現国王の実弟であるアイゼナハ大公令嬢、第二王子の婚約者は大将軍であるベルンブルク公爵令嬢、第三王子は宰相であるライニンゲン侯爵令嬢。いずれも押しも押されぬ有力貴族の娘であり、美貌、気品とも甲乙付けがたい素晴らしさ。
そして、第四王子のヨーハンの婚約者だけが何故か新興貴族のチュートン辺境伯令嬢。しかも、「歩く人間アルプス山脈」。
このチュートン辺境伯というのが、また筋金入りの成り上がり。
領邦は王国の東北の端。初代辺境伯のゲロルト・チュートンは伝説の冒険者で、クエストで稼いだ金でレンガを買い、自力で築城。
果てしのない大森林を切り開いて建国。封建領主になっても冒険を止めず、更に自ら畑を耕し、牛を飼って稼ぎ、その金で爵位を買ったのである。
当然、気品って何? おいしいの? という家柄である。
◇◇◇
「ふううううーっ」
ヨーハンは大きな溜息を吐いた。
だが、それはオシンの耳には届かなかった。いや、聞こえないふりをしたのかもしれなかったが。
パカラッ パカラッ
道中は長い。日はとっぷりと暮れてしまった。
いつしかヨーハンは考えることに飽き、単調な蹄の音に誘われるかのように眠りについていた。
◇◇◇
「見れーっ! 王子―っ!」
オシンの叫び声でヨーハンは目を覚ました。相変わらずオシンの右腕に抱きかかえられたままだが。
ヨーハンの目に映ったのは果てしなく広がる畑。そして、そこに何やら植え付けている人々。
「何かを植え付けている?」
ヨーハンの問いかけにオシンは胸を張って答えた。
「見えたかあ。アレが『こんにゃくいも』だべ」
「!」
(まさかとは思うが…… オシンは……)
「分かっただか。『こんにゃく』を作るには、『こんにゃくいも』を春に植え付け、秋に掘り出す。小屋で越冬させて、また、次の春に植え付ける。これを四回繰り返して、やっと、いい『こんにゃく』を作れる『こんにゃくいも』が出来るんだあ」
「……」
(やっ、やはり……)
「だからな、『こんにゃく破棄』なんでとんでもねえことなんだよ。作るのにこんだけの手間がかかっでんだ」
「……」
(「婚約」と「蒟蒻」を聞き違えてやがったあー)
「いや、違うんだよ。オシン。僕が言いたかったのは……」
「まだ分からんだか」
オシンはヨーハンの首根っこを掴んでつるし上げる。手足をじたばたさせるヨーハン。しかし、無駄な抵抗だった。
「トマスさーん」
オシンの呼びかけに反応し、農作業に従事していた四十代くらいの男が振り返る。
「おおっ、誰かと思えばお嬢。もう王都から帰ってきただか、早えなあ」
「あだりめだ。オラの愛馬は『黒王号』だど」
「んだなあ。『黒王号』より速え馬っこは世界中探してもいねえべ」
ガハハハと笑い合う二人。
「んで、お嬢。何でオラを呼んだだか?」
「おう、この王子がオラの婚約者なんだがな。蒟蒻のごと知りてえってから、植え付けから教えてやってくんろ」
(なっ)
ヨーハンは絶句した。何がどう転べばそういう話になるのだ?
トマスはちらりとヨーハンを見ると言った。
「まあいいけんど、大丈夫なんか? 王子様、体も小さそうだけんど、『こんにゃくいも』の植え付けは結構きつい仕事だど」
「心配ねえ」
オシンはトマスの懸念を一蹴した。
「身体は小っちゃくても、オラの婚約者だ。存分にこき使ってやってくんろ。心配ねえ。壊れやしねえがら」
(心配あるっ!)
ヨーハンは心の中で叫んだが、それは言葉にならなかった。
「お嬢がそう言うなら働いてもらうべか、なーに心配すんな。やってもらうことは山ほどあるだ」
(心配あるっ!)
ヨーハンはまた心の中で叫んだが、それも言葉にならなかった。
…… ……
…… ……
…… ……
五年後
「王子―っ」
トマスの呼ぶ声にヨーハンは農作業の手を休め、顔を上げる。
五年経ってもトマスの外見は全くと言っていいほど変わっていない。
それに比べてヨーハンの外見は激変した。
赤銅色の肌からのぞく真っ白い歯。背こそはあまり伸びていないものの、すっかり筋肉質になった体。
辺境伯領の女性たちには密かに人気だったりする。もっとも、あのオシンに「恋のライバル宣言」をする勇気を持つ者は誰一人いないが。
ヨーハンは苦笑いしながら、答える。
「やだなあ。トマスさん。僕はもう『王子』じゃなくて『辺境伯』ですよー」
「おう、すまんなあ。つい『王子』と呼んでしまうだよ」
ヨーハンはオシンと結婚し、辺境伯となった。
オシンは先代のチュートン辺境伯ゲルルフ・チュートンの一人娘だが、この国では女性に爵位の継承権はない。
他に適当な該当者もなく、今やホーエンツォレルンの一大食糧生産基地とみなされるようになったチュートン辺境伯領の領主の血統が途切れることを懸念した国王により、特例でヨーハンが辺境伯位を継ぐことになった。
「王子」から「辺境伯」では大幅な格下げだが、今のヨーハンにとっては全く気にもならないことだった。
◇◇◇
とはいえ、初めからこうだった訳では、もちろんない。
連行された初日、いきなり「こんにゃくいも」の植え付け作業をさせられた時はどん底の精神状態だった。
半泣きで仕事していたし、どうやって脱走して王都に戻ろうかとばかり考えていた。
最初の転機はその日の晩、農作業終了後に出された「ビール」だった。
「旨い」
ビールを一口、口にふくんだヨーハンから思わず言葉がこぼれ出た。
「そうだべ」
オシンは満面の笑顔。
「オラほのビールはだな。材料に『大麦』と『ホップ』と『水』しか使ってねんだ。他んちのまがいもんビールとは味が違うだよ」
ヨーハンは思った。
(脱走したって、王都に戻るための足もない。ここはしばらく様子を見て、王都に戻る手段が見つかるまでおとなしくしていよう。それまではこの旨い「ビール」を堪能して機会を待とう)
◇◇◇
しかし、事態はヨーハンの思惑とおりに進まなかった。
拘束や脅迫を受けた訳ではない。ヨーハン自身がはまっていったのだ。
「王国の食糧生産基地」の名は伊達ではない。「こんにゃくいも」の植え付けが終わっても、「ダイズ」「カブ」「ナス」「ホウレンソウ」等々植え付け待ちのオンパレード。植え付けが終われば、今度は「大麦」「小麦」の収穫だ。
その休む間もない農作業を続けるうち、ヨーハンはその魅力に囚われていった。
三年が経った頃、トマスは申し訳なさそうにヨーハンに言った。
「いやあ、オラだち、王子には本当に失礼なごと考えとったんだよ」
何の話だろうという顔をしているヨーハンにトマスは続けた。
「お嬢は大丈夫って言っただが、坊ちゃん育ちに農作業が勤まるわげがねえ。そのうち逃げ出すんべと思ってただ」
ヨーハンはギクリとした。確かに初めはそう思っていたのだから。
トマスはそれには気づかず、続けた。
「今から思えばとんでもねえだ。三年続いだどころでねえ。今じゃあオラだちが教わっているでねえか」
(あっ、ああ)
ヨーハンは思い出していた。王宮にいた日々のことを。今でも王宮の片隅にいる母エルマのことを。
王妃の侍女だったエルマに国王の手がつき、ヨーハンを出産したことを聞いた王妃は激怒した。
エルマのおとなしい性格を王妃は知っていたから、追放するまではしなかった。だが、王宮内の反対派に担がれることを恐れ、王宮の片隅に小さな家を建て、そこに住まわせた。
そして、一番仲が良かった侍女を一人だけ付け、他の王宮の者との接触を禁じたのである。
寂しい日々を送ることになったエルマの心を癒やしたのは、ヨーハンの存在と趣味のガーデニングだった。
そして、長ずるにあたり、ヨーハンもガーデニングに勤しむようになっていった。そこで園芸の基礎も身についていったのである。
やがて、王宮の片隅を彩る美しい花々は人々の気を引くようにもなった。しかし、誰もが王妃の目を恐れ、話題にも出さず、忘れるように心がけた。
ただ一人、オシン・チュートン辺境伯令嬢を除いて。
「本当にありがてえと思ってるだ。王子、もうずっとここにいでくれ。いなぐなると困るだよ。王都になんざ帰らねえでくんな」
トマスの実直な言葉にヨーハンは微笑んだ。ヨーハン自身も、もう側室の子として臣下たちに嘲られる王宮に帰る気はなく、農作業に勤しむ日々の方が性に合うと思っていた。
ただ一つだけ気がかりなのは、一人王宮に残してきた実母エルマのことだった。
◇◇◇
ヨーハンはついに決意した。深夜。オシンの部屋のドアをノックしたのである。
オシンの「どうぞ」の声に入室したヨーハンはオシンの目を見つめ、万感の思いを込め、言った。
「オシン。僕と結婚してくれ」
(やっだ。計画通りだ)
オシンは内心快哉を叫んだが、そんなことはおくびにも出さず、冷静に答えた。
「おやおや、このオラどの結婚を嫌がっていた王子がどういう風の吹き回しで?」
「すまない。そのことは謝る。だが、もう今の僕は王都になんか帰りたくない。チュートン辺境伯領が好きで、ずっとチュートン辺境伯領にいたい。そして、オシン、好きだ。今まで見守ってくれてありがとう。これからも一緒にいてほしい」
(やっだ)
オシンは小躍りした気分だったが、それを力業で押さえ込んだ。
「でもな、他にオラに頼みてえごとがあるんでないが」
ヨーハンは頭をかいた。
「本当にオシンには敵わないな。そう、一つだけお願いしたいことがある。結婚に当たって、我が母エルマもチュートン辺境伯領に呼び寄せたい。この願い聞いてもらえないだろうか?」
(やっだ。全て思惑通りだ。誠実で園芸の才のある王子に加えて、やはり誠実で園芸の才のあるその母まで来でくれることになっだ)。
オシンは満面の笑顔になりそうなところを何とか調整し、微笑に留めて言った。
「お義母さんも来るだか。あの綺麗な花、チュートン辺境伯領でもたくさん作ってくれるだか」
「えっ?」
ヨーハンは驚いた。何故母が花をたくさん育てていることを知っているのだろう?
「ふふ」
オシンは微笑を続けた。
「オラは見てただよ。お義母さんと、それに王子も王宮の中で綺麗な花育ててただな。あんな綺麗な花育でられる人なら『蒟蒻』も『野菜』も『麦』も上手に育でられると思っだら、案の定だあ」
「あっ」
ヨーハンは思った。ひょっとしてオシンは「婚約」と「蒟蒻」を聞き違えたのではなく、知っててわざと。
だがその思考は中断された。オシンがヨーハンを抱きすくめたからだ。
「王子。そして、お義母さんも、ずっとチュートン辺境伯領にいてくれればいいだ。そしで、いい農作物や花を作ってくれればいいだ。他のごとはオラに任せてけれ。命を懸げて守るがら」
◇◇◇
その後、ヨーハンとオシンは結婚式をあげた。ほぼ同じ時期に行われた第一、第二、第三王子の結婚式と違い、他の貴族や王族は誰一人として来なかったが、参列者数では最も多かった。領民がそれぞれ酒や食べ物を持って多数駆けつけたからだ。
そして、ヨーハンがチュートン辺境伯領に来てから五年。ヨーハンがオシンと結婚し、王子から辺境伯に降格してから二年が過ぎた。
ヨーハンは好天の日は必ず外へ出て農作業をして、真っ黒に日焼けした。更に自分の知っていた園芸の知識を惜しみなく話した上に、自分の知らない知識は貪欲に聞いて回ったため、王国一の農業者として名を馳せるようになっていた。
母のエルマもいつも女性農業者たちに囲まれているようになっていた。エルマの持つ豊富な花の知識は領内の女性農業者たちを魅了した。そして、チュートン辺境伯領は食糧生産基地としてばかりでなく、パーティー用等の花の産地としても知られるようになったのである。
◇◇◇
王国内部の情勢もガラリと変わった。
王妃は自らの実子である第一、第二、第三王子とそうではない第四王子のヨーハンの間には露骨な差を付けた。
それに対し、第一、第二、第三王子の間にはあまり差をつけないようにして、各々にバックとなる有力貴族を付けるようにした。
これは第一王子のみ特別扱いにして、万一、事故や病気で急死し、そこから第四王子のヨーハンのつけいる隙が生じることを恐れるが故の行動だったのだ。
「第一王子がいなくなっても、第二王子も第三王子もいる。第四王子なんかに出番はないんだよ」。そういった強力なアピール。
それは功を奏し、ヨーハンは国王の賛同もあって、あっさり辺境伯の婿養子に収まり、王位継承レースから脱落した。
ここまでは王妃の思惑通りだったのだが……
◇◇◇
ガラガラガラ
豪華な装飾を施された馬車が蒟蒻畑の前で停まった。
ヨーハンは農作業を続けながら、聞き耳を立てる。
馬車からは第二王子夫人がゆっくりと降り立つ。
応対はオシンの仕事だ。オシンは豪華さはなくとも失礼のない服装をしている。ここは作業着のヨーハンが応対をする訳にはいかない。
「ご機嫌よう。オシン」
第二王子夫人の言葉にオシンはきちんと礼を取る。190cmの長身を丁寧に折り曲げる。
「ご機嫌よう。お義姉様。遠いところをようこそおいでいただきました」
第二王子夫人は満足そうに頷くと、物珍しそうに周囲を見回す。周囲は青々とした葉の生い茂る蒟蒻畑だ。
「オシン。まさかと思うけど、この青い葉のものが蒟蒻なの?」
オシンはクスリと笑ってから答える。
「はい。お義姉様。これが蒟蒻ですだ。もっども直接の材料になるのは、今は土に埋まっている芋ですがね」
「ふーん。そうなの」
第二王子夫人は、なおも興味深そうに畑をながめていたが、やがて気を取り直したようにオシンの方を向いた。
「でね、オシン。先に手紙でお願いしていた件だけど……」
オシンは笑顔で頷く。
「はい。蒟蒻のご購入の件ですな」
チュートン辺境伯領産の蒟蒻は、この国の貴族社会で「美容食」として、注目されるようになっていた。
パーティーなどで高カロリーの美食が多い貴族。しかも、体型維持に気を遣わなければならない。
その条件下、殆どカロリーのない「蒟蒻」が注目されるのは必然的であった。
「あのね。間違いなく買わせていただきたいのだけど、その前に一つ聞いておきたいの」
「何なりと」
第二王子夫人の言葉にオシンは微笑を浮かべたまま答える。
「以前、第三王子夫人もチュートン辺境伯領産の蒟蒻を買ったと聞いたのだけど、どのくらいの量をいくらで買ったのかしら?」
(来だ)
キラーン
オシンの目が光った。
(三人の王子の間の駆け引きは夫人たちの社交にまで及んでいる。だげど、ここは……)
「買われたのは三百ケース。お代は三万ゲルトいただいとります」
あえて、事実をありのままに言うオシン。
「ふーん」
少し考え込む第二王子夫人。しかし、すぐに言葉を継いだ。
「ならば私は同じ三百ケースを五万ゲルトでいただくわ。どうかしら? オシン」
しかし、オシンはその提案に首を振る。
「お義姉様。ご好意はありがたくいただくだが、商いは公正にさせていただきたいだ。こぢらも心ならずも売値を上げざるを得ないごともある。今回、三百ケースお買いいただけるなら、三万ゲルトより多くはびた一文いただけねえだよ」
「オシン……」
第二王子夫人はその複雑な感情をそのまま表情に見せた。それでも何かを振り切るかのように首を振ると、再度口を開いた。
「そう、あなたの気持ちは分かったわ。では、五百ケースを五万ゲルトで買わせていただくのはどうかしら?」
その言葉にオシンは微笑を浮かべ、頷いた。
「お義姉様。そういうごとなら大歓迎ですだ。ぜひどもお取引させでいただきますだ」
「オシン……」
第二王子夫人は一歩前に出るとオシンの両手を取った。
「あなたは本当に可愛らしい義妹ね。私はね第一王子夫人よりも第三王子夫人よりもあなたを大事に思っている。そのことを分かって」
オシンは微笑のまま更に頷く。
「ありがとうございますだ。お義姉様」
◇◇◇
第二王子夫人を乗せた馬車はゆっくりと動き出し、帰途についた。
第二王子夫人はいつまでも窓から手を振っていた。オシンは頭を下げつつ考えていた。
(状況は変わってないようだな)
何としても第四王子のヨーハンだけは王位につけさせない
王妃のその目論見は達成された。
但し、この国全体に重大な副作用を残して……
第一・第二・第三王子の勢力は見事なくらいに均衡した。計ったように勢力が三割ずつの派閥ができたのだ。
そのためこの国では未だ王太子が決まっていない。国王が決断し、決めてしまえばいいのだが、優柔不断で決めることが出来なかった。
何せ侍女に手を付け、子どもまで産ませておいて、正室たる王妃がその侍女を王宮の片隅で隔離状態にしていることに何も言えないような国王なのだ。
そして、王妃も王太子を決めることが出来なくなっていた。仮に「やはり第一王子が王太子になるべきだ」などと非公式の場でも発言すれば、途端に第二・第三王子派の貴族が王妃に刺客を放つだろう。事態はそこまで緊迫してきていた。
そんな中、脚光を浴びだしたのは残り一割の勢力を占め、国内最大の食糧生産基地であるチュートン辺境伯領である。
チュートン辺境伯ヨーハンが三人の王子のうちの誰か一人の支持を表明したら、その段階で次の王太子は決まる。
三つの派閥は苦々しい顔を隠さない王妃をよそに、ヨーハンの取り込みに必死だ。
(だが、それが良いことばかりではないだな)
オシンは冷静だ。
(今度はこっちに刺客が送られたり、武力攻撃されることもないとは言えないだ。だが……)
ブルルルルッ
主の気持ちの昂ぶりを感じてか、黒王号が寄ってきた。
「ふっ、分がってくれるだか、黒王号。一緒にこの豊かな領邦を、そして、ヨーハン様を守ろうな」
ブルルルルッ
黒王号はもう一度嘶いた。
◇◇◇
「王子―っ」
トマスの呼びかけにヨーハンは苦笑した。もう一生「王子」と呼ばれるのかもなとも思った。
「トマスさん。僕は『辺境伯』ですよ。おや、今日はまた、たくさんのお友達を連れてきましたね」
「あ、また、間違えただな。いや、それよりな、午後はゲルハルト先生と稽古されるだか?」
「そのつもりですが」
「あ、あのな、オラだちも先生に稽古つけさせてもらいてえんだが……」
「!」
ゲルハルト。それはかつてホーエンツォレルン王国随一の将軍と言われた男。
王妃による専横とそれに対して何も言えない国王を苦々しく思い、隠居と称し、引きこもっていた。
オシンに守ってもらうばかりでなく、自分もこの領邦、そして、オシンを守りたいと考えたヨーハンから武術の師匠にと請われ、コバヤーシ辺境伯領にやってきたのだ。
「またどうして?」
ヨーハンの問いにトマスたちは笑顔で答える。
「辺境伯様が武術の稽古されてんのは、この領邦を守るためだんべ」
「オラだちだって、この領邦が好きなんだーよ。こんな笑って過ごせて、腹一杯食えるとこは他にねえだ」
「だがらな、オラたちだって、この領邦守りてえだよ」
「おねげえだ。オラだちにも武術教えてくんろ」
トマスたちの笑顔にヨーハンも飛びきりの笑顔で返す。
「ありがとうございます。一緒に頑張って、武術を学びましょう」
チュートン辺境伯領。この小さな領邦はやがて王国になり、何百年後かには世界を震撼させる帝国になるのだが、それはまた別の物語である。