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Page.37 母親

 私は、マーサとナイトさんに連れられて孤児院のキッチンにやってきた。

 話では聞いていたが、キッチンは料理店の厨房のように大きくて驚いた。

 銀色に輝く厨房では、すでに何人かの職員が分担して夕食の支度を始めている。


 残念な話だが、私は料理があまり得意ではない。


 できないわけではないの。フィーリングやアレンジが苦手というだけの話。

 レシピにしっかり従えば、一応はなんでも作れる……つもり。

 そうでなくては化学実験なんてできないし、趣味のお砂糖を使ったお菓子作りなんてもってのほかだ。

 あとはやっぱり、台本もなしにこういった見知らぬ場所で見知らぬ人と混じって共同の作業をするというのがちょっと、ね。


 私はエプロンの貸し出しと共に“スクランブルエッグ役”を仰せつかったのだけれど、巨大な銀色のボウルを前に目や手を泳がせなければならなかった。


「泡だて器が見当たらないわ……」

 なんとか殻が混じらないように卵を割り終えた私は、たくさんの黄色い目玉に催促をされる。

 乳幼児と卵アレルギーの子供を除き、職員を加えた総勢四十八名分のスクランブルエッグ。

 割り終えたと言ったが、ボウル一回分として指示されたのが一ダース分だっただけで、あと三回は同じことをしなければならない。


「はい、“しゃかしゃかするやつ”」

 若い女性職員が私に泡だて器を手渡してくれた。


「ありがとうございます」

 私は女性にお礼を言ってボウルに向き合う。


 しかし、泡だて器を突き立てたものの、どうやって混ぜればいいか分からない。

 これだけの数の卵を一度に混ぜた経験などなかった。

 重いし、ちっとも黄身が割れる様子もない。ボウルの中をたくさんの目玉が泳ぎまわる。


「調味料入れ忘れてますよ~」

 間延びした声が聞こえてくる。

 うっかりだ。泡だて器を探すのに夢中ですっぽ抜けてしまっていた。


 私は塩コショウと合成調味料と生クリーム(お菓子博士である私の談では恐らくホンモノの動物性クリーム)を前にまた固まってしまう。

 スクランブルエッグは得意でかつ苦手な料理だ。

 どのレシピを見ても調味料については“少々”とか“適量”としか書かれていない。

 その上に、混ぜかたや注ぎかたも明確な指示がない。


 自身のぶんを作るのであれば何も考えなくていい分楽ちんなのだけれど、他人のぶん、それも大切な子供たちのためとなると、これは巨大な壁となって立ちはだかるわけで……。


「あまり深く考えなくてもいいですよ~」

 声と共に私の背後から腕がにょきりと生えてきて、調味料たちを次々と入れはじめた。

 見た感じ極端な多いとか少ないとかはなさそうだが、法則性が微塵も感じられない適当さ。


「テキトーでいいんですよ~。なんならお砂糖も入れる日もありますし。子供たちは今日のは甘いとかしょっぱいとか言って、楽しんで食べてくれますから~」


「そうなんですか。楽しそうでいいですね」

 私は戸惑ってしまう。

 両サイドから生えた手は調味料を入れるだけでなく、ボウルと泡だて器をつかんで、私の仕事を代わりに進め始めたからだ。

 女性の細い腕からは想像出来ないパワーでかき混ぜられる大量の材料。

 軽快な音と共に白と黄色はどんどんと混ざり合っていく。

 こういうのを機械然というのだろうか。工業用の撹拌機のようだ。


「あの、あとは自分で……」

「一度、お手本をお見せしますね~」

 背後に居るであろう女性の息が耳元を抜ける。くすぐったい。

 身体もしっかり密着して厚めの服越しでも体温が分かった。


 材料たちがすっかりかき混ぜられたあとに私はようやく解放される。

 女性は見たこともない大きなおたまをつかむと、材料をすくい、少し深く大きめのフライパンにタネを流し込んだ。


「ひとりぶんづつ注いで……」

 おたまを置くと同時にパネルを操作して火を強める。


 あれっ? 強火にしても大丈夫なのかしら?

 過去の失敗が頭によぎる。

 しかし彼女は腕を器用に動かし、中身を遅く、ときおり早く、フライパンごと動かしつつ、へらを使って……。

 とにかくあっという間に出来上がったそれを横の白いお皿に乗せた。

 見事なスクランブルエッグ。私ならこれを作った日にはまる一日上機嫌でいられそうな出来栄えだ。


「お皿はこちらの台に置いておけば、あちらのかたが隙を突いてベーコンとお野菜を持ってくれますよ~」

 あちらのほうを見ると、黒スーツに可愛らしいエプロンと髪にバンダナを捲いたナイトさんが何やら別のコンロで作業をしているのが見えた。


「えっ」

 視線を自分の作業場に戻すあいだに信じられないものが目に映る。

 お皿に乗せられたおいしそうな黄色には、すでにベーコンとブロッコリー、プチトマトが添えられていた。


 いつの間に……!?


 ナイトさんだって手伝いの経験があるとはいえ、私と同じ客なのに。


「よし、私も……」


 私は巨大な黄色い海を湛えたボウルに立ち向かう。


 ……。


 炒められたベーコンを受け取って、それとブロッコリーとプチトマトを添えて……。


「ナイトさんが手伝ってくれると助かります~。公務中にごめんなさいね~」

「いやなに。今はもう個人の時間ですから」

 作業台越しに交わされる余裕の会話。


 ベーコン、ブロッコリー、トマト。


「ヘンリーも喜んでましたよ。今日もナイトさんが来てくれたって」

「そうなんですか? 僕は嫌われてるんじゃないかと」


 ベーコン、ブロッコリー、トマト。


「全然そんなことないですよ~。あの子(・・・)ったら、私とふたりの時はナイトさんの自慢ばかりで。まるで自分のことみたいに」


 ベーコン、ブロッコリー……なんですって?


「彼もそのうちに大人ですからね。僕なんかが何か参考になればいいんですけど」


 ベーコン、あの女性はヘンリーの母親なのかしら。

 ブロッコリー、でも、見たところ、私とたいして年齢は変わらないような?

 トマト、若作りにしてもヘンリーは十四だし。お姉さんかしら。


「私が母親としてもう少ししっかりできてればいいんですけど」

「クララさんは立派にやってますよ。ヘンリーの奴もちゃんと育ってます」


 ベーコン! やっぱり母親なのね。

 どう年増に見積もったって、ブロッコリー二十代終盤くらいなのに。プチトマトなのかしら。


 私はそれから無心で盛り付けを続けた。


 クララさん。

 料理の出来る。若くてよくできたお母さん。私の母とは大違いだ。


 私の母親は理屈っぽくて、研究の大好きなひとだ。

 物心ついたころから食事はレトルトか外食ばかりだったし、食事の時間をひとりで過ごすこともずいぶんと多く、ほかのひとの母親の話を聞くたびに、「うちはほかとは違うんだ」って思ったものだ。


 だけれど、ちゃんと対話はしていたし、私にいろいろなものを与えてくれた。

 もちろん、物質的な意味合いだけでなく、様々なことを教えて、体験させてくれた。

 それでも心の底でずっと引っかかり続けていたのは、何をさせるにしても必ず“理屈”や“理由”がついて回ることだった。


 「楽しいからやりましょう」とか、「ひとが嫌がるからしてはいけません」ではなく、「子供の舌には苦味が強く感じられるので甘い味付けにしました」とか「自重を扱える筋力とバランス感覚を鍛えるのにこのスポーツはよろしい」とかそういう“ワケ”だ。


 救いだったのは、母は反対すべき“ワケ”が見つからない場合はなんでも私の希望を通してくれたことだ。

 だから私は何度も不思議の国を楽しむことができた。

 彼女は忍耐強かった。多分一〇〇〇回以上は読んでもらっている。

 私の母だから、私だけの母だからできたことだ。

 もしも、私の母親がクララさんのようにこう、ふわっとした人だったら、私ももう少し違う大人になったのかしら。


 あいにく人生は一度きり。対して母親は様々。


 母のようなひとや、クララさん。

 マーガレット……は上手くやれるだろうか?

 “マザー”であるマーサも母親のようなものだろう。

 いつかはマイドであるルーシーやウルシュラさんも母親になるかもしれない。


 責任を取って私だけ黒……こうばしいスクランブルエッグを平らげた以外は、食事は賑やかで楽しいものだった。

 子供たちは思いのほか行儀がよく、食べ残しもなく、あらかじめ決められたグループごとに三度に分けて現れた。

 片づけまでをすっかり済ませたらすでに時間は午後十時だ。

 食事係が食後の労働に勤しんでいるあいだに別の職員は子供たちを風呂に入れる別の戦いに赴いている。


 けっきょく、私はなし崩し的に『中庭』で宿をとることになった。


 ナイトさんは初めから私にそうさせるつもりだったのかもしれない。

 ノートや報告書のためにひとりになれる時間さえあれば、私はどこでも構わないのだけれど。

 どうせ今朝の研究所のぶんはでっちあげで済むし。


 私は贅沢にも職員用の予備の部屋をひとつ借りることができた。

 よし、お風呂が空くまでのあいだにノートを……。


「こら~、ヘンリ~。待ちなさ~い」

 ふやけたような声が浴場のほうから聞こえてきた。廊下から車いすのモーター音。

 私の部屋の扉が開かれる。


「あっ、ごめんなさい! 空き部屋だと思った! アイリスさん、かくまって!」

 ヘンリーは遠慮なしに中に入ってくる。


「どうしたの? クララさんから逃げてるの?」

 私は扉を閉めて、いちおう鍵も掛けてやった。


「……そうだよ。ママはいまだに僕とお風呂に入ろうとするんだよ!? これって異常じゃない?」

 彼は声を潜めながら言った。


「そうね。ヘンリーも子供じゃないものね」

「毎日なんとか逃げたり身体を拭いたりして済ませてるんだけど、もううんざり!」

 昼間に見せたちょっと気難しそうな彼とは一転。

 コメディ映画の主人公のようだ。私はこちらのヘンリーのほうが好きかもしれない。


「じゃあ、たまには一緒に入ってあげたら?」

 少し意地悪。

「冗談じゃないよ! そんなことをしたら大人になったときに“すけべ”とかいう配役を貰いそうだよ! ……あるのか知らないけど」


「そうね。それはちょっとゴメンかも」

 私は肩をすくめる。


 ナチュラルにラント座長みたいな行動を取る配役があってたまるか!


「でしょう? ママったら着替えも手伝おうとする。いい加減、自分ひとりで着替えられるっていうのに! 食事の時に口を拭くのでさえ手伝おうとするんだよ?」

「そんなことしていたかしら? 食事の時は私も一緒だったけれど……」


 思い当たらない。

 私は食事中も楽しく話しているナイトさんとクララさんを盗み見ていたから。


「それはナイトさんやアイリスさんが居たからだよ! お客さんが居ないときは百パーセントだよ! ママからは逃げられない」


「愛されてるじゃない」

 過保護だと思うけど。

 ほんと、母親にもいろいろあるものね。いいところも、アレなところも。


「アイリスさん、顔が笑ってるよ! ……いけない! あの足音は!」

 しーっと指を立てるヘンリー。なるほど木の廊下をぱたぱたと走る足音。


「ヘンリ~。どこ~?」


「どこ~?」と言いながらも足音は正確に部屋の前で停止する。

 ノブの回される音。鍵がママの行く手を阻んだ。


「あっ……。そうだったわ~」

 ノブが黙り、扉がノックされる。


「どうしました?」

 私は平静を装って答える。


「ヘンリーがお邪魔していませんか~? あの子ったらお風呂を嫌がって」

 私はヘンリーの顔を見る。

 しかめっ面で必死に指を立てて歯の隙間から息を吐き続ける少年。


(居ないって! 居ないって言って!)


「はい、来てますよ~」

 私は彼女の口調を真似して鍵を開け扉を開ける。


「そんな! どうして! 信じてたのに!」

 額に手を当てるヘンリー。


「うふふ。アイリスさんとはお友達になれそうですね~」

 部屋に踏み込んでくるクララさん。

 彼女は何だかいやらしい手つきを息子に向けている。


「イヤだ! 僕は入らないぞ! いい歳してママと一緒にお風呂だなんて!」

「え~。お母さん悲しいなあ。でも、だったら、どうするの~?」

 迫るママ。


「自分で身体を拭いて済ませるから!」

 ヘンリーは車いすをバックさせようとするが、ベッドにぶつかり停止してしまう。彼は、はりつけになってしまった。


「また、それ~? 臭くなったらアイリスさんに嫌われてしまいますよ~」

 友達はともかく、引き合いには出さないで。


「じゃ、じゃあ誰か男の人に頼むよ。ナイトさんあたりにでも……」

「ナイトさんは最後でいいっておっしゃってるわ」

「僕も最後でいいよ!」

「だめよ。日付をまわってしまうわ。あなたの台本には何時に就寝って書いているのかしら~?」

 にっこり微笑むクララさん。


「ぐっ……」

 ヘンリーは黙り込んでしまった。

 この位の歳の子なら、二十三時くらいが限度かしら。


「台本に従いたいんでしょう~? 大人になってもそんなじゃ、よい三層民になれませんよ~?」

「で、でも“ママと入る”なんて書いてないし」

「そうねえ。そんなに私と入るのがイヤなのかしら。反抗期かしらねえ」

 目を細めて頬に手をやるクララさん。


「それです! 反抗期! ヘンリー・アダムスはクララ・アダムスとの入浴を徹底的に拒否します!」

 腕をクロスさせるヘンリー。


「そう……。じゃあ、仕方ないわね」

 クララさんは悲しそうにため息をつく。


 ……それから私のほうを見た。


「じゃあ、アイリスさんと入る?」


「「なんで!?」」


 部屋に響く悲鳴。


「だって、ヘンリーが臭くなっちゃうのは私もイヤだし……。

 アイリスさんにもいっしょに入ってもらったほうが、お仕事もヘンリーの台本も早く済んでお得じゃない?

 ヘンリーはどうしても時間が掛かっちゃうでしょう? ほかのかたの台本を狂わせるのは、よくないことだわ」


 まったく! このひとは本気で言っているのかしら? 私もヘンリーの苦労が少し分かったような気がする。


 うしろでため息。私もため息。


「分かったよ。じゃあ、そうする」

「そうね、そうしましょう……って、ええ!?」


 * * * * *


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