Page.42 午後の秘めごと
私は立ち上がる。気分を変えよう。誰かひとに会いたい。
肢体から落ちる水滴が水面でリズムを刻んだ。
ボディソープと柔らかなスポンジで全身をじっくりと洗い、それから長い髪に取り掛かる。
白い泡で全身が覆われ、鼻いっぱいにソープの香り。
目を閉じたままパネルを操作して温度をふたつ上げ、シャワーで上から一気に洗い流す。
それから涙を吸った湯を捨ててバスタブを軽く掃除。
バスルームを出てタオルで水分をしっかり拭き、鏡に向き合う。
「案外、可愛いじゃない」
スランプの役者を褒め、下着を身につけて髪を乾かす。
髪も変えよう。
頭の中で何種類もの髪型を巡らせる。
一巡したとき、昨晩に少年と鏡越しでしたやりとりを思い出す。
「このままでいっか」
私はラント座長がゲストのために用意させた贅沢な品を使って、めいっぱい髪を手入れした。
化粧は薄め、スーツはお休み。
「何を着ようかしら」
ベッドの上に青いトランクを開けて、腰に手を当て衣装と睨めっこ。
残念ながら容量には限界がある。自宅のクローゼットじゃないもの。
連れてきた衣装は作業服、スーツ、それからパーティ用のドレスと多少の私服。
長丈のスカートをチョイス。先日に履いた、ベージュの薄い生地とブラウンが二重になった、ゆったりとしたもの。
天気予報をチェックして、黒のブラウスに白いロングカーディガン。
あらかじめ考えておいたコーディネイト。これなら忘れてきた灰色のマフラーにも合うはず。
私の大きな青いトランク。仕事道具以外は、ほとんどが服だ。それから靴。
スーツ以外はシワになりにくい素材や、荒い洗濯を気にしなくていいものを選んだつもりだったけれど、もう一度すべてをトランクに帰してやるのは骨が折れそうだ。
「これも出しとくか」
トランクの底に押し込めておいた「ドレス」と「ヒール」を引っ張りだしておく。
……これは、「晴れの舞台」で着るための私のとっておき。
このドレスは私がデザインしたの。といっても、旧時代の流行を真似たものだけれど。
「そろそろ行かなきゃ」
ドレスの出番はまだ先。……片付けも後回し。
私はベッドの上に衣装を広げたままマンションを出た。
呼んでおいたタクシーに乗り込み、居住区と商業区の狭間にある大きな公園、その中の庭へと向かう。
運転手は寡黙な人間だったので、愛読書を読み返して暇を潰す。
トランプたちの裁判のシーン。少女の目覚めは近い。
目覚めのくだりに入る前にタクシーは公園に到着。
改めて自然のなまの空気を吸えば、胸の中がリフレッシュする。
お風呂で落としそこなった汚れが溶けていくようだ。
潤沢に木を植えた森を歩き孤児院へ。
入り口でベルを鳴らすと職員が現れ、軽く挨拶を交わして「マザーは部屋に居ますよ」と告げられる。
「いらっしゃい。そろそろ来るんじゃないかと思ってたわ」
マーサは顔をしわだらけにして小走りで駆け寄り、私を抱きしめてくれた。私もハグを返す。
彼女は身体を離すと私の顔をまじまじと眺め、それから顔をいっそうシワだらけにしてほほえんだ。
「お話しましょう。お茶を用意するわ」
「マーサ。私がやります」
「いいのよ、少しくらい動かないとかえって体によくないわ」
マーサは私を無理やり座らせてお茶の支度を始めた。昨日よりは軽快な動き。
「ヘンリーはまだ学校でしょうか?」
「もうそろそろ帰ってくると思うけど。よかったわ。あの子が待ちぼうけにならなくて。あなたがもう来ないかもしれなかったから」
「午後にまたお訊ねしますとは……」
「そういうことじゃないのよ。なんだか今朝のあなた、もう戻って来ないような顔をしていたから」
テーブルに紅茶が置かれる。ショウガの香り。
「でも、今はここに来たくて仕方がなかったって顔をしているわ。……まだ落ち着いてないわね。何か忘れ物かしら?」
マーサは私のほうを見て、わずかに首を傾げた。
「……忘れ物。そうだ。私、マフラーをお借りしていた部屋に置きっぱなしにしていて」
「部屋を掃除したときには見当たらなかったわね」
「えっ? そうですか」
どこかほかで置き忘れたのだろうか。病院だろうか。あそこには戻りたくない。
「ヘンリーにでも聞いてみるといいわ。あの子が持っているかも。あなたのことを探していたから」
「なるほど。そうしてみます」
今朝は時間やクララの顔をあまり見たくなかった都合で、ヘンリーに挨拶をしそびれていた。
「ヘンリーといえば、あの子の話は聞いたかしら?」
マーサが訊ねる。
話。どのレベルの話だろうか。私は言葉に詰まった。
「その様子だと、全部聞いたのかしらね。彼の脚のことと、クララのこと、それとクララに秘密にされていること」
「……はい。彼から聞きました」
「そういうことだから、協力してちょうだいね」
マーサはちらと扉のほうを見やる。廊下を忙しそうに小走りで駆ける足音。
「でも、今の状態は……」
ヘンリーの人生にとってよくない。
私だって、本人だって分かっている話。今さら口に出すことじゃない。お節介な私。
「クララのことは簡単にはいかないでしょう。
ヘンリーが大人になる前に時宜がくればいいんだけれど。
そこは運任せね。でも、あなたの心配通り、今の状態は彼にとってよくないわ。
だから……あなたにもひとつ“役”をやってもらいたいの」
「役?」
「そう。……ちょうどいいわ、彼、帰って来たみたい」
マーサがそう言うと廊下をモーター音が通り抜けた。
「ヘンリー!」
マーサは声をあげる。通り過ぎた音はしばらくしてから戻ってくる。
「マザー、呼んだ?」
扉が開かれヘンリーが現れる。
彼はすぐに私のことを見つけるとちょこっとだけ眉を上げる。……挨拶はナシ。
「呼んだわ。アイリスさんが来てるわよ」
「あっ、アイリスさん。いらっしゃい。といっても、今朝に顔を合わせたばかりだけれど」
ヘンリーは、マーサに言われてようやく私の存在に気付いたふうに挨拶をした。笑顔。
「こんにちは、ヘンリー」
「そうだ、アイリスさん。渡さなきゃいけないものがあったんだ」
そう言うとヘンリーは車いすをバックさせて出ていってしまった。
「慌ただしい子ねえ」
マーサが笑う。
少し待っていると、私の灰色のマフラーを持ったヘンリーが戻って来た。
「アイリスさん、これ。忘れ物をしていたよ。学校に行く前に挨拶をしようとしたら、部屋にはマフラーしか残ってなくて」
「ありがとう。ごめんね、朝は急いでたから」
私はヘンリーのそばに行きマフラーを受け取る。それからお返しにたっぷりの笑顔。
「もう来ないかと思った」
恋しさを隠さない顔。私が壁になってマザーには見えない。
「また来るって言わなかったっけ?」
「言ったっけ?」少年が笑う。
「ヘンリー。私はほったらかしかしら?」
マザーが声をあげる。
「あっ、ごめんなさい。何か用だった?」
「あなた、帰ってからクララには会った?」
「ううん、まだ。でも、どこかに居るんじゃないかな。今日は買い物の当番じゃないって言っていたし」
「そう、それなら都合がいいわ」
「……?」
ヘンリーは首を傾げる。
「あなた、車いすをあっちに持って来なさい」
マーサは部屋の隅にあるベッドの向こうを指した。
「なんで?」
「いいから」
疑問を呈しながらもヘンリーは素直に従う。
「……それで?」
「降りなさい」
「えっ!?」ヘンリーは扉のほうを見る。
私も慌てて扉を閉めて、鍵まで掛けた。
「いいから」
マーサの顔は真剣だ。
「どのくらい歩けるようになったの?」
ヘンリーはおずおずと車いすから身を離す。視線は窓の外。ひとかげは無い。
「……このくらいだよ。調子がいい日は一時間くらい歩き通しでも」
部屋の中を歩いて見せる。少し動きはぎこちない。
「故障しかけのマイド然にも見えなくはないわね」
「マーサ、何を考えているの?」私も訊ねる。
「アイリスさん、ヘンリーを街に連れ出してやってくれないかしら?」
「街に?」
「ええ。この子にいろんな体験をさせてやって欲しいの」
「いろんなって」
あやふやじゃないの。時間もそれほど余ってるわけじゃない。
「街にくらい行ったことあるよ。二日前だって買い物の手伝いをしたし」
ヘンリーは自慢げだ。
「それは、クララと車いすででしょう?」
マーサが言った。
「じゃあ、歩いて!?」
あげた声がうわずってしまう。
「そうよ? なんのために立たせたと思っているの? 車いすもそこに置いておけば見つからないわ」
「でも、それってよくないことだし……」
ヘンリーがたじろぐ。私も同じ気持ちだ。
「いいから。できれば、夕食も外で食べてきなさい。クララは私が上手く誤魔化しておくから」
台本破りの老婆がウインクする。
彼女はそれから立ち上がり、窓を引き上げた。外から冷えた新鮮な空気が入ってくる。
「あなたたちは今から悪い子よ」
枯れ木の指が窓の外を指さした。外から冷たい空気が入り込んでくる。
悪い子。私の口元が緩む。なんだか気乗りがしてきた。
同じ悪い子なら、数百歳のテロリストマイドの相手をするよりは、若い人間の美少年がいいじゃない?
「早く。風邪をひいてしまうわ。悪い子でもおばあちゃんは大切にするものよ」
「でも……」
ヘンリーは不安げだ。
「マザーの言う通りよ。ほら、あなたも風邪をひかないように」
私はマフラーでヘンリーの顔の下半分をぐるぐる巻きにして覆う。そして手を取って強く握った。
「アイリスさん……」
少年は少し目を伏せ、鼻までマフラーにうずまった。
私は少年をひっぱり、邪魔な長いスカートを手繰り寄せながら窓に足を掛けた。
「じゃあ、行ってくるわ。“母さん”」
「行ってらっしゃい、“子供たち”」
窓の外に飛び降りる。周りには誰も居ない。遠くで子供がはしゃぐ声。
私は窓を乗り越えるのに四苦八苦するヘンリーを見守る。高さが違って手が届かない。
「上手く、上がれない」
けっきょくヘンリーはマーサがうしろから突き落とすかたちで脱出した。
少年を抱きとめ、ついでにめいっぱい抱きしめる。
「苦しいよ」
私はもがく少年を抱いたまま身体を揺すり声を立てて笑った。
それから彼を解放してやって、もう一度手を繋いで、昼下がりの森の中を歩き始めた。
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