Page.33 雨の予感
それからフランク院長は何人かの患者の話をしたあと、急に真剣な顔つきになったかと思うと、私に向かってささやくように言った。
「アイリス君、これからもっと面白い患者を見せるよ」
院長は相変わらず患者に対して無礼な物言いをしていたが、今度の彼の顔はちっとも愉快そうではなかった。
院長は私を連れて閉鎖病棟の長いリノリウムを歩いた。
いくつもの病室。響く私たちの足音。
それから時折、唸り声やつぶやき、耳をくすぐるようなささやきが耳に届く。
彼らが閉じ込められているのは物理的に狭い病室だけではない。
おのおのの精神の監獄にも囚われ続けている。
彼らは何もなくとも常にせっせと何かをしている。長い間穴を掘り続け、自ら掘った穴を埋め直すような苦行。
ここには演技も台本も存在しない。配役を与えるのは己自身。
「八十九番目の患者だ」
フランク院長は観察用の窓をこぶしでコツコツと叩いて言った。
「特別な患者なんですか?」私は訊ねる。
「ここに居る者は全員特別だよ。同時に、誰だって我々と同じだとも言える。
彼らから毎日のように得る教訓は大して普通の人と変わりがない。
つまらない役者が居ないぶん、彼らのほうが純粋で崇高かもしれない。
そして、ここにいるのが崇高も崇高なおかた。
“砂のささやき”とやらが聞こえて、精霊の預言だか神託だかを受けることができるという老賢者だよ」
院長は窓から中を覗くと鍵束を取り出し、ノックをしてから病室のドアを開けた。
ドアが中から空気を引っ張りだし、鼻の奥をつんとさせた。
「ごきげんよう、老賢者」
患者に向かって挨拶をする院長。
「……ドくターですカ」
やや遅れて中から聞こえてきた返事。完全に割れてノイズだらけになってしまったマイドの音声。
「今日はあなたの神託を聞きにまいりましたぞ」
「神託ではありマせん。砂のサさやきでス。砂の精霊の嘆キが私をさイナむのです。私は無力ダ」
「無力だなんてとんでもない。さあ、今日はあなたの声を聞きにきた若者を連れてきましたぞ」
「私の声デハ無いと言ってイルでしょう。まあ、構いません。私ができることは、砂のコエを多くのヒトに届けることのみなのデすかラ」
老賢者の許可を得ると、彼は廊下で待つ私のほうへ向き直り、手招きをした。
有機的なにおいのする部屋。遠慮したら院長は怒るだろうか。
「さあさあ。早く!」
私は身なりを確認するふりをして背をよじって顔を病室から離し、めいっぱい息を吸った。
あの有機的なにおいは人間の汗や脂、屎尿などといったたぐいの物に思える。
中に居るのはマイドのはずだから、そういったものが垂れ流しの状態……ということはないだろうケド。
「……!?」
私は部屋に足を踏み入れた途端、戦慄した。
それは部屋の中の状況や、においのせいではない。ベッドの上に静かに腰かける患者の姿に、だ。
「綺麗な娘・んデすね」
らくだ色のトレンチコートと中折れ帽の間から響く音声。
「院長……この男は」
なんで、こいつがここに?
「男? 何を言ってるんだね。確かにこんなコート姿と割れた声じゃ、そう勘違いしても仕方がないが……」
首を傾げるフランク院長。
「何かのヴィジョンが働きかけだのでショう」
患者が帽子を取ると中から見事なゴールドの人工頭髪と、精巧で……驚くほど美人な造形をしたマイドの女性の顔が現れた。
「彼女はもう何十年もここで暮らしていてね。私がここに務めるよりも以前からだよ。お陰で六十を過ぎても老化の改装を受けられないままなんだよ」
マイドには人間らしさのひとつである老化を模倣するために、六十歳を超えて生存している場合、顔の作りを年寄りのように変更し、挙動も年寄り然としたものを学ぶ権利が用意されている。
あくまで権利なので、行使しないものも多い。人間もマイドも、上手に老けるというのは難しいらしい。
「隔離患者の個ジン情報ヲ話す・は褒メられば、せんね。事実でスが」
声はノイズだらけだったが、彼女の顔を知ったせいか元は若い女性用のボイスだったことが汲み取れた。
「ごめんなさい。知り合いに似ていたものですから、つい……」
五十番の発作の時の何倍も肝を冷やした。まだ心臓が波打っている。
「あナたが謝ることはありま・んヨ」
八十九番は冷めた視線を院長へと向ける。
「さあ、老賢者殿。いつものヤツをやってくれんかね?」
フランク院長は彼女の険を無視して促した。
「いいデしょう」
そう言うと美しき老人はベッドの上であぐらをかき、両手の人差し指と親指をそれぞれ繋げて輪を作り、その手を耳のあたりで上向きにかざした。
「霊性を開いテ、聴きナサい」
フリーズする預言者。硬直したままの口から音声が漏れだした。
『砂はささやきます。月が太陽を覆う時、決して交わることのないふたつがひとつとなります。やがて太陽を黒点が覆いつくし、最期には凍り付くでしょう』
賢者の言葉は平たんに、だけれど機械的ではなく、マイド的でも人間的でもない不思議な調子で静かに紡がれる。
不思議なことにノイズもいっさい見受けられない。
語られたのは、今や観測の難しくなった日食のことだろうか?
『太陽は指標。星々の営みの軸。遠い昔はクエーサーのようだった。
しかし今や、彼らは大きく冷たい月の周りをまわるのです。
月を産んだのは彼ら自身だというのに。
大きな月の風が運んだ砂が、土星の輪のように月と太陽を囲みます。
それらは重力に引かれ、やがて砂の雨となって大地に降り注ぐでしょう』
どういうこと?
太陽系全体が何かに引かれて動いているという話?
特殊相対性理論? 私たちの銀河は今、うみへび座に向かっているらしいけど……。
『砂の雨に叩かれた者は死を越えることができません。しかし大地の砂はささやきます。――大地の中から這い出たへびと、それを使う者が道を示すでしょう、と』
私の中で何かがカチリと噛み合う。
リゲルを名乗ったヘルメス・ラルフ。あいつは“へび”つかい座のアウトサイダーの使者だ。
彼女には悪いけど、精霊なんてものは存在しない。自然科学が神や霊を欺瞞へと貶めてから久しい。
仮に居たとしても、砂と熱に覆われて死んでしまった大地では精霊も正気ではないだろう。
ささやきを運ぶ風には、様々な種類の粒子が混ざってしまっている。
それはきっと、恣意的なノイズで預言を穢している。
彼女もまた、なんらかの形でアウトサイダーを関わりが?
もしも、もしも彼女が連中と繋がりのある人物、あるいは何かを知ってしまったゆえにこうなった人物なら、最初の預言の意味もなんとなく繋がる。
霊性はない。実際的に得た情報ではないのか。
「……彼女、何か受信してるんじゃ」
「――シッ! 茶化さない。まだ終わっていない」
ひとりごとが窘められる。
『大いなる月からの砂もささやきます。――地から這い出るへびのそそのかしはエデンからの追放を企むものです、と』
私の推測が当たっているのなら、彼女が言っているのはアウトサイダーの決起の予言だ。
恐らく彼女はここに入れられる前に彼らと接触をするか、情報を得るかしたのだろう。
それか彼女も一味か。トレンチコートは連中の制服だとかトレードマークとかで、彼女はアウトサイダーだったとか?
Hi-Storyと台本システムの破壊。
社会の基盤を壊しておきながら、それは人間のためであるという矛盾を孕んだ言いぶんだ。
理論的な矛盾はマイドの精神にとっては毒。
テロリストたちの計画をなんらかの形で確信したとき、彼女のこころは壊れてしまったに違いない。
きっと奴らは、ずっと昔からコツコツと準備を進めていたのだ。
それが次の段階に移ったのか、それともとうとう実行に移されるのか……。
「……と、こんな感じ。なんの話だろうね。地球を捨てて宇宙に逃げても無駄だよってことかね?」
先日の事件は情報の大部分がカットされて報道されている。
フランク院長もたいしたことは知らないはずだ。
『大地と大いなる月。どちらの声も真であり偽である。トゥルーとフォールス。1と0の複合。導き出される答えは同じ。叡智はリンゴに非ず。耕された身体からのみ落ちるものである』
声は続く。目を丸くする院長。
『あとを追う者は叡智を拾い、霊性をもって砂の雨を止め、星を動かすであろう。上着をあわせ雨に耐える者も、天から風吹かす者も、やがて空に虹を見るだろう』
老賢者は座禅を解き、深い溜め息と、かすかな起動音のようなものを立てた。
「……以上デス」
八十九番は茫然とする院長をちらと見やる。なんだか物欲しげな表情。
「セレネース・デリトン君! 新しい神託があったなんて聞いてないぞ! 十年以上このパフォーマンスを続けてきたが、今のは聞いたことがなかった」
患者に詰め寄る院長。
「また個ジん情報を! ……ついサイ近、御告げガあッ・のです。へびは接触をしマした」
やはり先日の事件と結び付けたほうが自然だ。
新たに追加された分についてはよく分からない。まだ起こっていない出来事の話をしている?
「彼女についてのカルテと資料を見せていただけませんか?」
私はフランク院長に言った。
「まさか。だめだめ。いくらなんでもそれは。本当はこのパフォーマンスもルール違反なんだ。ときたま来る特別なお客を楽しませるために、私が権限の濫用をして彼女と取引をしてやっていること……」
「取引?」
まあそうだろう。
勝手に部外者と隔離患者を引き合わせるなんて、問題がないはずがない。
「そウ。取引です。ちゃ・と支払っでくだサイ。個人の侵害ニ回分と追加のさ・やきをお伝えした分を」
患者は立ち上がり院長の白衣の裾をつまんだ。凛とした表情。
気狂いではなく、ひとりの強いネゴシエーターの顔だ。……多分。
「院長、この部屋には外部から情報を入れる手段はありますか? 電波とか、何か」
私も院長の白衣をつまむ。情報が欲しい。
正面切ってセレネース本人に聞いても無駄だろうことは考えるまでもない。
だが、情報の出どころさえ分かれば、ヘルメス・ラルフが何を企んでいるのかが分かるかもしれない。
「それもまさか、だよ。電波も遮断しているし、虫いっぴき、砂粒ひとつも入らない。患者の症状を悪化させる要素はタブーだと言っただろう?」
院長は両手を挙げて降参のポーズをした。
「じゃア、早く約束のモ・を! 虫! 虫! 虫一匹ですら入らなイ!」
八十九番が取り乱し始めた。
「わかった、わかったよセレネース君。今日は久しぶりだったから、多めに用意してきたんだ。
ほら、この箱に入れて持ってきた。餌も一緒だ。まだ元気に動いてるだろう?」
フランク院長は廊下においてある箱を取ると彼女に渡した。
箱は院長が案内を始めた時からずっと持ち歩いていたものだ。
私はそれが気になってはいたが、何が入っているかは特に訊ねないでいた。
「さあ、どうぞ。……おっと! 開けるのは我々が退室してからにしてくれよ」
箱は数十センチ四方の紙製、無地の化粧箱だ。口にはテープが張られている。
私の前を箱が横切るとき、不規則で、あるパターンを想像させる乾いた音が聞こえた。
「アイリス君、逃げよう。すぐに扉を閉めなければ」
患者は院長の頼みを無視して箱をもぎ取るようにして受け取ると、テープをはがそうとし始めた。
整備不良だろう、老人のようになった指でテープをはがすのに難儀している。
私は院長に引きずられるようにして個室を出た。
院長はすぐにドアを閉めて鍵を掛ける。
「キャはハはハはハは!」
金板に爪を立てたような音が室内で聞こえた。
「ふう、危ない危ない。ほら、アイリス君。見たまえ。賢者のように振る舞っていた彼女だが、ひとつどうしても解せない行動を取ることがあってね。“あるもの”を異常に欲しがるのだよ」
観察用の窓が私に勧められる。
中を覗くと、箱の中で暮らしていたであろう物体……。
今日の中華まんじゅうの具材の親戚。茶色い。
それも最低のヤツが溢れんばかりに這いずり回っている。
そしてセレネースはそれを楽しそうに追いかけて捕まえ、ばらばらにしたり、それを三層ボディの芸術的くちびるに押し込んだりしている。
「うっ……」
胃が跳ねる。
「オリオン座でも食用にされることがあるが、マイドが食べるなんて話は聞いたことがないね。取引は憶えているクセに、自分はものを食べられない事を忘れている。彼女はすっかり壊れてしまっているね」
私も何かものを言えば壊れてしまいそうだ。
「ちなみに、あの部屋のにおいはアレ由来のものだよ」
私はとどめを刺された。
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