Page.38 小さな虹
「ちょっと、ちょっと! ヘンリー! 本気なの?」
私は先をゆく車いすに向かって訊ねる。
いくら母親との入浴を回避するためとはいえ、代わりに私とだなんて、何を考えているのだろうか。
提案するクララさんもクララさんだ。
クララさんはヘンリーが返事をすると、しぶしぶながらも彼を解放して別の仕事へと戻っていった。
「ねえ、ヘンリー。聞いてるの?」
ヘンリーは部屋を出てからひとことも話さない。
本当に彼をお風呂に入れなきゃならないの?
プライベートの遵守される社会において、肉体的、あるいは性的に関わる事柄のタブー視は強く、たとい不自由な子供とであっても不適切な入浴は……!
私は目が回りそうになっている。ぐるぐる。
「やあ、ヘンリー。風呂は早い目に済ませてくれよ」
「もちろん」
脱衣所に到着するまでにほかの職員ともすれ違ったが、助けを求め損なってしまった。
というか、助けを求めるにしてもどんなふうに言い出せば?
「彼女に手伝ってもらうの?」
「そんなとこ」
「あああ!」
私にだって秘めごとの一つや二つはあるが。できれば、そういうのは然るべきパートナーと共有したかった……!
「シャワールームもバスも時間交代制だ。わざわざ僕のためだけに時間を空けるなんて、ばかばかしいよね。早く済ませよう」
車いすの少年が言う。
「ま、どうせ大人たちが入れるのは、もう少しあとなんだけど」
「ヘンリー!」
そろそろ返事をしてちょうだい。
「そう怒らないで。まさか本気でアイリスさんと入ろうとなんて思ってないよ。ママから逃げたかっただけ」
「……本当に?」
「本当だよ。入りたかったの?」少年がからかうように笑う。
「ま、まさか。でも入らないと怒られるわよ。クララさんならにおいを嗅いででも調べてきそうだけど」
「よく知ってるね。だから、アイリスさんには手伝ってもらわないと」
「どっちよ!」
やはり私は彼のプライバシーを覗かなければならないのね……!
「あっちさ」
ヘンリーが指さしたのは脱衣所の扉だった。
「ママが入ってこないように見張ってて欲しいんだ。事故防止のために鍵がないんだよ、ココ」
「……何をするの?」
ヘンリーは大きく息を吐いた。生物が息絶えるときのような、最期のため息のようだ。
「アイリスさん。絶対に声をあげないでね」
少年はシリアスな表情で私を見つめるた。青い瞳は力強い。
どうやら私が取り乱していただけで、思ったよりも真剣な話の流れになっているらしい。
「……分かったわ」
私も相応に見つめ返す。
沈黙。水滴の落ちる音。
「見てて」
互いの視線は信頼を紡げたようで、少年の眉が緩められた。
それから、ヘンリーは車いすの手すりを握ると、両腕に力を込め、生まれたての小鹿が震えるように(もちろん見たことはないけど)……。
「……あなた、立てるの?」
私の目の前には自身の両足で立つ少年の姿があった。
「じつは僕の脚は、もうどこも悪くないんだ」
「どういうこと? ナイトさんは生まれつきだって言っていたわ」
「ママがそう教えたんだと思う。確かに僕は、小さいころは歩けなかった。
だけど、それは栄養不足からくる病気だったってだけで、
僕がここで暮らすようになったらよくなっていって、十歳の時には治っちゃったんだよ」
まるで治ったのが悪いことのような言い草ね?
「ここで生まれたって聞いたわ」
「建前上はそうしているだけ。ママは僕を産んだときは十六で、もうここを出てひとり暮らしをしていたんだ。
だけど、誰にも言わないで、病院にも行かないで、こっそり僕を育てようとした」
「どうして?」
「父親が分からないから。|今は捕まって監獄ドーム《・・・・・・・・・・・》だよ」
にべもなく出自を語る少年。なんとなく話の筋が見えてきた。
「施設のひとが訪問に来た時も隠してたんだけど、赤ん坊だった僕が泣いてバレちゃったんだ。
僕の状態が悪かったから施設のひとは僕を病院へ入れたがったけど、
ママは施設のひとを殴ってまでそれを阻止しようとした。
マザーが言うには、『ママはどうしても僕を守りたかった』らしい」
あのクララさんがひとに手を上げている姿は想像できない。
「けっきょく、ママは仕事を変えて、僕といっしょにここで暮らしてる。
僕も最初は本当に歩けなくて、みんなに世話をしてもらわなきゃいけなかったんだけど、
そのうちに少しづつ足が動かせるようになった。
ほんとはね、もっと早くにでもそうなるはずだったんだけど、
ずっと介護されてきたせいで神経や筋肉が衰えてしまってたから、気付くのに時間が掛かっちゃった。
僕は八歳までママに抱っこされたままだったんだ。そのせいだって。
お医者さんは骨格が少し歪んでるけど、成長期のうちに矯正してしまえばいいって」
「クララさんは喜んだでしょう?」
ヘンリーは困ったような顔をして首を振る。
「ママだけは気付かなかったんだ。お医者さんも、マザーも大人たちも気付いたし、僕もママの前で足を動かしたりもしていたんだけど、それでも気付かなかった」
そんなことが?
「ママのお医者さんが言うには、今はまだ『クララには歩けない僕が必要』なんだって」
「今までずっと、気付かないままなの?」
「今みたいにおおっぴらに歩いたりしなければ、脳が見ないフリをしてごまかせるんだって。
大人たちには内緒にしてもらってる。ほかの子たちは僕がまだ歩けないと思ってる。
ナイトさんだって僕が歩けることは知ってるんだ」
「……それも、全部台本なの?」
他人の台本を読むことなんてめったにないけど、そんな話は聞いたことがない。
彼は子供のころからずっとそんな役を演じ続けてきたっていうの?
「台本は、ママに見られても問題ないように書かれてる。
マザーとお医者さんから話を聞いたドーム長が、Hi-Storyに直接申請を出してくれたんだ。
普通なら病気が治ればそれなりの内容に書き換えられるはずなんだけどね」
「ドーム長って、ラント座長?」
「そうだよ。ほかに誰がいるの?」
あの座長が。知らなかった。
「でも、いつまでこんなことを?」
「そうだね。僕も十六になれば配役が与えられるし、進路も考えなきゃいけない。
脚が悪いことになってるままだと、困ったことになっちゃうよね。僕の台本はずっとウソのままになっちゃう」
ヘンリーは肩をすくめた。
「ここを出たらどう?」
「それはママが許さない。ママはね、無理やり僕を引き離そうとすると、ひとが変わったようになっちゃうんだよ」
彼女はずっと何かを引きずっているんだわ。多分、ヘンリーが生まれる少し前から。
「まだ、彼女にはあなたが“必要”なのね」
「うん。じつを言うと、昼間に森の中へ散歩に行くのも、こっそりと足腰を鍛えるためなんだ。
車いすのそばだけを歩くようにして、誰かが来たと思ったら転んだフリをするんだ。
あらかじめ車いすをひっくり返すこともある。今日は本当に転んだんだけどね」
「そうなの。でも、やるならもうちょっと奥でやったほうがいいわね。あの位置からだと私には見えてしまうわ」
「今日は特別だったんだよ」
「特別?」
「……マザーの部屋にアイリスさんが見えたから」
そっぽを向く少年。
「お客さんが珍しいからってダメよ。私が言ってしまったら、どうするつもりだったの?」
「さあ。その時はその時だよ」
ぶっきらぼうに答える少年。
「まあ……。そういうことだから、僕はひとりでお風呂にも入れる。手早く済ませるから、そこで扉を見張ってて」
そっぽを向きながらヘンリーは言った。
「分かったわ」
私は扉のほうを向いて彼が終えるのを待つ。
しばらく衣擦れの音が続いたのち、いびつな足音。少し経ってから水が床を打つ音が聞こえ始めた。
私は改めて浴場を見回す。
脱衣所の先にはいくつかのカーテンの付いたシャワールーム、それからすりガラスの扉。
ぼやけたシルエットからして、向こうは湯船のある部屋だろうか?
脱衣所にも小型のバスタブがいくつか置いてある。これは乳児用かしら。
それからいくつもの洗面台。職員用と思われる化粧品や整髪料、髭剃りのたぐいもちゃんと備えてある。
洗濯機もここに設置されている。壁内蔵型。中央でも似た型を見たことがある。最新式かしら。
「こういう施設の細かいところが行き届いているのは感心ね」
「何か言った? アイリスさん」
シャワー音の中からヘンリーの声。
「ううん、何も!」
ほどなくして水の音が止まる。私はもう一度壁に向き直った。
「早くない?」
「早く済ませるって言ったでしょ。ママが来るかもしれないし。『アイリスさんが分からないことがあったらいけないから~』って」
声まねをして笑うヘンリー。ゴキゲンだ。
「よし、じゃあ僕は先に……」
「ちょっと待って。出るなら一緒のほうがよくないかしら?」
私はヘンリーが外へ出ようとするのを止める。
「どうして?」
「だって、普段は文字通りいっしょに入ってるんでしょ? 職員と入っているときはどうしてるの?」
「ああ、そっか。いつも男の職員のひととの時は、一緒に出てたっけな」
「私も手早く済ませるわ」
「女性はもっと時間が掛かるものじゃないの?」
「だてに砂の洗浄施設を毎日使ってないわ。時間が掛かるのは髪を乾かすのくらいよ」
「なるほど。了解」
私はヘンリーの車いすが回転したのを確認して服を脱ぎ、シャワーの個室の扉を開けた。
シャワー室の中も蛇口ではなくパネル式の上等なものだ。
旧時代の学校のシャワールームのようなカーテン式で区切られているのは、やはり安全に配慮するためなのだろう。
私は、なんとなく視線を感じながら(錯覚だろう)手早く仕事を済ませた。
次にマンションでお風呂を使う時は、普段の倍の時間をかけることにしよう。
「オーケー。こっちを向いても、いいわよ」
私は身体を拭いて、元着ていた服を身につけ、ヘンリーに声を掛けた。
彼は座り心地悪そうにしている。
「でも、髪を乾かすのに時間が掛かるから、もう少し待っててもらってもいい?」
「分かった」
洗面台の鏡に向き合いながら髪をタオルで拭く。鏡越しにヘンリーがこちらを見ている。
「お母さんのこと、気遣ってるのね」
沈黙に居心地の悪さを覚え、話題を振った。
「誰でも親は大事さ。アイリスさんのご両親はどんなひと?」
「母は、いいひとと言えばいいひとね。理屈っぽいのが玉に瑕だけど」
答えてから、鏡の中の私は好意的ではない顔をしているのに気付いた。
「ふうん。お父さんは?」
「父は居ないわ」私は短く答える。
「……ごめんなさい」
「話を振ったのは私よ。あなただって居ないでしょう」
私は少し笑ってしまう。
「みんな色々あるのに、“デリカシー”が無かった」
「若いうちはそんなものよ。大人になってもマナーの悪いひとだっているし」
答えながら棚の中を漁る。
トリートメントとヘアアイロンまで出てきた。借りてしまおう。
「ヘンリーは、どんな大人になりたい?」
「うーん……分からないな。会うのは学校の先生と、中庭のひとくらいだしなあ。みんな、いいところもあるけど、ダメなところもあるもんね」
賢い子。
「私も自身を大人として満足してないわね。ひとは死ぬまで成長を続けなきゃいけないのね。じゃあ、何かやりたいことはないの?」
「今のままだと、できることも限られるし。あまり考えられないかな。やりたいことを探すのが目標かな」
「……そうね」
「ママがよくなってくれるといいんだけどね。成長して欲しいね」
鏡越しの少年は生意気な顔だ。
それは難しいことだろう。
精神上、心理上の病というものには現代にも、旧時代にも特効薬がない。
「ま、その辺はじつは、僕に考えがあるんだけどね」
「えっ?」
私の髪を弄る手が止まる。
「今はまだ内緒さ。上手くいくかどうかも分からないし。……あ、そうだ。さっき言ってた夢、強いて言うなら、“虹が見たい”かな」
「ロマンチックなことを言うのね。知り合いに似たような話をした子が居るわね」
トリートメントを塗り終える。
ルーシーにもいつかは人工毛髪にトリートメントを塗る日が来るのだろうか。
「その子はなんて言ったの?」
「彼女は森が見たいって言ったわ」
「それなら叶いそうじゃない? パジェンターになればいいだけでしょ?」
「この付近に森は無いのよ。遠くまで行くか、よそのドームのパジェンターにならなきゃね。それに、ただ見るだけなら、虹の方が手軽に見れるものなのよ?」
「ほんとに?」
ヘンリーは少し笑っている。
「ほんとよ」
私は大真面目に答える。
「見せてあげるから、ちょっと待っててね」
首を傾げるヘンリーを待たせ、私はヘアアイロンで髪を伸ばしていく。使い心地も悪くない。
誰かの私物なのかしら。持ち主が分かったらお礼を言うべきね。
私が髪にアイロンを当てているあいだ、ヘンリーは黙って私の動作を見続けていた。
ひとに見られながら髪を整えるのは、ずいぶんと気恥ずかしい。
ヘンリーはそれなりに顔立ちが整っている。眼も綺麗だ。口元が少し子供っぽいくらい。
それも車いすの高さの都合からほとんど見切れてしまっているので、大人の男性と変わりない目鼻ばかりが見えている。
私は平静を装っていたが、少しだけ背徳的な気持ちを弄んでいた。
たまにはこういうのもいいのかも。
「すごい。まっすぐになった」
「今は髪の具合がいいみたい。シャンプーもいいものだったから」
「そうなの? 違いがわからないな」
「男のひとはそうかもね。今朝は調子が悪かったから、少しパーマをかけてたの。本当はこっちのほうが好み」
アッシュブロンドを揺らしてみせる。やはりストレートはいい。
「僕も、そっちのほうが好きかも」
鏡の中の少年は顔を引っ込めて言った。
「……よし、それじゃあ虹を作るわよ」
化粧水を塗り終えた私は振り返る。
「作る? 作れるの?」
首を傾げるヘンリー。
「そうよ」
私は照明のパネルを操作する。シャワールームの明かりをひとつ落とす。
それから脱衣所の天井灯を消して、洗面台の明かりを点ける。
「どうするの?」
それからさっきまで使っていたシャワールームに向かい、カーテンを開けると、粒の細かい設定で水を出す。
このお高いシャワーならではの機能。
水の粒が散り、空気がさらに湿っていく。高い位置にも水を撒いておく。
「こんなものかしら。ヘンリー、こっちに来て」
「水をまいただけじゃない? ……わっ」
ヘンリーは目を丸くした。
水滴と光源を利用した単純な大気光学現象。
赤から紫までの光のスペクトル。それは私の狙い通り、くっきりと表れた。
「どう? すごいでしょ」
私は彼の車いすのうしろから身を乗り出し、耳元でささやいた。
「すごいや」
ヘンリーは一度、鼻を鳴らしてつぶやく。
「お姉さんのこと、尊敬した?」
私は訊ねる。
「した。……でも、やっぱり空に掛かる虹が見てみたいな」
「それなら私も見てみたい。実現できれば、それはきっとすごいことだと思うわ」
森も不可能ではない。ここも森の中にある。ありえないのは空の森。
この程度なら虹も作れる。
透明なボトルとライトがあれば、今よりももっと楽に見れる。難しいのは空の虹だ。
「……そっか。こういうことを仕事にするのもいいな」
ヘンリーがつぶやく。
「虹を探すの?」
「ううん。大きなのができないから、小さいのを作る。完璧を目指さなくったって、何かの代わりとか、足しになることをするのも、悪くないんじゃないかなって」
わずかに大人びた声。私は身を引いた。
今は彼の顔を見ないほうがいいかもしれない。子供に手を出すのは旧時代からのご法度ですものね。
虹が消えるまで眺めて、しばらくはお互い無言のままでいた。
ヘンリーにはちゃんと大人になって欲しい。
年齢や身体、こころだけじゃなくって、社会的にも。そして何より、クララさんから見ても。
彼はそれについては考えがあると言っていたが、なんだろう?
多分それは、今日明日のことじゃないだろう。
私がオリオン座にいるあいだにはきっと、訪れない。
だから、私ができるせめてものこと。
私はささやかな幸福を胸にしまい、訪れようとしている危機に再び意識を戻す。
ヘンリーやクララさんのことは、このオリオン座とラント座長、それにHi-Storyが護ってくれる。
私がすべきことは悪を叩くこと。
ヘルメスが接触を図って来たら、今度こそ中央送りにするか、アウトサイダーたちの情報を引き出せるだけ引き出すことだ。
「平和を破壊しようとする連中を見逃すわけにはいかない」
私は部屋でひとりノートをつけながら意志の炎を燃やした。
少年が言ったように、大人にもいろいろあるのだ。
社会システムにだってデメリットのひとつふたつはある。
ここのところ台本や配役に対して揺らぐところがあったけれど、やはり私たちには掛け替えのないものなのだ。
『だから守りたい。絶対に』
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