Page.22 追跡者
翌朝。
私は朝のシャワーを浴びながら、昨日の移動中に何か不審な出来事がなかったかと記憶を反芻していた。
気を配っていなかったからか、考え過ぎなのか、昨日はリゲルの姿はもちろん、自分をつけている者の気配など、不審な点は思い当たらない。
昨日は、ラント氏に具体的に二層でどういう行動を取るかは話していないし、二層内での移動も複数のタクシーだった。
やはり座長が噛んでいると考えるのは行き過ぎだろうか?
あの刑事室長モドキが私をつけたのはアウトサイダーからの情報とか?
それか、そもそもつけ回されてもいないのかもしれない。
昨晩は考えがまとまらず、そのまま夢の中でたっぷりとトレンチコート姿の男マイドに追い回された。
リゲルと遭遇した第三層の夜道。同じ場所。
違うのは夜間灯の色が青ではなく、赤だったこと。それと私は私服のスカート姿だった。
高出力レーザーガンを持った彼は、ガシャガシャと古臭い足音をけたたましくさせながら私を追いかけ、狙い撃つ。
ディレクター所有を示す赤色のレーザーが私の肩や背中、腰に当たり身をよじる。だけれど、ほとんど熱くも痛くもない。
私は思うように走れず、相手が追い付くこともない、互いにランニングマシーンに乗りながらの追いかけっこ。
彼の狙う箇所がしつこく一点に集中する。お尻。
私は彼がワザとやっていることに気付き、振り向いて相手を睨んだ。
コートの襟と中折れ帽の間から覗くくちびるが歪んでいる。黒い口ひげと余分な頬肉。
赤い点がスカートの左尻で点滅する。
「やはり作業服より、こちらのほうがいいですな」
にこやかにレーザーガンを撃ってくるコート姿のひげおやじ。私のお尻が点滅する。
「座長! やめてください!」
私は自分の抗議の声で目を醒ました。
お尻の下には片づけずにほったらかしにしていた堅い封筒の角。
自分ではいまいち見えなかったが、封筒が当たっていた箇所が鬱血すると嫌だと思い、シャワーを当てて軽く揉んでおく。
「あのスケベおやじめ」
……ラント・キド座長もとんだ濡れ衣だろうけど。
バスルームを出た私はインターホンが鳴っていることに気が付いた。
慌ててバスローブをまとい、ベッドに備え付けられたモニターに応答する。
「おはようございます。アイリス様。朝食をお持ちいたしました」
モニターには人工頭髪を七三に分けたマイドの姿。
横の時計はいつもの時刻を示していた。どうやらシャワーに時間をかけ過ぎたらしい。
「ありがとうございます。置いておいてください」
私はマイド然として答える。
いつもならば、ボーイの彼とはそこでさようならのはずなのだが、モニターは七三を移し続けている。
「それと、アイリス様宛にお手紙が一通」
「手紙? 食事のカートと一緒にしておいていただければ結構です」
任務中に中央のほうから手紙を寄越してくる予定はない。リゲルについての追加情報だろうか?
「それが、アイリス様に直接手渡しするようにと仰せつかっておりまして……」
「差出人は?」
私はまばたきをして訊ねる。
「お名前はおっしゃらなかったもので……」
申し訳なさそうな七三のおでこ。
「……分かりました。すぐに出ます」
本当だったらマナー的に着替えてからでたかったのだけど、私は彼の予定を乱さないことを選んだ。
髪を手櫛で軽く直し、バスローブの前をきちんと閉じ直してから玄関のドアを開けた。
「……! こちらがお手紙でございマス」
『相手がマイドだから構わないだろう』なんて考えが頭の隅にあったのはミステイクだ。
ボーイの彼は精巧な三層ボディの目玉をぱちくりとさせていた。
「ごめんなさい」
私は小さく謝り手紙を受け取る。彼は手紙を渡すと、何も言わずに立ち去ってしまった。
破廉恥な中央娘は、遅ればせながら羞恥心を覚えつつ封筒を確認。
水色の小さな封筒。電子ロックも施されてない古風な紙づくり。封蝋もシールもナシ。
中には白い紙のカードが一枚。
縁を何かの植物の蔓のイラストで金色に飾ったこれまた古風なデザイン。
真ん中にはメッセージが一行だけ。
『こぐまからケフェウスへ。貴女を見ています』
……キザったらしいラブレター。
詩的センスからしてドランテを思い浮かべるが、これを寄越したのは彼ではない。
「やっぱりストーカーだったのね」
残りの七〇%は調べるまでもないということだろう。この手紙を寄こしたのはリゲルだ。
ひとびとが地下に潜ったころに北天の極に位置していた星、こぐま座α星ポラリス。
それから数百年、極を示す星は歳異運動により移り変わり、現在はケフェウス座γ星の方が北極に近い位置であると予測されている。
残念ながら公式に観測はされていないが。
へびつかい座を乗っ取ったアウトサイダー。
犯行当時に彼らが中央に向けて唯一発信し、記録の残っているメッセージ。
それが『こぐまからケフェウスへ』だった。
メッセージの意味に関しては、“新時代の到来”だとか、北極星……つまりは“中央から主権を奪う”というような宣言に類することだろうと推定された。
だが、メッセージに反して、彼らはへびつかい座を孤立させたあとは大規模な活動を一切おこなっていない。
地方ドームではアウトサイダーによる山賊まがいの小さなテロはあったものの、それは必ずしもへびつかい座を襲った一団と結びついたものではなかった。
……ともかく、彼らが何を企んでいるにせよ、分かったことは全部中央へ情報を流さなければならない。
そして、私は私の役をこなさなければ。
マンションを出てあたりを見回す。特に怪しいひと影はナシ。
私を待つのは座長の黒い公用車だけだ。
私は車に乗り込み、私は何も知らない同乗者のおしゃべりを聞く。運転手のほうも不機嫌だった。
ラント・キド氏は私の二層での活動報告(個人介入の件は伏せ、ミスター・パネルの作業ライン復旧に時間が掛かっていることだけ知らせた)を適当に流し、今日の私のコーディネートを褒めることに終始していた。
今日は青い作業服を身に着けていない。中央を示す腕章も。
ドランテとは“個人的に”やりとりをするのだから、このほうがいい。
それに、あの姿で街を歩くのは追跡者にとって優しすぎる。
「やはり野暮ったいズボンよりも、そちらのほうがお似合いになられますな!」
ゆったりとした長丈のスカート。ベージュで透ける薄い生地とブラウンの生地との二重構造。
「ありがとうございます」
私はマイド然と礼を言う。
座席の隙間からサイドミラーをのぞき込んだり、バックミラーをチェックする。
頬に座長の視線を感じながら。
「ゆったりとした女性らしいシルエットを演出する上のお召し物も素敵だ」
上はややルーズな七分袖のスウェット。クリーム色。それに藤紫のストール。
……追跡してるような車両はナシ。
「個人的には同じ女性らしいならば、もっとラインか肌の出る服のほうが……」
運転席から咳払い。パパのこと、怒鳴ってもいいわよ。
「ストールの色にアイリスさんの綺麗なアッシュブロンドが映えますなあ」
髪は適当に束ねてある。
今朝は髪の少し調子が悪く、シャワー後もあまり気を遣う余裕がなかったから、うねりやすい毛先をごまかすためにラフなサイドポニーにしておいた。
「おや! よく見るとストールの生地には何か模様がございますな!」
素敵な発見をした子供のように喜ぶラント座長。
これは広げてよく見ないと分からない、花の模様。彼は慧眼だ。
「これは……アヤメの花ですな? 遠慮がちに咲かせているところが、これまた奥ゆかしくて素晴らしい!」
私は仏頂面を少し崩してしまう。
「おや、手首には素敵なアクセントが。これは純木製のブレスレットですな!?」
仕方がないからラント座長に頭の中で加点をくれてやる。
私は珍しく上機嫌で座長たちと別れた。
* * * * *
第二層、エレベーターホールを抜けてタクシーを捕まえる。
詩人ドランテ・アリギは今日も『神の河』だろうか?
なるべく家には居たくないだろうから、朝から川を眺める仕事をしているのかもしれない。
私も彼と同じく、マーガレットと顔を合わせたくなかったから、先にテラスバーを当たることにした。
タクシーの中、今さらになってから彼を説得する手立てを模索する。昨晩は他に考えることが多すぎた。
配偶者に裏切られるというのは、どういう気持ちなのだろう?
テンプレートや、客観的な話ではなく。彼の胸中との同一化を体験したいということだ。
私も騙されたことくらいはあるけれど、それは母や、職場での親しい者との冗談に過ぎない。
これまで、私的時間や就労を煩わせるレベルの個人トラブルは経験したことはない。
まして、パートナーを騙す側に回ることなんて。
試験や妊娠の期間からして、恐らく以前から不埒な行為があったに違いない。
ドランテは彼女のために人生を変えた。両親との暮らしを捨ててまで二層にやってきた。
祝福の音を聞いたはずの彼。
積み上げてきたものが崩れる音。紡いだ糸が断ち切られる音。
今の彼はどんな音に苛まれているのか。
……だけど、ドランテのほうには何も落ち度がなかったのだろうか?
彼は少し暴走気味だったとも言える。マーガレットの言い分は? 初めからこの結婚には無理があったのかも。
女の勘だとか、同族同性ゆえの肩入れという訳じゃないけれど、何度考えても彼のほうのほころびを探してしまう自分がいる。
黙って行為に及んだ彼女が悪いに決まってるのに。
もしも、ドランテを捕まえることができなければ、彼らの家を訪ねることになるだろう。
その時はまた、マーガレットに直接会って訊ねるしかない。
「はぁ……」私は露骨にため息を吐く。
ミラー越しに人間の女運転手がちらとこちらを見る。
もしかしたら、今度は門前払いを食らうかもしれない。
マーガレットは私がドランテと会ったことを知っているのだから。
彼女のほうは気付いているのだろうか? 彼が彼女の不貞行為に気付いていることに。
互いに何も言わず、腹の底で探り合う無言劇。パントマイムを嘲笑う観客にだけはなりたくない。
信号待ち。横断歩道を渡るひとびと。スーツ姿。制服姿。作業服姿。それと色とりどりの私服たち。
その中に、大きな茶色の紙袋を抱えて歩く背の高い女性を見つける。
「あれ……?」
私は助手席のシートの影に身をちょっと隠し、女性を観察する。
運転手の女性が怪訝そうにこちらを振り返ったが気にしてはいられない。
あれはくだんのヒロイン、マーガレット・バトラーだ。
紙袋からは買いこんだのであろう食料品の箱や缶の頭が覗いている。
ふたりの関係が崩れる前なら、ドランテは両手で抱えるほどの荷物を彼女ひとりに持たせることは決してしなかっただろう。
マーガレットの向かうのは彼女らの自宅のある方角だ。
バーが空振りに終われば、やはり彼女を訪ねることになるだろう。不在は言い訳にできない。
彼女の背中を見送る。姿勢を正し、シートに座り直す。
タクシーが発進する。
ふと気になり、私はひとり荷物を抱えるマーガレットを振り返った。
彼女の背中。どんどんと小さくなって……。
遠ざかる交差点。
信号が変わる。
駆け込もうとするが足止めを食らうひとの姿。
――らくだ色。超ロングのトレンチコート姿。
「運転手さん! 車をUターンさせて! さっきの交差点を居住区方面に曲がってちょうだい!」
私は思わず声をあげた。
「アドリブ来たっ!」甲高い女性の声。
運転手はイレギュラーを待っていたのだろうか。
「よおし、飛ばしますよ!」
彼女は威勢よく、芝居がかった返事をすると、ろくにミラーも確認しないで車をターンさせた。タイヤが悲鳴をあげる。
「やってみたかったのよね、これ!」前方から興奮気味な声。
私は重力でドアに押し付けられた。
「さっきの紙袋を持った女性を追いかけるんでしょう?」
勘のいいひと。普段はマイド然と振る舞ってはいても、やはり人間は人間だ。
きっと、いつも乗客や道行くひとのことをあれこれ想像しては退屈の虫を潰していたのだろう。
「ゆっくりつける? それとも、かっさらうの?」
映画の見過ぎでしょう!
……と言いたくなったが、トレンチコートがマーガレットの向かった方角に信号を無視してまで突っ切る姿が見えた。
「急いで。あのコートの男より先に、さっきの女性に追い付いて!」
「何、あのバカみたいな格好!」運転手が笑う。
同感。最初に会った時は刑事だという言葉を信じていたから、配役としてトレンチコートを身に着けているのだと思った。だがあれはニセモノだ。
そのうえ、今日は工業地区の排熱日で二層は二五℃を超える気温予報が出ている。
あんな目立つ格好、ふたりといるはずがない。
「リゲル……!」あの刑事気取りめ。
あいつは昨日も私をつけていたに違いない。
つけていなかったとしても、なんらかの方法で私がマーガレットとコンタクトを取っていたことを知ったのだ。
恐らくアウトサイダーの目的はドーム修復の妨害。
オリオン座の環境が悪化したところに仲間を連れて乗り込み、第二のへびつかい座にしてしまうつもりなのだろう。
タクシーが紙袋に追いつき、急ブレーキをかけた。
鋭い音がマーガレットの足を止める。
私が何か言う前に運転手の流れるような操作で歩道側の扉が開く。
どうやら、彼女の脳内シミュレーションは普段からばっちりだったらしい。
『あなたの安全のために』
私は驚くマーガレットに宣言すると、力任せに後部座席に引きずり込んだ。
悲鳴をあげるマーガレット。
「落ち着いて。マーガレット。昨日、あなたを訪ねたアイリス・リデルです」
彼女の両肩を押さえ、視線を合わせて伝える。
「アイリスさん? どうして? なんで?」震える声。
「事情はあとで説明……説明します。運転手さん、早く出して!!」
私はつまらない戸惑いを振り払うように叫ぶ。しかし、車は少し進んだものの、すぐに停車した。
「前の車が信号に引っかかって!」
サイドミラー越しに駆けてくる中折れ帽とトレンチコート。覗くのは機械仕掛けのボディ。
彼は何かを握っている。
銃器!
でも夢の中のものとは形が少し違う……あれはテーザー銃だ。
マーガレットに何をするつもりだったの?
「あ、あれ。あのひとの持ってるのってテーザー銃ですよね!? おっかない!」
運転手が声をあげる。
テーザー銃。
旧世界の一部警察機関が運用していた制圧用の武器。電気ショックによって対象を気絶させる。
人間には一時的な意識の消失で済むが、マイドの場合はさらに大きな障害を起こす。
記憶データの消滅、処理回路の破壊。何百年も前に禁止されたはずの一撃必殺の殺人武器。
「あああ! 早く、早く! 悪い奴に追いつかれちゃう!」
クラクションの連打。
「あなた、落ち着いて。車に乗ってればあんなものなんともないから。それより、警察に急いで」
「警察……」
私の横でつぶやきが聞こえ、口元を歪める。
安心して、マーガレット。個人不介入よ。二層では浮気をしても刑事罰には問われることはないわ。
リゲルがタクシーに迫る。彼は機械仕掛けの腕をドアに掛け、力任せに引っ張った。
「鍵かけ忘れてた!」
運転手の悲鳴。
「バカぁ!」
私は身体をマーガレットの膝に乗っけて身を乗り出し、リゲルと綱引きを始める。
「やった! 青だ! 青、青大好き!」
信号が切り替わり、運転手がアクセルを踏む。同感。私も青が好き。
車の急発進に振りほどかれたリゲルは、からくり人形のように舞いひっくり返る。
「よし、振り切ったわ! 鍵を閉めて!」ドアがロックされる。
「私、何がなんだか……」
マーガレットはいまだに膝の上で寝そべっている私と運転席を交互に見た。
「……とにかく、落ち着いて話せる場所へ行きましょう」
トレンチコートを振り切ったタクシーは法定速度を取り戻し、警察のある0024番ドーム監督部へとハンドルを切った。
「私もやればできるじゃん!」
運転席からはゴキゲンな鼻歌が聞こえてきた。
* * * * *




