Page.36 黄昏
私は急いでヘンリーの車いすのある場所まで駆けていった。
「ヘンリー、どうしたの? 大丈夫なの?」
私は、ひっくり返った電動車いすの横で仰向けになりながら腕を組んで上を見上げる少年に訊ねた。
「昼寝の時間なんだ」
彼には特にケガなどはないようだ。
彼の車は、どうやら木の根っこに乗り上げて転げたしまったらしい。
「下敷きになってなくてよかったわ」
電動のそれは目方でかなりの重量がありそうだ。
私は急いで車いすを起こすと少年に手を差し伸べる。
しかし彼は腕を組んだまま目を丸くするばかりで、起き上がろうとしなかった。
「ほら、意地を張ってないで」
「そうじゃなくって」
ヘンリーは肘をついて上体を起こすと、車いすを一瞥し、それから私の顔をまじまじと見つめた。
「あ……ほっぺに何かついてますけど」
少年はそう言うと目を背けた。
指摘に従い頬に手をやると、柔らかいものがぼろりと落ちる。さっき食べていた牛乳ケーキだ。
「牛乳ケーキですよね。マザーが作るのは美味しいから」
赤面しながらつぶやく少年。私も頬を暖かくする。
「脚が悪いのは苦労するわね」
「そうとも言えないよ。確かに今は困っているけど、移動しても疲れずに済むし。マザーなんて最近は歩くのだけでもつらそうだ」
ヘンリーは少し寂しそうに言う。
「だから、なるべく心配も掛けたくない。……彼女はもうすぐ寿命だし」
「そうね……」
「アイリスさん。足早いですね……。ヘンリーは?」
遅れてナイトさんがやってくる。彼には慌てた様子はない。
「車いすで転んでしまったみたい。ケガはないようだけど」
「またか。車いすからすっぽ抜けたのか。よかったよ。これを起こすのは一苦労だから」
そういうとナイトさんは慣れた手つきでヘンリーを抱え上げ、車いすに座らせた。
ヘンリーは十四歳の割には小さく軽いようだ。
「自分でどうにもならなくなったら、助けを呼ばなきゃダメじゃないか」
「バカらしいよ。自分で勝手に転んで大声をあげるなんて。みんな、台本に従って仕事中だし」
ヘンリーは口をとがらせて言った。
「だからってずっと寝てたら、あとから探しに来なきゃいけなくなるだろ。それに、君を助けるのも仕事だ」
「ナイトさんは座長の秘書だ。中庭の職員じゃない」
「子供を助けるのは大人の仕事だ」
「子供扱いしないで。僕にだって台本はあるし、もうすぐ配役だって貰える。
それに大人の仕事だっていうなら、ナイトさんもちゃんと配役で接してよ。
“謹厳実直”なんでしょ? 教育によくないんじゃない?」
ヘンリーの抗議を受けたナイトさんは無表情になおり、動作の一つ一つにわずかなウェイトを挟みながら、マザーの部屋で見せた直立不動を再び披露した。
「問題は解決しました。アイリスさん、部屋へ戻りましょう。マザーがお待ちです」
推奨されるマイド然の歩幅と膝の角度。お見事。ナイトさんは先に院内へと帰っていった。
その様子を見ていたヘンリーは満足そうにうなずく。
「やっぱり座長秘書だ。参考になる」
少年もモーターを控えめに鳴らしながら大人のあとを追っていった。
ヘンリーはつんけんしてはいるけれど、ナイトさんのことを信頼しているようだ。
「年の離れた兄弟のよう」
森から教会調の建物に戻るふたりはなんだか絵になる。
私はせっかく外に出たのだからとあたりを見回し、深呼吸する。
さあ、マザーのお話を聞きに戻りましょう。
いまだ水分を含んだ緑に別れを告げ、私も私の役に戻る。
――――。
身体が何かを察知した。
振り返るけど、誰も居ない。
目の端にらくだ色が映った気がした。
見慣れない本物の樹の幹と見間違えたのかしら。
いくら目を凝らしても、見回しても何も見つけられない。
私は少し神経質になり過ぎているのだと思い、ふたりのあとを追った。
マーサはテーブルの横に佇んで、窓から外を見ていた。
「ヘンリーは大丈夫だった?」
彼女は私たちが入ってくるなりナイトさんのところへ歩み寄る。
「車いすの車輪が木の根に乗り上げて転倒したようです」
彼は憮然と答えた。
「そう。いつものね」
胸を撫でおろすマーサ。
どうやら私は少し大げさに飛び出してしまっていたらしい。彼女に余計な心配をかけただろうか。
ふたりのやり取りを聞きながら窓の外を見る。
静かな森。そろそろ昼夜切り替えを知らせるオレンジの野外灯がドーム内を照らす時間だろう。
「今日は車いすを起こさずに済んだのは幸運でした」
ナイトさんが言った。
ヘンリーには何事もなかったが、私はまた別の心配に囚われてしまった。
「そう、それはよかったわ。男手がない時にあれを起こすのは一苦労だもの」
「それにしても、アイリスさんはよく気付きましたね。ここからじゃ私には何も」
マーサが感心して言う。
「霧もまだ晴れ切っていないのにね」
ナイトさんも窓の外を見る。
「目はいいほうなので」
私は短く答える。
目はいいほうだ。だから、さっきの木陰に見えたトレンチコートは……。
「アイリスさん、どうかした?」
マーサが訊ねた。
「……森の景色が気に入ってしまって」
それは嘘ではない。だけど、どうしてもさっきのが気になる。
ヘルメス・ラルフがオリオン座に戻っていて、私のことをつけていたのだとすると……。
『神の河』での一件を思い出す。パトカー。奴は躊躇なくアレをやってのけた。それに異常な身体能力。
爆発音。パトカーの代わりに砕ける教会調の建物。燃える森を飛び回るアウトサイダー。
……まさか。大丈夫よ。
仮に来ていたとしても、ここには人間しか居ないのだもの。彼が暴挙に出るメリットはないはず。
何かを企んでいるとしたら、ドーム修復の妨害に繋がる行動を取るはずだ。
「いい景色でしょう? これから夕方になるから、もっといいものが見られるわ」
マーサがそう言ったのと同時に、屋外の色が移り変わり始めた。
そうか、予定より時間が遅くなっていたらしい。もうじき夜になる。
ガラス越しに映し出される夕焼けの景色。
かすかなもやが光を反射し、水気たっぷりの葉をつけた樹が輝きを放つ。
すべてが太陽色に吸い込まれていく。
想像の中の燃える森とは全く違う景色。
何もかもを溶かしていくような。包み込むような黄金。
私の胸を支配していた不安も塗りつぶされ、代わりに痛いような、寂しいような気持ちが入り込んでくる。
だけれど。
ここはドームなのだ。地下深くに造られた、役者たちのユートピア。
あの夕焼けも、森を装った庭も、ただそうなるように配置しただけに過ぎないのだ。
舞台のセット。映画に毛の生えたようなもの。
地上で本物の景色が見られる場所は残っているのだろうか。
舞台の上にいる限り、私たちは配役や台本から逃れられないのだ。
……逃れられない? 私は何を考えているの?
「アイリスさん。ちょっと提案があるのですが」
ナイトさんが言った。
「えっと、なんでしょう?」
「時間配分を間違ってしまって、帰るのが遅くなってしまいそうなんです。なので……」
青年は言葉を詰まらせる。
「あらまあ、白々しいわね。昼間に電話をかけてあなたたちの分の夕食の支度も頼んできたのは誰かしら?」
マーサが笑った。ばつの悪そうな顔をするナイトさん。
「ええと……よし。もう台本上では自由時間だし」
彼は時計を確認すると姿勢を柔らかくした。
「ここで夕食を食べていきませんか? 帰ってからだと遅くなるでしょう?」
「初めからそのつもりだったくせに」
マーサが笑う。
「なるほど。それじゃあ、ごちそうになります」
私は笑顔を作って返事をする。
ちらと窓の外を見る。相変わらず燃え続けている森。
今はここを離れないほうがいいかもしれない。
それに、帰りが遅くなり暗くなっていたほうが、あいつにとってはこちらに接触するに好都合のはずだ。
私ひとりができることは限られてはいるけれど、手の届く範囲では絶対に好き勝手はさせない。
私のオリオン座滞在予定日数も残りわずかだ。
できることなら、アウトサイダーたちの野望をこの手で止めてやりたい。
それができなくとも、あいつを追い出すくらいのことはしてやりたい。
上演中、部外者は舞台には立ち入り禁止だ。
オリオン座も、台本システムも、黄昏を見るにはまだ早いのだと私は思う。
「それじゃあ!」
楽しそうに声をあげるマーサの声が私を引き戻す。
「ふたりにも夕食の支度を手伝ってもらおうかしら」
「いいですね。行きましょう、アイリスさん。台所に案内しますよ」
「えっ!? ……ええ」
私はふいを突かれた。てっきりごちそうになるだけだと……。
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