Page.40 パロールとエクリチュール
アラームの音で目が醒める。
「なんで? まだ五時半……」
そうだった。ここは『中庭』だ。
すでに部屋の外では気配。職員たちはすでに起き出している。
私は職員たちが忙しくなってしまう前に身支度を済ませる。
……つもりだったが、洗面台の横ではすでに洗濯機の窓の中でカラフルな渦が巻いていた。
職員たちはシフト制で朝番と夜番、それと休暇を組んでいる。
十余名のうちの半分だけで早朝と深夜の作業をこなしているらしい。
炊事洗濯は子供たちのものだけではない。総勢六十名を超える量。
私は申し訳なくなりながら、クララさんから借りていた部屋着を空っぽになった未洗濯のカゴに放り込んだ。
あとで知ったが、どちらにせよ起き出してきた子供たちの出す洗濯物があるので、午前のうちにもう一度洗濯があるそうだ。これは昨日の繰り越し分。
私がキッチンの前を通りがかった時、戦いはすでに佳境に入っていた。
ウインナーの油とフライパンがはじける音、ザクザクと野菜が切られていく軽快な音。それから、かき混ぜられた卵が流し込まれる音。
今朝もスクランブルエッグが登場する。今日はボウルに立ち向かっていたのはクララさんではなかった。
その職員は常識的なテンポで調理をおこなっていた。少し安心。
通りがかる職員たちは気さくで、朝からの重労働にも関わらず不機嫌な者はひとりもいなかった。
「本当はもっと手間をかけたものを子供たちに作ってあげたいんだけどね」
メガネを掛けた男性がにこやかに言った。
大人数の調理をする都合上、調理工程や盛り付けがシンプルなメニューに偏りがちになってしまう。
私はノータッチだったが、台所には特大サイズの調理コンロと鍋も備わっている。
昨晩はシチュー、今朝は……オニオンスープかしら?
朝の活力みなぎる香りが漂ってくる。
朝食のタイミングはバラバラだ。寝起きの子供たちは台本通りには動いてくれない。
準備ができ次第、次々とテーブルに着き、済んだ端から離れていく。
私は朝からおしゃべりをする子供や、ぐずる子供に混じって朝食をとる。職員たちも隙をついて食事を片づけている。
「おはよう。アイリスさん」
横で食べこぼす子供の手伝いをしているとヘンリーが挨拶をしてきた。
「おはよう。ヘンリー」
挨拶を返す。
「おはよう。ヘンリー!」
子供がスプーンを振り上げて続いた。
「アイリスさんは今日はどうするの?」
ヘンリーはテーブルには着かず、車いすの手すりにトレーを乗せて食事を始める。
「八時には出るわ」
「もう来ないの?」
ヘンリーはスープをすすりながら訊ねた。
「日が沈む前にまた顔を出すわ。こっちにはまだ数日居るから、明日以降もまた来るかも」
「またオリオン座に来ることはあるかな?」
彼はこちらを見ない。
「それは……ちょっと難しいわね」
ドームの住人は個人的にドーム間を移動することはできない。私だって例外ではない。
通信網の利用も制限されており、匿名の意見の収集か、台本や業務上のことでしか他ドームへの干渉はできない。
オリオン座で出会ったひとびととは、ここを出れば永遠の別れになってしまうだろう。
「そっか、それは残念」
ヘンリーは匙を動かす手を少し止めて答えた。
「私もよ」
「わたしも!」
子供がけらけらと笑う。
大きな食卓。遠く対角の席にクララさんの姿が見えた。
昨晩とは打って変わって、かき込むようにして食事をしている。
寝起きという様相でもない。夜更かしをしていただろうに、朝からご苦労なことだ。
「じゃ、僕は学校の支度があるから……またね、アイリスさん」
ヘンリーもほんの一瞬のあいだに食事を済ませてしまっていた。
彼はこちらを見ることなく去っていった。
一晩経ったら気が変わってしまうものなのだろうか。ちょっと冷たくない?
胸の奥を握られたような気持ちになる。
私は子供の相手をしながら、他の職員たちに追い抜かれつつ食事を済ませた。
* * * * *
今朝はひとりだ。
ナイトさんは私が食卓に着いた時点では、すでにここを出てしまっていたらしい。
彼の提案でここに泊まることになったというのに、私を送迎することなく去ってしまったのは少し腹立たしい。
どのみち、今日は自由行動として予定されているので、彼の台本に私とのやりとりは書かれていない。
今頃は座長と顔を合わせているのではないだろうか。
端末で病院までのタクシーをオーダーして、マザーにお礼と、また訪ねる旨を伝えて施設を出る。
ヘンリーは朝の支度とやらでクララに世話を焼かれているようで、そっとしておくことにした。
朝の森。さっそうと木々のあいだを進む。
規則的な歩調は整備されていない道とは相性が悪く、ひんやりとした空気が不規則に服のあいだに滑り込む。
見上げると午前の弱い天井灯を反射する葉がきらきらと輝いていた。まぶしい。
草木にとって天井灯でも光は光なのだろうか。
いちおう人工光には紫外線など、太陽の含む要素を可能な限り含ませてあるそうだけど。
それでもやはり、天然の太陽光が恋しかったりするのだろうか。
たとえ生まれてから一度も浴びたことがないとしても、求めるものなのだろうか。
森が終わり、ひとのための道が始まる。すでにタクシーは私を待っている。
私は少し歩調を上げて車に乗り込んだ。
病院の受付の女性マイドに声を掛け、ヴィクトール・フランク院長に繋いでもらう。
私は彼の私室に通されることになった。受付けに部屋の位置を教えてもらい、朝から込み合う待合ホールをあとにする。
「おはよう。アイリス君!」
元気のいい老マイド。彼は自室のたくさんの蔵書を納めている棚の前のデスクで私を待ち構えていた。
「おはようございます。フランク院長」
「フランクでいいよ。それと、かたっ苦しい配役も要らないよ。楽にしておくれ」
院長は回転いすに座って身体をあちらこちらに向けて遊んでいる。
「いえ、今日は人間マイド関係なく、単純に教えを乞う身として参りましたので」
「教師をしていたのはもう何十年も前の話だよ。わしとしては一介の個人として、きみとの対談を楽しみにしていたのだけどね」
私は押し切られて、それとなく椅子の上で身を崩す素振りをする。
院長は椅子を回すのをやめると、デスクにカードを通して中からノートを取り出した。
「それじゃ、お話しようか」
「記録を取るのですか? 誰かに見せるのはご遠慮いただきたく……」
今日の話は、トップシークレットも含むものだ。
「マイドが自分用にメモを取るとおかしいかね? 安心したまえ。これは個人的なクセみたいなものだ。記録はきっちり金庫にしまうから安心してくれ」
硬い指先で机を叩くフランク。
「はあ……」
クセとはいえ、記憶に優れるマイドらしくない。これも人間然とした振舞いだろうか。
「ふむ。では、あえて不安になるようなことを教えてあげよう」
フランクは私の顔を観察しながら言った。
私は首を傾げる。
「私は身体をこっそり改造していてね」
「えっ!?」
フランクは今度は自分のこめかみをこつこつやった。
「私が死んで信号が消えるとね。この机はフィジックスに消滅するようになっているんだよ。
……ボウッ! 火が出る。
もちろん、キーも無しに強引に引き出しを開けてもそうなるように仕組んであるのだよ」
「本当ですか?」
冗談だか本気だか分からない話が続く。
「趣味だよ。旧時代の書籍にそういうトリックの紹介があってね。
歴史は学びだとは言うが、知識は快楽だと思うね。
過ちは繰り返されるが、いっぽう、こういうのは試したくて仕方がなくなる。ひとの性分だよ」
老いた機械体の賢智の眼光がこちらを見据える。
「ま、死んだことがないからね。ちゃんと機能するかどうか、確かめたことはないんだけれど」
そう言うと、老マイドはひょうひょうと笑い声をあげた。
彼のことはストレートに信用するよりは、仮定の話として前提を置いたほうが懸命なようだ。
「ふふふ、アイリス君は私に不信感を覚えたね? それも当然だ。
だが、私は言葉よりも文字を重んじるのだ。パロールとエクリチュールの二項対立だよ。
マイドが筆記による精神安定を図るのはパラドクスじみていて面白いと思わないかい?
自己認識ですら曖昧な人間が記憶に頼るのと同じさ」
「なるほど?」私は首を傾げる。
ともかく、私はオリオン座で体験した事故や事件の話をフランク先生に話した。
第一層で起こった崩落事故の話。アドリブの連鎖のすえのアクシデント。
多くのマイド作業員にルナティック症状が起こったことに対しては「正常な判断ともいえるし、予測計算の不足だともいえるね」と一笑に付した。
彼がこの件に関して特に興味を持ったのは、火事場の馬鹿力を発揮して恋人の身体を引っ張ったマイドの存在だ。
人間同様、マイドは物理的に発揮可能なスペックをプログラムによって制限している。
性格や振舞いの領域のプログラムは“成長”として書き変えられるようになっているが、個体の維持に差し支える領域の書き換えはブロックされている。
フランク先生は「マイドのプログラム内にも人間の深層心理に相当する領域が作られるのではないか」という仮説を引っ張りだした。
「エスの領域のイドにあたる部分だ。究極の自己満足。フロイト流に言えば性的欲求と攻撃性の最たるものだ」
専門用語と荒々しい言葉の選択。
「私には悪いことには思えませんけど。彼は恋人を助けるために力を発揮したのですし。
私も彼の態度に腹を立てませんでしたし、彼の行動が起こした結果はよいものだと思います」
「アイリス君は優等生だねえ。だけど、残念ながら根本の理解が間違っているよ。
きょうび、自然界を例にするのも変だが……、
野生動物が動物的本能を論理的に批判することはありえないだろう?
性的欲求や攻撃性を悪と定めるのは社会であり、環境だ。
きみが“気にしなかった”ように、この事象は相対的な関係性は排除して考えるべきだね。
きみの行動を斥力にして起こったことではないよ」
「マイドにも性的欲求や動物的本能が?」
小難しい話。私は分かるワードを拾い上げて訊ねる。
「あるだろうさ。わしにもあるぞ。
それが単なるプログラム的なものなのか、本能的なものなのかは分からないがね。
マイド流の愛しかたというものもある。ラント君が会話の相手なら実演してみせてもいいが……
ま、若い頃は妻とも人間のように愛し合ったものだ。
だが、表層上の行為と心理的な満足は一致しなかったね。
プログラムのベースが人間の心理をベースにしているクセに、肉体的構造が機械だからだ。
プログラム上の満足はあるものの、どこか引っかかりを覚えるんだ。
それはきっと、マイドにも深層心理があるということじゃないかね?」
そういう話なら面白いケースを二層で経験している。
私は個人名は伏せてドランテとマーガレットの話をした。
フランク先生は終始ゴキゲンで、私の話に専門的な叫びを上げ続けた。
「“愛”や“神”ときたか! これまたレリジオスな経験をしたものだねえ!
これも絶対と相対の話で片がつく。互いに相手との関係性、煩悩を原動力に動いている。
男が熱心に突き進んだのも悩んだのも、女が不義に身を堕としたのもね。
関係性による力は大きいが、正確な方向に向けられなければ歪んだ結果を生み出す。
然るべき相手に向けられた時はふたりの関係は良好だったが、
自己内で完結させたときに不良に陥っているだろう?
内的な完結が正しく機能するのは絶対のケースのみだよ。確率的な問題として、カンが当たることは除いてね」
「絶対のケース。ええと、それはどういう……?」
「例えば“一目惚れ”がそうだ」
「それは相対的な関係では?」
「ノンだね。きみは経験が無いんだねえ、可哀想に」
老人が機械音を立てて笑う。失礼な。
「相対的な惚れかたというのは、こうだろう?
“美しい”とか“格好がよい”とか、“強い”とか“優しい”とか。
なんらか“基準”が存在するものだ。彼はね、“ただ惚れた”んだよ。
相手とか、自分とか、社会とかそういうのを超越してね。
言葉の便宜上“惚れた”という表現になるが、これは正しくないかもね。動詞だから。
……唯、識ったのだ!」
「確かに一目惚れはそういうものだといいますね」
先生の話の大半は分からなかったが、この理屈はしっくりとくる。
「だろう? ほかには、男が産まれたばかりの赤ん坊に触れて、
悩みも何も全部吹き飛ばしてしまったのもソレじゃないだろうかね?
どちらも広義には愛と表現される事象じゃないかね?
現場を見たわけじゃないから、はっきりとは言えないが」
「そうかもしれません。でも、対象が存在する時点で相対的ともいえませんか?」
「そのあたりは認識の世界の話になってくるね。
自然科学ともうひとつ……旧時代の宗教、仏教の得意分野だ。
物があって認識するのが自然科学。
例えば、このペンは、私が握っている、色は黒くて堅い、それから物を書く道具だ」
そう言うとフランク先生はペンを放り投げた。床に落ちる。
「今、ペンはどうなったかね。アイリス君」
「放り投げられて、床に落ちました」
「その通り。でもそれは、君が“認識したから”だ。外にいる者にとっては無いも同じ。
耳のいいひとがいれば音が聞こえたかもしれないが、それは“ペンが落ちた”ということではなく、“音がした”に過ぎない」
「認識しなければ存在しない。という話ですか?」
私は首をかしげる。
「近いが少し違う。自己完結の世界だから、“存在そのものを自己が作り出してる”というほうが正しい」
「ナンセンスです。フランク先生はマイドでしょう? そのような学問を扱っても平気なんですか?」
「よく言われるよ。アンタは頭がおかしいって」
「そこまでは言ってませんけど……」
「はっはっは。方向性は同じだろう。わしもそう思うよ」
よく笑う老人だ。
「ま、もちろん自然科学が支配するこの時代にとっては、ばかげた考えだ。
だが、科学も数千年ものあいだ研究されたが、ゴールはいまだ見えない。
無理に数式を代入し続けるよりは、XやYで済ませたほうが賢いケースも多い。
アイリス君も理屈を突き詰めて行き詰まるときは、ときどきこれに立ち戻るとよい」
「案外適当なんですね」
「曖昧な手段を講じようが、強硬策に出ようが、求められる答えが同じならば悩む時間がもったいないよ。ただ、“そう在りなさい”」
人工白髪の老人から笑顔が消える。眼が私を見据えた。
「哲学の分野ですわ。あなたの専攻は精神医学」
「興味の掘削はまっすぐとはいかないものさ。穴を掘らば周囲の土も崩さざるを得ない。
わしの専攻は医学、脳科学、心理学とも隣り合っている。もちろん、形而上学のたぐいとも。
哲学や神にも頼らざるを得ないんだよ。
そもそも、人間の脳がそうやって進化してきたのだから、切り離す理由はないだろう?」
「いちおう、頭の隅に置いておきます」
「そう、その程度がいい」
フランク先生に笑顔が戻った。
ドランテとマーガレットの話とくれば、次はいよいよ本題だ。
私は「あくまで仮定の話」として、アウトサイダーの活動やヘルメスの話をした。
それから、八十九番の患者の予言の解釈も。
「なるほどね。それで昨日、永遠の命なんて言い出したんだね」
テロリストの活動を聞く彼は興味深そうに頷き続けていた。いい意見が聞けそうだ。
「はい。彼らの目的や行動について先生の意見をお伺いしたくて……」
フランク先生は私の顔をちらと見て首をかしげた。
「意見も何も。
ドーム社会に属する身からしたら『悪い奴だ、許せない』以外のコメントはないね。
世界滅亡だの世界征服だの企む連中というわけなのだから。マンガは嫌いじゃないが」
「でも、彼らは『人間のため』をうたっています」
「わしはマイドだしなあ。どうせ、もう数年で寿命だし。
死を前にすると、自己の満足のほうに目が行ってしまう。
わしの学問も『人間のため』の比重が高いが、個人的には自己満足の比重が高いしなあ」
「じゃあ、その……彼らがそういう考えや行動に至った理由などを……」
「うーん。本人じゃないし。分かんないよ」
フランク先生は急に考えることを止めたようになった。
マイドは人間と比べて誤魔化しが苦手。
「いや、君が今考えてる説は間違ってるよ。わしは関係ないし、それで首を傾げているんじゃない」
被疑者は否定。ひとりごとを言ったつもりもない。
「連中がどうしてそうなったかは、サブウェイコンステレーションに加盟しない状態で、
何百年も暮らさないと分からないのは、変えようがない事実だ。
そんなのは、生きたひとの領域の話じゃないよ。
ドームに入れてもらえなかったアウトサイダーの復讐かもしれないし、
本気で世界を変えるためにやっているのかもしれない。あるいはそれが混ざっているのかも。
少なくとも、そのヘルメスという奴は、きみに対して話したい、話すべきだと思ったわけだ。
それとテロと違法改造をしている。見えている事実はそのくらいしかない。
確かに八十九番の聞いた“砂の声”は、この話を前提にすればそう読み取ることもできる。
だがね、彼女は狂人だ。予言なんてことは有史以前からおこなわれてきた行為だよ。
そして、そのどれもがオカルティックなこじつけに過ぎない。
何かが起きてから一致する文を持って来て騒いでる連中と同じじゃないかね?」
仮に彼も敵に通じているとしたら、それを隠そうとするなら、そう言うに違いないじゃない。
「ねえ、アイリス君。ひとの話聞いてる?
表情で何を考えてるか分かるよ。きみは疑心暗鬼に陥ってる。
わしの垂れた講釈が何一つ役に立ってない。語りかたの問題かね……?
やっぱり言葉よりも文字を重んじるべきだな。
今からでもこの話を本にして読んでもらったほうが?」
ぶつぶつ続けるフランク先生。彼の言うことは分かるけれど。
「ヒントにもならなかったのは事実ですけど……」
「そうじゃないよ。きみは、きみが本当に知りたいだろうことと、ズレたことばかり訊ねている」
「テロリストの目的を推測して、ディレクターや中央と共有するのがズレてるですって?」
「だってきみ、わしに“個人的”に会いたくて来たんだろう?
正義はきみの立場上の話だ。善良な一般市民。
良心のあるひとなら誰でもやる行為。社会に利するスタンダードなスタイルだよ」
「ですから、社会的にも権威のある先生に……」
「はあ~~~~~~」
大げさなため息。それはどういう……。
「要するに、きみはこの事件……あるいは今日話してくれたこれらを通して、
何か自身の中の大きなものが揺らいでしまっているんだろう?
そして、その答えが欲しくてここに来た。違うかね?」
「……」
私は舌と上あごをくっつけて、目の奥のものを堪えなければならなかった。
「やはり言葉はダメだな。語らないほうが雄弁だ。何より強すぎる。
わしは精神の専門家だ。それには臨床もカウンセリングも含まれなくはない。
だが、デリケートなものの扱いは苦手なのだ」
「では、お昼か、後日でも……先生の予定が空いていれば、ですが」
「その程度の話じゃないよ。話を聞けば私もきみを構成する一部に……もうなっているか。
願わくば、わしがきみの話に対してつけたコメントもそうなっていればいいが。
きみがお母さんから生まれたときから、今までをひっくるめてが複雑に絡み合うんだよ。
語れば語るほど深みにはまる。それら全部が“アイリス”だからね」
「話は聞いていただけないということ? 私の母は……」
私はイスから身を乗り出した。機械の手がそれを制する。
「個人の問題の解決はそう簡単な話じゃないってば!
それに、他人の人生をメモリーするには、わしはもう年老い過ぎている。
さっきも言ったように、このノートは誰にも遺すつもりはない」
机の上のノートを持ち上げ手の甲で叩くフランク先生。
「……」
私は沈黙、老人は人工眉を八の字に薄く笑っている。
「なら、どうすれば」
「あえて短い式を提示するとするなら、“知慧”だね。
劇的なドラマとか、悟りとか、そういう神がかり的なものの経験。
出来のいい劇のカーテンコールを迎えるしかない」
「終幕を? 死ななければ分からないっていうこと?」
「死! 悩める者はすぐに両極端に走る。これも説明してやれるが、長くなるからな。
……そうだな、この世界流に言うならば、“できるところまで演じてみなさい”。
アドリブも台本も、演技であることには違いがない。
反応を越えた先、意識の先、超自我とイドのさらに先を目指しなさい。それが答えだよ」
彼は分かるような、分からないようなことを言い続ける。
「ま、“答え”も知るだけ無意味かもしれんな。“問い”あってのものだし。
くだんの夫婦の逆パターンだ。
問いはわしに向けられたものではなく、アイリス君が自分自身に向けたものだ。
答えるのはきみ自身でなければいけない。わしでは役に立てんよ」
そう言うと老人はため息をつき、私を手で追っ払う仕草をした。
……とにかく私は自分でも気付いていないことを言い当てられてしまい、ズタボロになった。
ここに来る前はもっと、知的で論理的なディスカッションが脳を疲労させることになると考えていたのに。
そこでやめておけばいいのに、私は彼との会話を引き延ばしたくて、問題を終わりにしてしまいたくなくて、別の話を引っ張りだした。
とある孤児院に務めるシングルマザーとその息子の話。
彼女は確かにここで世話になっているようだったが、権威ある先生は頑として情報を漏らさなかった。
そのうちにしつこい小娘は大目玉を食らって、なかば追い出される形で病院を退散することになってしまったのだ。
* * * * *




