Page.35 中庭の母
「こら、ヘンリー。ダメじゃないか。見てたぞ、君のほうからアイリスさんにぶつかってっただろう」
ナイトさんが車いすの少年を窘める。
「車いすはモーター音だってするんだ。年寄りのマザーだって避けられる。
悪いのは僕じゃない! そんな半分寝てるような顔をしてるのが悪いんだろ!」
「またそんなことを言って! 誰もが君に配慮してるワケじゃないんだぞ。
彼女は僕と話をしていたんだ。……ほら、ヘンリー。アイリスさんに謝るんだ」
……なるほど、私は電動車いすにひっかけられて転んだのね。
ぼんやりしていたとはいえ、そんな大きなものの接近に気が付かなかったのは注意が足りなかった。
私は目の前で繰り広げられる諍いを眺めながら、頭の中で状況を整理した。
「ごめんなさい……」
少年はナイトさんに促され、素直に謝ってきた。顔は不満げなままだったけど。
「気にしないで。私のほうこそ、注意不足だったわ」
険のある表情。彼はまっすぐと見ている。
「……ヘンリー。ヘンリー・アダムス」
少年は自分の名を言った。
「私はアイリス。アイリス・リデルよ」
私はヘンリーに向かって手を差し出す。
彼はしばらく見つめていたが、彼の指は私の手のひらではなく、車いすの操作パネルに伸びた。
「じゃ、僕は散歩の予定があるから」
少年はぷいとあちらへと向くと、モーター音と共に森の中へと消えていってしまった。
「あいつはまた森に……」
ため息交じりに車いすを見送るナイトさん。
「あの子は『中庭』の子?」
「そうです。ヘンリーはここで生まれたんです」
「ここで?」
「ここで暮らしていたひとの子供なんです。母親は中庭を出たあと、ここに務めていて。だから孤児とは、“少し”違うんです」
「そうなの。あの子、車いすで森に入って行っちゃったけど、大丈夫かしら」
「いつものことですよ。自由時間は散歩と言って、必ず森の中をうろつくんです。うろつくといっても、それほど広くはないんですけど」
私は土を踏みしめてみる。舗装されていない地面。車いすでの走り心地はどうなんだろうか。
私がさっき転んだときの感触は悪くなかった。
気温に冷やされて低温なはずだったが、なぜか温かく思えた。
「彼は脚が悪いの?」
「ええ。生まれつきです。そろそろ、行きましょう。マザーの台本の足を引っ張ってしまう」
ナイトさんにはまだ聞きたいことがあったが、彼は口調を正して早足に歩き始めてしまった。
脚の悪い子。それも生まれつき。
私はつい数日前、同じようになるはずだったマイドの娘を不正によって救った。
脚が治ってからの彼女にはまだ顔を合わせていないが、以前のように一層マイド用のボディにはもったいないくらいの振舞いをしているはずだ。
「神様じゃなくても不公平なものね」
私は急ぐ青年の後を追いかけた。
* * * * *
0024番ドーム第三層児童福祉施設。またの名を孤児院。愛称は『中庭』。
三層の商業トゥループと居住トゥループの狭間に位置する立地。
多くの配点を得たキャストと子供にのみに開かれた本格的な公園の隅にその建物は建っている。
群青の瓦を頂いた三角の屋根と白い壁が森の中でもまぶしい。
どことなく旧時代の教会を思い出させる意匠。しかし十字架や鐘はついていない。
親を失った子供たちを世話する施設。
収容人数は五十人を超える。子供たち全員が寝起きをし、食事をして、それから学校へ。
彼らの世話をする職員はマザーや外からの手伝いを含めても十五人程度だそうだ。
頭割りでいえば不可能な仕事ではない。子供たちも学校や屋外で過ごす時間が長い。
ここに来るまでに何人もの遊ぶ子供たちとすれ違っている。
だが、ここでの仕事の一番の骨折りはわんぱく盛りの彼らではないのだ。
「……すごい声ね」
私は院内に入る前から押し寄せてくる怒涛の泣き声に驚いた。
「はたから聞くと虐待を疑われそうですよね。でも、彼女たちは立派にやっていますよ。子供っていうのは言うことを聞かないものですから」
したり顔で言うナイトさん。
孤児院に所属している子供の年齢比率がネックだ。
第三層では妊娠出産が法によって許可制となっている。
それでも人間の欲求とは止められないもので、無許可の妊娠が起こることもしばしばだ。
許可を得るだけの配点や生活基盤が確立していれば後出しの申請でも親になることができるが、そうでないケースや、隠し通して私生児として産んだのちに捨ててしまうケースがあとを絶たない。
旧時代ではそうではなかったかもしれないが、ドーム社会において若い命というものは何にも代えがたい尊い存在ではある。
一層や二層ではこういった問題は比較的少ない。
ひととして高位の評価を得て然るべき第三層のほうで、この問題が多く発生するのは情けない話だ。
なお、オリオン座だけでなく、中央や他ドームでも同様の問題がある。
中央においては孤児院の数が片手では数えきれないほどだ。
捨て子はまず病院に保護され、しばらくはそこで育てられる。
生まれた時点で未熟だったり、なんらか問題を抱えてるケースも珍しくないため、退院する時期には差があるが、たいていは生後数か月から一年のあいだに孤児院に送られることになる。
子供たちはそこで親代わりの職員やマザーと暮らす。そして、引き取り手が現れるのを待つのだ。
人間の子供を欲しがるマイドカップルや異種婚カップルは多い。
彼らは孤児のいい受け皿となっている。
引き合わせて相性が悪かった場合(二週間の里親宅へのステイを経て子供がイヤがった場合)以外はここから去ることになり、引き取り手がなかった場合でも成人になれば独り立ちをすることになる。
徐々に引き取られて行くため、年齢が高くなるほどに孤児院に残っている人数は下がる。
乳幼児の引き取り手は思いのほか少ないのだ。
マイドカップルも乳幼児の段階では人間の手で育てられるべきという考えを持つものが多く、学校へ上がるくらいの年齢以上の子供を希望するし、異種婚カップルは人間が女性だった場合は赤ん坊を引き取りたがるが、カップルの絶対数が少ない。
こういった事情で孤児院での子供は幼児の比率が高くなる。
手のかかる年齢の子供が多くなると、この程度の職員数ではなかなか追い付かないとのことだ。
「こら、待ちなさい!」
職員の女性が走って逃げる小さな子供を小走りに追いかける。
「待って、行かないでえ!」
女性が面倒を見ていたであろう別の子供が、放り出されたのを知るとすぐに泣き始めた。
誰かが泣くと連鎖が起こる。
子供を抱き上げあやす男性職員は、目の端に壁の新しい落書きを見つけて苦悶の表情を浮かべている。
ドーム社会になってから世界から戦争は消えてなくなったけれど、ここでは毎日のように戦争がおこなわれているようだ。
「ナイトさん。またいらしたんですね」
子供を抱えながら堅苦しい動きを再現する人間の男性。子供がムズがって腕からこぼれそうになる。
「はい。本日は公務で参りました。これからマザーに面会です」
ナイトさんは仕事モードで答える。
「そうですか。オフになったら、また手伝ってくださいよ。おいこら、逃げるなって!」
いっぽう職員のほうはマイド然と振る舞うことをすっかり諦めてしまった。
ここにもいちおう、台本や配役は存在する。だが、それらは「通用しない」のだ。子供たち相手には。
もちろん、それでも評価シートは存在するし、台本の履行や演技の出来の都合で低評価がつくことも珍しくはない。
それでも、職業上の配慮はおこなわれるので、尊い子供相手の仕事をする彼らは第三層においては好待遇の処置がなされている。
もっとも、彼らにはその好待遇を生かす暇があるようには見えないけれど。
木張りの廊下(本物の木製かしら?)を進み、ナイトさんが突き当りの扉をノックする。
中から返事を受け取ると、私たちは院長室へと足を踏み入れた。
「おかえりなさい、ナイト」
扉を開けると柔らかな表情をした老婆が迎える。
「おかえりだなんてやめてくださいよ。いつも言ってるでしょう?
私にはちゃんと家があるんです。両親だって。それに今日は仕事で来たんですから」
青年は腕を捕まえて親愛を示す老婆を照れくさそうに押しやった。
「私からしたら、庭を出た子も職員も、みんな家族よ。もちろん、手伝いに来てくれるあなたもね」
老婆は顔をしわくちゃにすると、こちらのほうへ向き直った。
「あなたが中央からのお客様ね。私はマーサ・バーネット。孤児院『中庭』の院長を務めているわ。みんなにはマザーって呼ばれています」
古木のような手が差し出される。
「中央技術部隕砂研究室室長、アイリス・リデルです」
硬めに握手を受ける。骨ばった手だが温かい。マザーの手は私の演技を溶かそうとするかのようだ。
「ごめんなさいね。年寄りでこんな環境だから、配役意識が希薄なのよ。できれば、あなたもここでは肩の力を抜いて」
私は彼女の言に従い、姿勢を楽にする。
オリオン座に来てからこういったシーンによく遭遇する。中央ではあまり見られない光景だ。
私は座長が特殊なのだと思っていたが、オリオン座ではどうもそうではないらしい。
「ほら、ナイトも……“なんとか実直”なんてやめて」
再び青年の腕に触れるマザー。
「“謹厳実直”です。今日は座長の代行でアイリスさんを案内しているんです」
彼は頑なに直立不動を維持している。
「あら。姿が見えないと思ったけれど、今日は座長はお見えにならないの?」
「はい。体調不良で療養しています」
「どうしたのかしら。せっかくお茶とお菓子を用意しておいたのに」
つらそうな表情をするマーサ。……彼は心配無用だ。
「ラント座長は食べ過ぎで……」
私はマザーのために不名誉な弁解をしてやった。
「うふふ。あの子らしいわ」
マザー・マーサはラント座長のことも子供扱いだ。どういう繋がりなのだろうか。
「あの子はね。座長になる前は福祉課に勤務しててね。
ここも管轄だったから、よく顔を出していたのよ。あれで意外と子供の面倒見はいいほうでね。
きっと、アイリスさんには何か失礼をしたと思うんだけど、私が代わりに謝るわ」
……マザーはすべてお見通し。
「お恥ずかしい話です」
直立不動がぽつりと漏らす。
「助平なのは褒められないわね。それとなんでも印象で捕らえすぎるきらいがある。でも、みんなの代表であるドーム長だし、あなたの父親でもあるのよ」
マザーは呆れ顔だ。
「それでもルールやマナーは尊重されるべきです」
「あなたたち親子は、性質は違っても似た者同士よ。過ぎたるは及ばざるがごとし、ときに足りないことは過ぎたるに勝るってね」
マザーは窓際のテーブルに行くとイスをひとつ引き、私に勧めた。
私は素直に従う。私が座ったのを見届けると、彼女はようやく老体をイスの上に落ち着けた。
「最近はもう立っているのも楽じゃないわ。子供たちの相手をするのも大変」
テーブルの上のティーポットから紅茶を注ぐマーサ。
紅茶は赤くきれいな色をしていたが、嗅いだことのない香りが漂ってきた。
私はお茶と白い小さなケーキを勧められる。
ケーキは甘さは控えめだったが、甘味料ではない私の好きな味と濃厚なミルクの風味がした。
お茶は香りだけでなく、味も変わっていた。少々からい。でも、身体が温まる。
「牛乳ケーキ。子供たちのおやつの残りだけれど。お口に合うかしら?」
マーサが訊ねる。
「はい。美味しいです」
「お茶のほうはどうかしら。ちょっと珍しいものなんだけど」
「身体が温まります。これは、なんと言うお茶ですか?」
「ジンジャーティー。ショウガを使ってるの」
ショウガはどこかのドームの特産品だ。
みんなが「からい」と言うから、私はこれまで一度も口にしたことがなかった。
悪くない。身体の芯から温まるようだ。
私はなんとなく気が抜けて、赤い液体から出る湯気を目で追った。
黒い柱になった青年はまだ目の端に立ったままのようだ。
「彼は多分、私が立つのがつらい分、立ってくれているのね」
マーサは笑って肩をすくめた。
柱役を放って、私たちは話に花を咲かせた。
見学の名目だったが、孤児院はいわゆる“家”なので、口頭でどういう設備があるのかは理解できる。
孤児院は母の提案でチョイスされた施設だったため、みずからの興味や疑問を引き出すのには苦労したが、マーサは子供たちと職員とのエピソードを次々と披露し続けた。
話の端々から、彼女たちと子供たちが幸せであることや、やはりもう少し人手が必要なことなどが聞き取れた。
はたから聞くと大変そうではあるが、マーサが話すと苦労話も、温かい思い出話や笑い話に早変わりした。
しかし、話は進むにつれて、私にとって不穏な色を帯び始める。
彼女もまた、「台本不要論者」だったのだ。トレンチコートのテロリスト、ヘルメス・ラルフのように。
「別に、社会全体に不要って話をしているんじゃないわ」
マザーはまたもや私の心を読んだようだった。
「ここはね、“家”でしょう? 職員たちは確かに仕事でここに務めているけれど、
泊まり込みで、寝起きだって子供たちと一緒なの。家族なのよ。
だから、公共の場ではなく、個人の場だと考えてもいいわ。だからね、ここには要らないと思うの」
そういうことなら批判はしない。私は少しナーバスになっているのだろうか。
「でも、ちょっとだけ“みんな”のことが心配になることもあるわね。
ひとびとが上手くやっていくためのシステムなのに、
システムのために生きてるんじゃないのかしらって、思うことがあるわ」
私は表情を悟られないように、窓の外へと視線をやった。
マザーもまた、母と同じことを言う。
この社会はHi-Storyによって作られた台本によって成り立っているのだ。
代案も無しに、不用意に現状を批判すべきだとは思わない。
「アイリスさんも少し硬いところがあるわね」
目の端には困ったような顔を向ける老婆の姿。
「あなたは柔らかすぎです」
柱が口を利いた。
旧時代と同様に、この世界にもサブウェイコンステレーションを利用したインターネット通信が存在する。
台本関係のパケット使用が何より優先されるために、リアルタイムの配信には至らないが、簡単な意見交換などは身分証さえあれば誰しもが利用することができる。
意見交換の場では各ドームのニュースの交換や、ドーム政治や社会問題について語られる。
その中にたまに持ち上がるのが、「台本や配役は窮屈だ」という話だ。
だけれど、本気でそういう話をしているひとはそれほどいないと考えられている。
多少の配役疲れは誰にでもあるし、意図的な妨害さえしなければ法的に問題にされることもないから、システム自体そこまで厳しいものではない。
何より、台本や配役の恩恵なしに生きていける者など居ないのだから。
台本が無ければ自分勝手な人間が増えてしまうだろうし、配役が無ければ堅い仕事をこなすのに不利な個性を持った人間はよりつらい境遇になってしまう。
配役という仮面を身につけることによって自分を律することができるだけでなく、他人から本質を大目に見てもらうことのできる側面もあるのだ。
堅苦しい世界のように見えて、ある点において容認を主観に置いた世界でもある。
人間同士がギスギスしてしまうと歯止めが効かない。
恨みや憎しみは犯罪を増加させ、秩序を殺してしまう。
いっぽう、仮面さえ被ってしまえば、何かトラブルがあったとしても言い訳も立つし、仮面を脱いで謝れば「ああ、あれは配役のせいだったんだ」と許してもらいやすいワケだ。
個人的な喧嘩だと、個人そのものに不信の根が残り、形の上で謝罪をしてもあとを引くものでしょう?
狭いドーム社会を円滑にやっていくためには、人間はそうやって「配役のせい」にして「配役のおかげ」にして生きていくのがベストなのだ。
最終的な恨みつらみが個人に向かないこの世界は、ユートピアと言っても過言ではない。
「まあ、難しい話は若いひとたちが考えるといいわ。私はもうすぐお役目御免だから……」
お茶をすする老婆。
それから彼女は、自分の葬式プランを話し始めた。楽しそうに。
彼女は法的寿命が近い。
私の目から見ると少しおおらかすぎる面もあったが、彼女という個体がどれだけの価値を持っているかはここの子供たちが証明している。
マーサは生きるべきだろう。
子供たちの涙に囲まれて早々に死ぬよりも、ひとりでも多くを見送っていくべきだと、私は思う。
私はまた表情を読まれないように、窓の外へと目をやる。
……遠くに何か森に不釣り合いなものが見える。よく見えない。
「何を見ているの?」マーサが訊ねる。
私は目のピントを調整する。
金属の部品と、タイヤで構成されたそれが浮かび上がる。転がった車いす。
「……ねえ、あれ!」
私は思わず立ち上がって声をあげた。
「ヘンリーに何かあったんだわ!」
私は状況を呑み込めないふたりを放って外へと飛び出した。
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